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短編

瘤(こぶ)

作者: 三千


どうしてもどうしても、許せないことがあった。


私の中でそれは何かの生命体のように次第に大きくなっていき、その鼓動も強固にしていく。


どくんどくんと脈打つものは、私の遺恨を糧として成長していくのだろう。


この先も。ずっと。半永久的に。


✳︎✳︎✳︎


会社員、独身女、ケーキをこよなく愛する、二十代後半っていうかもうすぐ三十、毎日決まって缶チューハイか缶ビールを一本飲む、五反田 サチ(ごたんだ さち)、浜崎在住。


いつものように会社帰りの電車の中。


吊革とそれにつかまる両手に、全体重の半分の負荷をかけながら、私はぼんやりと車窓を眺めていた。


外は暗く、けれど意外と明るく照らされている車内との対比は、なぜか心を曇らす。


暗がりに煌々(こうこう)と街明かりが浮かび上がる、そんな夜景。


夜景は美しいが、心は美しくない。


空が高く感じるこの季節特有の、秋晴れの気持ちの良い一日を、会社の薄暗い資料室で潰してしまったという、悲壮感。


いや、それが原因ではない。


この夜景が、思い出させるのだ。


私が泣きながら眺めていた、同じ夜景を。

遠距離恋愛していた時、帰りの新幹線の席で。


窓の外をびゅんびゅんと走っていく、涙目であんまり見えていない、その時はぼやけていた、夜景。


家々のオレンジ色の光は、決して私を暖めてはくれなかった。


その日は私が初めて、恋人を失った日。


✳︎✳︎✳︎


「どんでん返しって、あると思う?」


自宅でこたつに入り、同じく缶ビールをちびちびと飲んでいた田中たなかに聞いた。


「……ないでしょ」


同期入社だが歳は一つ下の男、憎っくきチビスケが、ずばっと言い切った。


チビといっても、身長は165センチ、ほどほどにある。


こたつの中で伸ばしている足がこちら側まで届いているんだから、そこまでのチビではないけれど、私がそれより4センチも高いもんだから、ついつい心の中では生意気なチビスケがっ、と連呼してしまうのだ。


友達と呼べる会社の知り合いは、こいつしかいない。


入社当初から、私たちはよく話をした。


それは会社の休憩室であったり、飲み屋であったり、お互いの自宅であったりした。

と言っても、私が一方的に喋り散らかすだけなのだけれど。


「やっぱ、ないかなあ」


つぶやくと、涙がこぼれ落ちた。


「ないね」


デジャヴかと、突っ込みたくなるような同じやり取りを三度繰り返したこの日。


何の記念日かというと、私が大大大失恋した日。


振られて帰ってきたその足で、コンビニで缶ビールを大量買いし、田中の自宅に泣きながら転がり込んだ。


「でも、結婚の約束まで……したんだよぉ」


遠距離の彼とは、結婚式の式場の予約までしてたのに、付き合って5年も経ってるのに、指輪も二個も貰って右手左手それぞれに一つずつはめていたというのに、「好きな人ができちゃった」の一言で、何もかもが終わった。


