その5
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電話越しに約束したとおり、キキは三十分足らずで浜口先生の問題にカタをつけ、わたしと一緒に体育館の更衣室裏へと急いだ。わたしの生徒手帳に書かれている校舎の見取り図を、一度見て覚えたキキは、来たことがない場所でも迷うことがなかった。まあ、ロッカーに書かれている名前も一見して記憶できるくらいだからな……普段の勉強でその記憶力は活かせていないのだけど。
校舎から体育館の更衣室の裏手に行くには、体育館に通じる渡り廊下を進み、その途中で外に出た方が時間的に早い。約束した三十分後が迫っていたから、そのルートを選ぶのは分かるけれど……わたしはキキの後を追いながら、毒づきたい気分になる。
(渡り廊下から外に出るってことは、外靴に履き替えられないってことなんだけど……)
そう、外靴は玄関昇降口にある。渡り廊下から外に出ればどうしても、上履きのままか、脱いで裸足で移動しなければならない。それは来客用スリッパを借りているキキも同様のはずである。
結果として、キキはスリッパのまま外に出た。こっちも上履きを脱ぐ時間的余裕が無くなったので、そのまま外に出た。あーあ……見つかったら絶対怒られるな。
体育館に隣接する更衣室は、渡り廊下につながる出入り口のすぐそばにある。近くに運動部用の部室棟があるが、更衣室の方が近いので、制汗剤や救急セットなどもそこに置かれていることが多い。面積もそれほどないので、実はかなり死角の多い場所である。窓は男女それぞれの更衣室にひとつしかなく、窓の外は部活中でも人通りが少ない。
そこに、見覚えのある少女が佇んでいた。先週の土曜日にも会った、芹沢愛美、その人であった。近づいてくるキキと、そしてわたしを見て、愛美は目を大きく開く。
「坂井さん……どうしてここに?」
「こいつの後をついてきただけだよ」
わたしに指をさされ、キキは胸に手を当てて頭を下げた。
「お初にお目にかかります。こちらにいるもっちゃんの友達で、燦環中学校二年生のキキといいます」
「ああ、このあいだスーパーでラッピング用品を買っていた……」
「ありゃ、ご存じでしたか」キキは顔を上げた。「同じ場所であなたを見かけていましたが、そちらが見ていたかどうか分からなかったので」
「さっき電話に出たのって、あなただったのね。やっと腑に落ちた」
「それはよかったです。これ、お届けものです」
キキは愛美に、机の中から見つかったスマホを差し出した。あれは、どこかで失くしたことに気づいて、友人の携帯で自分のスマホにかけたものだった……被害者六人のうち、愛美と琴音のふたりは明らかに友人同士だ。
「他の五人はどちらに?」
「待つ必要はないって言われたから、みんな部活に行ったか帰宅した」
「その前に、みんなそれぞれ、渡す相手に会いに行ったのでは? 浜口先生なら再起不能になるまで落ち込ませてやったので、気兼ねなく渡せますよ」
「……わたし達がここにいると言われた時点で、きっと、あなたにはすべてが分かっているんだと気づいたわ。こうなるのは想定外だったし、なんであなたが関わっているのか分からなかったけど、坂井さんと一緒にいるのを見て、ようやく納得したの」
「じゃあやっぱり……」と、わたし。「わたしは最初から、あなたの……いや、あなた達の計画に含まれていたんだね。宗像さんが言ってた。わたしが謙遜するところを見て『愛美が言ってたとおりだ』って……わたしに調べるよう頼んだのって、愛美さんだよね」
「それとなく坂井さんの噂を持ち出して、頼みに行くよう仕向けたの。坂井さんの噂はC組でも知れ渡っていたから」
「バッファローの大群と戦ったとか?」と、キキ。
「いや、わたしはコモドドラゴンを捕まえて焼いて食べたって聞いた」
「三メートルを超えるインドネシアの凶暴なトカゲなんぞ見たこともねぇよ」
