その2
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定期テスト最終日の翌日は土曜日だ。長くつらいテスト準備期間を乗り越えた生徒たちにとっては、嬉しい措置だといえる。ただ、星奴町内の中学校で、年度最後の定期テストが二月の始めに行われるのは私立の四ツ橋学園中のみで、他の公立中学校は二月の最後の週に行なわれるという。だから、苦難の日々に終わりを告げて気が緩んでいるのは、四ツ橋学園中の生徒だけなのだ。
とはいえ、二週間以上も余裕があると、まだそこまで気を張っている生徒は少ない。こうして街中に出て歩いてみても、わたしと同年代の人を多く見かける。誰に何をあげるか、恐らくはそんな話でどこも大盛り上がりだ。これが一週間後には、重圧と戦うべく奮闘するため、外出を控えるようになるのだが。
星奴町の繁華街を歩いていると、そこかしこに『バレンタイン』の文字が、ピンク色のフォントで掲げられている。年度末決算直前の二月の商戦、どの店もこの好機を逃すまいと、バレンタイン絡みの商品やセールで賑わいを見せている。中にはチョコレートが含まれていない商品も混ざっている。「バレンタインといえばチョコレート」という図式が普通である日本国内で、チョコを絡めないバレンタインフェアはそれほど効果がないのでは……まあ今の時世だと、どうでもいいという人もいるけど。いいカモだ。
「わたしのように、購買意欲のベクトルがずれている人は、お呼びじゃないんだろうなぁ」
テストの後で気が抜けたせいか、意味のないことを呟いてしまう。
売り手と買い手の熾烈極まる心理戦を横目で見ながら、少し呆れた気分になっていたわたしは、二階建てのスーパーマーケットに入った。学外の友人たちとの待ち合わせ場所が、なぜかこのスーパーの二階にある店舗なのだ。
案の定、というか……このスーパーもバレンタイン商戦の真っただ中だ。こんな環境に身を置いていて、バレンタインを意識しないわけがない。色恋沙汰にほとんど関心のないわたしは、きっと場違いな存在なのだろう。
いつもはお菓子全般を陳列している店も、今はチョコレートがメインになっている。二月の今ごろは、チョコの売り上げが他の月より格段に跳ね上がるそうだ。中高生のバレンタイン意識の効果は絶大だ。お菓子業界にとっては、中高生さまさまだろう。実際ここにも、恋の話に花を咲かせている中高生がちらほらと見える。
……おや、花が咲いていない女の子もいる。店の前に陳列されているチョコ菓子を、ひとりでじっと見つめている。迷っているのだろうか。
接近してみると、コートを羽織ってマフラーを巻いていたために気づかなかったが、わたしと同じ四ツ橋学園中の二年生だった。顔に見覚えがある……たぶん二年C組の生徒だ。廊下で何度かすれ違ったことがあるだけで、名前も知らなければ言葉を交わしたこともない。たぶん、向こうもわたしのことはよく知らない。
それで、何で迷っているのだろう……陳列されている商品を興味本位で覗いてみた。
「こ、これは……!」
思わず声に出てしまった。
恐らくは金属製と思われる、ハート形でピンク色のケースが大量に並べられ、それぞれ異なるイニシャルが書かれていた。日本のローマ字表記に使われないL、Q、V、Xを除くすべてのアルファベットを使って、考え得る組み合わせが余さず作られている。つまり、四百八十四種類。しかし、Pで始まる名字は聞いたことがないが……。
すべてのケースには、やはりハート形のキーリングが付いていて、自分と相手のイニシャルが書かれたケースをリングで繋げるという。意中の人とチョコでつながる縁、てか? まー、なんてロマンチック。よく恥ずかしげもなくこんな商品を並べられるものだ。
「どうかしました?」
さっきの女子生徒に不審がられてしまった。
「いや、こんな馬鹿げ……もとい商品があるなんて、と思って」
「毎年出されている物ですけど」
「そっかー、毎年こんな感じなのかー」
呆れ果ててセリフがぜんぶ棒読みになってしまうわたし。
「あなた、四中の生徒?」
四中とは四ツ橋学園中学校の略称だ。向こうもわたしに見覚えがあったか。
「そうだよ。たぶん話すのは初めてだと思うけど……二年C組だよね。わたしはD組」
「あ、隣のクラスか。あなたもチョコを買いに来たの?」
「いやあ」わたしは頭を掻く。「選ぶだけでも一日を費やしそう。あやつはたぶん、わたしがあげたものなら何だってありがたがるだろうし」
「ふうん、愛されているのね」
そんな感情が微塵もこもっていない口調で言われても……。
「あなたは……えっと、名前は」