「やっぱりお前が一番だった、やり直してくれ……ってのは?」


「……ない」


四度目の田中の返事を確認すると、私は空き缶を倒しながら机に突っ伏して泣いた。


おい、こぼすなよ、と濡れたこたつの机をティッシュで拭きながら、「なあ、もういい加減あきらめな。相手に好きな人ができちゃ、しょうがねえよ」と言う。


そしてそのまま立ち上がって、飲み干した缶をシンクにガコンと放り込むと、冷蔵庫から冷えたやつを一本取り出してプルタブを引いた。


プシュッという音が、私の中からにでも空気のようなものが抜け出たように感じて、寒くなった。


「あきらめろってこと?」


不服な言い方で返してから、少しだけ顔を上げて、重ねて置いた両腕から見上げる。


田中はそのまま冷蔵庫の横で、喉を鳴らして缶ビールを流し込み、潤った口を袖でぐいっと拭くと遠慮なく言い放った。


「そうだ、あきらめろ。あいつはもうお前の元には戻ってはこない。前を向いて、新しい道を歩むんだ」


「そんなこと言われたって、5年も付き合ったんだよ。こんなことってある? こんなドンデン返し的な落とし穴ってある?」


「落とし穴掘ったのって、お前じゃねえの?」


「私じゃないよっ‼︎」


そう叫ぶと、同時に鼻がぶびっと鳴って、鼻水が飛んだ。


「汚ねえ」


田中は冷蔵庫の上からBOXティッシュを取ると、私の方へと投げて寄越した。


私は一枚引き抜くと、鼻にあてた。

するとまた涙が溢れてきて、机の上に落ちた鼻水の姿をぐにゃりと歪める。


田中は、はあっと盛大に溜息を吐くと、こたつへと戻って机の上をティッシュで拭いた。


✳︎✳︎✳︎


別れた原因は、あいつにある。

私に非はない。


憎らしげに思っていたのが別れて一週間。

仕事で気を紛らわせ、嗜好品ケーキとビールで頭を一杯にし、ぽっかり開いた週末の予定を田中との約束で埋め、何とか生きた。


気分の上がるマンガを読んで、お金持ちのイケメンと恋に落ちるお気に入りの映画を見ながら、そうして二週目を生きた。


「大袈裟だっつの」


二週目の週末、田中を呼び出して、また宅飲み。


ピンポンと玄関のチャイムが鳴り、ドアを開けると、田中が買い物袋を下げて立っていた。

また愚痴を聞かされるのかよ、などと呼び出されたことをぶちぶち言いながら、上着を脱ぐ。


「やっとのことで生きてる、みたいな顔すんの、止めろよ」


「だって、実際そうなんだもん。なんも考えられないし、なんもしたくない。これっぽっちの気力も湧いてこない」


田中が買ってきたコンビニのモンブランを目の前にして、アゴを机の上にのせて虚ろな目を投げた。


「じゃあ、これ食わないんだな」


田中がモンブランに手を伸ばす。


私が憎らしげに見上げると、「食べるだろ」と言って、モンブランのフタを開けてからこちらに寄越した。

よく見ると、スプーンも袋から取り出して、栗の横にぶっ刺してある。


「……食べる」


すると田中は、よしよしイイ子だ、と言って笑った。


✳︎✳︎✳︎


世話好きで、お人好し。


田中の第一印象は、良くも悪くもなく、けれどクセがないだけ当たりの同期だと思った。


私は、自分は何でもスマートにこなしているという自負があって、だから田中に、


「五反田はさあ、難しく考え過ぎなんだよ」


と言われた時は、は? と思った。


それから何につけても、お前は難解だ、そう言われて少なからずの反感と反発を持っていた。


「考え過ぎだよ、もっとシンプルになれよ。失敗の原因をいつまでもあれこれ探して突き詰めるのって、そんなに重要か?」


田中は遠慮なくものを言う。

それは、会社の同僚であれ後輩であれ、そして上司であれ、なのだ。


だから最初は、恐いものなし猪突猛進のイノシシくんと、心の中では揶揄やゆしていたのだ。

けれど、入社から半年が過ぎようとした頃、一緒に関わっていたG社に提案するプレゼンに欠陥を発見した時、突然その印象はくつがえされた。


「今回提示させていただいたプランBの見積もりの金額ですが、工賃の一部を入れ忘れるというミスがありました。この金額に関しましてはもう一度、検討させてください。けれど、この金額よりも大幅にアップしてしまうのは否めません。ですからこの時点で、このプランは御社にご検討頂けなくても仕方がないと思います。貴重なお時間を潰してしまい、申し訳ありませんでした」


