13-2
× × ×
レンガ造りの『文庫本エリア』は人影がまばらだった。
普段なら暇そうな大学生たちが暇潰しに鎬を削っているんだけど、いかんせん夏休み中なのでキャンパスに来ていないのだ。
そのあたりは僕たちのような部員を除いた高校生たちも同様であり、今のところ釣り針はあまり上手く作用してくれていない。漁場にいる魚の絶対数が少ないのだから、引きが来ることもまた少ないというわけである。
そんな日が随分と続いた中での今回の当たりだった。期待しないはずがない。
僕は吹き抜けの近くまでやってきて、まずは中央の机から『なびきちゃん』上下巻が失われていることを視認する。
次にやるのはお客さんたちの手元チェックである。
利用者や旅行者の手に『なびきちゃん』がいないかどうか、じっくり見て回るわけだ。行動は不審者だけど図書部の腕章を活かせば怪しまれることはない。大切なマンガを持ち帰られないためにもしっかりと見ていく。
「あ、五郎ちゃんのお友達」
トイレの前のベンチまで来たところで、小学生くらいの女の子に話しかけられた。右手には『なびきちゃん』の愛らしい姿がある。
え、どうしよう。いきなりすぎてビックリだ。
まさか釣られた魚から話しかけられるとは思わなかった。
というか、この子……たしかどこかで会ったような。
いつぞやのライブにも来ていた気がする。
「あ、わかった。五郎さんの時の」
「うん!」
彼女は――上本胡桃ちゃんは子供らしい弾けるような笑みを見せてくれた。
僕たちと彼女の出会いは6月までさかのぼる。
河尻さんのせいで色々あった時に、五郎さんが憑依したのが彼女だった。
当時、彼女はあまり目立たない子だったそうだが、五郎さんのアドバイスのおかげでずいぶんとドラマチックな日常を――具体的にはテストで百点を取ったり、曰く「思考と反射の融合」でドッジボールの王者になったり――送ることになり、それが彼女としては良い思い出になっているのだろう。
当の五郎さんは「現実の小学校なんてクソだ」と言っていたけど。
ともあれ、それ以来、胡桃ちゃんは五郎さんになついているみたいで、たまにジムのほうにも母親同伴で遊びに来るらしい。
五郎さんは会員が増えて良かったよと喜んでいたなあ。
「ところで胡桃ちゃん、今日はどうしてここに?」
「お姉ちゃんと一緒に。あと胡桃と五郎ちゃんは二人で一人の相棒だからいつでも会いに来ていいの」
何やら一昔前の仮免ライダーみたいなことを言い始める胡桃ちゃん。
ジーンメモリの使い道を探るのは後にするとして、一応一人で校区外まで来たわけではないようだ。
「お姉ちゃんならあそこにいるよ」
「あそこって、吹き抜けかな?」
「なんか、考えごと? をしたいからここで待っててって。だからマンガを読んで待ってたの」
胡桃ちゃんは僕の仕掛けていたマンガをこちらに見せてくれる。小学二年生には早い気がするけど、奪い取って泣かせるわけにもいかないので今は持たせたままにすることにした。こんなおぼこい子に図書部の腕章の力は効かないだろうし。
彼女から目を離さないようにしつつ、吹き抜けまで歩いてみると、中二階の回廊に女の子がもたれかかっていた。
あれは五郎さんの妹の……祐子ちゃんだ。
「変なの。あの子、さっきからずっとあそこにいる。それでいて何もしてない」
「鳥谷部さん」
いつのまにか隣にいた姫カットが中二階を指差す。
「もしかして不審者。『むらやま』をライバル視する市立図書館の刺客?」
「あの子は五郎さんの妹だよ」
「知ってる」
鳥谷部さんはなぜか得意気な笑みを見せてくる。
よくわからないけど、「私が中学の時より大きくなってる」と呟いているあたり、知っているのは本当らしい。
この子なりの冗談だったのかな。
それにしても、中学か。
「鳥谷部さんは中学の頃から五郎さんと知り合いなんだよね」
「嫉妬?」
「してないよ! そうじゃなくてほら、昔の五郎さんってどんな人だったのかなって」
「昔の源五郎丸くん……」
彼女は少し考えるような仕草を見せる。
もしかしてあれかな。被害者はやられたことを覚えているけど、加害者は覚えてないという流れなんじゃ。鳥谷部さんはガキ大将だったらしいし。
奇妙な期待に胸を膨らませて(TS的な意味ではない)いると、彼女はその小さな口を開いて、
「源五郎丸くんは中学の頃、ひたすらラグビーしてた。いつもいるのはグラウンド。ずっと汗まみれでボールと走ってたの」
「へえ、やっぱり本格的にやってたんだね」
「すごく格好良かった」
「そ、そうなんだ」
「だから図書委員の立場を利用して、いつも彼を追いかけ回してたの。でも卒業の時に告白したら断られた」
彼女は「理不尽」と呟く。
僕は……目の前が真っ暗になりそうだった。
残念ながら、僕に寝取られ適性はない。
かの『割れ目のないセカイ』や『僕以外いる街』あたりが限界であって、それ以上は耐えられない。
いやまあ、両作品とも厳密には寝取られたわけじゃないけど……頭の中がぐるぐるしてきた。
くそう、伏原くんがいたら「センパイは心が狭いですね」と笑われてしまいそうだ。
「ドッキリした?」
「へ?」
話しかけられたので仕方なく鳥谷部さんに目を向けると、彼女はまたもや得意気な笑みを浮かべていた。
言うまでもなく、この人は笑うとすごく可愛らしい。元々華のある容姿だから破壊力は抜群だ。下手すれば咄嗟に好きだと叫びたくなるレベルである。
だが、今はそんなことよりも言ってやりたいことがあった。
「鳥谷部さんの嘘つき!」
彼女はわざとらしく目を泳がせてみせた。
× × ×
いかんいかん。ダメだな。
レンガ造りの『文庫本エリア』から中央ホールまで戻ってきた僕は、鳥谷部さんに良いようにからかわれてしまったことを反省していた。
今の時分からあんな風に扱われてしまっては、もし将来……例えば二人組を作るなんてことがあった時に、尻に敷かれてしまいかねない。
彼女に「私が人生で好きになったのは1人だけ」と言われたからといって、安心しているばかりではいけないのだ。
人の独占欲を煽りやがって!
