いつもの処に戻って
「あ、ありがと……」
馬と車が駆ける音にかき消されそうなほど力のない声で、赤い網に掛かった彼女が呟く。
しかし、その小さな声も、泣きそうな顔も、潤んだ瞳も……コアイにはしっかりと伝わっている。
彼女の無事を確かめられて、フっと気と力の抜けるような心地がする。
荷車を牽く馬は、何事も無かったかのように走り続けている。
まるで行き脚を緩める様子もなく、速く速く。
コアイは血縄に命じ、彼女の身体を手元に引き寄せる。
「よく、わかんない……けど、やっぱ、すっごいね……ありがとう」
スノウは揺れる瞳でコアイを見つめ、途切れ途切れな言葉を返す。まだ落ち着けていないのだろうか。無理もない。
「また揺れるかも知れぬ、気を抜くな」
コアイは彼女にひと声かけてから、再び隣に座らせようとした……が、それではいけないように思えた。
また彼女が飛んでいってしまうかもしれない。次は助けられないかもしれない。
それではいけない。
しかし……どうすれば良いだろうか。できれば、揺れそのものからも護ってやりたいが。
……と、コアイは直ぐにひらめいた。
で、あれば……あの時と同じように?
数日前にそうした時よりも少し脇を閉めて、腕で彼女の腰を軽く挟む。
彼女の身体が荷車から飛び出すことのないように。
彼女を膝の上に乗せて。
荷車を牽く馬は、その他を知らぬかのように走り続けている。
僅かにも勢いを緩める様子もなく、速く速く。
彼女の髪が、その香りがコアイの鼻先をくすぐるように感じる。
南の森から吹きつけてくるような風の匂いとは別の、とても良い匂いがする……気がする。
だが、それを楽しむのは彼女に悪いか。
今は彼女の身の安全のために、こうしているのだから。
そう考えて、スノウの腰を支える腕に意識を向けると……彼女の身体が温かい……気がする。
それはそれで、かえって……僅かな距離を空けてはいるものの、彼女とほぼ密着している……そのことを心地良く思えてしまう。
「あ、あのさ……」
「ん?」
そんなコアイの心中を知ってか知らずか、スノウが遠慮がちに語りかけてきた。
「いや、その……わたしクサくない? 大丈夫?」
「……いや、全く」
コアイには、何故そんなことを聞くのかが分からない。そのため、応えるのが少し遅れた。
「あ、うん……ごめんね」
その少しの間を、スノウは深読みしてしまったのかもしれない。しかしその心境を理解するのは、コアイには難しい。
「……どうかしたのか?」
「いやだから、あの……クサくてごめん……」
コアイには、何故そんなことを言うのかが分からない。
「臭い? いや、そなたは臭くないだろう」
分からないが、何かを面目無いと言うのならそれを否定するほかない。
少なくともコアイにとっては、彼女が疚しく思うべきことなど……何も無いのだから。
「ま? ……そっか」
そこまで話したところで、彼女は黙ってしまった。
適切な答えを返せたのか否か、コアイには良く分からない。
ただ、馬と車輪ばかりが騒ぎ立てるなかで……心なしか彼女の背が、頭が、コアイの身体に寄り添った気がする。
そんなやり取りの間も、荷車の速度はまるで衰えを見せない。
それでいて暴走はしていないようで、荷車は違わず南へと進めているらしい。
その証拠に、いつの間にやらコアイ達は森林の入り口へ差し掛かっていた。
コアイは手綱を絞ってはいるが、馬を止めるのは半ば諦めていた。
ただ、森と平原の境目は特に道が荒れているから、スノウの身が浮き上がらないよう注意を強め……両腕を内に寄せる意識を強める。
あとは林道を外れず、正しく南下していることにだけ注意を払っておく。
荷車を牽く馬は、何にも妨げられぬかのように走り続けている。
微かにも速力を落とす様子はなく、速く速く。
延々と馬が走り続ける中、夕焼けの見られる頃になると……森が深くなり、道がなだらかになっていた。
いつの間にか、スノウは眠ってしまったのだろうか。息遣いは聞こえないが、頭を規則正しく上下させている。
引っかかったままの馬は、日が落ちても、代わりに月が昇っても……そのまま休みなく駆け続ける。
途中二度ほど、左右の景色が木々ではなく家々に変わったが……そこを通り過ぎても、馬の駆ける様子はまるで変わらない。
荷車を牽く馬は、止まることを拒むかのように走り続けている。
幾らかの疲労を見せる様子もなく、速く速く。
やがて夜が白み……薄明かりの向こうにタラス城が見えた。
それでもやはり、馬の駆ける様子は変わらない。
結局、馬がその行き脚を止めたのは、タラス城を囲む湖の目前まで辿り着いた、その時になって漸く……であった。
馬は湖のほとりで足を止めた途端……怒りを露わにしながら水面へ噛み付くかのように、勢いよく顔を突き下ろした。
そして湖の水をガブガブと飲んでいた。馬がこうまで荒々しく水を飲む姿には、まったく見覚えがない。
ともあれコアイ達は、城市デルスーからタラス城まで……丸一日ほどで帰ってきてしまった。
仮に、車を牽かせず武装もせずに乗った馬を、不眠不休で駆けさせても……一日で帰ってこられる距離だとは考えにくいのだが。
しかし現にこうして帰ってきたのだから、コアイはそれ以上考えぬことにした。
それよりもまず、馬が止まっているうちに荷の様子を確かめておくことにする。
大事なのは、彼女と……彼女のための品々だから。
コアイはスノウを起こさぬように隣に座らせてから、立ち上がる。
荷車の後方へ回り込むと、そのなかでは樽が倒れ、赤い菜や酒瓶などが散乱していた。菜の一部が樽や瓶に潰されたのか、漏れ出した赤い汁があちこちに染みを作っている。また例の薬壺は蓋が外れて、中味が少しこぼれ出している。
しかし、酒瓶や宝飾品の箱に目立った割れや傷がないのは幸いであった。
コアイが荷を確かめているうちに十分に水を飲み、休めたのだろうか。馬に目をやると、馬体のあちこちから湯気を上げながら足踏みしていた。
コアイは手綱を取り、馬を城門へ向かわせる。すると馬はいつの間にやら落ち着きを取り戻しており……平静な様子で車を牽くようになっていた。
順調に城門を二つ潜り、奥の屋敷へ差し掛かると……侍女クランが門前を掃いているのが見えた。
「あら、陛下。お帰りなさいませ」
クランはコアイ達に気付き、手を止めて一礼する。
「そのご様子ですと……よい旅をなされたようですね」
何故そう思うのか、疑問ではあるが……今のコアイには、それをわざわざ問う時間も惜しい。
「直ぐにでも風呂に入りたい。準備できるか」
「はい、かしこまりました」
「良し、それと……」
コアイは思わず顔がほころんだのを自覚し……
「帰り道で積荷が乱れてしまった。始末をしたいのだが」
慌ててそれを噛み殺しながら、親指を立てて肩越しに後方を指す。
「承知いたしました。では、アクドさんにこちらへ来るよう伝えてから、湯浴みをご準備いたしますね」