そう、彼は真っ直ぐなのだ。


その道が、たとえぐにゃりと曲がった道だとしても、決して下を見ずに前を向いて、歩いている。


もちろん、先輩にも怒られ、上司にも怒られた。


「あれじゃあ、こっちのミスをさらして、無能さをアピっただけだろ。もっと言い方があったんじゃないか?」


要はミスを隠し、取り敢えずその場は曖昧にしつつ、上手く次回のプレゼンに持ち越させるのが良かったんじゃないか、そういうことだ。


その時、私は正直、田中は出世しない、そう思った。


けれど、それから3年経った今、田中はG社の担当チーフだし、後輩にも好かれ上司にも可愛がられる存在となっている。


「ねえ、何でフラれたんだと思う?」


三度目の宅飲みで、私は聞いた。


田中は、あたりめのシッポを口の端でフリフリとさせながら、言った。


「向こうに好きな人ができたからだろ」


「私は悪くないの?」


「ああ、お前は悪くない」


涙が溢れたけれど、これで最後の涙にしよう、私はそう決めていた。


それは、そこいらの女友達とは違い、決して元彼を悪く言わない田中への感謝の気持ちからだった。


「お前は、悪くない」


ありがとう、小さな声でそう言うと、私はBOXティッシュの最後の一枚を引き抜いて、鼻をかんだ。


✳︎✳︎✳︎


どうしてもどうしても、許せないことがあった。


私の中でそれは何かの生命体のように次第に大きくなっていき、その鼓動も強固にしていく。


どくんどくんと脈打つものは、私の遺恨を糧として成長していくのだろう。


この先も。ずっと。半永久的に。



どす黒く汚いこの気持ちは、私の中にどっしりと居座って、きっといつまで経っても出ていってはくれないだろう、そう思っていた。


けれど、それは私の中で、少しずつ変化していったのだ。


その何もかもを塗り潰す黒は、澄んだ川の流れによってその色を段々と薄めていき、目がくらむような眩しい陽の光に晒されて消毒される。


そう、淀んで濁っていた私の気持ちは、ようやく両手にすくって、口にできるほどの、濁りのないものになったのだ。


田中は私の清流であり、太陽だ。

私はもうこのことで、泣かないと決めた。


✳︎✳︎✳︎


「別れてから三ヶ月で立ち直ったって、のりりんが言ってたけども」


ガヤガヤとうるさい居酒屋のカウンターの隅っこで、私は焼き鳥の串が喉に刺さらないように、細心の注意を払いながら、自称恋愛マスターの女友達の名前を出した。


「お前は、三週間だったな」


田中は、生ビールのジョッキをぐいっと力強く持つと、口につけて喉に流し込む。


「頑張ったんだよ」


「そうだな、お前は頑張った」


「なんでこんな短期間で立ち直れたか、分かる?」


ここで田中が、分かんねえ、と言ったら、「あんたのおかげだよ、ありがとう」とお礼を言うつもりだったのに。


「そこだよ、また五反田の悪いところ、出た」


思わぬ返しで、怯む。


「え、何、」


「そうやって、何につけても理由を探すところ」


「…………」


「大人になってさあ、何で上手に生きられないんだろって考えた時に、幼少の頃に親父にいびられたせいだとか、母ちゃんの支配力が絶大だったからだとか、そんなことに立ち返ったって仕方がねえって思わない? 俺は思う。大体、そんなこと考え始めたら、何でもかんでも人のせいにするクセがついちまうんだよ。誰かのせいにして、そこれこそ上手に生きられると思うか? 俺は思わねえ。何で別れたかなんて、考えたって無駄なんだよ」


