名探偵「にいたん」【前】
にいたん、いない。にいたん、どこ?
賢児は、一緒にかくれんぼをしていた兄の涼一を懸命に探していた。
かくれんぼをしていた部屋を出て、廊下の壁を叩いたりしながら、賢児が玄関まで来ると、玄関のドアが開き、父の保が入って来た。
「とうたん!」
駆け寄ってくる賢児を抱き上げる保。
「賢児! 元気にしてたか? 迎えに来てくれたのか? ありがとう」
「にいたん、どこ?」
「え?」
「にいたん、いない…」
泣きそうな顔になる賢児。今の賢児には、3つ違いの兄、涼一の行方が何よりの一大事なのだ。
「え…えーと…涼一か? ど、どこだろうなあ?」
賢児と一緒に辺りを見回していると、涼一が現れた。
「とうさん! お帰りなさい!」うれしそうに保にしがみつく涼一。
「涼一!」いったん賢児を降ろして、涼一を抱きしめる保。「いい子にしてたか?」
「…わかんない」ギュッと抱きしめ返す涼一。
「なんだ、わかんないのか。しょうがないなあ。小学1年生にもなって」
「にいたん、いた!」
保に抱きかかえられた涼一を、背伸びして触ろうとする賢児。
「賢児、とうさんにちゃんと“お帰りなさい”って言ったか?」涼一が賢児に確認する。
「あ」口をあけて、しまったという顔をする賢児。「とうたん、おかえりなさい」
「ただいま」
保が賢児の頭をぽんぽんと触ると、後ろから軽やかな笑い声が聞こえた。
「賢児ったら、本当に涼一が好きなのね」保の妻、麻美だ。「お帰りなさい、あなた。出張お疲れ様です」
そう言いながら保の荷物を受け取り、リビングのほうへ運ぼうとする。
「ただいま、麻美。特に変わったことはなかったかい」
「そうねえ。知らない男性が畑で倒れてたり、その人を雇っちゃったくらいで、特に変わったことはありませんでしたけど」
「…十分変わったことじゃないのか、それは」
保は微笑む妻の顔をまじまじと見つめた。
* * *
庭の花を摘むために玄関から出て行った涼一を追いかけて、賢児が庭のほうへ走り出した。だが。涼一の姿はない。
「にいたん…」
不安になった賢児が、一目散に走り出す。
気がつくと、そこいら一面が屋敷の裏の畑になっており、一人で畑に来たことの無かった賢児は、どうしていいのかわからず、あたりをきょろきょろと見回した。
視線の先には、スイカを採っている男の姿が見える。慌てているのか、持っているビニール袋に、採ったスイカをなかなか収めることができずにいる。
「けんたん、おてつだいする!」
賢児は男に近づくと、スイカを袋に入れる手伝いを始めた。
「え…?」驚いて手を止める男。
「はいった?」
「あ、…ああ」男が困惑した様子で賢児を見つめる。
その時、男のお腹がぐーっと鳴った。
「あ…」男が空腹からふらふらと、かがみこむ。
「おじたん、おなかすいてるの…? まってて!」
賢児は、りんごの木のあるところまで駆け出した。ちょうど、涼一が向こう側から歩いてくる。賢児の姿に気づく涼一。
「賢児! ダメだろ、一人で出てきちゃ!」
「にいたん! りんごとって。おじたんが、おなかすいてるの」
「おじたん?」
辺りを見回す涼一。賢児が駆け出してきたほうを見ると、頭を抱えてふらついている男の姿が見えた。
「え?」
涼一がどうしたものか、見つめていると、倒れこむ男。
「おじさん! 大丈夫? おじさん!」
男に駆け寄って揺すぶるが、男は反応しない。
「賢児! かあさんに知らせに行くよ!」
「あい!」
二人は手をつなぎ、屋敷に向かって走り出した。
* * *
「かあたん! おじたん、めがあいたよ!」
賢児の言葉に、村上医師と一緒に男の顔を覗き込む麻美。
「大丈夫ですか?」
「あ…」
「おじたん。スイカいれたよ。だいじょうぶだよ!」
賢児に言われて、ハッとした男は、慌てて起き上がった。
「あ、あの…」
「具合はいかがですか? 庭に倒れていらっしゃったので、お運びしたんです」微笑む麻美。
「あ、ありがとうございます…あの、あの…申し訳ありません」
男はベッドの上に起き上がり、麻美に向かって土下座をした。
「すみません、妻と子供に食べさせるものがもうなくて、私も3日間何も食べてなくて、ここなら何か食べ物があるかと思って入ったんです。すみません、本当にすみません…!」
