アウトロダクション くもりのちゆき
× × ×
中央区にある私立図書館『むらやま』は人気施設である。
洋書、社会科、文庫本、サイエンス、文芸、歴史、芸術・哲学、ほぼ全てのエリアにエアコンが効いているので、本を読まずとも涼みに来るお客さんは多い。
よって気温の低い「くもり」の日には目に見えて来客数が減少する。
「夏休みなのに登校とかマジありえねえわー」
「クラスの奴らに会えるのは嬉しいじゃん」
カッターシャツにネクタイ姿の男子生徒たちが、談笑しながら館内に入ってきた。その後ろには女子たちの姿もある。
彼らは学校での集会を終えた群山の生徒たちだ。
僕たちのような図書部員は参加を免除されているけど、今年の生徒手帳には『8月7日・登校日』と記されている。
気温が低い平日だから一般客が少ない。なおかつ群山の生徒たちが遊びに来ている。
新たな同志を釣るには絶好の日といえた。
問題は何をエサにするか。
五郎さんとも話し合ったけど、やはり同志を釣るにはTSをメインで扱っている作品を選ぶべきだろう。
もし今、手元にある作品から供出するなら、
『唱えて改善』……短編集の中の一話では弱い。
『いらないレス』……女装含めて該当入りが9巻から。
『アンカーズ』……小説だと釣りにくいかも。
『かくしごとはやえのさと』……TS的な旨みは少ないかな。
『ぐうぜん乙女』……エッチすぎて怒られそう。
『割れ目のないセカイ』……幼馴染の行く末が気になって死にそう。
『最初の乙女オートマチック』……男の姿でも胸あるのはなぜなんだろ。
『幼馴染は女の子に慣れてしまった』……妖精への虐待描写で訴えられそう。
『腋のチーズ』……何でもいいから続きを出してほしい。
うーん。悩ましい。
そもそも自分は伏原くんのように布教用の単行本を持っていないから、安易に釣り針を仕掛けるわけにもいかないんだよね。
仮に盗まれたら泣いてしまう。五郎さんから借りた本も多いし。
そんなわけで……最終的に僕たちがエサとして選んだのは、自分たちで作った例のマンガだった。
あれならコピー本の形でいくらでも配布できるからね。
ペン入れマシンと化した五郎さんと、スクリーントーン切り取り民族と化した僕の手により完成した「同志のマンガ」は、主に伏原くんが生み出した物語も相まって、手前ミソながら相当の出来になっていた。
先例に従って『文庫本エリア』の机に放置しておけば、きっとまだ見ぬ同志が釣られてくれるだろう。
それを密かに祈りながら、僕は忘れ物カウンターでのんびりと『1984年』を読ませてもらう。
鳥谷部さんからオススメされたのにまだ読めていなかったのだ。有名なディストピア小説だけに面白いんだけど、いかんせん文字がギッシリしてて目が疲れる。
他の班の自分がカウンターに立っている件については、当番の五郎さんがマンガ部に出向いているから仕方がない。
なんでもトーンの上手い使い方を教えてもらうそうで、同志としてはそのまま移籍してしまわないか気になっていたりする。
さすがに僕だけになったら同志は終わりだ。
「……この本。あなたたちが作ったそうですね」
カウンターに手作り感のある冊子が届けられる。
もしかして同志が釣れたのかな――読んでいた『1984年』から顔を上げると、カウンターの向こうでは赤ぶちメガネの女子中学生が含み笑いを浮かべていた。
やんわりとした害意が自分の中を駆け抜ける。
今すぐにもあの後ろ髪のクリップをへし折ってやりたい。
当然、高校生なので、一時的な感情に乗せられたりはしないけど……自然と彼女に向ける目つきはキツいものになった。
久慈祥子。伏原くんを「石室」に手引きした張本人である。
彼の決断がどういったプロセスで形成されたのかはともかく、彼女の手助けが与えた影響は大きいはずだ。
それを踏まえると、どうしても僕はアメリカのショップ店員のように横柄に接してしまう。
「ああ。わざわざ届けてくれたんだ。自分たちで読むために作ったんだけど、掃除していた時にどこかに落としてしまったみたいでさ」
「私の知るかぎりでは文庫本エリアの机にありましたよ」
「ありがとう。持ち主の五郎さんに返しておくよ」
「どうぞ」
久慈さんはカウンター上の冊子から手を放すと、「それにしても」と話を続けようとする。
僕は読書に戻りつつ、両耳の神経を尖らせた。
いったい何を言うつもりなのか。
「――小山内さんたちのマンガは素晴らしいTS作品でした」
「……へ?」
TS?
というか、褒められた?