珍しく、田中が早口でまくし立てている。


「でもさ、自分にも悪いところがあったのかも、って考えるのは、別に悪いことじゃあないんじゃない?」


「お前は、悪くないって言ってるだろ」


同じ内容の言葉でも、この前と言い方が違っている。

田中の荒れようが気になって、私は訊いた。


「……ねえ、何かあったの?」


田中は手を上げて、生ビールと枝豆をもう一つずつ追加してから、「ちょ、悪りい」と言ってトイレに行った。


頼んだ生ビールとほぼ同時に席に着き、それを半分ほど空けると、珍しく溜息を吐いた。


「……俺んち、今ぐだぐだでさあ」


「田中の実家?」


「ああ、この近くの大池町なんだけど。俺、姉ちゃんがいて」


「うん、看護師の……」


「お前には話してたな。その姉ちゃんが、家を出てっちまって」


「結婚?」


「違うよ、親と喧嘩して」


枝豆を二、三個口に飛ばすと、皮をガラ入れにスローインする。


「自分が今の性格になったのは、親のせいだって言い出したんだよ。ほら、今流行りの『毒親』ってヤツ。本、読んで影響されたのか、そんなこと言い出しやがって」


「そんな酷かったの?」


「そんなわけあるかよ。ちゃんとした普通の親だよ。そりゃあ、完璧とは言えんかも知んねえけど、完璧な親なんてどこにも居るはずないだろ」


「でも、それなのに何でだろ?」


「そこだよ!」


急に大声を上げるので、私は枝豆を落っことしそうになった。


「『私の人生上手くいかないのは、私の人間性に問題があって、そういう私に育てた親に原因がある』ってな」


「でもそれって、」


り替えだろ? 本来自分が抱えるべき問題を親になすりつけてんだよ」


「……うん、私もそう思う」


「で、俺がそう言うと、あんたは強い人間だからそう思えるんだろうけど、私は弱い人間だからできないって言う。姉ちゃんはさあ、自分は弱いし人間性にも問題があるって、自分でちゃんと分かってるし認めてるって言うんだよ。で、そんな弱い人間に誰がしたんだってなって、親だろってなって、そこで堂々巡り。頭痛くなってくるわ」


「だったら、自分で強くなる努力ってやつを……」


「それを今までやろうとしてもできなかった、で、それができないのは自分の幼少期の家族関係に原因があるんだってなるわけ。もうとにかく頑固に原因はそれだって、決めつけてる」


「……大変だね」


「俺から見たら、人のせいにして甘えてるだけだよ」


真っ直ぐな太陽みたいな田中でも、こんな風に悩むことがあるんだ。

それなのに、私は私のことばかりで一杯一杯だった。


私は苦笑しながら言った。


「私に構ってる場合じゃなかったね」


申し訳なさが途端に溢れてきた。

田中が顔を歪めて苦笑する。


「でもまあ、姉ちゃんの方はどうしようもできんから。人の考えを改めさせようなんて、そんなおこがましいことは考えてねえし。でもまあ、親は可哀想だからフォローしてっけど」


「今まで一生懸命に育ててきたのに、とんだ災難だね」


「まあな」


田中の背中は、いつもより丸味を帯びていて、その曲線が胸をぎゅっと苦しくする。


真っ直ぐで、いつも前を向いて歩いていて、ともすると周りのみんなまでを明るい場所へと導いてくれる、そんな田中なのに。


私は、自分用の生ビールとこの居酒屋で唯一気に入っている肝煮を注文してから、ぽつりと言った。


「田中は悪くない。田中のご両親も悪くない」


田中のような人を育てた親が、親失格のわけがない。


姉弟とも同じように育てただろうに、ここへきてそんな決定的な考え方や感じ方の相違が出るとは、と思う。

一見すると、前向きと後ろ向きの典型。


まあ、姉弟といっても違う人間なのだから当たり前かも知れないけれど、こればかりは難しい。


「でもさ……」


私は肝煮を一つ口に入れると、その小鉢を田中の前に置いた。


「……お姉さんも、たぶん悪くない。歯車が、噛み合っていないだけ、だと、思う」


私が頼りなげにそう言うと、田中が俯いた。

眉根を寄せて目を伏せる、そんな姿は初めて見る。


「愚痴、聞かせちまって悪りい。でも、ありがとうな」


こうやって素直にお礼を言える田中。

そんな田中なのに。


ぼんやりと枝豆を見つめていたら、急におでこに痛みが走る。


「痛っ‼︎」


田中は、横からではあるけれど、私のこめかみにデコピンを食らわすと、「俺のことで、お前は難しく考えんでもいいぞ」と言って、笑った。


けれど、今日の笑いは、いつものとは違っているような気がした。


✳︎✳︎✳︎


田中の実家は相変わらずで、そして私の生活も相変わらずだ。


ドラマや映画のように、どちらも劇的に良くなるのでもなく、それ以上に酷くなることもない。


そうやって、人生は進んでいく。


人生最悪の日だと思った失恋の日、もう生きている意味がない、死のう、とまで思ったのに、今は立ち直って美味しいものを食べ、リラックスできる布団の中で丸くなって眠りに就く。