「何かご事情があるんですか? よろしかったらお話ください。どこまでお力になれるかはわかりませんけど…とりあえず、あそこの畑の作物は近隣の方がご自由に持って行かれるものなので、あなたは別に悪いことをなさったわけじゃないんですよ」優しく微笑む麻美。
「す、すみません…でも、こんな…こんなことをするなんて。すみません…」ブランケットを握り締めながら涙を流す男。
その様子を見ていた賢児が、オーバーオールの胸ポケットからハンカチを出した。
「はい。おじたん、はい」
賢児の手からハンカチを受け取った男は、さらにポロポロと泣き出した。
「ありがとうございます、坊ちゃま…」
* * *
「ごめんなさいね。ご家族でお呼びたてしてしまって。さあ、そちらへお座りになって」
「妻の和江でございます」
麻美の言葉に、深々と頭を下げながらソファーに座る夫婦。その横にいた男の子は、部屋の中をきょろきょろと見回している。
「こら、座らせていただきなさい、哲也」
母親に言われ、男の子も座った。
「本当に、本当に昨日は申し訳ございませんでした、奥様」
男が頭を深く下げると、隣の和江もさらに深く頭を下げた。
「頭を上げてください。今日お呼びしたのは、大垣さんを責めるためでも、お詫びしていただくためでもないんですから」
「で、ですが…」少し不安げに麻美を見上げる大垣夫妻。
「ごめんなさい。お呼びしたのは私なの」そう言って入ってきたのは、麻美の義理の姉、保の実姉の西園寺華織だった。「大垣さんが、古美術商でいらっしゃるというお話だったから」
「は、はい」緊張した面持ちで答える大垣衛。
「そんなに怯えないで。とって食べるわけじゃないわ」華織がくすりと笑う。「お仲間に有り金全部持ち逃げされてしまったんですってね。しかもご自身の預貯金まで。お気の毒なことでした。…でも、今までのご実績を活かして、またご商売なされば、借金も返せると思うし」
「は、はい…」大垣は困惑したように下を向いた。
「それが出来るなら苦労はしない…って顔、なさってるわね」再度くすりと笑う華織。
「伯母さん、困っている人にいじわるしちゃダメだよ」
そう言いながら部屋に入ってきたのは涼一だった。後ろには賢児がいる。
「おばたん、だめだよ!」賢児が涼一の真似をする。
「坊ちゃま方…昨日は本当にありがとうございました」
子供二人に向かって、立ち上がって挨拶する大垣。
和江と哲也も同じように挨拶すると、今度は涼一が3人に向かってお辞儀をして、賢児にも同じようにするように促した。にこにこしながら、ぺこりと頭をさげる賢児。
「…そうね、商談が先だったわ。ごめんなさい。お座りになって」
「商談…?」意外な言葉に大垣が驚く。
「そう。実はね、今度、保ちゃん…麻美ちゃんの夫で、私の弟なんだけど、彼が衆院選に出るので、供託金ていうのかしら、ちょっとまとまったお金が必要なの。でも彼、けっこう頑固でね、私や父が資金を出すと言っているのに、自分で用意したお金じゃないと駄目だって、聞いてくれないのよ」
「はあ…」大垣は、わけがわからないと言うように華織を見つめた。
「伯母さん、話が長くてわかりづらいよ、それじゃ」
「あら。じゃあ、涼ちゃんがお話して」少しむくれたように言う華織。
やれやれといった顔で、大垣のほうを向く涼一。小学1年とは思えないくらい、大人びた表情だ。
「…今言ったように、父はお金が必要なので、自分の持ち物を売ってお金を作りたいと思ってます。父が持っているのは、古い壷だとか、お皿だとか、絵だとか、そういうものです」
「つまり旦那様は、所蔵されている美術品を処分されたいということですね?」
「はい。だから、小父さんがなるべく高く売ってくれませんか? ちゃんと小父さんのお給料も出します。父は明日まで留守なので、詳しい話はまた明日になりますけど」
「涼ちゃん、すごいわぁ。とってもわかりやすい」
「にいたんは、すごいんだよ!」
自慢げに言う賢児の頭を撫でながら、麻美が補足した。
「今、涼一が説明した通りです。よろしかったら協力していただけませんか? ちょうど、その仕事をお願いしていた方に、退いていただいたところなものですから」
