14-1 あの素晴らしい愛に祝福を!
× × ×
夏休みも終わりに近づきつつある、8月28日。
僕は夜行バスの狭い座席で、悶々と暑さに耐えていた。
座席がエンジンルームに近いせいか、冷房の設定が弱すぎるのか、あまりに暑すぎて深夜なのに全く眠れそうにない。
お金は全て他人持ちとはいえ、正直に言えば新幹線で行きたかった。
大阪から東京まで約500キロ。バスが左折のウインカーを出して、ゆっくりと入り込んだサービスエリアの名前が養老だから、名神高速を抜けるにはまだまだ時間がかかりそうだ。その先には東名高速もある。
「小山内くん……アイスを買おうか……」
「そうですね……」
隣の席で自分と同じく汗まみれになっているのは、僕にとって同志の先達にあたる仲田良弘さん。
バンドの名前が印刷されたシャツに下着が透けていたり、上気した顔がちょっぴり色っぽかったりするけど、あくまで彼女は作家の卵・仲田良弘だ。変な目で見るのはよくない。
仲田さんの匂いが実はわりと嫌いじゃないとか、近くにいるとドキドキするとか、そんな熱に浮かされたようなことは考えてはダメだ。彼女は毒まんじゅうなんだから。中身はメガネのダサい男なんだぞ。
「あー! 暑かったー!」
バスから外に出ると、仲田さんは思いっきり両手で風を受け止めていた。
その気持ちは僕にもよくわかる。夜風が汗を冷やしてくれて、とても気持ちが良い。
「アイス! ボクが奢ってあげるよ!」
「良いんですか? 本当に何から何まで」
「構わないさ。小山内くんにはボクのワガママに付き合ってもらってるんだからね!」
彼女は細い体を前屈させたり、両腕の筋を伸ばしたりしてから、なぜかトイ・ストーリー風に「ハイヨー! シルバー!」とSAのコンビニまで走り出した。
以前から思っていたけど、仲田さんって妙に行動力あるんだよね。
僕は額の汗をぬぐってから、彼女を追いかけることにした。
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なぜ生まれも育ちも大阪市内の小山内一二三が、はるばる東京まで行くことになったのか。
話は前日の27日にさかのぼる。
僕が五郎さんとクオリティにえらく差のある絵しりとりをしていた昼下がりに、女子大生が突如として現れたのだ。
「小山内くん! 五郎くん! ちょっといいかい!」
当時の仲田さんはいつものピエロ装束ではなく、大学生らしいオシャレな格好でもなかった。
その時の服を一言で表現するなら部屋着だ。だぼついたジャージの上下に、黒ぶちメガネといった、ザ・おくつろぎファッション。近ごろ伸ばしているらしいセミロングの髪の毛も後ろで適当にくくっているだけだった。おそらくこれが彼女のオフショットなのだろう。
「あ、仲田さんも絵しりとりやりますか? 今オレの番なんで」
「違う違う。そうじゃないんだ!」
彼女は五郎さんの誘いを右手で断ると、なぜか左手で己の体をペタペタを触り始める。
僕が相変わらず起伏のない体格だなと失礼な感想を抱いていたら、どういうわけか彼女の右手がこちらに向かってきた。
その細い指先は僕の首筋に添えられる。
「小山内くん……今のボクは男に見えるかい?」
「へ?」
「どうせ起伏がないとか思ったんだろう、目線でわかるんだからね」
「いやそんな……肩幅とか腰回りとか、すごく女性的だと思いますよ」
僕は出来るだけフォローしてみた。
実際、いくらダサい格好をしていても、彼女は男性に見えなかった。体格もさることながら、全体の雰囲気が完全に女性のそれなのだ。これらは決してお世辞ではない。
その証拠に五郎さんも「普通に女子大生だな」と呟いていた。
「……そっか。男には見えないか」
本来なら喜びそうなところだったが……当時の彼女はなぜか不満そうにうつむいていた。
