その3
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二月十四日。黙っていてもその日はやってくる。
四ツ橋学園中で放課後を迎え、ぞろぞろと生徒たちが帰宅、あるいは部活動に向かおうと教室を離れ始めたところで、キキは二年D組の教室に姿を現した。ここには何度か来たことがあり、すでに面識のあるクラスメイトが多数だったため、キキは歓迎された。それこそ、男女問わずに。
要綾子とは学校の外でも会っている。キキの可愛らしさに心奪われてしまった綾子に、キキはすぐに気を許した。今では、キキの数ある友人のひとりに名を連ねている。綾子自身に友達はまだ少ないので、彼女にとっても感極まるものだ。
「また会えるなんて思ってなかったよぉ、嬉しい〜」
綾子はキキの両手を取って、ブンブンと振りながら言った。キキは特に痛そうな素振りを見せず、花のような笑顔を絶やさなかった。
「うふふ、わたしも綾ちゃんにまた会えて、嬉しいよ」
キキは基本、誰とでも打ち解けられる。広範な話題に詳しく、飾り気のない笑顔と振る舞いで魅了する。彼女の微笑みは、周囲を一瞬で花畑に変えてしまうのだ。でもみんなは知らない。彼女はある一定のラインからは踏み込ませない。誰にでも心を開いているようで、そう簡単に見せない一面というものを、いくつも持っている。
まさに文字通り“高嶺の花”といえるわけだが……いい加減、わたしの存在感が薄くなりそうなのでこの辺で。
「キキ、悪いけど談笑は後回しにしてくれない?」
「そうだね。まだ状況も把握できてないし」
この日の放課後、わたしとキキはお互いにチョコを渡しあう予定だった。でも、キキは自発的にここへ来たわけじゃない。わたしがキキの携帯に電話して、すぐここへ来るよう言ったのだ。
わたしにはとても、手に負えないようなトラブルが発生したのだ。
でも、本来わたしは無関係のはずなのに……。
教室の掃除を終えて、そろそろ剣道部に顔を出そうかと思い、学校指定のカバンを肩に下げたタイミングで、その事態は起きた。ひとりの女子生徒がD組の教室に入り込んでくるなり、開口一番に叫んだのだ。
「ねえ! 坂井もみじって子、まだいる?」
放課後のざわざわとした喧騒が、水を打ったように静まり返った。同時に、指名されたわたしに、周りからの好奇の視線が集まってくる。……痛い。
この女子生徒、名前は知らないが、確かC組の生徒だったはずだ。よく分からないが、他人のフリはもっとややこしい事態になりそうだ。観念して、両手を挙げる。
「……わたしですが」
「もみじちゃん、投降寸前の立てこもり犯じゃないんだよ?」
ありがたいことに、近くにいた綾子が突っ込んでくれた。やっておいてアレだけど、このまま沈黙が続いたら、居たたまれなくなる所だった。
女子生徒はわたしにキッと視線を向けたまま、大股で駆け寄ってきて、わたしの両手を取ると、涙目になりながら訴えかけた。
「協力してください! バレンタインのチョコが融かされたんです!」
「…………はい?」
間の抜けた反応をしてしまったけど、こっちに非はないはずだ。この子が何を言っているのか、さっぱり分からない。
周囲でもようやく、何事かとざわめき始めた。でも、わたしに加勢してくれそうなのは、今のところ綾子と功輔だけで、他は遠巻きに見ているだけ。まあ、誰だってこの状況で、関わり合いになりたくはないよなぁ。