なお、僕が中央ホールに戻ってきたのは、別に彼女から逃げてきたわけではなく、他の理由……すなわち、釣り針の持ち主がいつのまにかどこかに消えていたからである。
さすがに保護者の祐子ちゃんがあんな状態(相変わらず中二階で黄昏ていた)では、胡桃ちゃんを任せておけそうにない。
せっかくだし、見つけたら五郎さんのところに連れていってあげようかな。
なんて考えていたら、当の胡桃ちゃんはすでに忘れ物カウンターで五郎さんとおしゃべりを始めていた。
「五郎ちゃん、マンガが落ちてたからちゃんと渡すね」
「おお。忘れ物か。えらいぞ胡桃」
小学生からマンガ2冊を受け取った五郎さんは、少しだけ困ったような顔をする。まあ2年生には刺激が強い本だしなあ。触れさせたくない気持ちはわかる。
あるいは、今日も新しい同志が見つからなかったことへの困惑が顔に出ていたのかもしれない。
「ねえ、胡桃えらい? 本当にえらい?」
「ああ。えらい。かしこい!」
「「しかも強い!」」
掛け声に会わせてハイタッチする二人。
どうでもいいけど、絵面は完全に犯罪だった。
「五郎さん、こんなところにいるより部屋に入れてあげなよ」
「ん? ああそうだな」
五郎さんは小さく笑うと、「あのお兄さんが甘い紅茶を入れてくれるからな」と胡桃ちゃんをカウンターの中に招き入れる。
二度目になるけど、僕は給仕ではない。
「……ここが五郎ちゃんの秘密基地なんだ!」
ドアから『第二保管室』に入った胡桃ちゃんはパアッと目を輝かせた。
たしかに秘密基地といえばそうかもしれないな。同志と呼ばれるTSを研究する謎の団体の根拠地。ただし週に三回しか使えない(五郎さんの当番日のみ)。
とりあえず、胡桃ちゃんには五郎さんの隣に座ってもらうことにした。ちょこんとパイプ椅子に座る姿はとても可愛らしい。
「ところで胡桃は誰と一緒に来たんだ?」
「お姉ちゃん!」
「祐子か……小山内、あいつがどこにいるか知ってるか」
五郎さんの問いかけに、僕はケトルに水を足しながら「文庫本エリアにいたよ」と答える。
すると五郎さんはため息をついて、
「あいつ、またかよ」
なぜか悲しそうな表情を浮かべた。
また、となると以前も同じようなことがあったのだろうか。
こちらから訊ねる前に、五郎さんが「実はな」と語り始める。
曰く、祐子ちゃんは一月前から傷心しているらしい。
どうやら大切な人を失ったみたいで、五郎さんが訪ねても相手の名は教えてくれないものの「伏原だろうな」とのこと。
そういえば、なんか好意を抱いているっぽい様子を見たことがあるような。
「何も言わずに消えたならまだしも、伏原は何もかもを消してから消えたわけだろ。祐子なりに覚えてないけど思うところがあるみたいだな」
「なるほどね……」
僕は少しばかり彼女に同情する。
思い出が無くなったのに想いだけが残っているというのは、一体どんな気分なんだろう。
伏原くんの残り香はまだ『むらやま』にあるのかな。
「ねえ! この絵は誰が描いたの?」
アンニュイな気分が可愛らしい声にかき消される。
「胡桃、絵ってなんだ?」
「これ!」
五郎さんの問いに、胡桃ちゃんは現物を机の下から取り出してみせる。
それは先ほどまで五郎さんがペン入れしていた原稿用紙だった。
どうやら彼女の来訪に合わせて咄嗟に机の下に隠していたようだ。
「おっぱい」
うん。そうだね。三十路の男性が政府の少子化対策事業で無理やり適齢期の女性に変えられて、自分の新しい姿にビックリしているシーンだね。別に指差さなくても良いんだよ。
「その絵は……そこの小山内が描いたんだ」
「はあっ!?」
思わず叫んでしまうと、五郎さんは分かりやすくアイコンタクトをとってきた。
ええい。恥をかけというのか。そりゃ子供に自分の煩悩を見せたくないのはわかるけれども。
仕方ないなあ。
「ははは。そうだよ。僕がそのマンガを描いたんだ。実は西区の神絵師と呼ばれていてね」
「お兄さん、どこ見てるの?」
「……五郎さんってマンガ家を目指してるんだよ。上手いでしょ」
「やっぱり! だって前に描いていたのが上手かったし!」
例によって嘘がバレた気がして、つい本当のことを話してしまったけど、よくよく考えてみると胡桃ちゃんが僕の習性を知っているはずがなかった。
まあいいや。嘘は良くない。
当の五郎さんも胡桃ちゃんに「すごいすごい」と褒められてまんざらでもなさそうだし。
まるで仲の良い兄妹のような、どこか微笑ましい二人の光景は、いきなり『第2保管室』に入ってきた実妹・祐子ちゃんが、
「アニキ! こんな小さな子になんてものを読ませてんのよ!」
と、胡桃ちゃんから原稿を取り上げるまで続いた。




