マザー・オブ・ブルー・デイ
五代茜、二十三歳。県下では有数の名門といわれた十河女学院を成績優秀者上位五名のうちに入って卒業。在学中に就職活動に失敗。不合格と内定取り消しを伝える無情な電話を受け続け、ついに就職浪人を経験して、この春にやっと正社員の座を勝ち取った。
今まで勉強しかとりえのなかった冴えない女学生が、社会から散々に拒絶され、ようやく手にした社会人の切符。それも、県下では名の知れた広告代理店。特別な試験などいっさいなく、面接に来ていたのはたった二人、合格したのも二人。
つまり、この私と、高卒で若々しい活力に溢れた湯浅ひとみの二人が、面接官の「自己紹介をどうぞ」との要望にこたえた結果、新入社員として制服を着ているわけで。
社員の視線が痛いほど刺さってくる。朝、八時五十分。朝礼の席で、私と湯浅ひとみはそろって一礼した。
「本日からお世話になります、五代茜と申します。よろしくお願いいたします」
「湯浅ひとみでーす、よろしくお願いしまーす」
頭をさげて顔がふせられた瞬間、くすり、と笑う声が耳に入った。不特定多数の失笑だった。それが、私に向けられたものなのか、湯浅ひとみのちょっとお粗末な挨拶に向けられたものなのか、そこまではわからない。わからないが、不快感を覚えずにはいられなかった。
私は、おばさんやおじさんの失笑をかうために、勉強してきたんじゃない。小学生の頃にはやっぱり現実離れした夢もあったけれど、中学から大学までは、勉強にだけ打ち込んできた。けっきょく、優等生はそれなりの扱いを受けるのだ。受験も推薦枠で比較的楽に済んだし、期待通りの結果を学校側に示して、先生などに「あなただから」とか「頼りにしている」とか言われるのが痛快だった。大学なんて、何百という生徒が一度に講義を聴くのに、私は教授に名前を覚えてもらえた。
私が優越感を覚えることができたのは、勉強しかなかった。
就職浪人したときだって、家族や近所のひとの反応はそれなりだった。「学校のお勉強とはわけが違うのよね」とか「いまは、どこに行っても苦労するらしいからね」とか、テレビや新聞の影響もうけて、なんとなく就職氷河期という言葉をちらつかせて、無難に済ませるのが大人どうしの距離感というものだった。
その苦労も、ようやく報われたわけだ。
私は割り当てられた仕事にたいして、期待以上のことはしようとしなかった。その日のノルマをその日で終わらせる、という、ごくあたり前のことだけをした。いきなりやる気をみせて、バリバリに仕事をこなして、お局さんに目をつけられるのも、上司に変に注目されるのも嫌だった。最初の一年は様子見をしていよう、そこそこ仕事のできるまじめな人間を演じていよう、と決めてあった。
私と同じく優秀な成績で卒業した同窓生のなかには、「お勉強のできる子は、仕事はできない」と言われる人もいる。湯浅ひとみも例に漏れないようだ。彼女は成績とファッションの道を両立していたらしく、アイドルと呼ばれていたと、あるとき私にこぼした。その感覚を引きずっているからそうなるのだ、と私はひそかに彼女を蔑視しはじめた。私がひとみを嫌う理由はそれだけではない。もてはやされていた時代とのギャップに苦しみ、就職すらままならず落ちこむ私をはけ口にすることで、ひとみは心の平穏を取り戻そうとするのだ。
今夜も愚痴の電話がかかってきた。液晶画面に「湯浅ひとみ」と表示されただけで、内容は仕事の愚痴だと私は決めつけていた。通話ボタンを押したあとも、私はぼけっとほとんどの話を聞き流した。私にだって他人の愚痴を聞くほどの余裕なんかない。それでも邪険につっぱねて同期と気まずい関係にはなりたくなかったので、ひとみが黙ると、私は上辺だけの言葉をかけた。
「ねえ、無理に気をはる必要なんてないと思うよ。誰も学生時代のあなたの、ましてや成績のことなんか知らないんだから。ただ、勉強ができたっていうのは、まじめできちんとやっている人なんだって目安になるくらいじゃない?」
「だって、おかしいでしょ。ちゃんとマニュアル通りにやってるんだよ。言われたとおりに。なのに全然だめ。失敗ばっかりなの。通知表で3以下なんて一度もとったことないのに……」
思わず、電話の向こうのひとみに向かって言いかけた。学生の頃の評価なんか社会で役に立つはずがない。まして、人に自分の努力を知ってもらう機会なんかない。会社は会社で、働いて利益を上げることが目的なのであって、頭の回転がよくて仕事ができるのと、成績が優秀なのとは、まったく別次元の話だ。しかも、教えられたことをマニュアル通りにやるだけで、何もかもに対応できるはずがない。マニュアルはあくまで基礎で、臨機応変な対応のひとつくらいできなければ、誰だって認めてもらうことなんかできない。
そういうところを勘違いしている「お嬢さま」が、私は嫌いだ。本物のお嬢さまとは雲泥の差があるくせに、経歴と心だけはお嬢さまの格好をしている、偽者のお嬢さまが。
「いっつも怒られてばっか! もう私なんか必要ないんじゃない……」
「怒ってもらうだけ幸せじゃない。更正の見込みがあるってことなんだから」
「私、間違ってないじゃん! だからムカつくのっ」
私はひとみのヒステリックな叫びに携帯電話を耳から離し、今日、給湯室で話しかけてきた大先輩のセリフを思い出した。
『最近の若い子って、すぐに「私は間違ってません」とか言っちゃってねえ、ちっとも話が通じなくって。そこんとこ、五代さんは素直で助かるわあ』
話題にのぼるような「最近の若い子」と言ったら、同期の湯浅ひとみ以外にいない。それをわかっていて、私に釘をさす意図もあったのだろうと思う。
理論としてはきっと、ひとみも間違ってはいないだろう。でも、怒られるとか注意されるとか、そういうのは教育的指導、もしくはそのつもりでのことなんだから、いちいち反発したら意味がないじゃない。
そりゃ、あんまり理不尽な責任転嫁には堂々と立ち向かえばいいと思うけど。愚痴ばかりで少しも自分を曲げない、進展のないひとみとの会話はとても疲れる。
「また、電話してもいい?」
だからといって、はち切れそうな同級生を見捨てるほど私も鬼じゃない。いいよ、と言って電話をきり、長いながいため息をつく。
私だってひとみと大差なく、お勉強しかとりえはなかった。けれど、社会に出てみたら、奇跡的に世渡りはうまかった。父の営業マン根性が、いつのまにか刷り込まれていたのだろうか。それとも、小さい頃から祖父にくっついていって、ご近所さんのお茶のみ会に同席していたから? 学生時代に先生とたくさん話をしたから?