やっぱりわたしの噂はいい加減な武勇伝ばかりか……つーか、トカゲを焼いて食べるって、もはや武勇伝ですらない。
「すべてが分かっているといっても、いくつかは想像で補っています」と、キキ。「七人もの人間が、締め付けを逃れるための作戦に一致団結して、他の誰にも悟られずに実行に移したくらいです……それ相応の、協力せざるを得ない理由があったのではないか、そう思えてなりませんでした。確かな根拠はありませんが、みんなが協力しようと思い立った理由は、あなたにあるのではないですか?」
「……どうして、そう思ったの」
「他の五人がどうなのかは分かりません。偶然あのような配置になるとも思えないので、中にはこの作戦のためだけにチョコを用意した人もいるかもしれない。でも、あなただけは明らかに、他の五人とは違う。明確な決意を抱いていることが窺い知れます」
分からなくもない。愛美が持っていたのは、イニシャルの書かれた缶入りのチョコ。相応の強い想いを持っていないと、あれを購入しようとは思わないだろう。でも……本当はそれだけじゃない。キキの言葉から、また違う何かが感じ取れた。
「決意?」
「もっちゃんが浜口先生の前で言ったんだよ。バレンタインのチョコは、女の子にとって決意の象徴だって。愛美さんもそのとおり、大きな決意を持ってチョコを買ったはず。そしてその決意は、クラスメイトの心をも動かすものだった」
当事者でない人の心も動かすほどの、重大な決意……少なくともそれは、ただ好きな人にチョコを渡すだけのものではない。
「……いつ気づいたんですか」
愛美の無感情な言い回しは変わらなかった。
「あなたの携帯のストラップ……イニシャルがプレートに書かれていますよね」
そう、“S”“W”と書かれているように見えたのは、実は逆さで、“M”“S”と書いてあったのだ。もちろんこれは“Manami Serizawa”のイニシャルだ。
「そう、ここでは下の名前が先に来ています。ところが、あなたが持っていたチョコの缶に書かれていたイニシャルは“S.M.”だと、宗像さんが言ってました。日本人の中には、イニシャルを描く時にファミリーネームから始める人がいますが、ストラップの表記から考えて、あなたはセオリー通りファーストネームから始めるタイプです。つまり、缶に書かれているイニシャルは愛美さんじゃなく、渡す相手のイニシャルだと推測できます」
「なるほどね……だから気づいたわけか」
わたしは気づかなかったけど……いや、わたしもある程度は予測できたはずだ。なぜならそのチョコは、自分と相手のイニシャルが書かれた缶を、二つつなげて贈るものだから。毎年あの店が出している事まで知っている愛美が、そんな肝心なことも知らずに、相手の名前の缶だけを買うはずがなかった。よほどの理由がなければ……。
「あなたのチョコは、もうあなたが関わる事はないという、決意の表れではないですか?」
そうか……キキが口にしたことで、ようやくすべてが腑に落ちた。
―――――どうしようかな、って思ってる。あなたの相手と違って、あげたところで本当に喜ぶかどうか、分からないし……。
今なら分かる。彼女はもう自信を無くしていたのだ。相手の気持ちが、自分に少しでも傾くか否かを。
「……もう、付き合うのはやめにしようって、彼の口から言われたの。彼の事情はわたしも理解しているつもりだから、無理強いはしなかったけど、でも……」
愛美の、ぎゅっと握りしめた両の拳に、一粒の雫が滴る。
「せめて最後に一度だけ……気持ちを形にして伝えたかった。伝えなきゃ駄目だって、思ったから……」
「愛美さん……」
「彼のことはいまでも好き。でも、彼が決めたことだから、わたしはいつでも味方でいるよって、伝えたかった……それにわたしも、これを渡して、自分の気持ちに踏ん切りをつけたかったから」
…………分からない。