日常は続いていき、秒針をこつこつと進める時計のごとく、未来に向けて進んでいくのだ。


田中が言うように、他人の考えや人間性を自分の思い通りに変えさせることはできない。


人の時計を引っ張ってきて、自分の時計に合わせて、さあ足並み揃えてシンクロさせよう、なんてことはできないのだ。


「無力だなあ」


私がそう言うと、田中が薄く笑いながら、言う。


「そうだな。俺も、だ」


人と人とがお互いに干渉し合っても、それによって考え方の間で化学反応が起こり、その結果さらにそれぞれが違う考え方を導き出すのだから、それをお互いの思いやりなしで擦り合わせようとしても上手くはいかない。


田中のお姉さんも、それはきっと分かっている。

お互いに分かっているから、歩み寄れないのだろう。


私はどうして、元彼に好きな人ができたのか、少しだけ分かったような気がした。


結婚の約束をするまでになっていたのに、どうしても最後にはお互いに理解できない部分があった。


「ねえ、どうしてクリスマスなのに、飲み会優先するの?」


私が遠距離先のカフェで声を荒げたことがあった。


「だって、男友達だって、大事にしたいだろ」


「だったら、違う日にすれば良かったじゃん! 先に約束したのって、私だよね」


相手の非にしか目がいかず、彼を一方的に責め立てた自分を思い出す時、それは過去の自分自身への憐憫れんびんの情をも連れて返ってきて、私の中に苦く苦く広がっていく。


両手で眼を覆って、見ないようにしていた部分。


きっと、元彼も私と同様に、その部分を見ないふりをしていたんだろうと、今になって思う。


このままでは引き返せなくなる、そう思った時、今回の結婚を思い留まらせてくれた誰かが、彼の側にいたのだろうと思う。


「お前は、悪くない」


せっかく田中がそう言ってくれたのだから、もう考えるのは止めよう。

自分をおとしめるのも、もう止める。


「無力だけど、相手を想うことはできるよ」


そう言うと、田中は少しだけ焦ったような、いや、呆れたような顔をして、言った。


「な、何、お前まだ、元彼に未練あるの?」


「‼︎ 違うよ、あんたのこと。あんたのお姉さんのことだよ‼︎」


「……ああ、そう。良かった、」


「話の流れから、分かるでしょうが」


「え、あの、『私は無力だ』のくだりから? 無理だろ、それ」


そう言って、『私は無力だ』の部分で不真面目な顔を作ってから、直ぐにも相好を崩す。


そんな、へらりとした顔が、少しだけ憎たらしくて、私はこたつの上に広げてあるチーズおかきを一つ取って、その顔に投げつけた。


✳︎✳︎✳︎


「ねえ、このハイヒール、私買わないって言ったのに」


私が精一杯のむくれた顔を作っているのに、田中はニヤニヤして、その笑顔がイヤラシイ。


「でも、サチ、それ欲しそうにしてただろ。嬉しいくせに」


「けど、これ履いたら、しんちゃんを見下ろすことになっちゃうでしょ」


「そんなの俺、別に気にしねえけど。ほら、履いてみろって」


週末の買い物で一目惚れした黒のハイヒールを両手に持たされて、私は自宅の玄関でモジモジとしていた。


ストッキングの先端をもう一方の爪先で踏んづけて伸ばしてみたりしているもんだから、ついには「何だよ、トイレか?」などと言われながらも、私はやっとのことで心を決めて、そのハイヒールを履いてみた。