現在の姿のまま男性だと思われたかったのかな。
気になった僕は、彼女に訊ねてみる。
「何があったんですか?」
「あったというよりね。これからあったりしてね……」
「まさかご家族が会いに来られるとか?」
「それなら「石室」で元の姿に戻るだけの話だけど、そうじゃなくてさ」
仲田さんは疲れたように僕の隣のパイプ椅子に腰かける。
彼女の弱々しい姿を見るのは久しぶりだった。いつぞや河尻さんに姿を変えられた時以来か。
あの時のように「石室」を使わず、今の自分を男性に見せたい理由とは何なのか。まさか今さら男装趣味に目覚めたとか。
自ら望んで女性化したのに男装に目覚める……さすがに性癖がこんがらがりすぎて僕の理解を越えてくるなあ。仲田さんらしいといえばそうだけど。
当時の僕は色々と考えた結果として、彼女を優しい目で見つめることにした。
「はぁ……ボクの脳内で明佳が『仲田センパイったらそんなので男装のつもりなんですかぁ。プークスクス』と笑ってるよ……」
「伏原くんはそんな笑い方しないと思いますよ」
「それは君の前だからだよ。というか、なんでそんな優しい目をしているんだい……」
「あ、いえ別に。そういえば結局何の話だったんですか?」
「……実はね。明日から東京に行くんだよ」
「東京? 世界の大東京?」
「うん。大東京。というのも、今度ボクの作品が出版されることになってさ。恥ずかしながら、出版社の人に声をかけられちゃって」
彼女は照れ隠しのつもりなのか、ティッシュでメガネを吹き始める。
ちなみに普段はコンタクトをしているらしい。女性化しても視力は改善しないそうだ。夢がない。
それにしても、仲田さんの小説が書籍化とはビックリだった。
最近はネット小説から本になることが多いからなあ。
アニメ化した『あの素晴らしい愛に祝福を!』も元々は小説投稿サイト『小説海老なろう』が始まりらしいし。あの作品も実は男女の入れ替わりシーンがあるんだよね。
「へえ。そいつはすげえな」
「そうだよ、ボクはすごいんだよ五郎くん。それで今度出版社のある東京まで打ち合わせに行くんだけど……なにぶんこの姿だからさ」
彼女は再び自らの肉体に目を向ける。彼女が苦労の末に手に入れたものだ。しかし今は彼女から良いふうに見られていない。
「小山内くんには話したはずだけど、ボクはまだ公的には男性なんだよ」
「そうでしたっけ」
「忘れていたのかい。ボクは明佳みたく世界を変えていないよ。だから大学の授業はこの格好にマスクを付けて受けているし、学生証だって仲田良弘のままなんだ。良子なのは友達の前でだけ」
彼女は「ボクはまだ将来どう生きるか決めてないからね」と付け加える。
ああ。なるほど。やっとわかった。
この人は出版社の人に作家・仲田良弘=女性だと記憶されたくないんだ。将来の猶予のために。
かといって、元の姿で会えば、女性として生きると決めた際に同じ理屈で面倒くさいことになる。
それゆえに彼女は「男装」という手段を選んだのだろう。
どちらにしろ言い訳ができるように、と。
全くけったいな話だなあ。
当時の僕は苦笑せざるをえなかった。
「なるほどな。どっちの姿でもダメなわけだ」
五郎さんは「それで仲田さんはどうするんだ?」と訊ねる。
「だから、今も悩んでいるんだってば。ただ、出版の契約とかを考えると、やっぱり元の姿のほうがベターな気はするんだよ」
「なら素直にそうしたらいいでしょうに」
「ところがどっこい。東京には別の用事もあってね。29日に新宿のライブハウスで『ペーペーシャ』の初遠征があるんだよ」
彼女の言葉に、五郎さんと僕は目を合わせる。
ライブ。ペーペーシャ。ボーカルは女子大生の仲田さん。昔のダサい仲田さん(男)がステージに立つのは当然ながらNG。
「もう詰んでるじゃないですか」
僕の突っ込みに、仲田さんはぷいっとそっぽを向いた。