いずれ別れる相手に、気持ちの整理をつけるためにチョコを贈る。受け取ってくれるかどうかも分からないものを、学校側の横槍をすり抜けてでも渡したい、そう望むまでの強い想いを、わたしは抱いた事がない。だから、心情を頭で理解することはできても、そういうものだと思うことはどうしてもできない。
今のわたしに、愛美に告げられる事は何もなかった。
「……だったら、急いだ方がいいですね。お話はここまでです」
キキはちゃんと、言葉をかけられた。まったく……この親友が羨ましい。
踵を返してこの場を離れるキキを、わたしはそのままついていく。ふと振り返って、両手で胸を押さえる愛美の姿を見る。彼女の足元には学校指定のカバン、その上に、ピンク色でハート形の缶があった。
本当に、彼女は気持ちに踏ん切りをつけられるだろうか。わたしは心配で、ただひたすら心配でならなかった。
帰り道、わたしとキキはいつものように並んで歩いた。
「……結局、チョコを盗んだ犯人は、被害者である六人の女子たちだったわけか」
「うん」
「浜口先生が犯人っていう推理も、悪くなかったと思うけど」
「そんな事はないよ」キキがこちらを見る。「本当にドライアイスで袋の形をごまかしたのなら、五時間目が終わった後には、ロッカーの中が冷気でいっぱいになってるし、袋も結露して濡れるはずだよ。たとえ別の物質を使っても、本当にみんなのチェックが、ただ見るだけで終わるとは限らないし」
「まあ確かに、ちょっと危険度が高すぎるか……」
「それに、あえて授業中を狙うのは、デメリットの方が大きいしね。授業中に自由に動けるのは、その時間帯に授業をしない先生くらい。つまり簡単に容疑者が絞り込めてしまう」
「先生が犯人だとしても、授業中に盗んだ事の説明はつかないわけか」
「まあ、六時間目にロッカーを開けて盗んだ可能性は低いし、チョコを融かす時間を考えれば、もっと早い段階で盗んでいたとするのが筋だけどね。その場合、トリックを仕掛けていれば浜口先生のアリバイは成立する……でも、危険であることに変わりはないね。六時間目に何かしたのは間違いない、となれば、実際にラッピングを盗んだ人物の口から、浜口先生の名前が出るかもしれない」
いずれにしても、浜口先生が犯人である可能性は低いわけか……。
「でも、融かしたチョコを職員用トイレに捨てたり、どう見てもこの事件、浜口先生に疑いの目がかかるような状況だよね」
「そうだね。逆に言えば、犯人はどうしても、浜口先生に疑いの目を向けさせたかったことになる。たとえ不可能だと分かっても、誰かが先生のデスクを調べれば、あの銀紙とラッピングが見つかって、どのみち先生は追い詰められると踏んでいたんだよ。なにしろこの事件は、学校中に知れ渡っているわけだからね。逃げ道はどこにもない」
「その調べる誰かの役目に、わたしが選ばれたわけか……キキはどうして気づいたの?」
「誰かの発案で、真っ先に教室を徹底的に調べたのは、C組に犯人がいないと印象付けるため……もしそれが意図的に行なわれたなら、逆に犯人はC組の生徒。それと、等間隔で被害に遭っているという出来すぎな状況も、被害者たちの意図が透けて見える。決め手は、C組の時間割だよ」
「時間割?」
「国語と英語で辞書を、美術で絵の具セットを、社会で資料集を、授業と授業の間にロッカーで出し入れすることになる……何度もロッカーを開けて、中にあるチョコを見ているはずなのに、五時間目が終わって改めてチェックしようと言い出した。これは、六時間目に盗まれたと錯覚させるために違いないって思ったの」
そういうことか……何度も見ているはずなのにチョコの確認を提案し、六人が六人ともそのようにしたのは、確かに不自然な状況だ。
彼女たちが犯人だと気づけば、そして今日の時間割の構成も考慮すれば、何が起きたかは容易に想像できる。その想像が事実である事を確かめるために、キキはC組で聞き込み調査を行なったのだ。
