13-1 ひとよひとよに乙女ころころ
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窓から吹き込む風に秋の匂いが染み込んでいた。
どこか乾いているが、まだ熱を帯びている空気。
夏休みの終わりともなれば、そんな季節の変わり目らしい風も吹く。
あれだ。久しぶりに温かいものが飲みたいな。
そう考えて、布をかぶせていたケトルに(ちょうど窓際にあった)久方ぶりのエサを与えてやると、机に座る大男から「オレは紅茶がいいな」と注文をつけられた。
当然ながら僕は給仕ではない。
「五郎さん。欲しいならお湯が沸いてから自分で入れなよ」
「伏原なら入れてくれたぞ。あと五郎はやめろ」
「あの子はあざといから……実はその五郎はやめろってのも、けっこうあざといと思っていたりするんだけど」
「オレはずっと本気で言ってんだぞ!」
ムキになって声を荒げた五郎さん。相変わらず迫力たっぷりだ。それこそ気づいた時には、僕の手元で紅茶の用意が済んでいたほどである。
一方で、彼の口から出てきた懐かしい名前に、僕は妙にノスタルジックな気分にもさせられていた。
怖くて懐かしいって、何やら一種のトラウマ体験のようだけど……自分の中ではあながち間違っていなかったりするから、手に負えないんだよね。
あれだけ仲の良かった友達が消えてしまうのは、僕にとって生まれて初めてだった。
あの日からというもの、僕は『第2保管室』に来る度に喪失感を抱くことになったし、五郎さんがマンガの作業に集中する度に誰もいない隣の席を見つめる羽目になった。
たまにやってくる仲田さんの存在がありがたく思えてくるほどだ。
ついつい甘えてしまったせいか、彼女には「小山内くん、ボクの弟になりたいんだね?」と妙な勘ぐりをされてしまったが、その際はきちんと「いえちっとも」と答えておいたので安心である。
ともあれ、現在の僕はいわば『明佳ロス』の状態にあるといっていい。大切な友人がいない寂しさに打ちひしがれている。
それを埋めるためには、やはり大好きなジャンルの本を読むのが効果的だった。
二人分の紅茶を入れた僕は、陶器のコップを両手に机まで戻ってくる。
机の上には読みかけのマンガ。『ひとよひとよに乙女ころころ』という大正ロマンとTSを掛け合わせた作品である。
帝国陸軍の超人兵士育成計画により美少女となってしまった主人公は、いけ好かない上官・森小路中尉の姉、伊勢子のボディーガードとして女学校に潜入することになる。
全体的には中尉と姉に女の子扱いされてふにゃふにゃになってしまうお話だ。
主人公と中尉、主人公と伊勢子の2つのパターンのカップリングが描かれており、読み手の好みを問わず楽しむことができるのが特長だろう。
健全な日本男子のためにエッチなシーンもたくさんある。あとは主人公を含めて女の子の喜怒哀楽が可愛い点も挙げておきたい。これはマンガにおいて、わりと大切なことだ。
「ほれ。紅茶のお礼だ」
五郎さんが手慰みに描いてくれたらしいイラストを渡してくる。
ちょうど『乙女ころころ』の主人公が上官と妹に抱きつかれて赤面している絵だった。さすが五郎さんだ。すごく上手い。
「いつもありがとう五郎さん」
「いいってことよ。それより小山内、お前あいつとはどうなったんだ?」
「あいつ?」
「わかりやすくとぼけんな。あいつだよ」
五郎さんはペン先を、ドアノブにかけられたカバンに向ける。
学校指定の女子用生徒カバン。控えめに吊られたストラップの中には家内安全のお守りが混じっていた。家族を大切にしている彼女らしい品だ。
鳥谷部さんはこの夏休み中、毎日『第2保管室』にやってきては、あのカバンだけ残して委員の仕事に向かっている。