女子生徒はC組の宗像秋子と名乗った。彼女の話によれば、今日に合わせて数人の女子生徒が、バレンタインのチョコを用意していたそうだ。廊下の壁に備えつけられている生徒用ロッカーに、それぞれ仕舞っていたという。ところが放課後、正確には最後の六時限目が終わってすぐ、ロッカーに入れていたチョコがすべて無くなっている事が判明した。あちこち調べても見つからず、そのまま掃除時間に入ったが、そこで予想もしない場所から見つかったという。
「職員室前のトイレ?」
「はい。そこを掃除していた子たちが見つけて、その話が耳に入ったんです。しかも、ラッピングがぜんぶ剥がされて、ドロドロに融かされた状態で……」
「……えっと、トイレのどの辺にあったの?」
「床に、べったりと」
想像するに恐ろしい光景だ。最初に見つけた生徒は、さぞや戦慄した事だろう。そして、このことを知った当事者たちは、憤懣やるかたない思いでいっぱいだろう。
「事態は呑み込めたけど、なぜわたしにお呼びがかかったの? 関係ないよね」
「噂に聞いたんですけど、坂井さんって今まで何度も、学校で起きたトラブルを解決してきたそうじゃないですか。今回も犯人を捕まえて、チョコを取り返して、願わくはその犯人をとっちめてほしいんです!」
「とっちめるって……それはまた別の問題を起こしそうな気がする」
そもそも、その噂は半分ほど間違っている。トラブルを解決したといっても、わたしは事後処理に貢献しただけで(あるいは腕力を見せて混乱を収めただけで)、頭脳労働が要求される場面では、特にキキからのアドバイスが欠かせなかった。チョコを取り返して犯人をとっちめることはできても、その前に犯人を特定する必要があるし、それがわたしにはほとんどの場合できない。
「まったく、どうしてそんな噂が流れたものか……」
ろくに整えていない髪をぽりぽりと掻きながらぼやくと、功輔が呆れ気味に言った。
「お前は手加減の感覚がおかしいんだよ。だから何をしても話のタネになるのさ」
「そういうもんかね」
「例えるならアレだ、普段から超大盛りの料理を注文するひと。本人にとっては普通でも、周りからすればやるたび話題になる」
ああ、異常な食い意地を異常とも思わず、時としてテレビの番組作りに起用されるような人っているよな……つまりわたしも、それと同レベルなのか。腹立たしいがあながち間違ってもいないので、わたしはとりあえず功輔のすねを蹴った。
「言っておくけど、たぶん噂になっている事のほとんどは、わたし一人でやった事じゃないと思う。必要なら仲間も巻き込むけど、その前に詳しいことを把握しておきたいかな」
「おお……謙遜しますか。愛美が言ってたとおりだ」
謙遜のつもりではないけど……ん? なんか聞き覚えのある名前だな。まあいいか。
「融けていたってことは、盗まれたチョコかどうかは分からないよね。まだ無事だって可能性もゼロじゃないと思うけど」
「わたしもそう思いたいですけど……でも、教室やロッカーのどこを探しても見つからないんですよ? それに、溶けたチョコの中に、美幸が自分のチョコに入れていたクッキーチップが混ざっていました」
それなら、残念ながら無事である可能性はほぼゼロだな……でも。
「クッキーチップが入っているのを知っていたってことは、宗像さんもチョコ作りに参加していたの?」
「ああいえ、わたしは特に渡す相手もいないので……今朝、出来上がったチョコを美幸が見せてくれたんです。だから知っていて……」
「そっか。ちなみに無くなったチョコはいくつ?」
「六個です。どれも本命チョコでした!」
やたら力強く言うけど、そこまでは訊いていないからね?