怪しまれずにチョコを持ち出すには、やはり授業と授業の間を狙うしかない。それでも、派手な色のラッピングがされたチョコを持ち出すのは目立つだろう。だが、数十センチの距離を移動させるだけなら問題ない。これは、六人の女子たちが協力して仕組んだ、大掛かりな移動作戦だったのだ。
一時間目の前に国語で使う辞書を出す。一時間目の後に国語の辞書を仕舞い、英語の辞書を出す。二時間目の後に英語の辞書を仕舞い、絵の具セットを出す。三時間目の後に絵の具セットを仕舞う。五時間目の前に社会の資料集を出す。……このように、金曜日はロッカーの出し入れが、五時間目終了までに五回ある。この五回をフルに使って、チョコは二つ隣のロッカーに移されたのだ。
床を滑らせるように、二つ隣のロッカーを開けている人にチョコをパスする。ロッカーの扉が邪魔になるため、渡す方向はすべて同じにしなければならない。一度に渡せるのは一個が限界だから、少なくとも移動の機会は五回必要だった。こうして、水野琴音を除く五人のチョコはすべて、五時間目終了までに水野のロッカーに収まった。ロッカーを開けてチョコを持ち出す手間と人員が、大いに減らせたことになる。
そのあと、六時間目が始まる前に、水野が一つ上のロッカーの人に、恐らく袋にまとめて入れたチョコを渡したのだ。真上のロッカーに入れるだけだから、これも体で隠しながら移動させればまず気づかれない。チョコを受け取った男子生徒は、体操着を入れたバッグにチョコを入れて、体育館に向かった。
……被害者の六人のなかで、右端に位置するのは、五十音順で最後にくる水野琴音。その真上のロッカーの主が、保坂潤也だったのだ。芹沢愛美と水野琴音、斎藤萌と保坂潤也、友人関係にあったこの四人に、間のロッカーを埋めるために三人が加わり、今回の計画は実行されたのだ。
体育館に向かった後、保坂はバッグの中のチョコを更衣室の窓から外に放った。他の男子が全員出た後で放ったから、着替えが最後になったのだ。その後、体育の授業の最中を狙って席を外し、瓶などに入れてどこかに隠していた液体チョコを、職員用トイレにぶちまけたのだ。それだけなら二分で事足りる。
わたしが最初に怪しんだとおり、捨てられていたチョコは盗まれたものとは違っていた。だが、茅原美幸が用意したクッキーチップや、錦戸梓が用意したオレンジエキスと、同じものを用意できるのは本人たちしかいない。茅原は事前に、クッキーチップ入りの完成品を友人に見せることで、捨てられたのは自分のチョコだと錯覚させたのだ。
まさに、練りに練った隙のない計画である。不可解な状況を作って学校中の話題にし、融かしたチョコを捨てることで浜口先生に疑いの目を向けさせ、同時に所持品検査も中止に追い込み、無事チョコを守り切ったのだ。まったく、女子の団結力というのは恐ろしい……おっと、わたしも女子だった。
「たぶん、愛美さんたちがこの計画を考えたのは、チョコを無事に渡すだけじゃなく、浜口先生を陥れることも重要な目的だったんだよ。何がきっかけかは知らないけど、浜口先生がチョコをもらっていることを知ったから、腹を立てたのかも」
「ああ、それはありうる……キキも言ってたけど、あれだけバレンタインの締め付けを厳しくしている先生が、誰かにチョコをもらって職員室で食べていたら、ふざけんなよ、って思いたくもなるよね」
実際、キキの追及で先生が自白したところによれば、四ツ橋学園の高等部の女性教員から毎年もらっていたそうだ。もちろんこの事は、他の先生は誰も知らない……と浜口先生は語っていたが、どうも何人かは薄々気づいていたようだ。我がD組の臨時担任である多田先生もその一人で、綾子が浜口先生のゴミ箱を調べても黙認していた。
「テストの採点で気が滅入っていたし、あの頑固オヤジの言動には俺も頭を痛めていたから、鼻を明かしてくれるなら協力もやぶさかじゃない。いい気分転換になる」