「退いて…?」
「ええ。賢ちゃんが駄目だって言うから、断っちゃったのよねえ、賢ちゃん」
華織が賢児に聞くと、賢児はこくりと頷いた。
「あ、あの…」
話がわかりかけたところに、また訳がわからなくなり困惑する大垣。
「このお屋敷では、誰が仕事をするかを、こんな小さな子が決めるんですか?」哲也が厳しい表情で華織に尋ねる。
「これ、余計なこと言わないの」叱りつける和江。
「ええ、そうよ。賢ちゃんはね、いい人と悪い人がわかるの。だから、あなたのお父様には、にこにこしてるでしょう?」うふふと含み笑いをする華織。
「実は、その方、うちで仕事をお断りした後、別の人に詐欺を働いてつかまってしまったんです」
「すごいや…そんなことわかるなんて、すごいんだね!」
哲也が驚いて賢児を見ると、賢児が麻美の後ろに恥ずかしそうに隠れる。
「ほめらえた」
「わあ、かわいい…」哲也の顔が緩む。
「お手当てはもちろん、きちんとお支払いします。お住まいも今のところを近々出なければとおっしゃっていましたよね。よかったら集会所の裏の離れを使っていただいてもかまいませんし」
「あ、ありがとうございます。お見逃しいただいた上に、そんなお世話までいただくなんて…ありがとうございます」
大垣がソファーから降りて麻美に頭を下げた。
「大垣さん、そんなことはなさらないでください。お坊ちゃん…哲也くんと言いましたよね、見てますよ。お子さんの前で、そんなことをなさってはいけません」
「奥様…」
泣き出す大垣を支えるように、和江が背中をさする。
「僕も働きます。何かお仕事をください」
涙を拭く両親の横で哲也が言うと、和江が慌てて麻美に言った。
「も、もちろん、私も働かせていただきます。一生懸命働かせていただきます。何でもお申し付けください。お願いいたします」
「…わかりました。ちょうど、お手伝いさんも増やそうかと思っていたんです。選挙が始まると何かと人手が要りますし」
「麻美ちゃん。じゃあ、さっそく昼食の仕度、手伝っていただかない?」
そう言うと華織は手招きをして、和江をキッチンへと連れて行った。
* * *
「うわあ。美味しいね。和江さん、お料理すごく上手だね」驚きながら、うれしそうに料理を頬張る涼一。
「おいちい!」賢児もスプーンを握り締める。
「田舎料理で、お口に合うかどうか…」恐縮する和江。
「涼ちゃんの言うとおりだわ。すごーく美味しい」うれしそうな華織。
「本当。味も盛り付けも、まるでプロの方みたい。手際もものすごくよかったし。何か、こういうお仕事でも?」麻美が聞く。
「い、いいえ。とんでもございません。実家は小料理屋をやっておりますが…」
「だからお料理上手なんだね。いいなあ、哲也くん。こんな美味しいもの毎日食べてるんだ。うちなんかね、伯母さんは顔はすごくきれいだけど、お料理はイマイチなんだ」
口を尖らせる涼一に、思わず吹き出す哲也。彼が同い年だとわかったせいもあり、涼一はすぐに哲也と仲良くなっていた。
「涼ちゃん、それは失礼でしょう? 最近は千切りだって上手になったのよ。ほら」
華織がサラダのキャベツを指差すと、華織の双子の息子、天馬と風馬が声を揃えて言った。
「これ、短冊切りだよ」
確かに千切りと称するには、少々幅が太過ぎる。
「ん、もう。あなたたち、キライ」華織がプイと横を向く。
「きゃべつのたなばた。ここにかくの?」
短冊という言葉に反応した賢児がサラダを覗き込みながら言うと、華織はさらに機嫌を損ねた。
「賢ちゃんもキライ」
「けんたんは、おばたん、しゅき!」にこにこと笑う賢児。
「母さんの負けだよ」天馬が言う。
「賢児の勝ちだよ」風馬が言う。
不満気な様子の華織をなだめるためなのか、涼一が話題を変える。
「ねえ、僕、いいこと思いついたよ。この前、かあさん言ってたよね。新しい支持者の小母さんたちと、どうやって仲良くなったらいいのか困ってるって」
「え、ええ…」麻美はどう答えていいものか、ためらったように言葉を出した。
実は涼一の言うとおり、新参支持者のご婦人方の扱いに困っていたのだ。なぜなら、彼女らの目的は政治的なものではなく、大概が保自身なのがあからさまだったからだ。保の妻という立場の麻美は、彼に憧れる女性陣にしてみれば、いささか邪魔な存在であり、また、あら捜しをされる存在でもあった。