「無くなったのがいつ頃か分かる?」
「えっと……ロッカーに入れたのは登校した時で、授業の合間に辞書とか絵の具セットを出し入れするのに、何度かロッカーを開けましたけど、六人とも、チョコが無くなったとは言いませんでした」
「でも、バレンタインのチョコなら、人目に触れやすい場所には置かないよね。ロッカーの奥とか、カバンの中に仕舞っていたら、開けて物を出し入れしている最中に、はっきり見ることはないんじゃない?」
「見過ごした可能性もなくはないか……もみじ、割と慎重に考えるな」
功輔が言う。まあ、キキのやり方を一番間近で見ていたからね……。
「確かに毎回チェックしていたわけじゃないですけど、五時間目が終わった時点では、チョコはひとつも盗まれていませんでしたよ」
宗像はあくまで“盗まれた”と考えているようだ。紛失後に残らずドロドロに融かされたのなら、人為的なものだと考えるのが筋ではあるが。
「五時間目の後にチェックしたの?」
「ええ。五時間目の社会で、あの分厚い資料集を使っていたから、それを仕舞うためにロッカーを開けたんですけど、その時に萌が『みんな、チョコちゃんとある?』って聞いてきたので、みんなで確認したそうです」
「その萌って人も、チョコを盗まれた被害者のひとり?」
「はい。それから……六時間目が終わって掃除の時間になるまでの間に、琴音が自分のロッカーを見て異常に気づいたんです。それで他の五人も調べてみたらチョコが無くなっていて、掃除が始まるまでに全員で教室内を徹底的に探しても見つからなくて……」
知らない名前が続々と出てきて、整理に時間がかかるな……。でも、無くなるまでの状況はだいぶ把握できた。盗まれたのは六時間目の最中ということになる。
しかし、それが不可解なことであるのは容易に気づけた。廊下のロッカーはステンレス製で、マグネットキャッチで扉を固定するタイプなので、開閉時にどうしても音が鳴る。授業中であれば教室近くは基本的に静かだし、廊下を通る人も少ない。六回も扉を開け閉めして、付近の教室にいる人たちが、誰ひとり気づかないとは考えられない。
「うーん……ちなみに、ラッピングに使った袋やリボンは?」
「それが、どこからも見つからないんです。もしかしたら犯人は、ラッピングの蒐集癖があるのかもしれません!」
知りませんがな。
それにしても、よく分からなくなってきたな……盗み出した方法は元より、わざわざ融かして職員用トイレの床に捨てた、その行動の理由も判然としない。謎めいた事件、キキが喜んで調べそうな案件だ。もっとも、いま目の前にいる宗像秋子は私怨に駆られて、犯人をとっちめることしか頭にないようだが。
「お願いします!」宗像はまたわたしの手を取って言った。「せっかくの手作りチョコがあんな事になって、美幸もみんなも悲しんでいます! 何としても犯人を見つけて、鉄拳制裁でも何でも加えてください!」
「あなたはわたしを何だと思って……いや善処はしますけど」
なんだって、初対面も同然の女子生徒にここまで強く懇願されるうえ、おかしな印象を植え付けられなければならないのだろう。不確かな噂ひとつでわたしに飛びついてくるとは、この子も心情的に切羽詰まっているのだろう。後先考える余裕もないみたいだ。
もちろん、断るつもりなど毛頭なかった。どんな言い方をしても、断ればたぶんもっとややこしい事態になっただろうから。
やれやれ……今日の部活は欠席するしかない。
「……というわけなんだけど」
何が手掛かりになるか分からないので、わたしはこの教室でのやり取りを漏らさず事細かに話した。その間に半分以上の生徒が帰ってしまった。事情はほとんど把握しているし、下手に関わりたくないとも思ったのだろう。
「不思議な話だね」キキはわたしの机に腰かけた。「少なくとも、もっちゃんの話を聞いた限りでは」
「まあね……わたしもよく分からない。方法もそうだけど、何だってわざわざ融かしてトイレに捨てるなんて、度の過ぎた嫌がらせみたいなことを」
「いや、それもあるけど」