「……愛美。芹沢愛美」
「愛美さんも、誰かにチョコをあげるの?」
「……どうしようかな、って思ってる。あなたの相手と違って、あげたところで本当に喜ぶかどうか、分からないし……」
えーと……終始暗い口調で話す彼女に、わたしは返す言葉が浮かばない。少なくとも、両想いというわけではなさそうだ。気遣いの言葉としては「想いのこもった物をもらって、喜ばない人なんていないよ」くらい言えるけど、ちょっとこの場では難しい。
想いの強すぎる商品が目の前を占領しているからなぁ……。
「あっ、もっちゃん遅いよぉ」
よく知った間抜けな声が聞こえてきた。遠慮なく空気をぶち壊す奴だ。
待ち合わせ場所に指定されていたのは隣の店で、細々とした雑貨を扱っている。そしてこの時期はバレンタイン専用のラッピング用品が目白押し。そんな店の中から、彼女は無邪気に手を振ってわたしを呼んでいる。
名前はキキ。彼女こそわたしの親友にして、チョコをあげようかと思案している相手である。長く整ったストレートの黒髪、小さめの顔に低めの身長。可愛らしい容姿と天然じみた言動で周囲の人間を虜にする、さまざまな点で自慢できる親友だ。もっともそれだけじゃなく、色々言いたいことも山ほどあるのだが。
「待ち合わせしてたの?」と、愛美。
「まあね……」
「もしかして、あなたがチョコをあげる相手って、あの子?」
「まあね……」
後は察してほしかったので、これ以上は口に出さなかった。
「確かにあのテンションは、石をあげても喜びそう」
「石の種類によるけどね」
「というか、“もっちゃん”って呼ばれているのね」
「呼ぶな、っていつも言ってるんだけどね……もう諦めかけてるわ。あ、ちなみに本名は坂井もみじですからね」
「坂井……」
「んじゃ、呼ばれているんでこの辺で」
挨拶代わりに軽く手を挙げて、わたしはその場を離れ、駆け足でキキの元に向かった。キキはすでに黄色のラッピングリボンを手に取っていた。
「さっきの子、お友達?」キキが尋ねる。
「いや、隣のクラスの子だけど、会話したのは今が初めて」
「まあこの時期はどこでも、聖バレンタインデーで盛り上がる世間に、置いていかれまいと必死だからなぁ」
歯に衣着せぬキキの物言いはいつもの事だ。
「キキも、誰かにチョコをあげるの?」
「うん、家族にも、近所のお世話になった人達にもあげたいし。ラッピングはそんなに大げさにしたくはないんだけど……どこに行っても派手なものばかり売ってて」
「まあ、義理であげるチョコに派手なラッピングはないよね。袋に入れて色つきリボンで口を閉じる、そのくらいが賢明だよね」
「同感。あと、もっちゃんにもあげるから」
こいつも同じ事を考えていたのか。まあ、キキなら考えそうな事だけど。
「友チョコってやつ? 今までもらった事なんてなかったけど」
「まあ、色々あって……あと、友チョコじゃなくて本命だから」
「本命はせめて異性に渡しなさい」
もらうのは嬉しいけど、必要以上に想いを込められると、もらう側が困惑してしまう。キキのストレートな愛情表現も毎度のことだが、かわすことはしても跳ね除けないわたしは、やはりこの親友に甘いのだろうなぁ。
「おうおう、相変わらず仲がいいな。夫婦漫才に磨きがかかって大変よろしい」
そう言ってニカニカと笑いながら近づいてくる、山本あさひ。能登田中学校にかよっている、学外の友人のひとりだ。キキも燦環中学校と、みんな学校がバラバラのため、休日でもなければ会うことはめったにない。
たまに会えばこうやって、戯れ言をしれっと飛ばしてくるんだよな、こいつ。
「あさひ、漫才に成り果てていることは否定しないけど、夫婦呼ばわりはやめい」
「本気にせんでもいいのに」
「つーか、あさひがここに来る用事でもあったの?」
「おめぇもたいがい失礼だな。わたしだって、生徒会の仲間たちに義理で渡すつもりじゃけぇ」
広島弁かな……あさひは語尾があちこちの方言になる癖がある。
「ふうん。あと誰が来てるの」
「みかんと美衣が来ているよ」と、キキ。
「もっとも、美衣は隣の店にしか興味ないみたいだけど」
隣の店……さっきまで愛美がいたお菓子屋さんだ。ちらっと振り返ると、愛美の姿は店先から消えていた。買うかどうかは決まったのかな……。
「あの二人もやっぱり義理チョコなの?」
「それが微妙な所でね……」あさひは顔をしかめた。「みかんは二人の妹と家政婦に、美衣は自分が食べるために買っているだけ。そもそも男に渡す気配すらないし、美衣なんか十四日までにぜんぶ食べ尽くすだろうって言ってた」
