その1
実際のバレンタインデーから一か月遅れ、もうホワイトデーですが、昔書いた作品を手直しして投稿しました。前半はわちゃわちゃ、後半はミステリ、ラストの感触は読者の皆さまに委ねます。
<1>
世界の生産量の三分の二がアフリカ。生産量一位はコートジボワールで、ガーナ、インドネシア、カメルーンがそれに続く。バナナやコーヒーのような大規模プランテーションでの栽培は行われず、小規模農家の商品作物となっている事が多い。この農産物は何か答えなさい。
……まずいな。うん、これはまずい。
どこの学校でもある話だが、試験まで残り日数幾ばくもなくなると、長期旅行前日のカバンの中みたいに、頭に教科書の知識を無理やり詰め込む生徒が必ず出てくる。。そのカバンから目的の物を取り出すのに時間がかかるように、頭の中に詰め込まれた知識はそう簡単に引き出せない。
まあ要するに、そういう事なのだ。
私立四ツ橋学園中学校は、毎年の慣例として、二月の最初の週に年度最後の定期試験を実施する。二年D組に属するわたし、坂井もみじは、一週間前からどの教科もバランスよく復習してきたつもりだったが、それでもやはり、ど忘れしてしまう事はある。
身も蓋もないが、わたしの真の実力はその程度だという事だ。まあ、この一問を取り逃したところで、全体の成績にそれほど影響はないが、思い出せそうなのに思い出せないというのはなかなか悔しい。
今やっている地理のテストだって、ちゃんとそれなりに勉強してきて、空欄もほとんど作っていない。それだけに、解けそうなのに解けない問題があると……頭を掻きむしってでも思い出そうともがくのである。
しかし、奮闘もむなしく、時間切れを告げるチャイムが無情に響く。
三日間に渡る、二年生最後の試験は無事に終了した。次の定期試験は進級後の五月。この後味の悪さを乗り切るためのチャンスは、三か月も後に持ち越しとなったのだ。
まあ、別の方法で乗り切る事もできるけどね。その場合、もれなく体型を犠牲にする事になるのだが。
「やっと終わったねぇ。相変わらず試験は疲れるわ……」
要綾子が、わたしの席に近づいてきて言った。このクラスでいちばん仲のいい友人である。頭の出来は、トレードマークの眼鏡に象徴される。
「成績上位者でもテストは疲れるの?」
「次元が違うよ、次元が。外的要因で押し付けられているというか……普段なら自分のペースに合わせて学習できるのに」
「でも文句言いつつも優秀な成績収めているんだから、結果オーライじゃない?」
かく言ってみたものの、彼女の成績の詳細はわたしも知らない。
「まあねぇ……試験は学業の最終段階。努力するなら誰でもできるけど、最後は試験ひとつで、間に合わなかった人は容赦なくふるい落とされる」
「無情だねぇ」
「無情な世の中だよぉ」
「まあ、中にはもっとひどくて、非情だと思っている人もいるみたいだけど」
そう言って、隣で机に突っ伏している外山功輔に、憐れみの視線を送る。奴はわたしの幼馴染みで、割と勝手知ったる仲であり、こうなる事も少し前から予想がついていた。
「結果が公表される前から、すでに絶望的になっている……」
「功輔の奴、ここ最近まったく勉強に集中できていないみたいだったから」
ふてくされて寝ているのか、わたしと綾子が口々に言っても功輔は無反応だ。国語があまり自信ないと言っていたが、というかいつもそうだが、どうやら今回は全体的に手応えを感じていないらしい。
「まあ、集中できないのも分かる気がするよ」うんうんと頷く綾子。「春からサッカーの練習は本格化するし、何より時期が時期だから……」
「ん? 今の時期が何か問題なの?」
綾子は一瞬、白けたような表情を浮かべたが、すぐにいつもの微笑に戻る。
「いや……そのくらいの方が健全でいいかもしれないけど。というか、むしろもみじちゃんはそれでいてほしい。それより、もみじちゃんはテストの感触どう?」
なんだったのだ。
「埋められるだけ埋めたけど、はっきり言って不完全燃焼。さっきの地理でも、思い出せそうなのに思い出せなかった問いがひとつだけあって……ああ悔しい」
急に思い出したら、手遅れの苛立ちに変わっていた。
「ど忘れは仕方ないね」
「綾ちゃんはぜんぶ埋めたの?」
「まあね。もっとも、全部当たっている気はしないな。三問ほど、勘で答えちゃったところがあったから」
他の問いは確信を持って答えたのか。さすがは成績上位者。