その次は帰り際にひょっこり現れるので、おのずと僕と一緒に帰宅することになる。駅の方向が違うから肩を並べている時間は短いけれど、彼女はいつも満足そうだ。たまに二人でケバブを買い食いする。
「別にどうにもなってないけど……」
「またそれか。そろそろ一歩くらい進んだりしないのかよ。お前がモタモタしてると、あいつのほうが何をしでかすかわかんねえぞ」
五郎さんに思いっきりため息をつかれてしまう。
たしかに、あの子はあれで意外と「やる子」なので、彼の意見は的を得ている。
的を得ているからこそ、僕は彼らの過去を勘ぐってしまう。
以前から、五郎さんが鳥谷部さんのことをよく知っているみたいなのが、たまに気になっていた。
「あのさ。五郎さんと鳥谷部さんって、付き合い長いの?」
「ん? 嫉妬してんのか」
「あー……少しだけね」
「そうか。まあ、安心しろよ。鳥谷部とは単に中学が同じだっただけだ」
五郎さんは妙に得意げな笑みを浮かべる。
彼の話によると、どうも二人は群山とは別の私立中学に通っていたらしい(五郎さんはスポーツ推薦、鳥谷部さんは途中で静岡から転入してきたのだとか)。
当時ラグビー部員だった五郎さんは、図書委員の鳥谷部さんから何度も貸本の取り立てを喰らっていたそうだ。
それも並の取り立てではなく、期限を一日でも過ぎれば下駄箱に警告文が放り込まれ、時には練習後のシャワールームにまで彼女が押しかけてきたらしい。
「部活と水泳が忙しくて、なかなか本を返せないんだが、うちの中学は月イチで読者感想文を出す決まりでな」
「ねえ、なんでそこからラブコメに発展しないの?」
「おいおい。小山内。例えばだが、手と手が触れあうだけで恋に発展したら、今頃日本は不倫だらけだろうが」
そんなマンガみたいな話ばかりではない、とばかりに彼はペン先を滑らせる。女の子になったばかりの男子がおっぱいを持ち上げているシーンだった。
「でも、女子中学生がシャワー中の男子と会うんだよ!」
「オレに会いに来たのは女子中学生というよりヤミ金の取り立てだったからな。人がシャワーしてるのをいいことにカバンごと持っていきやがって!」
五郎さんは忌々しげに吐き捨てた。結局その日はバスタオル1枚で中学校を出る羽目になったらしい。あんまり考えたくない状況だ。
自分なら保健室に忍びこんで体操服を拝借するけどね。しかし、なぜか女子用のジャージしか残っておらず……この妄想は自分の姿でするべきじゃないな。
ちなみに話の本筋とは関係ないけど、鳥谷部さんが静岡出身だという話も、実は初耳だったりする。
またもや自分の知らない彼女に出会ってしまったわけだ。
脳内で伏原くんが「男の嫉妬は見苦しいですよ」と笑っているのを尻目に、僕は読みかけのマンガに意識を戻そうとする。
もうすぐクライマックスなのだ。気を抜けば上官を求めそうになる肉体と、大切な女性のためにあくまで男であろうとする心のせめぎ合いが紙面を彩っている。
「あ、そうだ小山内」
そんな時に限って、普段マンガばかり描いている五郎さんが饒舌になるのはなぜだろう。
僕が「なんだい、五郎さん」と丁寧に返すと、彼は部屋のドアを指さして、
「すっかり忘れてたんだが、さっきお前の釣り針に当たりが出てたぞ」
「釣り針?」
「あそこに仕掛けたアレが消えてたんだよ。たぶん誰かが持っていったんだろ。早く見てこいよ」
彼の言葉に、僕は読みかけのマンガを机に伏せた。
せっかく良作に出会えたんだ。急いで読みきるよりは先に用件を済ませたほうがいいに決まっている。
釣り針。
同志の伝統に則り『文庫本エリア』の机に仕掛けておいた我が至宝『なびきちゃんオーバーブレーキ』特装版・上下巻。憑依モノの名作である。
コメディタッチの読みやすい作品なので、同志を釣るには持ってこいだ。
今日こそは新たな同志と巡り会えますように。
隣の席に「じゃあ行ってくるね」と言いかけて、僕はそのまま部屋を出た。