ああ、だから美衣はこっちの店に来ないのか。自分で食べるためのチョコにラッピング、やる人もいるだろうけど、美衣はそういう無駄につながることを一切しない主義だ。みかんの家の家政婦は、須藤さんという中年の女性で、つまりみかんが渡す相手は身内の女性だけということだ。父親は健在だけど、今は釧路の病院に行っている。
「もみじはどうだ? 誰かに渡す予定とかある?」
「いやあ、それが全然考えていなくて……一応、キキたちには友チョコとして渡そうかと思っていたけど」
言ってすぐ、キキの表情がぱっと明るくなったのを目の端に捉えた。
「なんていうか、バレンタインに本命のチョコを渡す相手がひとりもいない、でもそうでない相手ならたくさんいるって……おお、類が呼ぶ友たちよ」
あさひが天を仰いで言った。
「わたし達って、絶対ここに来る意味ないよね」
「でも、やっつけでもいいからラッピングはしておかないと。義理とはいえ、上っ面だけでも整えておかないと失礼だからね」
「あさひ、その発言がすでに失礼だから」
こんな態度でチョコを渡される能登田中生徒会の人たちも気の毒だ。もっとも、あさひは普段から学校で優等生の皮をかぶっているけど。あるいは、みかんからチョコをもらえない事が不満で、若干苛立っているのか。このふたり、単なる親友というには親密が過ぎるような気がするのだ……。
「ラッピングはその中身を隠し、中身に対する期待を相手に生じさせる側面がある」
前置きなしに声が聞こえてきて、わたし達は少し驚く。
いつの間にか美衣が近くに来ていた。中沢美衣、璃織中学校にかよう友人のひとりで、理屈屋にして毒舌家だが、意外にも芯は優しかったりする。その優しさが言動に全く現れないのが玉に瑕だが……。
「ラッピングをする事で相手は、その中身に関して様々な想像を膨らませる。その想像に見合ったもの、もしくは想像以上に価値があると認められるものが入っている場合のみ、相手の期待は喜びに昇華する。ラッピングがもたらす感覚はある種の錯覚であり、礼儀の有無はあくまで副次的なものだといえる」
「美衣……チョコの成分に関する自説の次は、ラッピングの心理的作用の話?」
すでに美衣の弁舌攻撃を受けていたらしい。あさひが半ば呆れたような様子で言うが、やはり美衣は動じない。
「心理作戦というのは、商業の世界では半ば常識的に行なわれている。それが経済に良い効果をもたらしているなら、決して非難されるいわれはないが、世間でよくいう無駄遣いとは、こうした心理作戦に引っ掛かって考えなしに消費する事を指す。要するに、商業の世界では無駄遣いを大いに歓迎しているわけだよ。だが、わたしは景気が後退しても特に困らないので、売り手が何と言おうと無駄遣いはしない」
「身も蓋もないとはまさにこの事……美衣はいつもラッピングがないな」
「ラッピングを外して、中身が期待以下のものだと失意が生じる。外見が大事だと言い切れるのは最初の段階だけだ。いずれ失望させてしまうような中身なら、最初から見せた方がよほどマシだし、面倒がなくて済む」
たぶんその理屈は、世の中のほとんどの人間の意に適わないものだろうが、正論だと分かっているなら迷わずはっきりと言う、それが美衣のスタンスだ。そして、言いたい事を言った後は、相手の反応も見ずに去っていく。
嵐が過ぎた後の地上には、すさんで空虚なものとなった光景だけが残る。その意味で、美衣は嵐のような存在だ。美衣が去っていた後の空間には、ぽっかりと空虚だけが残されてしまう。……何をすればよかったのかも、分からなくなるほど。
「……中身、どうする?」
自分でも分かるほど、美衣の理屈攻撃の影響をてき面に受けていた。
「まあ、バレンタインだからチョコ以外にないけど……手作りだと、きれいに作るってかなり難しいよ。売り物と肩を並べられる物を作るなら、だけど」
「わたしも一度試したことがあったんだけど……」キキが言う。「ぼそぼそした食感になったり、固めたらひび割れてしまったり、色合いが悪かったり、散々だったよ」
「きちんとチョコを細工するには、温度管理……テンパリングと言われる作業が重要になってくるからね。まあ、素人が作るものだし、ある程度厳密さを省いてもいいんだけど、市販品の食感は期待しない方がいいかもね。いいものを作りたいなら、料理本をしっかりと読み込んだ上で作らないと。キキはそうしなかったの?」
「ただ溶かして固めればどうにかなると思っていたから……チョコレートって、意外と繊細な食べ物なんだね。上手く形にできるか不安」
「まあ、チョコの粒径は小麦粉より小さいからね、繊細といえば繊細かな。もみじはどうなの? チョコ作りで苦労した事とか」