あれえ? キキはまだ何か気になることがあるのか。
「ロッカーからチョコが無くなっているのに気づいて、教室の中を徹底的に探したけど見つからなかったんだよね」
「うん……でも、結果的にはトイレで見つかったわけで」
「そうじゃなくて、なんで教室を探したのかな」
「へ?」
「だって、廊下の生徒用ロッカーに入れていたものが無くなったのなら、普通は遠くに持ち去られたと考えるでしょう? ほんの数十分前にちゃんとあるのを確認したなら、何かのはずみで無くしたと考えることはなくても、その間に教室に持ち込まれたと考えることも、まずないんじゃないかな」
「言われてみれば……」
「万が一を考えたとしても、まずは近くを誰が通ったかを優先して調べるはずだよ。もっちゃん、六時限目が終わって掃除が始まるまで、時間はどのくらい?」
「十分もないよ……その間に教室を全員で徹底的に調べたなら、廊下を通った人がいたかどうか、誰も確かめていないと思う」
「やっぱりね。誰が言い出したかは分からないけど、なぜか教室にある可能性が高いと考えていた……あるいは、何を差し置いても教室内を探す必要があった。なんだか、C組に犯人はいないと印象付けたいように見えるね」
相変わらず小さな矛盾でもよく気が付くな……一度話を聞いただけで、ここまで推理を展開させるなんて。
「それと、犯人が授業中を狙った理由も不可解だね。ロッカーの開閉は音がするけど、授業と授業の間だったらみんな開け閉めしているから、隙を見て盗み出すのは可能だよね。どちらにしても気づかれる可能性はゼロじゃないけど、静かで無人の時間帯にやるよりよほど安全なはずだよ。他人のロッカーなんて、誰もいちいち気にしないしね」
「確かに、そんなリスキーな状況で盗む意味はないわね……」
いつの間にか綾子も推理に参加していた。
「そして、チョコが六個同時に消えて、しかも直後の掃除時間になって、確実に見つかる場所に堂々と捨てていた……どう見ても犯人は、この事件を大きく見せようとしている。C組だけの事件にする気はない。学校全体の噂になればいいと思っている」
「もしかして、犯人の目的はそこにあるんじゃない?」
「そうだね……これは明らかに計画的な事件だよ。だからこの状況、六個盗む事も、放課後に発覚することも、融かして捨てたことも、すべて意味のある行動のはず。そこに事件の謎を解く鍵がある」
「うわあ、なんか本物の名探偵みたいなセリフ……」
綾子は感心したように目を輝かせていた。ただ残念なことに、キキ自身にそんな自覚はまるでない。こいつは単に、一見して訳の分からない“謎”が好きなだけだ。そして、ひとたび“謎”に出逢えば、それを触媒としてキキは抜群の推理力を発揮する。
さて、そんな話をしていると、宗像秋子が駆け足で教室に入ってきた。
「ごめんなさい、坂井さん! 浜口先生に捕まっちゃって……」
宗像はそこで言葉が途切れ、呆然とこちらを見つめた。
何事かと思ったら、宗像は紅潮した自分の頬を両手で押さえた。「ぁぁ〜」という小さな声が漏れて聞こえる。……もしかして、視線の先にはキキがいるのか。
キキは小顔をちょこんと傾けながら、宗像に微笑みかけた。
「どうしたの?」
「ぅぅ〜」
今度は口元を押さえる宗像。ああ、これは一目惚れというやつかな。わたしはよく女子にモテると言われるけど、それはキキも同じらしい。いや……キキは老若男女問わず人気だと思うけど。
それはともかく、このままだと話が進まないので、わたしは宗像の元に歩み寄り、未だ茫然自失となっている彼女の額にしっぺを加えた。
「いたっ! あ、坂井さん。ごめんなさい、浜口先生に捕まっちゃって」
「それはさっき聞いた。で、職員用トイレの掃除を担当した人から、話は聞けた?」
「あ、はい。男子トイレの床の真ん中に、べっとりと付いていたそうです。においですぐにチョコだと気づいたけど、おびただしい量だったから、片づける前に近くを通りがかった先生に報告したとか」
「それで、他に異常は見当たらなかったの」
「ええ、それ以外に変わったところはなかったそうですけど……」
