四 フタリ、外へ出よう
屋敷の中心部には玉座を備えた広間があり、しかし屋敷の主は玉座ではなくその前面の床に座っていた。客人を、近くで見ているために。
屋敷では所々に紅い日差しが入り、近隣では夕べに啼く鳥が羽ばたいている。だがコアイにとってそれらは、己の行動に何の影響も及ぼし得ない。彼女にとって、客人の動静こそが重要なのだから。
それにしても、何故なのだろう? 彼女を見ていると、あたたかくなる。
景色そのものは大きく変わらないはずだ。「大魔王」を名乗り私に闘いを挑んできた南のトーリール、いやトーラー……だったか? を屠り、横たわる奴の姿を見下ろしていたときと。
コアイにはわからない。しかし、それは今気にしなくても良いことだろう、と思った。今は、眼前で眠る客人の姿を見ていられることが大事なのだ。
やがて光が差さなくなった、完全に日が落ちたようであった。コアイはふと、客人に近付いてみる。すると、鼻の焼けるような少し甘い匂いを感じた。先に喚び出した時にも感じたが、その時よりも強く匂う。
この匂いには覚えがある、酒に酔った者の匂いだ。彼女の世界にも、酒があるのか。
そんなことを考えながら、彼女を眺め続ける。
「ん゛ぅ~」
すると彼女は寝返りを打った。そろそろ起きるだろうか? と期待を抱いたコアイが次に目にしたのは、奇妙な光景だった。
「ぉ゛っ…う゛おげえ゛ぇっッ ごほっがっ……はぁ…………」
彼女は背中を向けて震わせながら、向こう側で口から何かを吐き出していた。
「なっ?」
コアイは立ち上がり、それが血反吐ではないことを確認しようとした。血を吐いているのでなければ、さほど重篤な負傷、疾病ではない……らしいと聞いている。
しかし、寝たまま嘔吐する者など見たことがない。大丈夫だろうか? この世界と彼女の世界との、何らかの違和が原因でなければ良いが。
コアイは心配になったのか、彼女が顔を向けた側へ歩み寄り、表情を伺う。
「ケホッ、こほっ……」
少し苦しそうだが息は続いているようだ、吐瀉物にも赤いものは混じっていない。
コアイはふと、吐瀉物に触れた。少し酸い臭いがするが……これもある意味で彼女なのだ。そう考えると、これも良いものであるように思えてくる。
そして、彼女はそれに触れた指を
「ん゛……はえ??」
彼女の声だ。
コアイは「それ」など忘れ、床に手を付いて彼女の顔に己の顔を近づける。ごり、と鉄仮面が床に擦れる音がして邪魔くさい。
しかし彼女がその黒い瞳を露にすると、そんなことはどうでも良くなった。彼女が目を覚ました、目を覚ましたのだ。
「むぅ……あ、ゆめのひと」
「おはよう」
彼女は、すぐに眉をしかめる。
「あ、頭痛~……」
「大丈夫か」
「ダメかも気持ち悪い」
コアイは、一旦彼女を休ませてやりたいと感じていた。しかし思い出した、寝室を大方焼いてしまったことに。浅はかであったと、コアイは悔やんだ。
「すまない、寝具がないのだ」
コアイは驚くほど素直に、彼女に詫びていた。
……今のは? 私は、こうまで自然に人に謝れたことがあったか?
いや、心から人に謝ろうなどと思ったことがあったか? 私は……?
思い悩むコアイをよそに、数歩離れていた彼女はもう一度──
「あ~すっきりした、飲みに行こう!」
彼女はすっかり元気を取り戻したようだった。しかし、飲みに行こう……とは?
「あ、ああ」
「とりあえずメット取ろうよ、ねえ」
彼女はコアイの鉄面に手をかけた。
人前に私の顔を晒すなど、彼女の申し出でなければ許さぬ物言いだ。だが。
コアイは面にかかった彼女の手に触れながら、面を外す。
「やっぱりキレイじゃん、隠しちゃもったいないよ」
彼女は、コアイが手に触れたことは気にしていないようだった。
「で、飲みに行こう……とは?」
「飲みって言ったら決まってるでしょ、お酒お酒」
「ああ、酒のことか。しかし屋敷には酒樽がないようなのだ」
「お店、行こっか!」
彼女はコアイの手を取り、何処かへと歩き出そうとしてよろめいた。
「あはははっ」
彼女は転びそうになっていたのに、楽しそうに笑う。
コアイの心はよろめいた。彼女に手を握られたからなのか、彼女が転ばずに済んだからなのか。わからない。わからないけれど、あたたかい。それが、とにかく心地好い。
「近くに集落があるらしい、そこへ行ってみようか」
二人は手を取り合いながら、灯りを頼りに翠魔族の住処を目指した。