「和江さんにお料理教室してもらおうよ」
「お料理教室?」
「うん。皆で何か作ると仲良しになれるでしょ。皆で何か食べると仲良しになれる。食べてるときに、とうさんがお話をすればいいんだよ」
「涼ちゃん、すごいわ、天才!」
華織がぱちぱちと手を叩くと、天馬と風馬も頷いた。
「そうよね。保ちゃんは農水関係や福祉関係に強いわけだから、食べながら、食材を題材に農水施策を話したり、奥様方の普段の話を聞きながら、それに関係した福祉の話をすれば、きっと保ちゃんばかりじゃなくて、政治にも興味を持ってもらえてよ」
「そこで作ったものを夕飯に持ち帰ってもらえば、ご飯のときにとうさんの話が出るでしょ。そこの家族に話が伝わると思う」
「あの…」恐る恐る哲也が口を挟む。
「何? 哲也くん」麻美が微笑む。
「あの…ご飯食べるときに難しいお話を聞くと緊張しちゃうから、ご飯のときは先生と普通に仲良くお話をして、アンケートの紙を渡してもいいかなあって思います」
「アンケート?」
「この前、学校で渡されました。意見を集めてくださいという紙です。だから、旦那様が聞きたいことを紙に書いてお料理教室のときに渡して、意見をお家で聞いてきてもらって、また旦那様に会いに来てもらえば、小母さんたちも旦那様も、うれしいと思います」
「そっちのほうがいいね」涼一が哲也に同意する。
「いいね!」涼一の真似をする賢児。
「すごいわ! 哲也くん、涼ちゃんと同じくらい天才!」
「ええ。それ、いいかもしれないわ。…ありがとう、哲也くん」
麻美が嬉しそうに微笑むと、哲也は恥ずかしそうに下を向いた。
* * *
「アンケートを、そういう形で使うのはいいかもしれないな。うちの畑はもともと支援者の方々がボランティアで世話をしてくださっているから、料理教室の食材は畑のものをメインに使おう。夕食を作って帰ってもらって、それを食べながら、家族皆でアンケートに答えてもらう。奥さん個人のというより、家族全体の意見というのかな、世帯ごとの意見が上手に聞けるかもしれない」
「ええ。それに、別に奥様だけに限ることはないと思うの。男性だけの回とか、若い女の子だけの回とか、お年寄りだけの回とか、いろんなことができるわ。特定の年齢層に聞いておきたいことは、その場でアンケートすればいいでしょ」
「ああ、確かに。…それにしても、その哲也くんという子、賢い子だな」
「ええ、びっくりしたわ。涼一と同い年なのよ。そもそも、涼一並みに頭のいい子なんて、なかなかいないもの」
「そうだな」
よその子を褒めているつもりで、わが子を絶賛している妻の顔を見ながら、保は心の中で思った。
“同感だが、よそでは言うなよ”
「それでね、華織さんが言うのよ。哲也くんは頭が良いから、涼一と同じように教育を受けさせるといいって。将来、絶対に賢児を助けてくれるからって」
「賢児を? 姉さんがそう言ったのか…」
「ええ。涼一と哲也くんに家庭教師をつけるといいって」
「いいんじゃないのか。…たぶん、義兄さんのところの人間を充てるつもりなんだろう。普通の家庭教師より、おもしろいかもしれん」
華織の夫、躍太郎は、手広くいろいろな事業を手がけていたが、そのひとつに学者や芸術家の人材育成のための投資事業というのがあった。一種の人材バンクみたいなもので、優秀な学者や芸術家の卵に躍太郎が投資し、研究や発明、創作によって得る利益の幾ばくかを還元してもらうというものだ。時には、企業と彼らの仲介をし、この場合は企業の側から利ざやを得る。
彼ら全員が必ずしも才能を順調に伸ばしているわけではなかったが、意外なことにサラリーマンに向いていそうな人間や、商売に向いていそうな人間もいて、それらは皆、躍太郎が経営する会社や、関連業種にリクルートするという、無駄のないシステムだった。
「でも、将来賢児を助けてくれるって、賢児は大人になったら何をするのかしらね」
「何になりたいんだろうなあ。まだ小さ過ぎてわからないか」
「この前聞いたときは、わんわんになりたいって言ってたわ」
「わんわん?」
「村上先生のお宅でドーベルマンを飼っていらっしゃるのよ。それを見て思ったみたい」