とにかく、私は年上の人間に好かれるという幸運なスキルを身につけていたのだ。
入社挨拶を終えて、一日働いてみて、一人暮らしの淋しいアパートに戻ってから、愚痴の長電話の相手をして。冷蔵庫の中身を確認して、お風呂をわかしてのんびり浸かって、髪を乾かしてからビールを飲んだ。
そんな生活を一カ月ほど続けてみて、私には自信がついた。
大丈夫そうだ。これなら、うまくやっていける。
月が変わって、配属部署も変わった。研修先が総合的な分野を扱う部署から、専門的な部署に移った。次のステップに進んだということだろう。湯浅ひとみは、仕事はアレだったものの、発想力と展開力をかわれて企画営業部に行ったらしい。入社一カ月で同期と離ればなれになると、うざったいと思っていたひとみのことも、案外恋しくなるものだった。
新しく配属された部署は庶務一課。庶務は三課まであって、二課が一課の補佐、三課は雑務一般をこなす部署らしい。昨日、給湯室にちょくちょく顔を出していた大先輩のおばさんは、三課に所属する清掃員だった。庶務の部署は五階全フロアをパーテーションで仕切っただけの広々とした空間にあって、三課の仕切りの向こうで、例のおばさんが私に向かって手を振っていた。
庶務一課は庶務の総取り締まりで、二課までは雑務にかり出されることもあるらしいが、一課は基本的にデスクワークのみ。庶務という名前でありながら、実質、一課に配属された人間は「ポスト総務」らしい。つまり、ここで研鑽をつんだら、というか、調整がつき次第、庶務一課の人間は総務課へまわされるらしかった。
「君も出世株だねえ」
私が挨拶に行くと、長年庶務の課長を務めているという人のよさそうなおじさんが、嬉しそうにうなずいた。
「入社してさっそくここに来たのは、荷稲くん以来だねえ」
「お世話になります」
一礼して、書類が数冊だけの軽いバッグを持ち上げ、私はデスクに向かった。自分だけのデスクだ。つい最近まで誰かが使っていたような形跡はあったが、きれいに掃除されていた。
隣近所に挨拶をしているところへ、向かい側の空席に社員が戻ってきた。私は自分の目を疑った。モデルみたいな美女がそこに立っていたからだ。
「おはようございます。ええと、今日からここでお世話になります、五代茜と申します。よろしくお願いいたします……」
早口に言って、あわてて一礼した。初対面なのに、まじまじと顔を見つめてしまった。目が合ったまま、相手が首を傾げるまで、口を半開きにして容姿を凝視していたなんて。失礼すぎる。自分が恥ずかしかった。
「荷稲緑子です。わからないことがあったら、何でも聞いてくださいね、茜さん」
まるで日本人形のような黒髪に、西洋人形のような整った容姿。線の細い華奢な身体、色が抜けたような肌。ほんとうに、人形のいいところをだけをとったような、お伽話みたいな女性がそこに佇んでいた。
「荷稲さん、どうでしたか」
課長のデスクに一番近い男性社員が、親しげに彼女に歩み寄った。
「はい、先方も喜んでとおっしゃって……」
他愛もない会話に見せる表情、仕草のひとつひとつまでもが優雅だった。私は見惚れながら、ちんちくりんの自分の容姿を初めて恥じた。
昼休み、三課のおばさんと給湯室でばったり会った。お茶とコーヒー、それぞれの淹れかたや、茶葉や豆がきれた時の補充方法などを教えてくれたのはこの人だ。失礼ながら名前を覚えていなかったので、私は名札をちらっと見て会釈した。
「後藤さん。いろいろ教えていただいて、ありがとうございました」
「いいの、いいの」
後藤さんはからから笑った。
「なんだかねえ、あなたを見てると、ついこの間やめちゃった子を思い出すのよ。その子もとってもいい子でねえ、みんな惜しがったんだけど……」
「そうだったんですか」
私が使っているデスクのもとの主だろう、と察しがついた。この広告代理店は、もともと求人の出ていなかった企業だ。それが急に若干名の社員を募集したということは、募集した数だけの欠員が出たのだと考えれば自然だった。
「茜さん」
給湯室の出入り口から声がかかった。私は驚きと緊張と、高揚とで跳ね上がった。
「はいっ」
思わず力んで返事をしてしまった。相手が絶世の美女だからしかたがない。
「一緒にお昼にしませんか」
「はい、いま行きます。それじゃあ、また」
慌しく後藤さんに一礼して、優雅に待っている荷稲さんに駆け寄った。なんとなく、荷稲さんを前にした後藤さんの表情が強張ったように見えた。もしかして、この人はおばさんには不人気なタイプなのだろうか、と勝手に推理してみる。
荷稲緑子は、正真正銘のお嬢さまだった。
まず昼食に向かったのが、社外にあるおしゃれなカフェで、そこの店員とは顔なじみらしかった。ただメニューに書いてあるカタカナを読み上げただけのはずなのに、彼女の発音が良すぎて「クロックムシュー」がとてもオシャレな料理の名前に聞こえた。私はどぎまぎと「コーヒーとサンドイッチ」と言って、ぎこちなくメニューを閉じた。
優雅な昼食の席で、優雅に食事をし、優雅に微笑む荷稲緑子を見つめているうちに、カフェの一席は不思議の国へとトリップしてしまった。空気というか、雰囲気を超越して、彼女と私とではそもそも世界観が違っているようだった。
「カイナグループって知ってる?」
「はい。海外に支店があって、上場もしてますよね。食品から旅行から工場から、ほんとにいろんなところで名前を聞きます」
いま私が勤めている広告代理店もカイナグループの子会社だった。どうしてそんな質問をしたのだろう? と考えて、私はぴたりとサンドイッチを食む口を止めた。
「カイナグループ。荷稲さん。かいな……え?」
「カイナグループは父の会社です」
社長令嬢だ。それも、カイナグループは一代限りの会社ではない。明治から続く百年以上の歴史がある大企業だ。ともなれば、当然、一族は名家ということになる。本物のお嬢様が、いま私の前に座って、クロックムシューを頬張っているのだ。
「どうして、荷稲さんがこの会社で……」
「ふふ、緑子でいいのよ。私、あなたと一年しか歳が違わないの。私のいた大学はアルバイト非推奨だったこともあって、私、社会については勉強不足なのよ。経験の足りない私は、まだ父の会社で働けないというわけ」
「そうなんですか。荷稲さんも……ええと、緑子さんも大変ですね。いずれはカイナグループに行かれるんですか?」
「そのつもり。でも血縁だからって甘やかされることはないわ。私の努力しだいね」
お嬢様にもお嬢様の苦労があるし、彼女はまっとうな道を進んでいるように思えた。
敬語のとれた緑子さんは、とても人懐っこい笑顔で私にたくさん話しかけてきた。庶務一課には緑子さんと年の近い女性がいなかったので、ガールズトークができて幸せだと終始笑っていた。
明るくてほがらかで、無邪気な彼女のことが、私はすぐ好きになった。第一印象も相当、彼女の評価に響いていたけど、緑子さんの中身はそれ以上に魅力的だと思った。
素敵な先輩に巡り合えて、私も心が弾むようだった。ちらっと、頭の隅に、企画営業部へ行った湯浅ひとみのことが過った。彼女は、うまくやれているだろうか。
その夜、ひとみから愚痴の電話はなかった。新しいことづくめで電話する余裕もなかったのか、周りとうまくやっていけそうだからなのか。ひとまず私は、彼女の愚痴を聞かなくていい静かな夜を満喫した。
翌日、私は緑子さんについて商談の場に立ち会ったり、プレゼンの準備を手伝ったりと、大事な現場にいくつも同行させてもらえた。私は緑子さんの交渉術にも、てきぱきした機械の操作にも、効率的な電車の乗継にも、いちいち感動していた。
「今日はたくさん勉強できました。ありがとうございます」
帰りの電車の中で私が興奮ぎみに言うと、緑子さんはまじまじと私を見つめて言った。
「お昼がコンビニ弁当だけになっちゃったわね。駅前のカフェに寄り道して帰りましょ?」
「いいんですか?」
「いいのよ。外回りの特権だから」
私と緑子さんは社員バッチを外して、買い食いする中学生みたいに秘密の目配せをした。そして、笑った。
駅前のカフェで甘いものを食べながら、緑子さんはにこにこと私の評価を聞かせてくれた。
「茜ちゃんって、最初は頼りないような感じがしたの。新人さんだからっていうのもあったけど、強く当たられたら泣いちゃうんじゃないかしら、と思って」
