示された西方の行き先に
スノウを本来の世界へ帰してすぐさま、コアイは寝室から飛び出していた。
彼女との別れ、彼女の名残りを惜しむよりも……やりたいことができたから。
彼女と別れた直後には、たいてい涙を落とすコアイの瞳……いまそこに、滲み出るものはない。
淋しいなどと、思い煩らっている時ではないから。
指輪を買いたい……以前に宝飾品を買った、北部領の街へ行けば指輪も買える……そんな気がする。
コアイは迷いなく、城内の一角……エルフ達の指導者ソディの居室を訪ねた。
「おや、おはようございます、陛下」
「貴殿に頼みがある」
「儂に出来ることなら、何なりと……しかし立ち話もなんですな、まずはお掛けになってくだされ」
老人ソディは柔和な笑みを浮かべながら、コアイを室内へ招き入れる。
「アクドよ、陛下がお見えじゃ。書の読み込みは後にしようか」
「お、助かったぜ王……あ、陛下、おはようござます」
部屋では、大男アクドが机上で開かれた本の前に座っていた。
アクドは立ち上がりコアイへ挨拶する……のは普通のことだが、何故か「助かった」とも言う。
「何を甘いことを言っとるか。一時中断するだけじゃぞ?」
「むむむ……」
そうぼやいた老人ソディの笑みが、微かに固くなったように見えた。
しかしそれは、コアイの用とは関係ないらしい。コアイはどの位置ということも気にせず、空いた椅子へ腰掛けた。
「して陛下、ご希望は?」
一室で、大中小の三人が机を囲んで座っている。
「もう一度、北の領地へ行ってみたい」
先日首飾りを買った北の領地、エミール領の街を再訪したい……
コアイは素直に要望したが、それを聞いたソディの顔は渋っていた。
「陛下、お言葉ですが今は……おやめになった方が良いかと」
「今は? 今だと、何か問題があるのか」
ソディの口調は、「今は」という言葉を強調していたように聞こえた。そこでコアイは率直に疑問を投げかける。
「そろそろ冬、雪の降る時期ですからな」
理由は分からないが、いつの間にやらソディは立ち上がっている。
「今から……この時期にエミールへ向かってしまうと、ここへ戻ってくるのに要らぬ苦労を強いられることになるかと」
「時期が悪い、と?」
コアイは冬の気候について、ソディから説明を受けた。
この辺りでは、冬には雪が降る。
タラス城近辺では積雪は多くないため不都合もないが、大森林の北東部では年に何度も雪が降り積もり人や車の往来を阻む。
大森林の北に位置するエミール領の冬はさらに寒く、また東からの湿った風により日常的に雪が降る。
ある場所では雪や氷が道を塞ぎ、またある場所では雪解け水により生じた泥濘が足を滑らせる。
「毎年必ず、というわけではないですが……あの辺りではたいていの冬、満足に身動きが取れなくなるのです」
ソディが言うには……とくにエミール南部から南端、すなわち大森林との境目あたりで泥地が広範囲に拡がってしまうのが大きな問題だという。
「荷車はまず使えません、単騎で往くとしても……悪路で馬が脚を痛めたり行く気をなくしたりして、徒歩での移動を強いられるおそれが大きく……」
「北のほうの雪や氷の上なら、馬でも自分の足でも歩けなくはない。けどドロ道は自分で歩くのもキツいぜ、いくら王様でもな」
暫く黙っていたアクドも助言しだした。
「つまり……春まで待つべきだと?」
そんなに待っていられるものだろうか。
……いや、待っていられない。彼女を待たせたくない。
「例えば……泥地を避けて大きく西へ迂回してから北上……」
「城市の周辺でも悪路となることがままあるため、それもお勧めはできません」
コアイは少し、気が逸っているのかもしれなかった。
やがて部屋の全員が言葉につかえ、ひととき静寂が流れた。
すると沈黙を嫌ってか、ソディが音をたてながら椅子を引いて、無言で腰掛けて……少し間を置いてから、改めて話しはじめた。
「ところで陛下、何故エミール領を再訪なさりたいのですかな? 差し支えなければ、お聞かせください」
その落ち着いた声と、望みの根本に立ち返るような質問は……あるいはコアイの逸りを静める意図があったのかもしれない。
「私は……宝飾品が欲しい」
「ああ、嬢ちゃんにか」
宝飾品、としか言っていないのに……何故解るのだ?
コアイはアクドの声に一瞬視線を向けたが、何も言わずにおいた。
その通りだから、また知られても害はないから……気にしないでおく。
「以前に北の城市で良いものを買ったから、もう一度見に行きたいのだ」
「なるほど、アルグーンの…………ふむ、それが目的でしたら儂に一案がございますぞ」
「一案?」
コアイは知恵者ソディの一案とやらに興味を引かれる。
「こたびは雪を避け、西へ向かわれてはいかがかと」
西……
「昨年でしたか、タブリス領でも装飾品をお求めになったことがありましたな」
昨年というと、まだ人間の『勇者』等と闘っていた頃のこと。
コアイはその頃、西の城市で装飾品を買ったことがある。確かその中に、沙漠の薔薇という細密な一品があった。
「西の……あの城がある街か」
「いっそのこと、その更に西……そこはタブリス領とは違い、今も人間の地ですが……アンゲル地方まで足を伸ばしてみるのはいかがでしょうか」
アンゲル……どこかで聞いたような名。
「アンゲル大公……大公フェデリコ殿はこの地方の生まれだったことから『アンゲル大公』と呼ばれ、人間たちに慕われておるそうです」
過去、大公となる前にはこの地域を主な領地としていたのだという。
「と、それらは余談ですが……確かこの地方の西部に名高い工芸品、装飾品の産地があります」
「西なら、雪や悪路の問題はないのか?」
「問題ありません。西側の冬は雨も少なく、また寒さも穏やかでしてな」
「貴殿がそう言うなら……」
そう言うなら、西へ行ってみよう。
コアイは展望が開けたと感じて、胸のすくような心地がしていた。