「まあ、一喜一憂は返却された時にしよう。そうだ、この時期だけど……もみじちゃんは誰かにあげる予定とか、あるの?」
次々と話題が変わるなぁ。しかも言葉足らずで意図が伝わらない。
「あげるって、何を?」
綾子の表情は少し固まったけど、急に話を変えられて、その詳細を尋ね返すのはそんなにおかしな事だろうか。……おいおい、ため息をつかれるほどおかしいのか。
「そのままがいいと言ったばかりだし、この手の話に疎いのは承知しているけど……二月の初めごろに、誰かにプレゼントをすると言ったら、女の子なら察しがつくと思ったんだけどなぁ」
悪かったねぇ、女の子らしくなくて。
「だから、何の話?」
「分かった。だったら直球で訊こう」そう言って綾子は咳払い。「もみじちゃんは、誰かにバレンタインのチョコレートをあげる予定はあるの?」
綾子がそう言った途端、机に突っ伏していた功輔が急に「はっ」と顔を上げた。わたしは目の端に捉えただけで、「ああ、本当に寝ていたのか」としか思わなかった。
何しろ、その時のわたしの中では、つい二十分ほど前の悔しさが再び込み上げていたのだから。チョコレート。そうか、それだったか……。
今度はわたしが机に突っ伏した。ふてくされて寝る事はなかったが。
「どうしたの?」
「そうだよ……コートジボワール、ガーナ、インドネシア。生産量の三分の二がアフリカ。この時期なんだから分かって然るべき、むしろサービス問題じゃん」
「もみじちゃん……?」
「カカオに決まってるよねぇ。そうだよねぇ。カカオは赤道付近の国、アフリカや中南米で栽培されている。常識じゃん、あははぁ」
「もしかして、どうしても思い出せなかった問題って……」
恐らく顔面蒼白の綾子に向かって、わたしは片手を差し出した。
「綾ちゃん、今すぐチョコレートを持ってきて。この悔しさを噛みしめるのだ」
「ごめん、ものすごい失言だったとわたしも深く後悔している……」
「チョコレートのカカオ成分は虫歯菌を抑制するから大丈夫。痛みに負けるな、日本のサラリーマン。糖分で明日へ繋げ、未来は明るいぞぉ」
「そういえば、最近剣道部はどんな感じなの?」
明らかに無理やり話題を変えたが、綾子のこの気遣いがむしろ胸に突き刺さるようで何だか申し訳ない。もっとも、すでにまともな会話が成立してなかったが。わたしは机に突っ伏したままで答えた。
「三年生が引退して、実力がある二年生が他の部員を指導する事になったよ。女子剣道部の部長にはC組の仲村さんが就任しました。以上」
「淡々とした説明だなぁ……あれ? もみじちゃん強いし、統率力もあるからてっきり部長になったかと」
「いや、わたしは指導役のトップに選ばれた。前任の風戸先輩が創設した指導長に。後輩からの受けはいいけど、実務を任せるなら仲村さんの方が適格だという事で」
「へぇ……」
「わたしが推薦しました」
「あ、自分から部長を辞退したのね」
間の抜けた声で言う綾子。実をいえばわたしの指導長就任も風戸先輩の推薦、もとい茶番によって決められたのだが。
「でも、後輩の受けがいいなら、部長じゃなくても部の中で居場所はあるんだね。よし、テストの悔しさは剣道部で晴らせばいいって事で」
「うん、わたしもそれは考えたけど……病院のお世話になる人を出したくないからやめにした」
「いや、もちろんある程度は手加減しないとダメだから」
わたしは突っ伏していた顔を上げて綾子を見た。
「この憂さを晴らすなら、ケーキバイキングしかありません」
「近所でそんなイベント聞かないし、今の時期にそれをやったら、失恋したと見なされるって……まあ、元々誰とも付き合ってないみたいけどさ」
普通はこんな事を言われてムキになるところかもしれないが……。
「心配いらないって。バレンタインが意識にすら上らないわたしに、その手の思い違いは通用しないから」
「捨て鉢になってない? というか、誰でもいいからチョコを渡さなかった? 家族でも友達でもいいけど」
わたしは頭をひねって思い出そうとする。そうした時点ですでに結果は明白だが。
「まったく覚えがない」
「誰にも渡したことないの? 一度も?」綾子はさすがに驚いていた。
「もらった事はあるけどね。主に後輩の女子から」
「…………日本国内で、これほどバレンタインを実感できていない女子中学生は珍しいと思うけど……まあ、もみじちゃんならこのくらいの方が健全か」
同じことをさっきも聞いたぞ。まあ否定はしない。剣道にこの身を捧げると決めた時から、女の子らしさを追求することは諦めている。