私は見た目がとにかく地味で、華やかな緑子さんの隣にいると自分が霞んでしまいそうなほどだった。文学少女と思われがちで、趣味をあててくださいと言ったら、十人中十人が「読書でしょう?」と返してくることだろう。つまり、おとなしく見られがちで、相談ごとには真摯に答えるというイメージもできあがっている。ひとみが愚痴を言うにはうってつけの相手というわけ。
でもそれは作られた私のイメージで、一人歩きしている五代茜でしかない。
「今日一緒に回ってみて、芯は強いし、ちゃんと先のことまで考えているし……ちょっと保守的かな、とは思ったけど、とってもしっかりしてるのね」
この人はわかってくれる、と私は素直に嬉しくなった。
「そうですか? 緑子さんにそう言ってもらえて嬉しいです」
「ほとんど年の変わらない私が言うのもなんだけど、あなたになら任せられると感じたわ。頑張ろうね!」
カフェは緑子さんがおごってくれた。自分で出すと言ったのだが、彼女は、後輩におごるのが夢だったからと言って私を黙らせてしまった。
私は緑子さんに夢を見始めていた。容姿端麗でいて人に優しく、自分には厳しく、計画性があって思慮深い。美人で性格がよくて頭がキレるなんて、神さまが三つも持ち物を与えたみたいだと思った。
おまけに財閥のお嬢様だというのだから、彼女へは嫉妬のしようもなかった。自分と比べるべくもない別次元の存在だ。ただただ、緑子さんには、テレビアニメのヒロインに対するのと同じ、単純な憧れだけが募っていった。
もちろん、自分に対して好意的な人間を、必要以上に美化するということはある。でも緑子さんは誰にも平等に接し、誰からも平等に評価されていた。彼女は完璧な人間なのかもしれない、とさえ、私は思い始めていた。
庶務一課に勤務してから二週間が経った。三週目の月曜日、私がいつものように少し早めに出社すると、緑子さんのデスクの上には付箋が用意してあった。
その日、緑子さんは出社しなかった。私は任されたデータの整理で手いっぱいになり、周りに彼女のことを尋ねる余裕もなかった。連絡先も交換していなかったので、緑子さんはどうしたのだろう、と半日考え続けた。
昼休憩のとき、給湯室に飲み物をとりに行くと、後藤さんがいた。
「ちょっとちょっと五代さん」
後藤さんはすばやく私に近寄り、口に手をそえて声を落とした。
「どうなの。荷稲さんに気にいられてるみたいじゃない」
「え、ええ。とてもよくして頂いてます」
「連絡先とか交換した? 休みの日、どこかに遊びに行ったりとか」
どうしてそこまで私と緑子さんの仲を気にかけるのか、私は疑問に思いつつも、後藤さんの様子がなにやら尋常ではなかったので、首を横に振った。
「いいえ。まだ」
「そう」
後藤さんはひどく安心したようだった。
「あのね……企画営業部にいる沢渡さんってコがね、よく知ってるから。あのコから話を聞いといたほうがいいと思うのよ……」
後藤さんは私にメモを握らせると、そそくさと給湯室を出ていった。手の中でくしゃくしゃになったカレンダーの裏紙を広げると、そこには、鉛筆で沢渡という名前と、電話番号が書いてあった。
私は、察しのいいほうだと思う。
(後藤さんの口からは……もしくは、この場所じゃ言えないことなんだ)
あの慌てぶりからしても、私のことを心配して、何か重要なことを伝えようとしたのだということがわかった。ちょっと自信過剰かもしれないけど。
私は携帯電話を手に、外で食べてきますと誰へともなく断って、会社の前にあるカフェテリアに出かけた。人が多くて騒々しいカフェテリアのテラス席で、私は湯浅ひとみを見かけた。ひとみは同じ部の先輩と一緒にいるようだった。声をかけようか迷ったが、ひとみは私に気がつくと、オイデオイデと手を振った。
「元気してた?」
「うん。そっちも元気そうだね」
ひとみは、企画営業部に行ってから角がとれたようだった。年の近い先輩に囲まれて、彼女の緊張や強がりが解けたのだろうか。
「五代茜、私の相談に乗ってくれてたトモダチです」
ひとみは私を先輩に紹介しながら、相席にかけさせた。カルボナーラから立ちのぼる湯気を手であおぎながら、私は軽く会釈した。ひとみの言ったトモダチという言葉が、どこか余所よそしく、気恥ずかしく思えた。
「茜、企画の先輩。沢渡ヨーコさん」
「えっ」
沢渡さんがはじめまして、と口を開きかけたのと同時に、私は素っ頓狂な声をあげた。
「ど、どーしたの」
ひとみも呆気にとられている。私は顔を真っ赤にして、言い分けがましくポケットからメモを取り出した。
「庶務三課の後藤さんから、沢渡さんと連絡をとるようにすすめられて」
「ええ? 三課の人がなんで企画とォ? 先輩、意味わかります?」
ひとみの反応はしごく全うだった。そして、事情がわかったらしい沢渡さんと、私とのあいだに流れる空気は異質なものだった。結果的にひとみだけ浮いたようになり、彼女も気まずさを感じたのか、黙って飲み物をすすりはじめた。
私が切り出しあぐねていると、沢渡さんのほうが話はじめた。
「荷稲さんのことよね?」
「はい」
重々しい空気がその場を支配した。
「私、彼女と同期なの。三か月だけ庶務二課にいて、企画に移ったんだけど……」
緑子さんの同期は五人。うち二人は男性で、沢渡さんを含め、女性が三人。
「同期の女子組は私と、今は系列の店に行ってる飯塚ってコと……有原」
沢渡さんは、有原という名前を出すとき、かなり言いよどんでいた。
カフェの雑踏が遠く感じた。ぜったいによくない展開の話になることが、私だけでなく、ひとみにもわかったらしい。私たちは神妙な面持ちで沢渡さんの言葉を待った。
荷稲と飯塚と有原と私は、同期の女子組ってことで、当然のように仲よくなった。最初は所属する部課も似たようなものだから、いつも一緒だった。一カ月すると、飯塚はさっそく旅行会社に異動した。もともと彼女の希望があったから、私たちは喜んで送り出した。残った私は庶務二課に継続して勤務、荷稲と有原は庶務一課に異動になった。
最初の異変はその時。移動が決まったのは入社して三週目だったけど、荷稲は一週間も休暇をとったの。四週目になって出てきて、飯塚の異動を知って驚いてた。私たち、仲はよかったけど、プライベートはまったくの不干渉だったから。休んでいるあいだ彼女に連絡の取りようはなかったし、連絡を取ろうともとくに思っていなかった。
それからまた一カ月すると、荷稲はやっぱり三週目に入って一週間の休暇をとった。定期的に本社に研修に行ってるとか、月に一度検査入院が必要な病気だとか、いろんな憶測が飛び交った……でも、誰も真実を突き止めようとは思わなかった。彼女の上司たちも、あらかじめ親や本人から定期的に休暇をとることは聞いている、こちらは承知のうえで採用した、と言うきり。でも、あの様子じゃ本当に何も知らないみたいね。
さらに一カ月後、私は企画に移ることになったんだけど、有原の様子がちょっとおかしいと思い始めたのがこの頃。有原は荷稲と同じ課だし、席が相向かいなこともあって、そうとう仲よくなってたらしいわ。それで荷稲と連絡先を交換したっていうの。休みの日もちょくちょく、一緒に遊びに行くって。その頃かな、有原と荷稲が下の名前で呼び合ってるのを聞いたのは……
半年後、私、用があって庶務三課に行ったんだけど、その時聞いたのよ。後藤さんに。有原さん辞めちゃったわよ、って。詳しいことはわからなかったけど、相当具合が悪そうだった、って聞いた。
私はね、不摂生や病気じゃないと思う。有原はもともと体の弱そうなコだったけど、荷稲とつきあいはじめて、どんどんやつれていったような気がするの。
「えっ ウラでやばい薬やってるとか? それでアリハラさん、具合悪くなって」
「そんな感じでもないんだけど……」
私はひとみと沢渡さんの会話を聞きながら、指先が冷たく凍えていくのを感じた。憧れの緑子さんを侮辱されたとは思わなかった。漠然とした気味の悪さが、私の胸中にわだかまっていた。
「あの、いまちょうど緑子さんお休みしてるんです……それじゃ、今日から一週間ずっと会社には来ないんですか?」
「ええ、たぶん」
この時点でも相当おかしかった。緑子さんは仕事ができる。彼女が任されている案件はたくさんあるし、仕事の期限は待ってはくれない。緑子さんの穴埋めは常に他の誰かがすることになる。
そこまでして彼女を雇い続ける理由は? 彼女が働く理由は?