宗像の視線がちらちらと、わたしの後ろに向いていた。誰に心を奪われているかは明白だった。別に止めはしないけど、これは宗像が持ち込んだ案件だ、彼女にも真剣になってもらわないと困る。
ええい、これでは埒が明かない。わたしは宗像の制服の襟首を掴み、引きずるように彼女をキキの元へ送る。
「キキ、続きはあんたから聞いて。めんどくさいから」
「分かった」キキは笑顔を絶やさない。「じゃあまず、浜口先生ってだれ?」
「そこから?」綾子が突っ込んだ。
「えっと、うちのクラスの担任で、生徒指導担当の先生です。なんていうか、必要以上に厳しいっていうか、融通が利かないというか、どことなく考えが古臭いというか……」
キキはたぶん浜口先生の人柄までは尋ねていないと思うが……すでに挙動不審な宗像である。それにしても、浜口先生とあまり話した事はないが、生徒からここまで酷評される生徒指導の教師も珍しい。
「なんか噂に聞いたけど……」と、綾子。「浜口先生、何かイベントがあるたびに所持品検査をして、学校に必要ないと判断したものは容赦なく没収するらしいね」
「もしかして、バレンタインのチョコも?」キキが宗像に尋ねる。
「はい、学校の風紀を乱すとか言っていますけど、正直、チョコがあっても風紀が乱れるなんて大袈裟だと思います。女の子はみんな必死なのに、勝手だと思いません?」
「思う。ものすごく」
キキは力強く頷いた。こいつも今年のバレンタインには、並々ならぬ思い入れがあるからなぁ、他人事とは思えないのだろう。
「うちは、よその学校と比べても規則が緩いとこですから、浜口先生みたいに頑固で規則にうるさい人は珍しいんです。でも正直、度が過ぎているというか……」
「それじゃあ、今日も所持品検査でチョコが没収されたとか?」
「それが、この事件のいざこざで、結局立ち消えになったんです。そもそも没収するものが無くなったわけですから」
「ということは、検査はいつも放課後にやっているってこと?」
「検査の時間を確保できるのが、放課後しかないので……」
「ふうん、そっか……」キキは虚空を見上げる。「断定はよくないけど、その先生の性格からして、自分が担当するクラスだけ検査して満足するとは思えないような」
やっぱりそこに行き着くよね……キキなら気づくと思ったよ。
「ご明察」わたしは肩をすくめて言った。「浜口先生は、規則強化主義の首魁でね、同様の検査を他のクラスでもするべきだって声高に主張しているのよ」
「でもうちの学校は原則として、生徒の活動は生徒の自主性に委ねられているから、誰も積極的にやろうとは言い出さなかったのよ。これまでは、ね……」
「これまでは?」
綾子の言葉に、キキは引っ掛かりを覚えたようだ。
「去年の十二月に起きた、中学生連続射殺事件……あれで同年代の子どもの非行が報道で取り上げられたでしょ。そのせいで、生徒だけに任せれば同じことが繰り返されると浜口先生が言ったら、誰も反論できなかったのよ。加えて、浜口先生のやり方を特に非難していたのが、横村先生だったから……」
「ああ、こういうところにも地味に影響してくるんだ……」
キキは頭を抱えた。気に病むのも無理ならぬことだ。
横村朱美先生はここD組の担任だったが、その中学生襲撃事件を主導した犯人として警察に逮捕された。その際、自首の手引きをしたのがキキなのだ。横村先生を慕っていたD組生徒たちの意向により、このクラスでは新たに担任を置かず、副担任が臨時担任となっている状況なのだが、浜口先生だけはずっと不服であった。中学生を殺すような教師に気を遣うなど常軌を逸している、というのが先生の言い分だった。とはいえ、浜口先生ひとりの主張で抑え込まれるほど、D組生徒たちの結束は弱くなかった。
「とりあえず今年度はC組だけに抑えられそうだけど、あの事件を追い風にして、浜口先生のやり方が押し通されることになるのは、いずれ時間の問題だろうって」
「棚から牡丹餅ってところかな……まあ、牡丹餅を取り損ねたら顔に当たってこけるだけだけど」