「…こればっかりはなあ」苦笑する保。「賢児の性格じゃ、犬になれてもドーベルマンは無理だ」
「あら、そんなことないわ。この前、涼一が野良猫に飛び掛られたとき、賢児ったら猫に逆に飛び掛って、押さえつけて怒ってたんだから。にいたんをいじめるなあ!って。勇敢だったわ」自慢げな麻美。
「怪我しなかったのか、賢児は」
「涼一が、危ないだろって言って、猫を放り投げたから大丈夫よ」
「おい…」
「心配し過ぎだわ、あなた。涼一は賢くて強い子で、賢児はやさしくて強い子よ」
自信満々に微笑む麻美に、保は笑うしかなかった。
* * *
「にいたんは…?」
「にいたんはね、今、病気なの。うつっちゃうから、お部屋に行っちゃ駄目。にいたんが治るまで我慢してね」
風邪で熱が出ていた涼一から離そうとして、言い聞かせる麻美。
「いたいの? にいたん、いたいの?」泣きそうな目で尋ねる賢児。
「大丈夫よ。お注射して熱も下がったから、もうすぐよくなるわ。にいたんが早くよくなるようにお祈りしましょうね」麻美が賢児の頭をなでる。
「けんたん、にいたんに、おりんごむいたげる!」
「賢児はまだナイフを使うには小さいから駄目よ。もっと大きくなったらね」
麻美に言われて賢児がしょんぼりする。
「よく、風邪は誰かに移せば治るって言うけど…どうなのかしら?」華織が何気に言う。
「さあ…。確かによく言いますよね。移せば治るって。どんどん拡散しているだけでしょうけど」笑う麻美。
“うつせばなおる”
賢児の頭の中では、涼一の病気は誰かに移れば治るのだと理解した。
“けんたんに、うつればなおるんだ”
* * *
涼一の寝ている部屋に行こうとした賢児は、いくつか手前の部屋に、何となく入ってみた。正確に言えば、何となくというのは違うのかもしれない。その部屋は、納戸代わりになっている場所で、涼一と賢児が遊びに使っている部屋でもあった。いろんな美術品や書籍が保存されているその部屋は、子供たちにとっては不思議なものだらけの場所であり、桐箱に詰められた品々を、そーっと確認するたびに、二人の秘密は増えて行くのだった。
“けんたん、うつりにいく。にいたんに、ご本もって、うつりにいく”
賢児がドアを開いたその時、窓際に一人の男が立っていた。
当時、保が選挙に出るからみで、家には多くの人間が出入りしており、家にいる大人には「こんにちは」と挨拶するように躾けられていた賢児は、その男にも丁寧におじぎをしながら挨拶をした。
「こんにちは」
「だ、誰だ!」ナイフを手にした16、7の少年が振り返った。
「けんたんだよ」賢児がニコニコしながら少年に答える。
「この家の坊主か?…いいか、おとなしくしてろ。でないと、痛い目に遭うぞ」少年が、賢児に近づきながら低い声でつぶやいた。
「おにいたん、おりんごむいてるんだね! にいたんに?」
「え?」
「…けんたん、まだ、おりんごむけないの」悲しそうにうつむく賢児。「にいたんびょうきで、おりんごあげたいけど、けんたんちいさいから、だめだって。いいな。おにいたん、おりんごむけていいな」
一瞬何を言われているのかわからなかったものの、賢児が自分のナイフを見て、りんごを剥いていると勘違いしていることに気づいた少年は、慌ててナイフをしまった。
「もう少しでっかくなれば、りんごぐらい、すぐに剥ける様になるよ」
「ほんと!」彼の言葉に賢児はうれしそうに笑う。
「ああ」“かわいい坊主だな”
「おにいたんは、にいたんいる?」
「え?」
「けんたんは、にいたんだいすきなの。にいたんはね、いっつもやさしくて、だいすきなの」ニコニコと笑う賢児。
「いや、俺は弟はいる…けど、兄貴はいないよ」
少年はそう言いながら、自分の弟を思い出した。
“望もそうだった。にいちゃん、にいちゃんて、いっつも俺の後を追っかけ回してた。でも、体が弱かったから、だんだんと入退院を繰り返すようになって、どんどん金が必要になって、親父とお袋はそれが原因で…どんどん仲が悪くなっていった。
病気の子供を産んだおまえが悪いとか、甲斐性なしのあんたが悪いとか、そんな応酬の繰り返しだった。不幸中の幸いだったのは、そんなやりとりを入院中の弟には、聞かせずに済んだことだ。