「えっと、けっきょくそのカイナって人はどうして一週間も休んでなきゃいけないんですか?」
沢渡さんは黙っていた。どうやら、知らないわけではないらしかった。かなり言いにくそうにしている。
「あの、無理にお話し頂かなくても大丈夫ですから」
私は困って、冷えはじめたカルボナーラに口をつけた。気まずい空気が流れている。ひとみは気にせず、好奇の目を沢渡さんに向けていた。
「……生理よ。生理休暇」
「えー、生理ってあの生理ですか?」
確かに、生理痛には個人差があって、重い人はとことん苦しむことになる。でもそれは最初の三日くらいで、とくに、忙しく働く女性は一週間も休んだりしないだろう。
「ああ、先に食べちゃおう」
食欲が失せるような内容なのか、沢渡さんは食べかけのアラビアータにがっついた。ひとみはいつの間にかお皿を空っぽにしていた。
けっきょく、食事でタイムアウトになった。沢渡さんはプライベートも(口ぶりから彼氏のことらしい)忙しそうだったので、あとでひとみに話して聞かせるから、ひとみから聞くようにと言われた。
私は落ちつかない午後を過ごした。データ整理という没頭できる仕事のおかげで、パソコンと向き合っている間はいろいろなことを忘れていたが、退社がせまると妙に胸騒ぎがした。
夜、久しぶりに液晶画面に表示された「湯浅ひとみ」の名前を見て、私は深いため息をついて通話ボタンを押した。
入社当時、ひとみのことを何かボロクソに叩いていた自分のことを思い出して気が滅入った。ひとみもひとみで、私を愚痴のはけ口にしたことに代わりはないけど、彼女だって余裕がなかったのだ。根は悪い人じゃない、私にとやかく言われる筋合いだってない。
私は余裕がなさすぎて、立場の似たようなひとみに、心のなかで当たっていたのだ。
「もしもし、ひとみ。ごめんね」
「え? 何急に」
ひとみは底抜けに明るく返した。
「今日も一日お疲れさまー! 昼間の続きでーす」
「ちょっと待って、蒲団に入るから」
「もう寝るの? 十一時だよ?」
十一時は決して早寝のほうでもないはずだけど。ひとみのほうこそ、電話をくれるんならもっと早い時間にしてほしかった。彼女に常識が少々欠けていることは、私の偏見じゃなくて確固たる事実のようだ。
私は蒲団にもぐりこんでから、はいどーぞ、と気のない返事をした。本当はものすごく気にしていて、ずっとひとみの電話を待っていたのだけれど。
「ではでは……」
ひとみがもったいぶるので、私はやきもきした。受話スピーカーに耳をくっつけて、ソワソワと、集中しながら待った。
ピンポーン
私は本当に飛び上がって、蒲団の上に仁王立ちしてしまった。悲鳴は上げなかったんじゃない、声も出なかったのだ。
「誰、だろ。こんな時間に」
私はひとみに助けを求めるように呟いたが、返事はなかった。
「ちょっと、ひとみ?」
携帯電話をはなして見ると、通話終了と表示されていた。嫌な予感がする。嫌な予感しかしない。私はドアスコープを覗くのもためらいながら、ドアに近づいた。チャイムはあれきり鳴っていない。
その時。ドアのすぐ外で「へくちっ」という力の抜けるようなクシャミが聞こえた。私は慌ててドアスコープから廊下を確認した。謎のキャラクターが描かれたTシャツにジャージの短パン、修学旅行に持っていくようなバッグを提げたひとみが、肌寒い夏の夜に凍えながら立っていた。
「な、何やってんの」
私は苦笑しながらドアを開けた。
「泊まらせてください」
「そんな格好で来られたら、追い返せないでしょ」
私は安堵と呆れのまじったため息をつき、ひとみを招きいれた。その時だった。何か、白い女性の手のようなものが、ひとみのバッグを掴もうとしているのが見えた。白い手は瞬きすると消えていたが、私は慌ててひとみを引っ張り入れた。
「早く入って!」
「ど、どしたの」
ひとみはきょとんとしていたものの、転げるように玄関に入ってきた。その背後でバタンとドアが閉まった。ひとみが閉めたのだ。
「わ、でっかい音しちゃった。近所の人に怒られちゃう?」
ひとみは言いながら鍵をかけ、キーチェーンまで閉めて、私に向き直った。
「実は……さ。私も、家からここに来るまで、ずっと追いかけられてるような感じっていうか……気持ち悪くて」
私はぞくっと身震いして、とにかくひとみをリビングにあがらせた。
「さっきも、夜道が恐くて電話かけただけ。本題は……電話で、一人暮らししてる部屋で喋るのもちょっと恐くて。直接話したいって思ったの」
私は二人分のココアを入れて、温まりながら、ひとみから話を聞いた。
「一度、どうしても外せない会議があって、荷稲ってひと一カ月の三週目だったのに出社したことがあるんだって」
「そう、なんだ」
誰も知らなかった、荷稲緑子の一週間の休暇の秘密。それは、一部の社員には知られている、公然の秘密だったのだ。
ひとみは無意識に自分の下腹を抑えるようにして続けた。
「その三週目って、荷稲さんは必ず生理日にあたるらしくって。出社したときも生理痛で、朝から青い顔をしてたんだって」
無い話ではない。ひどい時は冷や汗をかいたり、うなって起き上がれなくなったりもするものだ。最も、よほど生理痛が強かったり、出血量が多かったりする場合は、婦人科系の病気であることもあるけど。
「でね、トイレに立つ回数も尋常じゃなくて、ちょっとも座っていられなかったって。見かねた上司が帰った方がいいんじゃないかってすすめて、荷稲さん、会議は諦めたらしいんだけど……その後、トイレで倒れて」
緊張の糸がゆるんだ、という類の話ではなさそうだった。
「倒れた、って……どうして」
「トイレからね、泣き叫んだり、ものすごい唸ったりする声がして、びっくりした女性社員が様子を見に行ったんだって……そしたら荷稲さん、経血のなかで倒れてたらしいよ」
ひとみの、「経血のなか」という言い回しがとても引っかかった。
「貧血起こしてて、でも救急車は呼ばれなかったんだって。何かあったら救急車じゃなくて実家に連絡するようにって上司が言われてたみたいで。運転手さんが迎えにきて、そのまま家に帰ったみたい……その時、トイレを掃除したのが後藤さんでね……」
ひとみは言葉をきり、ココアを一気に飲み干した。私も何だか嫌な気分になってきたので、気持ち悪くなる前にココアを飲んだ。
「ああ、あったかい。夏なのに冷えるよね今夜」
「そうだね……」
ひとみの他愛も無い話に相槌をうちながら、私は視線を泳がせてカップを置いた。ひとみは深呼吸してから一気に話をしめくくった。
「とても普通じゃなかったって。殺人現場か、はたまた、流産した後みたいな血の量だったんだって……」
もちろん、その時たまたま、ということもあり得る。やはり婦人科系の病気で、たまたま出血がひどかっただけということも。
「え、だって……毎月休んでて、それは生理で、妊娠してたワケじゃ」
「それはわからないよ。婚約者がいるらしいけどね……」
ひとみが聞いてきた沢渡さんの情報はこれで全部だった。
「あともう一つ。そんなことがあったんで、会社としても荷稲さんを心配して親元に問い合わせたらしいんだけど……妙なんだよね。倒れるほど経血が出たのに、婦人科にかからせたことがないので、病名はわからないって返されたんだって。体質ですって押し切られたって、上の人が言ってるのを、後藤さんが聞いたんだって」
「かなり変な話だね、それ」
「でしょ」
二人で悩んでみたが、答えは見つかりそうになかった。
翌日、出社した私は再び飛び上がるほど驚かされた。
「緑子さん! 体調は? 大丈夫なんですか」
「あらやだ、心配させちゃったみたいね。大丈夫よ、ありがとう」
三週目、火曜日。まだ二日目だというのに、緑子さんは出社し、優雅にデスクに腰かけのだ。
「茜ちゃん、唐突だけど連絡先を教えてもらえない? これからもしばらく、一緒に外回りをすると思うし……私や茜ちゃんが急に休むことになった時も、連絡は取れたほうがいいから」
「は、はい」
連絡先を交換したか。真剣な目で問うてきた後藤さんのことが脳裏をよぎったけど、私は、緑子さんのもっともらしいセリフに頷くしかなかった。それに、連絡先を交換しようと言われて、少し嬉しくも思った。
彼女と仲よくなることは、悪いことではない。私は緑子さんに憧れていた。緑子さんに好意を持っていた。だから、信じていた。
連絡先を交換すると、ふふ、と緑子さんは嬉しそうに笑った。
「お休みの日、暇があったら、一緒にお茶でもしましょう」
「はい、ありがとうございます」
純粋に目を輝かせながら、私の胸のなかでは不安が渦巻いていた。後藤さんが心配していた通りになっている。どうしよう。連絡先を交換しました、休日に遊ぶ約束をしました。後藤さんに偽りなく報告するべきだろうか。
でも。
(緑子さんは、こんなに素敵じゃない)
私は、緑子さんの純白のスーツから目を離せなかった。
昼休み、私は緑子さんとデスクで向かい合って食事をとった。外は風が強かったし、偶然、課内には私たち二人しか残っていなかったからだ。
「今日は、お弁当なのね」
私が自分でつめてきた不格好な弁当を、緑子さんはにこにこしながら覗きこんだ。緑子さんが一週間いないと思っていた私は、社員食堂かどこかでランチをとろうと思っていたのだ。
「適当なお弁当で恥ずかしいです」
「そんなことない。お料理できるっていいことよね」