そんな事を多田先生は言っていた。生徒ばかりか、同僚からも浜口先生のやり方は不評を買っていたようだ。今ごろ、綾子から一連の出来事を聞いて、胸のすく思いでいることだろう。日常的に白衣を纏っている変なひとだが、割といい先生なのだ。
さて……学校のトラブルは何とか、最善の解決を見ることができた。でも、こっちはこっちで解決していない事がある。
「キキさ、今日チョコを持って来るんじゃなかったの?」
「もっちゃんこそ、わたしにくれるんじゃなかったの?」
……顔を合わせない。沈黙の時間が続く。
いや待て。早々に沈黙を破ってアレだけど。
「もっちゃんというな」
「あぁ〜……」
キキはがっくりとこうべを垂れた。珍しく気分が沈んでいるようだ。
「上手くいかないもんだなぁ……失敗が続いて、買ったチョコがぜんぶ切れた」
「テンパリングのこと、あさひから聞いて知ってたはずだよね」
「知ってたし実践しようとしたけど、温度の規定が細かいから、何度も料理本見てチェックしていたら、すぐ温めすぎたり冷ましすぎたりであたふたして……」
あー、なんだか目に浮かぶようだわ。“謎”に出くわして頭が冴えている時と違い、普段のキキの記憶力は常人以下といってもよい。
「もっちゃんは、買ったり作ったりしなかったの?」
「うん……どうしようか悶々と悩んでいたら、今日を迎えてた」
「もっちゃんは真面目に考え過ぎだよ。わたしが本命をあげるって言ったから、釣り合いが取れるものにしようって思ったんでしょ?」
図星を突かれて、内心ぎょっとするわたし。心の内を端的かつ正確に突いたな。
「だってねぇ……十四年生きてきて、一度もチョコを贈った事がないと、どうすればいいのかさっぱり分からなくて……妥協点がはっきりしないというか」
「妥協点も何も、そこまで考えて作る人なんてそうそういないと思うよ。どこまでやれば満足できるかなんて、自分でも分からない。とりあえず込められるだけ思いを込めて、あとはラッピングして渡す……それだけのこと」
なるほど身も蓋もない言い方だが、現実はそんなものだろう。芹沢愛美にしても、必死に悩んでチョコを選び、受けとってくれるかどうか分からない人のために買ったけど、それでも一歩を踏み出すのはまだ迷っているふうだった。妥協点も及第点も、本当は誰にも分かるはずがない。これは相手のある人間の問題なのだ。
わたしはこだわりが過ぎたのだろうか……慣れない事を始める時はいつもそうだ。一瞬だけ途方に暮れて、何があるか分からないから、不安が消えるまで徹底的に試行を繰り返す。そして、慣れてくるとそうした緊張感が緩み、いつしか自分の中に「ここまででいい」というラインを引くようになる。その域に到達していないなら、わたしは、未だにビギナーであると言わざるを得ない。
不意に、教室でキキが言っていたセリフを思い出す。
―――――わたしは、相手が気持ちを込めてくれているって分かるから、何でも嬉しいよ。わたしを想ってくれての物なら、拒む事なんてないしね。
聖母のようだと評した、柔らかなキキの笑顔。それは今この瞬間も、わたしだけに向けられている。
わたしは、いったい何のために、一週間も悩み続けていたのだろう……チョコを贈るまでもなく、キキはいつも笑顔でわたしを癒してくれる。もらったら確かに嬉しいだろうが、それはわたしが、ちゃんと思いを込めて作っていると分かっているからだ。あるだけの想いを詰め込んだとしても、伝わらなければ意味がない。手抜きは論外だけど、思いを込めすぎるのも考え物だ。
やっぱりわたしはビギナーなのだ。何も分かっていなかった。それで浜口先生を黙らせることができたのは、本当に奇跡に等しい。でもわたしにはそれしかできない。愛美にかけられる言葉は何もなかった。……あるはずもなかったのだ。