「仲良し三人組のうちの1人が女性化することで生まれるトギマギ。元々男の娘としてグループの姫ポジションだったシマダは嫉妬を隠せなくなる。当の女性化した子は主人公に好意を抱くようになって、その組み合わせをあの可愛い絵でやってしまう」
久慈さんは「死んだ祖父にも読ませてあげたいものです」と目をつぶった。
もしかして伏原くんの心が……いや、その線はないな。
久慈さんの目は、別れの時に見せてもらったあの子の目とは似ても似つかないし、なにより彼から祖父の話なんて出てきたことがない。
「久慈さん、もしかしてTS好きなの?」
「はい。女性向けでも男性向けでも、二次元でも三次元でも」
彼女の答えに、僕は少しビックリさせられる。
生粋の女性で同志なんて、リアルでは初めて見たかもしれない。ネット上には女性のTS系絵師がいたりするけど。
彼女は「祖父から楽しみ方を教えてもらったんです」と補足してくれた。
「えっ……おじいさんにTS好きをカミングアウトされたんだ……」
「まあ、その道では有名な人だったそうですし。それより小山内さん。あなたは私をかなり憎んでいるみたいですね」
久慈さんはまたもや含み笑いを浮かべる。
その様子にすっかり我に返った僕は、彼女がここに来た理由を訊ねることにした。
まさかケンカを売りに来たわけではあるまい。
「結局、何の用なんだい」
「小山内さんを私の元に誘いに来ました。あらゆる作品よりもハイレベルでリアルなTSモノを共に楽しんでみませんか」
「ハイレベルでリアル……?」
「私は女性ですから、祖父から肉体変化のエロティズムは受け取れませんでしたが、心の揺らぎの香しき上澄みを摂取する喜びを知ることはできましてね」
彼女は『樹の上の草魚』『アイドルインポスター』『王女の家来とツノ』と具体的な作品名を挙げる。
たしかに全て心の揺らぎを描いた作品だった。
男性から女性に姿を変えたことで、内面まで変化していく様子をメインにしている。やがて恋に落ち、自分の気持ちを受け入れていくヒロインたちのストーリーだ。
「……ですが、所詮は本当に女性化したわけでもない作家の妄想。とても本物には敵いません」
「本物?」
現状ではリアルのTSなんてありえないよ……と言いかけて、すぐに今までの出来事が脳裏に浮かんでくる。
良くも悪くも「石室」の力は凄まじい。
そういえば、その中の一つである仲田さんが「手引きした奴は石室から力を得ている」とか言っていたっけ。
あの「石室」ならばマンガみたいな特殊能力を得ることだってカンタンなはずだ、
久慈さんは何の力を手に入れたのだろう。
「ふふっ……小山内さんは相手の気持ちを知りたいと思ったことありますか」
「ん? まあテストの答えとか読めると便利だよね」
僕は特に考えることなく答える。
サトラレはイヤだけど悟りなら楽しめそうだ。他人の本音を知ってしまって、かえって苦々しい気分にさせられることも多そうだけど。
同志的には「石室」で他人をムリヤリ女の子にして、その人の心の揺らぎを密かに味わうなんて用法も考えられる。
もちろん良心が死ぬから絶対やらないよ。
いくらリアルな心の揺らぎを探れるからって、そんな外道な……現実に可哀想な人を見て楽しむなんてよほど歪んでないとムリだ。
さて、目の前の女子中学生の口元はキレイに歪んでいた。
「…………まさか、そんなことのために伏原くんを」
「河尻も、ですよ」
久慈さんは右手を自らの口に添える。さながら耳打ちのごとく。
彼女がいつも中学生ちゃんの側にいて、たまに助言めいたことをしていたのは知っていた。しかし、その助言が「相手の心を読んだ上で」行われていたとは初耳だった。
同じ手法で伏原くんにも歪んだ決断をさせたのだろうか?
中学生ちゃんは己の気持ちを見失い、紆余曲折の末に「友達が欲しい」という本来の目的に回帰した。
伏原くんも、ああなったけど、もしかすると別の目的があったんじゃ。このクズみたいな人のせいで己を見失っているだけで……。
「だとしたら、小山内さんはどうするのです?」
「なっ……まさか、今も心を読んで」
「目の前にいる人の気持ちがわかるようにしています。全て聞こえたらおかしくなりますし。それで小山内さんは何をするつもりですか?」
彼女は含み笑いを浮かべ、「先日の会話から伝って、石室であの人を呼び出しますか」と中央ホールを指さす。
あの受付の下に「石室」があるのは言うまでもない。
「もしくは全てなかったことにしますか。私のせいでこうなったから。とんでもない。あの人の決断はあの人が決めたものです。ただ私はその時期を早めただけの話で」
「何のためにそんなことを」
「だから楽しむためです。あの人の心の揺らぎはたいそう美味でした。あなたと袂を分かつまでには色んな葛藤がありました。それこそ小山内さんと源五郎丸さんにマンガにしてほしいくらいです」
彼女はカウンター上のコピー本を開いてみせる。
そして、登場人物の内心を示した吹き出しを右手で指さすと「小山内さんもやってみませんか。きっとやみつきになります」ともう一方の手を差し伸べてきた。
僕はその手を払いのける。
「ノーサンキューだよ」
「私の同志になってはくれないのですね」