いつものように優雅に微笑む緑子さんのデスクを見て、私は首を傾げた。
「あの、緑子さん? お昼は」
彼女の机には何も載っていなかった。あるのは水のペットボトルだけ。
「ちょっと食欲がなくて。大丈夫よ、夕食はちゃんととるから。失礼するわね」
言って、緑子さんは立ち上がり、トイレに向かった。私は箸を置いてその場で固まった。トイレ。ただトイレに立っただけの緑子さんを、どうして、戦慄するほど心配しているのだろう。
「アァアアアッ ウウ ヒイイイイ……」
ややあって、女性の苦しげな悲鳴が聞こえてきた。隣の課までは届いていない、くぐもった悲鳴を聞いた私は、勢いよく立ち上がってトイレに走った。
「緑子さん? 大丈夫ですか」
焦って閉まっている扉を叩くと、中から「フウー」と落ちついたため息が漏れた。ペーパーの音、水を流す音がして、何事もなかったかのように緑子さんが現れた。恥ずかしそうにモジモジと彼女は言った。
「あら、ご、ごめんなさい。びっくりしたでしょ?」
私はしきりに緑子さんを心配しながら、ちらっと個室の中を覗いた。どこにも経血らしきものは見られなかった。
緑子さんは急にお腹がすいたらしく、その足で社員食堂に向かった。私は自席で弁当を平らげ、何となく携帯電話を取り出した。ポケットに入れていたのに、気がつかないうちに着信が5件も入っていた。全部、ひとみから……
私は血の気がひく思いがして、ひとみにかけ直した。呼び出し音が鳴り続けている。ラウンジに出ても一向につながらず、あきらめかけた時だった。
「あっ 五代さん?」
電話の向こうからは、どこかで聞いたことのある声がした。ひとみではない。
「沢渡です。ごめん、番号知らなかったから、ひとみちゃんの携帯を借りたの」
私は何も返事をしなかった。何か返す隙が、沢渡さんになかったからだ。
「大変なの。ひとみちゃん救急車で運ばれたの、総合医療センターに向かってる」
「えっ」
「トイレで倒れて……すごい、すごい出血で」
「それ……って」
「お腹が膨れてた。ぜったい普通じゃない……ごめん、ごめんなさい。あんな話聞かせておいて……私のせいかも知れない」
動揺して泣きだしそうな沢渡さんを、とにかく私は落ちつかせようとした。私も混乱していたけど、二人してパニックに陥れば話が進まない。
「さ……あなたのせいじゃないです。ひとみは面会できそうですか?」
私は、なぜか沢渡さんの名前を口にすることをためらった。どこかで誰かが聞いているかも知れない、ととっさに思いついた。考えすぎだろうけど。
「わからない……あの、気をつけてね」
「はい、ありがとうございます」
私は機械的に返事をして電話を切ると、席に戻った。五分も話していなかったのに、向かいの席にはすでに緑子さんが座っていた。一瞬、ぞくっと背中が粟立ったけど、彼女のやわらかな微笑を見ると、不気味さも不安も吹き飛んでしまった。
「早かったですね」
「ええ、スムージーを飲んだらお腹いっぱいになってしまって」
くすくすと笑う緑子さんは、明るくて清潔で、おどろおどろしい昨日の話とは結びつけ難かった。
「あの、さっきのトイレでのこと……昨日のお休みと関係あるんでしょうか。まだ具合が悪いんじゃ」
私は、できるだけそれとなく話題を振ってみた。すると、緑子さんの表情が曇った。怒っているのではなく、つらそうな顔だった。
「話したくないことなら聞きません」
私が慌てて言うと、緑子さんは首を振った。
「いいの……私も、相談する人が欲しかったから」
緑子さんは、儚げに、淋しそうに微笑んだ。それなのに。私は首筋に刃物をつきつけられたような、悪寒と冷や汗が止まらなくなった。どぎまぎと自席に座ると、緑子さんはため息をついて話し始めた。
「私、数年前からずっと生理がひどくて、月に一週間はお休みしないとならないの。ホルモンバランスの崩れとか、いろんなことが影響してるらしいんだけど」
「お医者さんには行かれたんですよね?」
私は当然のことのように聞いた。すると、緑子さんは首を振った。
「それが、婦人科の病院ってちょっと恥ずかしくて。今まで行ったことがないものだから、入りづらくて……本当はちゃんとお医者さまにかかって、診断書をいただくべきなんでしょうけど」
緑子さんは困ったように笑っている。本当のことを言っているのか、嘘をついているのか。付き合いの短い私には判らなかった。
私は軽いアドバイスとして言った。
「私の叔母は子宮筋腫があって、毎回生理もひどかったらしいんです。でも、早期発見できたので軽い手術で済んだとか……緑子さんも、何もなければいいんですけど、受診は早い方がいいですよ」
「そうよね。ありがとう」
緑子さんは、私が心配していることが嬉しそうだった。
退社してすぐ、私はタクシーをつかまえて総合医療センターに向かった。
3階の病棟につくと、待合室で女性がうろうろと落ちつかない様子でいるのが見えた。
「あの、救急搬送された湯浅ひとみさんは」
「あれ、あの、会社の方ですか?」
受付に尋ねた私に答えたのは、待合室の女性だった。ひとみのお母さんだった。私は湯浅さんについて、ひとみの病室に向かった。
「ひとみ、お友達さ来でくったいよ」
扉をちょっと開けて、聞きなれないなまりで湯浅さんはひとみに話しかけた。
「どうぞどうぞ」
促されて入室すると、ひとみはベッドに横になって微動だにしなかった。目は開いていて瞬きもしている。胸も上下している。生きていて、意識もあることは確かだった。
「びっくりしちゃって。そんなね、だってお付き合いしてる人の話だって、私は聞いたことがなくって……あのう、ひとみは言いたがんないんです。お相手に心当たりは……」
「え、あの、すみません。私、ただひとみさんが倒れたと聞いて」
「あ、あ、そうですか。すみませんでした」
湯浅さんの言っていることが何一つ理解できなかった。私は、沢渡さんからひとみが出血多量で運ばれたと聞いた。トイレで倒れて、出血は経血で。貧血を起こしたらしいと聞いた。お相手とは、何のことだろう。
湯浅さんは娘の頭をひと撫ですると、私を連れてふたたび待合室に戻った。
「あんねえ……ひとみ、流産したって聞いて」
「ええっ」
私はとても驚いたが、大声を出すのはなんとか自制できた。
「そんなことって……何かの間違いじゃ?」
「あの子、男っ気なんかなかったから、私もまさかと思って……でもね、先生が見せてくれたんですよ……その、亡くなった赤ちゃんをね」
「それじゃ、本当に妊娠……」
わけのわからなくなってきた私に、湯浅さんはぽつりと答えた。
「へえ、もう8週目になるとかで」
そんなはずはない。8週、2か月……二か月前、ひとみは私と同じで就活をしていたはずだ。自分に求める理想が高い彼女は、きっと恋愛どころじゃなかっただろう。ひとみに彼氏がいるなんて話も聞いたことはないし、急すぎる。
私は横たわるひとみの腹部を見つめた。そういえば、沢渡さんは「お腹が膨らんでいた」と言ったけど……ひとみにかけられたタオルケットは、むしろくぼんで見えた。
私は病院の帰り道、携帯電話で妊娠について調べた。二か月じゃほとんどお腹は出なくて……つわりが始まる……ううん、やっぱりおかしい。ひとみの妊娠は整合性がつかないことばかりだった。
翌日、緑子さんは仕事を休んだ。
私はひとみの病院に通った。今日は、湯浅さんはお昼過ぎに帰ったらしい。ひとみは個室に入っていたが、面会謝絶でもなく、私は普通に受付を通された。
「ひとみ、大丈夫?」
昨日、ひとみに話しかけても反応はなかった。今日も、ひとみは私のことなんか見えていないようで、窓の外をぼんやり眺めていた。不意に、ひとみの目から一筋の涙が流れた。
「ひとみ、どこか痛む?」
私は思わずひとみの手を握った。もしかしたら、いや確実に、私がひとみを巻きこんでしまったんだ。トイレで大量に経血を流して運ばれる、なんて、まるきり沢渡さんの言っていた話と同じだもの。
ひとみの手を握りながら、この子はまだ二十歳にもならないんだってことを、今さらながら私は思い出した。
ひとみは完璧主義なところがあって、高校での成績はトップクラスだったと聞いたことがある。けっきょく希望の会社には受からず、私と同じ道をたどることになったのだけれど。彼女が進学ではなく就職を選んだ理由を、私はあの夜に聞いた。
「うち、おカネないんだよね。わたしが稼いだって足りないくらい。だから、いいところに入って、バンバン稼ぐ人と結婚したかったんだ」
「進学は、できればしたかった?」
「ううん、もう学校になんて興味ないんだー。べつに研究したいようなことなんか無いかったし、高校通いながら通信受けて、卒業してから大卒の資格もとっちゃったんだよね」
早く働いて、早く結婚して。ひとみは自分の幸せ以上に、毎日この病室を訪れている、あのお母さんのために頑張っていたんだと思うと。私は目頭が熱くなった。
(どうしてひとみがこんな目に)
私が悔しさに唇を噛んだとき、ひとみはこっちを向いた。けれど、目の焦点はあっていなかった。
「わたしの、あかちゃん」
ひとみはか細い声でつぶやいた。
私の赤ちゃん。その言葉を聞いた瞬間、私は吐き気に襲われた。たまらず、ひとみの病室の洗面台で吐いてしまった。苦しい。私は胃のあたりを抑えた。自分のお腹をさすっていた私は、下腹部に触れた手を驚いて引っ込めた。ほとんどわからないふくらみがそこには感じられた。
