私は、恋で生きられたから
私は何故、此処にいるのだろう……
私はただ、震えていた。
寒くて、不安で、心許なくて。
想い出よりも確かな彼女を、私は抱き締める事ができない。
少しずつ薄れていく彼女を、思い浮かべる事しかできない。
彼女は、私の生き場だった。
なのに。
彼女が、少しずつ薄れていく。
彼女の輪郭が、ぼやけていく。
私にはもう、確かな彼女を生み出すこともできない。
何が魔王だ、何が……魔術の王だ。
愛しい女の一人も取り戻せないで、何が。
さみしい。つらい。かなしい。
さみしい。
さみしい。
寒い……こんなに寒い世界なら、私には要らない…………
喪失、無力、絶望、孤独、それらを少しでも和らげたくて、手綱を強く握りしめる。
何かにしがみついていると、また馬の背に揺られていると……多少は憂いや悲しみが和らぐ気がしたから。
そんな私を知ってか知らずか、馬は森を抜ける方向……西へ歩いていく。
馬自身が森に飽きて、西へ行きたくなったのか……それとも私の心のどこかが、馬にそう命じていたのか……それは見当もつかない。
分からないが……ともかく私の馬は、西に向かっていた。
私もそれを止める意思はなかったし、止めるだけの気力もなかった。
どれだけの間、沈みこんでいたのだろうか。
私と私の馬は、いつの間にか西のタブリス伯領の城市……それも大きさから考えて、おそらくプフル城……が見えるところまで進んでしまっていた。
久々に大きな城市を見て興奮したのだろうか、馬はプフル城へ向かって走り出していた。私は馬に任せて城へ入る。
城門をくぐると……人の姿はまばらだった。
以前訪れたときは、大勢の人で混み合っていた気がするが。
そう考え込んでいると、馬はジョッキの乗せられた酒樽の前で立ち止まり、樽の匂いを嗅ぐように鼻面を寄せている。
「一人かい?」
「……ああ」
やや大柄な人間の女にそう聞かれ、また気持ちが沈む。が、何とか声を絞り出して答えておいた。
「って、馬で町中まで来ちゃダメだよ兄ちゃん。兄ちゃんが飲んでるうちに、外の柵に繋いどいてやるからね」
馬の鞍に提げた袋に金貨を入れてもらっていたことを思い出す。
「アンタ、お客一人よろしく!」
私は袋を持ち出してから、促されるままに席に着く。
「おい、あれ見てみ」
「ん? ずいぶんキレイな顔してやがんな、女か?」
「あの面、どこかで見たような……あッ!?」
「あン? どした?」
「あっ、に、逃げろっっ!!」
私と入れ替わるように、慌てた様子で店を飛び出していく男達がいたがそれはどうでも良かった。
「おお、こないだのイカす兄ちゃんじゃないか……どうした? 酒は……この前のラッキでいいかい?」
私は無言で頷いた。この酒は…………
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「西の土地から珍しい酒を持ってきた、後で飲もう」
「マ? じゃあ今飲もっか!」
「ここで、か?」
「これやってみたかったの~」
彼女は酒器を底の浅い木の大皿に載せて、それらを湯に浮かべて笑っている。
楽しそうな彼女を見ながら、私は酒を注いでやる。そしてそれに水を加え、白濁する様を見せて……楽しかった。
そして何度か酒を飲み干し、また注ぎ、飲み干して。
やがて彼女は、私に寄りかかり黙り込んでしまった。
「んぅ…………」
心地良さそうにすら聴こえる高い声とは裏腹に、彼女の表情はさえない。
肩を掴んで揺すってみても、柔らかそうな耳や頬を軽く引っ張ってみても、彼女は起きようとしない。
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酒を見つめると、涙が滲んで思い出を引き立てた。
酒を飲み干すと、涙が溢れてカウンターに零れた。
「……男は人前で泣くな、って言う奴がよくいるが……俺はそうは思わない」
涙で良く見えないが、対面にいる人間の男は酒を足してくれているらしい。
「好きな女のためだったら、いくらでも泣いていいんだ」
「そいつを愛するためでも、守るためでも、忘れるためでも……泣けるだけ泣けばいいんだ」
忘れる……?