やっぱりわたしにも来るか。言いにくい事だけど、ここで言わないと後が面倒だ。
「わたしは……生まれてこのかた、一度も作った事がない。というか、誰かにあげた事すらない……」
「…………え?」
「だって、この時期は山形や長野のスキー場に行く事の方が多くて、バレンタインなんて意識にすら上らないんだもの、しょうがないでしょ!」
何をムキになっているのだ、わたしは。たぶん昨日の教室での一件があったから、色々言われるのを恐れたのだろう。
「それなら今年はちゃんと、誰でもいいから渡さないとね」と、笑顔のキキ。
「その『誰でもいいから』っていうのはやめてくんない? 性別うんぬんの前に、渡す人間が一人もいないみたいで悲しいから」
「というか、あの外山功輔なる幼馴染みにはあげないのか?」
あさひに言われて、わたしは一瞬、時間が止まったように感じた。
「……いかん、完全に忘れてた」
「義理でも渡せる相手が男子の中にいるのに、あんたってやつは……」処置なし、とでも言いたげに頭を抱えるあさひ。「まあ、ちょっと安心したけど」
「なぜに安心する?」
「じゃあ、今年は功輔くんにも渡してあげないと。きっと毎年悲しんでるよ」
他人の不幸が蜜の味みたいな笑顔で、キキはそんな事を言った。というか、『も』って事は、キキも最初から受け取るつもりでいたのか……。
「だって、誕生日のお祝いすらも、日をまたぐ直前に思い出して慌てて短いメールを送るぐらいだよ? バレンタイン当日に覚えているかどうか……」
「情けない事をよく堂々と言えるわね、もみじ」
「功輔くんも報われないねぇ……ま、わたしは自分がもらえたら満足だけど」
さらっとサディスティックな事を言うやつだ。大体、日本のバレンタインは本来、女子があげる側なんだけど。
そんな話をしていると、棚の向こうから綺麗な金髪の女の子が現れた。
「ねえ、何買うかもう決めた?」
絵笛中学校にかよう一歳上の友人、鈴本みかん。身内に配るだけのはずなのに、なぜかリボンを大量に抱えていた。
学校が私立と公立で違うものの、住んでいる地区が共通しているわたしとキキは、大体いつも連れ立って帰路につく。この日も、スーパーを出た後は、キキと並んで歩きながら自宅に向かう。それほど近所でもないけど……。
「で、もっちゃんはどうするの? チョコは市販のものにする? それとも自分で成型する?」
「あのねぇ、リボンも包装紙も全く買わないで、どう判断すればいいのよ。正直、バレンタインだろうが何だろうが、自分で買ったチョコは自分で食ってしまいたい」
「うん、分かった、みなまで聞かない……」
せっかくのバレンタインを目前にしながら、わたしはチョコの扱いしか考えていない。これでは、色恋沙汰を絡めるのはもっと先の事になりそうだ。もしかしたら、一生そんな時は来ないのかもしれない。
自分で買ったチョコを自分で食べるなら美衣と同じだ。彼女の行動を呆れた目で見ることなんて、どうして出来るだろう。もっとも、美衣は勉強のお供に選んだのだろうが。
「キキはいつも、どんなチョコをみんなにあげてるの?」
「ほとんどは、見栄えのいい市販品かな。板チョコを渡す事もあるけど。自分で作ってもどうしても上手くいかなくて、諦めた結果がそんな感じ」
「まあ、義理で渡すならそのくらいが無難でしょ」
「無難って言い方はあっちゃんっぽい……でももっちゃんには、絶対に手作りのチョコをあげたい!」
そんな事を本人の前で高らかに宣言されても……。
「ま、まあ、がんばって作ったのなら、多少いびつでもわたしは食べるよ」
「ううん、渡すならしっかりと作んないと。よぉし、頑張るぞぉ!」
一週間前からやる気満々だなぁ……冗談抜きで本命チョコ扱いする気だ。というか、女の子同士でチョコを渡し合ったら、それってただのプレゼント交換。クリスマスとたいして変わらない。日本のバレンタインの習慣など、もはやどうでもよくなっている。
しかし……これだけキキがやる気満々だと、こいつに渡すチョコは手抜きができなくなるじゃないか。わたしは本命にするつもりなんてないけど、あまりに温度差が激しいと、あげる側として申し訳なくなってくる。まあ、形のいい市販品を渡したって、わたしから贈られたというだけで、こいつは跳ぶほど喜ぶのだろうけど。
バレンタインデーまで残り一週間、考える時間は余るほどある。キキが必死になってわたしへの本命チョコを作っている間、わたしは何をするべきか、悩むだけ悩んでみよう。それほど時間はかからないだろうと信じて。
もしかしたら、ホワイトチョコより甘かったかもしれない。わたしは、悩んで考えて、答えを出せる人間ではなかったのだ。