私は、体だけでない、気持ちからくる吐き気もあいまってその場にうずくまった。とても冷静じゃいられなかった。
「どうしよう、どうしよう」
私はぶつぶつ言いながら、流し台につかまってよろけながら立ち上がった。暗く電気もつかない病室で、私は街灯に照らされているひとみの顔を見上げた。ひとみは眠っているみたいだった。
「あら、湯浅さんお休みなのかしら?」
電気がついていないことを不審に思った看護師が、ひとみの病室の扉を開けた。廊下からさしこむ明るい光が、洗面所でうずくまる私の周りを囲んだ。
「大丈夫ですか」
看護師の落ちついたトーンに、私の背中をさすってくれる手に、私はなんとか冷静さを取り戻すことができた。いま、自分の身に起きていることが、全部夢みたいに感じる。そのほうがいい。もういっそ、夢だと思ったほうが、冷静に考えられる。
「すみません、中絶を……」
「えっ」
看護師をかなり驚かせてしまった。でも、私はなりふり構っていられなかった。外来の受付に案内されて、そこで診察券をつくり、医師の診察を待った。二時間のあいだ、私は中絶手術についてのパンフレットを何度も読み返した。予約者がはけてから、私は婦人科の医師の診察を受けた。エコー検査の結果、私は……
「五代さん、残念ですが赤ちゃんは……」
医師は私の書いた問診票を見ながら首を傾げる。
「先週? 月経がありましたか」
いぶかしげに私を見る医師に、私はつい先週、七日間、周期通りに生理があったことや、男性との経験がないことなどを話した。信じてもらえないだろうと思っていた。医師は深く追究せず、おとなしく私の話にうなずいていた。きっと面倒なことに首を突っこみたくなかったんだろう。
医師が死んだ胎児の取り出し方について説明している時、私はまた吐き気に襲われた。だって。私のお腹の中にいるのは、私の赤ちゃんじゃない。得体の知れない、赤ん坊の形をした何か別のものだ。そう思うと、胃がむかついてきた。
(いったい何が私の中にいるっていうの)
違和感と不快感と恐怖で、私は目まいがしてきた。
「うっ」
看護師に背中をさすられながら、洗面器に嘔吐する私を、医師は困惑した目で見つめていた。
「つわりじゃないはずですが」
そうに決まってる。私は自暴自棄になって、かえってしっかりしてきたようだ。これは得体の知れないものを宿してしまった体の拒絶反応だ。
「ああ!」
憎しみをもって下腹を抑えた私は、突然、体の中からナイフで刺されるような痛みを覚えた。お腹を抱えてうずくまった私を、看護師が慌てて支えにきたけど、私は立ち上がれなかった。
「大丈夫ですか五代さん」
「痛みますか」
看護師と医師が交互に話しかけてくるけど、私は何も答えられなかった。顔は火が出そうなほど熱いのに、手足の先は氷のように冷たくなった。
痛みで目も開けられない私は、処置室に運ばれた。看護師が念の為に敷いた防水シーツの上で、私は何かを産み落とした。とても正視なんかできなかった。
「片づけてください、早く」
息もきれぎれに私は言った。看護師は戸惑っていたが、私がしきりに「私の子じゃない」と繰り返したので、それ以上なにも言わずに床を掃除しはじめた。
体内の異物を全部出しきったのに、私はまだ帰れなかった。念のために検査を受けたが、診察室で再会した医師は頭を抱えていた。
「五代さんに妊娠の形跡がないんです。流産とはいえ子宮口は閉じているし、子宮が膨らんでいた形跡もない。胎芽……赤ちゃんの様子からして8週は過ぎているはずなんですが……」
私はすっかり元通りの体になったわけだ、と思うと、少しだけほっとした。
「もしかして、湯浅さんも同じような状態じゃないですか?」
「どうしてそれを。あ、いや、患者さんのプライバシーなので今のは忘れてください」
やっぱり。でも、ひとみと私とでは決定的に違うところがある。私は冷静だ。こんなことがあって、むしろ正気じゃないと思えるほど、私の頭ははっきりしている。私は、ボードに貼られた自分のエコーやCTの写真を一瞥して、帰宅していいか尋ねた。
「子宮が一時的に膨らんだのは炎症反応によるものだと思われます。細胞診にかけますので、1週間ほどしたらまた検診にきてください」
「はい。あの、赤ちゃんのDNA鑑定って可能ですか?」
医師は希望するなら検体を用意する、と言った。病院側で費用の負担はしかねると一応、断られたが、そんなことはどうでもよかった。DNA鑑定用キットの料金も支払って、私は小さなプラスチックの試験管を手に病院を出た。
四週目の月曜日、緑子さんは出社してきた。私はランチの前に、おもしろい美容法があると言って綿棒を取り出した。私は綿棒で自分の頬の内側をくるくる擦りながら、これがシワとりにいいと説明した。頬の内側から刺激するタイプのシワとりは本当にある方法だから、嘘は言っていない。
「力加減にコツがいるんです。ちょっとやってみますね」
「ええ、お願い」
私は新しい綿棒を緑子さんに手渡すと、もう一本、綿棒を取り出して、緑子さんの頬の内側を擦った。
「痛い」
「あ、ごめんなさい。ちょっと強かったかも。大丈夫ですか?」
私は慌てて綿棒を引っ込めたように見せて、それを、ポケットの中にしのばせたキットの容器に保管した。ネットで依頼できるDNA鑑定期間から郵送されてきたキットだ。
私は不思議と冷めきっていて、自分でも驚くほど自然に手と口が動いていた。私は確証は、なにひとつ得ていなかった。これで求める結果が手に入ったとしても、核心に迫ることができるかもわからない。でも、やってみる価値はあると思った。
DNAの保存期限なんてわからなかったから、赤ん坊のほうが期限切れになっていないか不安だったけど、試験管をメール便で送ってから四日で結果が届いた。私は郵便受けに挟まっている長3の封筒を震える手で引き抜いた。
ひとみは、まだ退院できていない。私が真相をつきとめたからといって、ひとみが回復するか、それはわからないけど。何もしないよりは意味があるはずだ。
私は暗いリビングで、スタンドの照明だけつけて封筒をあけた。2、3枚の紙の中に、99.8%と書かれた紙を見つけた。
翌日、金曜日。
「緑子さん、仕事が終わったあとにお時間ありますか?」
私が緑子さんに憧れている気持ちは本物だった。夢みたいにきれいで、誰にでも優しくて、仕事をてきぱきとこなして。大財閥のお嬢様だということは、ほんのおまけのように、彼女は魅力的でよくできた人間だ。
だから。
今回のことで何がわかっても、私は驚かない。緑子さんという人を嫌いにはならない。そんな思いで、私は勤務の終了時間を迎えた。
私たちは会社の前のカフェテリアに行き、テラス席に向き合って座った。私はカバンから封筒を取り出し、一枚の紙を机の上にひろげた。99.8%合致という部分が太字で大きく印刷された証明書を、緑子さんは細い指で取り上げた。
「母子鑑定?」
「昨日、私のお腹から出てきた赤ちゃんと、緑子さんのDNA。ほとんど一致してます」
切り出しながら、私はよく吐き気をもよおさないなと自分で感心した。絶対にありえないはずのことが自分の体に、そして友人の体に起こったというのに、私には怒りも怯えもなかった。
ただ。
この人が呪いじみた怪奇現象の元凶だというなら、きっと、緑子さんも救われる結果になるはずだ。この呪いはきっと有原さんにもかかった。次の犠牲者はこの先も出続ける。
私が緑子さんの言葉を待っていると、彼女は微笑んだ。暗くなってきた野外の紺色に染められた、不気味な影が彼女の顔に落ちる。緑子さんではない別の誰かを相手にしているかのようだった。
「私ね、産みたかったのよ……だって子どもに罪はないでしょ?」
緑子さんは驚くほどあっさりと認めた。カフェは人も居て、外にライトもあるのに、なぜか私たちの周りは暗く沈んでいた。
「だから、仲良くなった年の近いコに、代わりに産んでもらおうと思って」
緑子さんは目を見開いて、にっこりと口を開けた。初めて会った時も人形のようにきれいだと思ったけど、今の緑子さんはより人形に近い。表情は仮面のように固定されて、感情がなにひとつ読み取れなかった。
壊れてしまった人間の笑い方だ、と私は漠然と思った。死んだ胎芽を宿された私は、緑子さんのいる狂気の世界に少し近いところに立っているのかもしれない。
ずいぶん遠くからハイヒールの足音が聞こえてきた。空いている椅子に沢渡さんが腰かけた。
「あなたのこと、少し調べさせてもらったわよ……悪く思わないでね」
沢渡さんは、ひとみの一件で責任を感じていたらしい。独自に興信所を使って緑子さんの過去について調べてくれていた。一足先に連絡をもらっていた私は、すでに沢渡さんがこれから話す内容を知っている。
「ヨーコちゃん久しぶりね。いいわ、話して? 間違っていることは訂正させていただくけど」
緑子さんは水を一口飲んで、にっこりと微笑んだ。人形のように整った愛らしい笑顔が、私たちの心に冷たい刃をあてがっていた。
荷稲緑子は高校一年生のとき、はじめて自分の許嫁とお見合いをした。顔も名前も、自分たちが将来結婚するという決められた事実さえ、緑子と許嫁は知らなかった。
いわゆる政略結婚で、許嫁の出自や学歴は文句のつけどころがないほど優秀だった。たった一時間の顔合わせでは人間性まではかれなかったが、緑子は漠然と感じていた。「私が彼を好きになることはないだろう」と。