「あれ、坂井もみじ陛下が女のアイデンティティを見失いかけていらっしゃる?」
たぶん功輔に用があってここに来たのだろうが、市川将彦はかなり堂々と無神経なセリフを吐いた。功輔が「これ以上刺激するな」とでも言いたげに市川を黙らせようとするが、すでに遅かった。
「まあねぇ……いつだってわたし、女と見なされていないし? 制服以外でスカートなんて一度も穿いた事ないし」
「将彦、これ以上もみじを落ち込ませるな。色々ヤバいんだ」
功輔が市川の肩に手を置いて言った。
「なんで? いつもと違って、何を言っても叩かれそうにないけど」
「だから危険なんだよ。これでいつものテンションに戻ったら、溜めこんでいた分、何倍ものカウンターを食らう事になるぞ」
「それはまずい」市川の顔から血の気が引いた。
「大体、二月はゲレンデか冬フェスに行く事の方が多くて、もみじはほとんどバレンタインらしいものに触れる機会がなかったから、実感がないからと言って、もみじのフェミニティが否定されたわけじゃないだろ」
「バレンタインってあれだろ、日本のプロ野球本塁打記録を塗り替えた外国人選手」
「それはバレンティンだろ」
驚いた事に、市川は本気でそんな事を言っていた。どうやらバレンタインを実感できていないのは、わたしに限った事ではないらしい。
「上には上がある、という事かしらね」
綾子にそんな事を言われても、わたしはちっとも気が晴れなかった。
部活を終え、わたしは帰路につく。周囲の女子たちは、そのほとんどがバレンタインの話題で持ちきりだった。その楽しそうな様子を見るたび、わたしは肩身の狭い思いになる。
確かに功輔の言うとおり、わたしはバレンタインを意識する機会に恵まれていない。毎年、言われてやっとそんな行事もとい慣習がある事を思い出すくらいだ。
綾子いわく、バレンタインに女性が男性にチョコレートを贈る習慣は日本だけのもので、定着したのも1970年代後半とかなり最近である。これは、石油危機をきっかけとした高度経済成長の終焉の頃であり、小売業界が盛んにマーケティングを行なった結果だという。チョコレート業界の陰謀とも言われがちだが、実際は十代の学生が主体的に定着させたのが最大の要因とされている。
少し前に流行っていた“義理チョコ”や“逆チョコ”は、海外のバレンタインではむしろ普通である。“贈るのはチョコ”“女性から男性へ一方的に”などと限定要素が多いのが日本のバレンタインの特徴だという。しかし、そうした要素を抜きにしても、バレンタインがあまねく、“恋人たちの日”と認識されているのはどの国でも同じだ。
だからそうした時期に、恋愛はおろかチョコの存在にすら意識を向けないわたしは、異端児のように扱われても仕方がないというわけで……危機感は覚えないまでも、ちょっとはへこむ。
「はあ〜……」
ため息が形になって見えるって、なんか嫌だな。
ただ、バレンタインには社会問題になりやすい側面がある。バレンタインに、男性が女性に半ば強制する形でチョコの贈答を頼むのは、いわゆるセクハラに当たるのではないかという指摘がある。限定的な慣習の弊害であり、そこから後付けのように、条件を緩めた“○○チョコ”なる慣習が生まれる。元はキリスト教に関するある事件から生まれただけの市民的祝祭が、なにゆえ社会問題にまで発展してしまうのか……。
もっとも、日本ではそんな事をほとんど意識されていないから、欧米の感覚とはずれが生じているのかもしれないけど。
わたしの場合は大抵、色恋沙汰とは無関係に絡んでいる。これは、“憧れチョコ”とでも名付けられるものだろうか……“義理チョコ”とも“友チョコ”とも言えない、何とも微妙な意味合い。思い返せば、わたしはそのどちらも経験した事がない。
わたしの学外の友人は、バレンタインを意識しているのだろうか。
一番の親友の顔が浮かぶ。あいつはわたし以上に、色恋沙汰に無関心だ。ただ、わたしが不幸な偶然を理由として成長が止まっているのに対して、彼女は早いうちからその段階を過ぎてしまっている感じだ。
そうだ、どうせあげる相手がいないのなら、“友チョコ”の形でキキにあげよう。テストと綾子のおかげで、今年はちゃんと意識できているのだ。あいつはたぶん、跳んで喜ぶことだろうな。目に浮かぶようだ。
…………あれ?
根本的な疑問に行き当たり、わたしは立ち止まった。あいつが喜ぶ姿が、頭から消える。
……チョコって、どうやって作るの?