キキはくつくつと笑った。信じられないかもしれないが、キキは浜口先生を貶める意図があってこんなジョークを飛ばしているわけではない。ただ思いついたことを言っただけ。天然ゆえのサディストというだけ。
「さて、話を戻そうかな」自分で逸らせた話を軌道修正するキキ。「まず、チョコを盗まれた被害者の名前と、どんなチョコなのか簡単に教えてくれる? 知っている物だけでいいけど……」
「大丈夫、ぜんぶ聞いています! 喜んでお答えします!」
宗像は赤い顔で目を輝かせながら言った。まともに答えられるんだろうな……。
「まず、わたしの友達の茅原美幸が、コイン型のチョコに色とりどりのクッキーチップを散らしたもので、前の席の錦戸梓ちゃんが、オレンジエキスを閉じ込めた小粒のチョコを二十個も作ってた。あと、島崎麻里さんがハート形のチョコにLoveと書いてあって、水野琴音と斎藤萌が普通の板チョコでしたよ」
急に思いの込め方が雑になったな……男子からすれば、もらえるだけで重畳だろうけど。
「あとひとりは……そうだ、芹沢愛美さんだ」
「あっ」思わず声が出た。
「ん? どうしました、坂井さん?」
「いや……そういえば先週の土曜日、その芹沢さんと会ったなあって」
そうだ、思い出した。普段話さない人と一度話したきりで、しかも一週間近く経っているから忘れていた。確かあの子もC組だって言ってたはずだ。
「もしかして」と、キキ。「このあいだラッピング用品をみんなで買いにいった時に?」
「そうそう。あの時は確か、イニシャルが書かれたハート形の容器を見ていたような。買った所までは見てないけど」
「バッチリ買ってましたよ」と、宗像。「自分のイニシャルの“S.M.”が書かれたハート形の缶。あれ、中にも大きなハート形のチョコが入っているんですよ」
でも容器はそれほど大きくなくて、十センチちょっとといったところだから、たぶん容積いっぱいのチョコが入っているのだろうな。やっぱり馬鹿げ……もとい思いが強すぎる。
「ちなみにキキさんはどんなチョコが好みですかっ?」
宗像はまた距離を詰めて尋ねてきた。どうも直情径行が過ぎるな、このひと。
「わたしは……相手が気持ちを込めてくれているって分かるから、何でも嬉しいよ。わたしを想ってくれての物なら、拒む事なんてないしね」
うわあ、聖母みたいなコメントを返してきやがった。その微笑みはもはや花畑というレベルじゃない、後光が差し込みそうでもある。
案の定、宗像は簡単にノックアウトされ、キキに思いきり抱きついた。
「このひと持って帰る!」
「持って帰る! って言われてもな……」
もうそろそろ彼女の出番も終わりだろう。わたしは綾子に言った。
「綾ちゃん、袖に下ろして」
「了解」綾子はすぐに察した。「ここからは二人に任せたほうがよさそう」
この後は言うまでもなく、綾子に羽交い絞めにされた宗像は、「あー、わたしのかわいい天使さまがぁ〜」などと嘆きながら、引きずられるように教室を出ていった。未練がましく両手をキキに向けて伸ばしているけど、もはや掴めるものはない。
「ふう、やっと静かになった」
「面白くて正直な人は大好きだよ。面倒くさい人も好きだけど」
宗像はどっちも当てはまるような気もするが……まあいいか。そしてたぶん、普段から好きだと言われているわたしは、後者に当てはまるのだろうな。
「それで、攻め口は見つかったの?」
「見つかったよ」キキはわたしの机から降りた。「ここに来るとき、C組のロッカーも見ていたからね。もう少し探ってみれば、答えは目の前に現れると思う」
「おお、マジか……」
いつものことながら、頭の回転が凄まじく早い。だが実をいうと、キキほどではないだろうが、わたしも話を聞いているうちに、もしや、と思える仮説が浮かんできた。方法はまだ分からないけど、犯人の正体と、その動機について……。
今日の昼ごろ、わたしは廊下で浜口先生とすれ違っていた。その一瞬、先生から漂ってきた微かなにおいを、わたしの獣並みの鼻が嗅ぎつけたのだ。
間違いなく、それはチョコレートのにおいだった。