忘れなければ、いけないのか? 私は……
忘れたくない、忘れたく、ない。ぜんぶ忘れ、た……くない。
忘れたくないのに。
「ただ一つ、泣いてる姿をその女に見せちゃいけねえ。心配させちまうからな」
「女のために泣いた分だけ、いい男になれるさ……見てくれだけじゃなく、な。兄ちゃんの将来はきっと、大貴族でも敵わねえ伊達男だぞ」
「……クサい話しちまったな、気を悪くしたなら済まん。今日も一瓶持っていくかい?」
涙の余韻で声に詰まった私は、無言で金貨を置いた。
「そう言えば兄ちゃん、名前を聞いてもいいかい」
新しい酒瓶を差し出しながら男が訊ねてきた。
「……私は、コアイ……」
「……え? い、今なんて」
「……コアイ……」
私は小声ながら、どうにか応えた。
が、それを聞いた男が顔を引きつらせて額から汗を流したことに、言及するほどの意欲は湧かなかった。
私は店を出て……出て、どうしようかと思い悩む…………と、何処かから聞き覚えのある声が聞こえた。
「すみません、待って!」
柔らかそうな金髪をふわふわと泳がせながら、女が駆け付けてきた。
おそらく美しいと評される娘、怪我をしているのか片手を布で吊っている娘……
この娘は……あの時の、リュカ……!?
「あの、私、探している人がいるんです。私の、好きな人……周りのみんなは、早くあきらめろと言うんだけど」
「その人が今ここにいるって、なぜか予感がして」
娘は真っすぐに私を見つめている。
「そう、貴方のように綺麗で、華麗で……」
そうだ、この娘は確か、私を……
だが、この場でどうすれば良いのだ? 私は?
私には、彼女が…………
私はまた、彼女を……彼女の絵を失ったときの喪失感を思い出して泣いてしまう。
「けど、違うの」
違う?
「…………貴方より、ずっとまぶしいの」
「貴方がなぜ、そんなに泣いているのかわからないけど……私もがんばるから……お互いがんばりましょう」
「私は、がんばって身体を治したら……あの人を、太陽みたいに暖かくてまぶしいあの人を探しに行くの。絶対にあきらめない」
「自分の気持ちをあきらめるな、って……私の、好きな言葉。むかし、姉に言われた言葉……」
「だから貴方も、これ以上泣かないで……あきらめないで……」
いつの間にか、私の涙は止まっていた。
「あ、あれ? 私なんで、貴方のことをそんな風に思い込んで……ごめんなさい、私、私」
娘は当惑しているのだろうか、私はどうすれば良いのだろうか。
「ああイリーさん、ここにいたのですか」
別の声が聞こえた。
「あ……すみません、急にココに来たくなって」
「ここに……? ええと、いまお薬を煎じていますから、四の刻までには戻ってくださいね」
「はい、分かりました」
娘は元気良く返事をしたのち、腕の怪我を意に介さないかのように素早く走り去っていった。
「すみません、ご迷惑をおかけいたしました」
「いや……」
「あの娘は当家のお客人なのですが……大きな騒動に巻き込まれたショックで記憶があいまいになっているそうなのです」
そう言えば……リュカはタブリス領で暫く静養させると、ソディから聞いたような気がする。
「例えば、彼女はよく姉の話をするのですが……彼女に姉はいないそうです。誰のことを、姉だと思っているのやら」
絶対に諦めない、自分の気持ちを諦めるな、か…………
忘れる必要も、諦める必要も……ないのかもしれない、いや。
いや。
この娘にもできることを、この私ができなくて、どうする。
この娘よりも多く彼女に触れられた私が、多く思い出を持っている私が……そのくらい、できなくて、どうする。
私は忘れない。諦めもしない。
私の中には、まだ彼女との思い出が生きている。
私の外には、まだ彼女との思い出を辿れるものが残っている。
それらが、この世界に、私に在る限り…………闘って、みせる。
私は何故ともなく走り出した、そして城外に繋がれていた馬に飛び乗って東の森へと帰っていく。