そして思ったこと。貧乏は罪悪だ。俺はこの世界から抜け出してみせる。早く大人になって、弟をこいつらから助け出してみせる。
今こうして、ここにいるのは、この茶碗を、この家の美術品が保管されている部屋に置いて来いと言われたからだ。この業界、訳あり仕事を依頼された時には、必要以上に詮索するのはご法度と言われたので、詳しくは確認しなかったが、きっとここの主人に何か罪をなすりつけるための手立てなのだろう。この家の主には何も恨みはない。ただ、弟の高額な治療費を稼ぐためには、俺の歳ではこれしかない。関係のない人に迷惑を掛ける事がいいと思っているわけではないが、どうしようもないのだ”
「おとうと?」賢児は目をきらきらとさせて繰り返した。
「ああ。おまえみたいに、可愛いんだ」
少年が思わず微笑むと、賢児はうれしそうに顔をくしゃくしゃにして笑った。
「今は病気で病院にいるんだけどな」
「にいたんとおんなじだ。びょうき…」すぐに悲しそうな顔になる賢児。
賢児に気を取られて、のんびりと座っていた少年は、屋敷の外の通りからしてきた車の音にハッとし、再び自分の任務を思い出した。
「坊主、あっち向いてろ!」
「あい」賢児は素直に後ろを向いた。
少年はジャンパーのポケットに忍ばせている茶碗を、桐の茶箱の中に入れなければいけなかったのだ。少年は、辺りを見回し、桐箱を見つけると、立ち上がってそれに近づき、その箱の蓋を開けた。
「あ。たからばこあけるおとだ!」賢児が振り向いて叫ぶ。
「し、静かにしてろ、坊主」
彼はそういいながら、箱の蓋をそーっと開けると、懐に忍ばせていた茶碗をその中に置いた。
「おりんごのおさらだね!」うれしそうに叫ぶ賢児。「でも、へんなおさらだねえ…」
「おりんごのお皿? 何だそりゃ」
「おにいたん、てぶくろしないと、にいたんにおこられるよ。たからばこにさわるときは、てぶくろをするんだよ」
真剣な顔で言う賢児に、少年は思わず吹き出した。自分は指紋を残すために、わざと手袋をしていないというのに、これではまるで家の子から泥棒指南を受けているみたいだ。
少年は、軽く咳払いをすると、目を細めて怖そうな顔をした。
「いいか、誰にも言うんじゃないぞ。でないと、りんご剥けるようにならないからな」
少年がそう言うと、賢児は少し悲しそうに頷いた。
と、その時、廊下から麻美の声が聞こえてきた。
「賢児! 賢児、どこなの!」
「あ、かあたんだ! たいへん。おにいたん、たいへんだよ! みつかっちゃう。はやくにげて! ここにいると、おこられちゃうんだよ。ひみつきちだから、ほんとうはだまってはいっちゃ、だめなんだよ」
賢児に言われて戸惑う少年。今ここを離れるわけにはいかないのだ。自分が捕まって、盗難に入ったということになるまでで、仕事は完了する。茶碗が最初から、この部屋にあったという状況を作らなくてはならない。
「で、でもな、兄ちゃん、ここにいないといけないんだ」
「びょういん、いかないと!」
「病院?」
「おりんご、おとうとにも、むいてあげて!」賢児が必死に訴える。
「りんご…」賢児の一言で、弟の顔が眼前にちらつき、少年はうつむいた。
「かあたんきたら、おこられるよ! びょういん、いけなくなるよ!」
賢児の言葉に、少年はさらに迷いが出てきた。そうだ。仕事の依頼が急だったので、病院へ行く時間もなかった。報酬の一部である前払い金を、自分の口座から病院へ治療代として振り込むのが精一杯だった。会えるものなら、豚箱に入る前にもう一度会いたい。
「わかった。帰るよ」少年は立ち上がった。
「あ。これ、もって。わすれものだよ!」
賢児は、少年が桐箱の中に置いたばかりの茶碗を取り出し、少年に渡した。
「え?…だ、だめだよ。これは置いていくんだ」
賢児は少年の言葉に耳を貸すまもなく、窓のほうへ走っていく。
「おりんごむいたら、おさらがいるよ。おにいたん、ここ。ここからにげて!」窓を開けて指し示す賢児。
「あ…」
「かあたん、きちゃうよ!」
「…わかった。ありがとな!」
少年は意を決したようにそう言うと茶碗を上着にしまい込み、窓からヒサシを伝い、窓の横に生えている杉の大木に飛び移った。
* * *