緑子には、中等部からつきあっているボーイフレンドがいた。二人きりで食事に行ったり、遊園地に行ったりしていることは荷稲家も認知していたが、彼が公認されることはなかった。「ボーイフレンドはボーイフレンド。恋人や婚約者にはなり得ない」というのが、緑子の父母の見解だった。
彼女たちはプラトニックで、手をつなぐのがやっと。キスもしたことがなかった。荷稲家はだからこそ、ボーイフレンドの存在を大目にみていたのだろう。
しかし夏休み、初対面の許嫁を前にして、緑子のなかで何かが変化した。推測だが、それまで堰き止められていた彼女の感情は、濁流のように心をえぐってあふれ出した。緑子はボーイフレンドとともに駆け落ちを画策する。
緑子は行儀のいい人形でいることをやめた。
二人は親の目をかいくぐって他県まで逃げたが、逃走資金は移動だけで尽きた。廃屋のような民家に潜りこんで一夜を明かすこととなった。運が悪かったのは、廃屋には先客がいたことだった。
家もなく仕事もない男は、ねぐらに帰ると、金持ちの通う学校の制服を着た男女がいることに気づいた。男は資材置き場からトラロープを盗み、ねぐらに戻った。身代金を取ろうと寝こみを襲ったが、男子生徒の抵抗が激しかったため、誤って彼を絞殺してしまった。泣き叫ぶ女子生徒を殴っておとなしくさせると、縛り上げ、暴行した。
男はヤケになっていたが、それぞれの生徒手帳を調べ、両家に身代金を要求する電話をかけた。男子生徒が死んだことは自分しか知らない。うまくやれば両家から金をとれる。そう思ったのだろう。
女子生徒は脱出しようとしたのか、自殺しようとしたのか、暴れることが多くなったため、男は彼女を柱に拘束した。女子生徒は日に日に弱っていったが、たった3日で事件は終結する。買い出しに向かった男は、あっさりと警官らに捕縛された。死んだ男子生徒のズボンのポケットに、電源の生きた携帯電話が入っていようなど、男は考えもしなかったのだ。
保護された女子生徒――荷稲緑子の身は、次なる災禍に呑まれていった。彼女は暴行を受けた際、妊娠していた。
暴行の加害者の子どもなど、考えただけでもぞっとする。しかし、おぞましい体験とは裏腹に、緑子は宿った命に対して、冷酷になれなかった。自分のなかにもう一つの命がある。望まれなかったものだけれど、その灯を簡単に消していいのか? 彼女は迷った。そして苦しんだ。
動揺し、決心のつかない緑子を、実の父母は哀れんだ目で見つめた。そして、彼女の意思などまるで存在しないかのように、淡々と中絶の処置に踏み切った。
知らぬ間に投薬され、入院させられ、堕胎の処置を受けることになった彼女は、2度と妊娠できない体になった。通常、堕胎の処置で不妊になることはないが、彼女はなぜかひどい癒着を起こしてしまった。
荷稲緑子は、高校一年生の夏、子宮も卵巣もすべて摘出する手術を受けた。
その後、事件や緑子の手術と関係があるかは不明だが、彼女の母は事故死した。緑子は、駆け落ちも暴行事件もなかったことにされ、高校を卒業し、希望の大学に進学した。
そして、現在。
緑子さんはパチパチと上品に指先を打ち鳴らした。怒りも悲しみも彼女からは感じなかったけれど、言いようのない絶望感が私を包んでいた。彼女の絶望ではなくて、私自身の絶望を、私はいま感じている。
蛇に睨まれたカエルの気持ちがよくわかる。
「よく調べたわね。父が全部もみ消したはずだけど」
「あなたのボーイフレンド……直橋正臣の母親は、息子の死の真相を明らかにすることをずっと望んでいたのよ。表向きには拉致され、抵抗したため犯人に殺害されたことになってる。べつに直橋家にとって悪い筋書きじゃないわ。でも、母親は真実を求めていたのよ」
沢渡さんは腕を組み、自分を守るような姿勢をとって答えた。
「そう。正臣くんのお母さんが、私たちの真実を守ってくれていたの」
緑子さんは心から嬉しそうに、穏やかに微笑んで続けた。
「父は言ったわ。あんなケダモノの子どもを産ませるよりはマシだって」
微笑んでいる。緑子さんの顔には、ほんとうに怒りも悲しみも浮かんでいなかった。大きな苦痛を受けたはずなのに、今は何も感じていないようだった。
「母は耐えきれなかったみたい。私が全摘を受けているあいだに自殺しちゃった……父は母の死すら偽造したわ。彼には荷稲家がすべてなの。でも、さすがに彼にも堪えたんでしょうね? 今じゃ書斎にこもりきりで、私の顔もまともに見られなくなって。あはは」
少女のようにくったくなく笑う緑子さんは、違和感の象徴のようだった。その時はじめて、私は彼女の異質さに気がついた。毛穴から汗が噴き出す気持ちの悪い感覚をあじわいながら、私は椅子から立ち上がり、沢渡さんの隣まであとずさっていた。
荷稲緑子は子宮も卵巣も持っていないのに、毎月、極端な出血を起こしている。生理なんかじゃない。妊娠のための準備なんかじゃない。
「今でもあの子を想うとたくさんの血が流れるのよ。失ってしまったものは戻らないのに、体がまるで、元通りになったみたいに振る舞おうとするのよ」
緑子さんはうつろな目をして首を傾げた。笑っている。笑っているけれど、それは貼りつけられた「笑顔」という能面だった。
私の憧れていたお嬢さまは、人間でも人形でもない、途方もなく異質なものの正体をさらそうとしている。思わず、私は沢渡さんの腕に抱きついた。
「私の目の前にいるのは、何ですか」
うめくように言った私の隣で、沢渡さんはすばやく首を振るだけだった。
緑子さんはバッグの中から小さな絵本を取り出した。
「これ見てえ。偶然見つけたんだけど、私、何度も何度も読み返してるの。こうやって持ち歩いて、あの子を想いながら何度も……」
テーブルの上に置かれた絵本のタイトルは、そこまでの遠さと、辺りの暗さとでよくわからなかった。表紙には人魚の絵が描かれていた。
「私が栓を抜いちゃったから、赤ちゃん、どこかへ行っちゃったの。でもね、まだ私のお腹には赤ちゃんがいたのよ……私のお腹ね、めちゃくちゃにくっついちゃって、復元は不可能だって言われた。でもね? 私、手術する前にお願いしておいたの。卵子をとっておいてくださいませんか、って」
緑子さんは再びバッグの中をのぞきこみ、長方形のケースを大事そうに取り出して、絵本の上に置いた。
「見て」
立ち上がる彼女の白いスーツが、闇を裂いて揺らがせた。緑子さんはケースを赤ん坊のように抱きかかえ、私たちの前に立った。
「見て」
私たちは緑子さんのことを恐れていたけれど、彼女が危害を加えてこないことも理解していた。緑子さんは明らかに普通じゃない、おかしいけれど、私たちを痛めつけることが目的ではないはずだ。私たちは支え合いながらそっと近づいて、彼女が腕に抱くケースを覗きこんだ。
「うっ」
沢渡さんは飛びのいて口元をおさえた。
私は、顔を引きつらせ、石のようにその場で固まった。
緑子さんが自慢げに見せつけたケースの中には、大きなスポイトのような容器が入っていた。スポイトの中にはなにかが入っていた。
「可愛いでしょう?」
母親のように優しく、愛情にあふれた目でケースを見つめる緑子さんの前で、私は微動だにできなかった。
(なにか入ってる……なにか? 嘘よ。見ればわかるじゃない)
もう一度それを見つめるなんて私にはできない、一度で充分だ。一度で、それが何かはわかったから。
スポイトに満たされた液体の中で眠っているのは、ちいさなちいさな塊だった。未だ何の形にもなっていないけれど、人間の胎芽だということを私の脳は理解していた。
沢渡さんの嗚咽が聞こえる。あの人には受け止めきれなかったんだろう。
もちろん、私だって事実を受け入れられたわけじゃなかった。少しでも気を抜けば、その場に倒れて気を失ってしまうだろう。
「人工授精してもらって、ここまでは試験管で育つのよ。でもそのあとは『オカアサン』のお腹のなかじゃないと上手くいかなくて」
緑子さんが口にした「オカアサン」は、私のよく知っているものではない、まったく別のものを指した言葉に聞こえた。
戦慄を通りこした震えが体中にはしった。
「私たちに何をしたの」
やっと、喉からしぼり出すように声を出した。緑子さんは苦も無く私の質問に答えた。
「今の技術ってすごいのね。この疑似羊水は胎芽を着床させて、子宮を妊娠した状態にととのえてくれるんですって。特別な設備がなくても、ただ子宮にこの子をいれれば、そこで育つのよ」
ぱあっと緑子さんは華やかに笑った。本当に嬉しそうだった。
「だから、信頼できるお友達のお腹を借りようと思ったのよ。見知らぬ女性にお願いするのはちょっと抵抗があるし……」
「いつ」
完全に狂っている。緑子さんの思考回路がまともでないことはよくわかった。私も混乱していた。気がつくと、答えをもらってもどうしようもない質問を口にしていた。
「いつ、そんなもの」
「心外だわ、そんなものだなんて。ね? 私とこの子のことを真に理解してくれる人なんてそうそう居ないのはわかっていたのよ。だから、あなた達が眠っている間に……うまくやったのよ。あなた達の体を傷つけないよう万全に! それなのに、やっぱりうまくいかないのはどうしてかしら」
子宮の炎症、大量の出血、在るはずのない胎芽。診察室で聞いた医師の言葉が頭のなかを延々とループする。
そして、背中から氷水を入れられたみたいな悪寒がはしった。
(寝てるあいだ?)