まるで現実からも目を背けているみたいだった。
言うまでもなく、彼女は女性の姿でステージに立たねばならないわけで、つまり今の姿のまま東京に行かないといけない。
しかし、出版社には男性として出向くほうが都合が良い。
いっそ東京で変身すればいいんじゃ――残念。「石室」には時間設定や遠隔操作の機能は付いておらず、全ての変更は「石室」でしか行えないのだ。
他人に操作してもらうという手段もあるにはあるけど、残念ながら僕も五郎さんも未だに「石室」に触れたことがない哀れな「石室」処女だ。さすがに、ぶっつけ本番で仲田さんを変身させられる自信はない。
何より僕たちだけでは「石室」に門前払いされてしまう(運営委員じゃないから)。
万事休すだった。
しばらく悩んでから、当時の僕と五郎さんは――何となく絵しりとりの続きを始めることにした。紙上には可愛いイラストとナスカの地上絵が交互に矢印で結ばれている。
次はちょうど僕の番だった。前が『瓶に閉じ込められた妖精』だから『妹と入れ替わった兄』の地上絵を描こう。伝わるかな。
「……小山内くんは薄情だね」
「さすがに僕には何もできませんし」
「そりゃそうだけどさ、ここでボクを慰めるとかしてポイントを稼いでおけば、いずれ良いことが……あ、ひらめいた!」
仲田さんはおもむろに立ち上がると、、五郎さんの描いた『女子高生と入れ替わった大学生ニート』の絵を指差した。メガネでヒゲ面のダサい男性の絵だ。大学に馴染めなくて自宅でゲームばかりしている悲しい男である。
次に彼女がとった行動は、カバンの中からメガネケースを取りだし、そのメガネを僕にかけるというものだった。
別に僕の目は悪くない。
「……まさか、仲田さんの代わりをしろってんじゃ」
「そのまさか、だよ」
彼女はニヤリと笑みを浮かべていた。
男の仲田さんと女の仲田さんが必要なら、似たような風貌の男を連れていけばいい。いわゆる替え玉である。
「五郎さんにやってもらってくださいよ」
「君のほうが体格が近いから」
仲田さんは「ねえ。良いアイデアだと思わないかい」と五郎さんに話を振る。
当の五郎さんはしばらく考え込むような仕草をしてから、わざとらしく手を叩いて「なるほど」と呟き、妙な笑みでうなづいてみせた。どうやら助けてくれないらしい。
かくして、小山内一二三は仲田さんの代役として東京に行くことになったのである。
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養老のベンチでアイスクリームを口にする。
夜のSAからは大阪よりも星の多い空を見ることができた。
隣には僕にアイスをプレゼントしてくれた、未だに汗だくの仲田さんが座っている。僕もまだ汗が引いていない。
「仲田さん、初めから僕を連れていくつもりでしたよね」
「あ、わかっちゃった?」
「今思い出すと、メガネをかけているくせにカバンから二つ目のメガネが出てくる時点でおかしかったですよ」
「ははは。まあ素直に誘ってもつまらないからね」
彼女は「バンドのメンバーは後から来るし、ボク1人で行くくらいなら君でも連れていこうかなと思ったのさ。ぶっちゃけ性別の件は自分に指パッチンで変身する能力を付加すれば済む話だし」とこちらの肩を抱いてくる。
悲しいかな。この人も生物学的には女性なので少しドキドキさせられてしまう。彼女はそれをわかった上でやっているから、なおのこと悔しい。
「ところで小山内くん。君はたしか初めて出会ったボクを男性だと思っていたらしいね」
「よく知ってますね」
「前に明佳から聞いたからね。なのに今のボクが男性に見えないのは、もしかして女としての魅力が増したからかな?」
「単純に女性だと知ったからだと思いますよ」
僕はかつて中学生ちゃんという女性がいたことを彼女に話してみた。