「わたしも甘いなぁ」キキがため息交じりに言った。「もっちゃんにこんなこと言っておいて、わたしもチョコの出来にこだわり過ぎてた。形や色が悪くても、市販品に頼ることになったとしても、せめて名前だけでも書けたら、それでよかったんだ……考えてみたら、普段から気持ちは余るほど伝えているもんね」
「言われてみれば……このうえ気持ちを十二分に込められたら、ちょっと重いかな」
かくいうわたしも、そんなことを今まで忘れていた。そのくらい何度も言われているし、わたしに拒絶する気がまるでないことの証でもあるけど。
「そういうわけだから、色々ごめんなさい」
なんと、キキはわたしに向かって深々と頭を下げた。
これはちょっと、戸惑うしかない。
「いや、なんでキキが謝るの……わたしも、くだらないことで悩んで結局なにも出来なかったから……わたしからも、色々ごめんなさい」
なぜかわたしも、キキに向かって頭を下げた。
ほぼ同時に頭を上げた時、不意に笑いが込み上げてきた。キキと同じように、わたしもその笑いを抑えきれなかった。ここ、路上なのに。
すると、わたしとキキのスマホに、同時にメールが届いた。
「あれ、あさひからだ」
「わたしも。なんだろ……ぷっ」
表示されたメールの内容、添付されていた写真に、わたし達はまた噴き出した。
「あはは……なんだ、みかんのやつ、ちゃんとあさひにも作ってるじゃん」
「くふふ……なんか、安心しちゃった。やっぱりあの二人もいつも通りだ」
「わたしらだっていつも通りだよ。やっぱりわたしは、普通にバレンタインのイベントを楽しめない宿命みたいだし」
「むー、わたしは普通に楽しみたかったのに」
不機嫌そうに口を尖らせるキキ。意外と文句が多いな、こいつ……。
「あっ、キキ、あれ」
わたしは、すぐ近くの飲料の自販機を見つけて、指を向けた。一年を通してほぼ同じものが売られているが、この季節に恋しくなるものもある。
小銭を投入し、缶のココアを二本買った。うち一本を、キキに差し出す。
「もっちゃん、これは……」
「お互い、バレンタインを語るには十年早いから、今はこれで。カカオで作られている事に変わりはないでしょ」
「……そうだね」
キキと一緒に笑みを浮かべ、缶で乾杯。
吹き抜ける風はまだ冷たい。恋路を駆け抜ける人達は、高ぶる思いで心を温める。ビギナーのわたし達は自販機の缶で体を温める。えらい違いだ。
けれどいつか、もしかしたらいつか、缶に頼らなくてもよくなる日が来るかもしれない。それまでは、こうやって甘味と温もりで、空虚な心を満たそう。いつもわたしを優しく包み込んでくれる、あの笑顔を、ずっと大切にするために。
……口に含んだココアは、冷え切った舌には少し熱かった。
この作品は、『No title』に続くParadox Girlシリーズの外伝短編の二作目です。時系列的に十ヶ月近いブランクが空いていますが、今後、もしかしたら間を埋めるエピソードを持ち込むかもしれません。なーも考えてはおりませんが。
ここまで読んでくださった皆さまは、今どんな気持ちになっているでしょう。恋愛ものにありがちなキャッキャウフフな場面はほとんどなかったと思いますが、それはまあ当然のことで、本作は『想い』をテーマに据えています。伝えるというのは思うより難しく、時としてエゴのようにも映ります。ただ、誰ひとりとして、その『想い』がどれほどのものか推し量ることはできません。どんな名探偵でも難しいことでしょう。ミステリである以上、想いを推し量る対象は常に他人なので、探偵役も、これを読んだ方々も、恐らくは私も、理解したつもりになるのが精一杯です。語り手のもみじは、もうそのことが十分に分かっているかもしれません。
次の短編、そして本編たる長編では、どのような事件が待っているのか……読者諸君においても、括目して更なる展開を待望していただきたい。なーんて。




