一 欲のスガタそれぞれ
コアイは玉座にあり、特に何をするでもなく座っていた。そこに彼女の温もりがまだ残っていて、離れるのが惜しかったのだ。
そろそろ動こうか……いや、まだ触れていたい。
重い腰を上げようとしたところで、心が玉座に引き戻される。それを何度か繰り返した辺りで、屋敷に差し込む光が赤色を帯びだした。
夕暮れか、いつか二人で眺めたいものだ。
コアイは赤い夕焼けの光を見ながら、彼女と彼女に寄り添う己を想像する。そこに実体はなくとも、少しあたたかかった。またそのあたたかさは、己の当面の目標を思い出させた。
まずは、この辺りで甘ワインを集めてみよう。きっと彼女は喜んで飲んでくれる。
……と考えたは良いが、そのためにはどう動くのが最善だろうか。ひとまず手掛かりを得ようと、朝に会った酒場の男を訪ねてみることにした。
コアイは彼女に貰った小物を懐に入れて、酒場へ向かう。その道中で、叫び声を上げる老婆を見かけた。
「おお、かみよ! 権現なり! 権現なり!!」
「おお、かみよ! 我らが奉謝、その御霊を安んじんことを!」
「権現なり! 権現なり!!」
老婆は手を組み、空を仰いで奇妙な言葉を繰り返している。聞こえてくる言葉の調子は弾んでいたが、横目に窺った老婆の表情はそれと対照的な苦々しさを残していた。
「ん? ……ああ、アンタか」
酒場の扉を開けると、近くにいたらしい主の男が声を掛けてきた。
「一人なのか。とりあえず、飲むかい?」
「……一人ではいけないのか」
その言葉は、何故かコアイの気に障った。
「いや、別に悪かねえよ。ただ、アンタら仲良さそうだったから、意外でさあ」
男は相手の苛立ちを敏感に察したのか、すぐさま弁明した。そうしながら、コアイを席に誘導した。
「で、何を飲む? 果実漬けはまだ漬かってないが」
「要らぬ。甘ワインをもっと集めたいのだが、何か知らないか」
男はそう問われて、何かを察したらしい。
「あ、アンタらか……? 昨日代官の屋敷を潰したってのは」
「それがどうかしたか」
「マシューと決闘して、勝ったというのも?」
「昨日は良い戦士と決闘したが、名前は知らん」
「はは、はっはっはっ! そうかあ、あれはアンタのことか!」
男は大笑いしながら店の奥へ歩き、やがて瓶を持って戻ってきた。
「さっき山でアイツと会ってたんだが、まるで歯が立たなかったそうじゃないか。アンタ大したもんだよ」
「アイツは人間なんだが、人間にしとくにはもったいないほど強く、そして気高い、良い奴なんだ」
「アイツに魔術を教えたのは俺さ、人間の戦士にしちゃ魔力が眠ってたんでな。ただその途中で俺は捕まって、鉱山送りにされちまったんだ」
男は時々瓶に口を付けながら、あれこれと語っているようだった。しかしコアイにとってそれらは、特に聞き入るべき話ではない。
「おい、私は酒の話を聞きたいのだが」
「ああ、すまんすまん……今年に醸した分は、ほとんど領主……アルマリック伯の城にあるだろう」
男の視線が不意に鋭くなる。
「……もし、アンタにその気があるなら」
男は背筋を伸ばし、低い声で話し始めた。
「なに?」
「今のアルマリック伯は俺たちに重税を課して贅を尽くすだけでなく、若く美しい男女を城に連れ去っては慰み者にしている。伯爵と、城の周辺にいる兵士だけでも除いてくれれば、あとは……」
「乱の用意でもしているのか」
「一度火が付けば、領内各村のエルフは挙って立ち上がるだろう。もちろん俺も前線に立つ。統率の取れていない人間の兵なら、どうにか討てる」
「そう上手く運ぶのか」
「アンタ程強くなくとも、エルフには誇りがある」
男の眼には、何か重苦しい心情が浮かんでいるようだった。
しかし。
「盛り上がっているようだが、私は興味がない」
「……ここまで聞いて、代官を襲っておいて、まさか人間に付くとは言わんよな? アンタ、少なくとも……人間ではないのだろう?」
「私は、宝になるモノを集めたいだけだ。伯爵とやらも、逆らえば殺すだけのこと」
コアイの胸中にあるのは、彼女の笑顔なのだから。
「伯爵の城はどこだ」
そう問いかけるコアイに、男は懇願する。
「伯爵の城は北東の道を数刻歩いた先だ、頼む、伯爵だけでも」
「そうか」
「今の堕落した、数だけが恃みの人間どもに屈するのは……俺たちはもう嫌なんだ」
「好きにせよ。これ以上は言わぬ」
彼等の思いなど、コアイにとっては考慮すべき何物でもない。
と、突然男の声が明るくなる。
「……なんてな、冗談だよ冗談」
「なに?」
男はいつの間にか、おどけた表情を作っていた。
「済まん、済まん……代官たちのいない今なら、言いたい放題さ」
コアイは相手にするのも馬鹿らしくなり、無言で酒場から立ち去った。
コアイはとりあえず北東へ、伯爵の城とやらへ向かおうと歩き出す。そのとき、背後から途切れ途切れに声が聞こえてきた。
ひがしの……ら……ヤーリ……ん……ことづて……
コアイは特に気に留めず、先を急いだ。