思った通りの履き心地。


一目見て、絶対に気に入る、そう確信した神がかり的な出会いだった。


いつまで経ってもショーウィンドウから離れない私を見て、田中が顔を近づけてきた。


「どれ?」


私の目線の先を確認すると、履いてみたら? と言う。


けれど、2センチもあるヒールの高さに恐れおののいて、「いい、あんな高いの履けないし」と言ってしまい、私より身長の低い田中を怒らせたかなと思って、少しだけ焦った。


田中はさして気にしていないようで、ふうんと言いながら、そのまま歩いていってしまった。


「高い」などと、値段のことを言ったのかと、思い違えて欲しい。

後悔しても、放った言葉は二度と口へは戻らないのだ。


もやもやと後悔の念を抱えたまま、一緒にランチを食べ、映画を見て、そしてそれぞれの自宅に帰った。


そんなことがあった次の週の土曜日の朝。


その時のハイヒールが現在、私の足にぴったりとフィットしている、というわけだ。


目線が少しだけ、上にあがる。

今、私の身長は170センチを越していて、田中とは6センチの差ができている計算になる。


田中と付き合うってなった時、身長差は気にしないと言ってくれた。

自分にもそう言い聞かせたけれど、いまだに気にしている部分があるのだろうかと思うと、情けなくなる。


まだまだ、私は田中になれないなあ、なんて思っていると、


「可愛い、似合ってる」


少し位置は下からだけれど、私に寄越してくる満足そうな田中の笑顔。


それだけで嬉しくなって、そして私はまた陽の当たる場所へと引っ張り出されるのだ。


「ありがとう、大切にする」


そうだ、私は人としての田中を好きになったんだ。


それに気づいたのは、遠距離恋愛が破局に終わってから、半年が過ぎた頃だった。


私は改めて、プレゼントしてくれたハイヒールを見た。


私が欲しがっていると知って、平日の会社帰りに買ってきてくれたのだろう。

今は仕事で大きなプロジェクトを任されて、目の回る忙しさだというのにもかかわらず。


履いてみてサイズが合わなかったら、返品交換OKというオマケの確約も取り付けてくるという、抜け目のなさ。

ちゃっかり、領収書を右ポケットからチラ見せしてんだなあ、これが。


「ありがとう、嬉しい」


けれど、私はもう一度、そう言った。


きっとこの人が、私を未知なる明るき世界へと連れていってくれる。


田中のお姉さんは、相変わらずのようで、いまだに実家には帰ってきてはいない。


けれど、私たちが。


二人で手を繋いででも真っ直ぐに歩くことができたなら、そんな田中の頑張っている姿を見て、それがお姉さんの暗闇を照らす光になればと、願ってやまない。


紹介されたご両親は、想像通りの良き人たちで、実家で食事をいただいた時、お母さんが私にそっと耳打ちをしてきた。


「真があなたのこと、何でも相談できる人だって言ってたわ。サチさん、真をよろしくね」


お母さんに聞いて初めて、田中が他人には相談事を持ちかけない人だと知った。


田中は私の清流であり、太陽だ。


けれど、私もそうあらねばならない。

それが義務でもなく、重荷であってもならない。


それが今、私が前を向いて歩く道だと思う。


✳︎✳︎✳︎


どうしてもどうしても、許せないことがあった。


私の中でそれは何かの生命体のように次第に大きくなっていき、その鼓動も強固にしていく。


どくんどくんと脈打つものは、私の遺恨を糧として成長していくのだろう。


この先も。ずっと。半永久的に。



けれど、根強くそこにあるこぶのようなものは、自分の力で簡単に摘み取ることができると知った。


恨みを抱えたまま生きるのは、辛くて苦しくて哀しくて、そして、とてもバカらしい。


そんなものはさっさと捨ててしまって、清く、美しい水を飲もう。

明るい太陽の光を浴びながら、生きよう。


綺麗な心にこだまするのは、綺麗なものだけだと知っている。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ハイヒールを買ってきてくれるところ。グッときました。 [一言] なんとなく三千さんの過去作品を見てて発見しました。 許せないことも幸せな記憶が上書きしていければ、人生なんとかやっていけます…
[良い点] 田中君のお姉さんに対するサチさんのスタンスが、良いなと思いました。 人間関係の問題は、当事者と、本人にしか分からない部分もありますからね。 サチさんと田中君、お互いが補い合えていて、良い関…
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