思い当たるのはあの日。あの夜。沢渡さんからの情報を、ひとみから聞いたあの夜だった。玄関、ドアの前。ひとみの後ろから伸びてきた白い腕。あれは幽霊の腕なんかじゃなかった。居たんだ。緑子さんが、ひとみの後ろに居たんだ。
鍵はかけた。チェーンもした。次の日、施錠したところはそのままだった?
(違う。チェーンは外れてた)
ぶわっと冷や汗がふきだした。人間の体って、まるで漫画みたいな反応をするものなんだ。歯の根が合わず、私はアゴの痛みを感じながら、カチカチ歯を鳴らしていた。
「うまくいきっこないでしょ」
遠くから沢渡さんの声がした。いや、声はとても遠いけど、沢渡さんは私のそばでへたりこんで、薄ら笑っていた。絶望を受け入れたら、人間はきっとこんな顔をするんだろう。
「そんなの、人工授精だって難しいのに、スポイト一本って。ちょっと考えればわかるじゃない」
「机上の理論では可能なことだったのよ」
答える緑子さんは激情を見せない。どこか寂しそうにしている。
愛する人を蘇らせようとして化け物を造ってしまった、という悲しいSFの筋書きを私は思い浮かべていた。もうすがれるものなんか無いのに、諦めるという選択も彼女には無いんだ。
「バカにしないでよ! あんた自分がしたことがわかってるの? 無関係の人間をたくさん巻きこんで、あんな……それこそ、あんたみたいに大事な体を傷つけられて、妊娠どころじゃないわよ、死んでたかも知れないのに!」
沢渡さんは怒っている。でも、外から見てわかるほど、彼女の膝は震えていて、おそらく立ち上がることもできないでいる。それでも彼女は緑子さんに怒りをぶちまけた。
「もっとマトモな方法があったでしょ!」
「まともってなあに?」
緑子さんは首を傾げた。まるで、人形の首が折れたみたいだった。
「誰がマトモだったら、私の赤ちゃんは生まれてこられたのかしら。私の赤ちゃん。もしかしたら、死んじゃった正臣の生まれ変わりかも知れなかったのに……」
そこまで言って、緑子さんはうつむいた。顔に影が落ちる。
「あの、大丈夫ですか?」
それまで忘れていたけど、私は生活の雑音が耳に戻ってくるのを感じた。
「御気分が悪いんですか?」
遠くからウェイターが駆け寄ってくる。
唐突に、私は元の世界に戻ってきた。端のテーブルでこんな騒ぎが起こっていても、わりとみんな我関せずといった感じだ。落ちついて辺りを見回すと、女子会をやっているテーブルも、カップルのいるテーブルも、みんな無関心だった。つとめて関わらないようにしている、という雰囲気の人もいたけど、ウェイターが気づくまで、誰も私たちのことなんか見えていなかったみたいだ。
「ひっ ひいーん……」
私が、沢渡さんのところまで這っていった時だった。緑子さんは地面に顔を向けたまま、掠れた泣き声を出した。
「緑子さん」
思わず私が声をかけると、緑子さんの肩が激しく揺れ出した。
「ひ、ひい……ひひっ ふふふっ」
彼女の腕がぶらりと落ちて、ケースが石のタイルの上に落ちた。ガコ、というプラスチックのぶつかる音がして、ケースが開いた。静かだった。少しだけ開いたケースの口から、スポイトが地面に転がり落ちた。スポイトの先端からは数滴、例の羊水がしたたり落ちた。
それだけだった。
「ふふひっ いひっ あっは! あははっ あっはっははっ はっははは! あひゃあははははーっ! ひいひいっ うひいっ きゃーははあーっ!」
全身を痙攣させ、のけ反って大笑いする緑子さんよりも、私は落ちたケースのほうから目を離せずにいた。
狂ってしまうほど彼女が望んでいたもの。方法がどんなに間違っていても守りたかったもの。繋げたかったはずの命。それを緑子さんが手放した。緑子さんの本物の愛情が注がれていたはずの胎芽が、いま、地面に叩き落されて転がっているという事実。
私が声も無く泣きはじめると、沢渡さんは震える腕で私を抱きしめた。きっと、今になって恐怖が襲ってきて泣いているんだろうと、沢渡さんは思っただろう。
だけど、そうじゃない。これは恐怖や絶望の涙じゃない。悲しくて、ただただ悲しくて流れる涙だ。うまく言えないけど、緑子さんの代わりに私が泣いている気がした。赤ちゃんは代わりに産めなくても、泣いてあげることならできる。
緑子さんのしたことを許すわけじゃない。許せるはずがない。それでも私は、どうして彼女とその子どものために泣くことができるんだろう。
緑子さんはいつものように、迎えにきた黒塗りの車に乗せられ、自宅に引き取られていった。その後、警察のしかるべき聴取を受けたが、精神鑑定すら行えないほど彼女は壊れていたという。
私と沢渡さんは、ひとみの病室で、女性の刑事から説明を受けた。ひとみは起き上がって一緒に話を聞けたけど、自分から言葉を話すことはなかった。
緑子さんは警備の厳重なホスピスに入所し、おそらく、回復の見込みがないので一生をそこで過ごすらしい。彼女の狂行に関与した産婦人科医や製薬会社の研究員などが送検されたり逮捕されたりと、裁判もなく、一連の事件は幕を閉じた。
私たちの会社も、カイナグループも、いっさい揺らぎはしなかった。今まで以上に「当たり前の日常」がそこではくり返されていった。
気がかりなのは有原さんのことだった。この事件はカイナグループの圧力以前に、私たちの希望でニュースにはならなかった。有原さんは、緑子さんがホスピスから二度と出られないことを知らない。事件が一応は終わったことを知らない。きっと今も、次の犠牲者の身を案じたり、緑子さんの影におびえながら生活しているんだろう。
私は自分やひとみの身に降りかかったことを、本気で緑子さんのノロイだと、超常現象なのだと思っていた。でも違った。私たちを襲い、心と体を蝕んだものは、ひとりの人間の狂気だった。この傷は一生癒えないだろう。
それでも、私は時々、ホスピスで暮らす緑子さんのことを思って泣いた。
〈完〉