「君は同志じゃない……そうさ、物語のように幸せなラストを迎える保障もないのに、強制的に女の子にするなんて、TS娘を愛でる同志のやることじゃない」
「凌辱モノやレイプモノだって人気がありますが」
あれはあれで二次元世界では概ね肉欲にまみれて幸せになっているような……自分の趣味ではないけどさ。
ましてや三次元では考えたくもない。
「そもそも今の態度からして、久慈さんだって本気で誘ってるわけじゃないでしょ」
「小山内さんなのにわかりますか」
「さすがにわかるよ」
彼女の中で自分がどんな評価だったのかは気にしないでおくとして、こんな怒らせるような態度で仲間に引き入れようとする奴はそういない。
おそらく他に理由があるはずである。
彼女が本来なら知られたくないであろう己の罪状を晒してきた理由が。
忘れ物カウンターにひとしきりの静寂が訪れる。
聞こえてくるのは彼我の布ずれのみ。お客さんの波は遠のいている。
「……あれ、理由ないの?」
「いえ、答えたくないんです」
久慈さんは「私の同志になってくれたら答えましょうか」とメガネを外して、ハンカチで拭き始めた。
つまり答える気はないということか。
「君の同志には絶対になれないからね」
「そうでしょうか。私と小山内さんはわりと近いところにいる気がします。ちょっとしたヒントで私と同じ発想に至るあたりに根の関わりを覚えました」
「痴漢作品が好きな人と、本当に痴漢する人くらい差があるはずだよ」
「そこに本質的な差はありますか」
彼女は挑発的にメガネをかけてみせると、そのまま中央ホール方面に去っていった。
去り際、彼女が「……物語と同じで、たまに感情移入してしまうことがあります」と呟いていたのが妙に印象に残った。
どちらにしろ、彼女に対してやることは決まっている。
今の会話の録音データを河尻さんに送信――はてさて、ここ『むらやま』の王を気取る彼が臣下に操られていたなんて知ったらどうなるのだろうか。
久慈さんならば上手にごまかせるのかな。結末は神のみぞ知る。
「本質的な差? あるに決まってるじゃねえか」
「あ、五郎さん」
「オレたちは他人に迷惑をかけてねえ。その一点だけでも十分だ」
入り口のあたりで僕たちの会話を聞いていたらしい五郎さんは、お土産と称してスクリーントーンの束を手渡してきた。
まさか次の作品に使うことになるのかな……本格的に同志が「五郎プロダクション」化してしまいそうで、密かに戦々恐々としつつ、あくまでマンガで満足できる五郎さんに底知れない親近感を覚えた。
「五郎さんはあれだね、とっても良い同志だね」
「えっ、小山内、お前……あいつでもなくあいつでもなく、そんでもってあの人でもなくて、まさかのオレなのか……?」
三白眼をパチクリさせている五郎さんに、僕は「そっちの同志じゃないよ」と訂正しておく。
ちなみに中国語の「同志」は主に同性愛者を指していたりする。創設者の仲田さんがそれを知っていたかどうかはわからない。
必ずしもTS好き=同性愛者ではないのは今さら説明するまでもない話だけど、あの人が2年前にわざわざ「同志」という名を選んだのには……何か理由があったのかな。
いずれまた、訊いてみよう。
今日は鳥谷部さんとの用事があるからね。
× × ×
2年前。当時委員長だった仲田良弘はとても可愛らしい少年を見つけていた。
少年から同じ匂いを嗅ぎ取った彼は「楽しいよ」「気分が良くなるよ」と珠玉の女性化作品を与えることで少年を染めていった。
さらに仲田は自らの権限で『忘れ物班』の休憩所だった『第2保管室』を奪い取り、少年に対しては「自分も班員なんだ」と詐称して常に傍にいられるようにした。
別に好きとかではなく、仲田にとっては可愛いものを集めるような感覚だった。
ある日、仲田は少年に訊ねた。
「伏原くんには尊敬する人はいるのかい」
仲田としては自分と答えてほしかった。もしくは敬愛する作家の名を教えてほしいところであった。
ところが、少年は「昔のことなんですけど」と身の上話を始める。
「小生には父がいませんが、小学校まではいたので、中学に上がるついでに引っ越すまでは、苗字も伏原ではなかったんですよ」
「ほうほう。どんなファミリーネームだったんだい」
仲田はわざとらしくメガネを光らせた。
少年は少しためらってから、
「安らぐ藤で、安藤と呼ばれてました」
「へえ。そっちも格好良いね」
「そうなんですかね。小生はあんまり好きじゃなかったんです。だから下の名前で呼んでほしくて、みんなにはそうお願いしていました」
「なら、ボクも明佳って呼んじゃおうかな!」
「何でもいいですよ。それで尊敬する人の件なんですけど」
「わかった当ててあげよう」
仲田は紅茶を口に含んでから「パパだね」と少年に問いかける。
しかし、その答えは外れていた。
「残念。父にはほとんど会ったことがないんです。生まれる前から他に家庭を持っていたみたいなので」
「……なんかすごい話だね」
「おかまいなく。ちなみに正解は近所のお兄ちゃんです」
少年は朗らかな笑みを浮かべる。
近所のお兄ちゃんについては、なんでも小学校の上級生だったそうで、ほとんど話したことはなかったものの、
「たまたま低学年の図書室で見かけて、なんで4年生がいるのかなと思っていたら、なんか本を熱心に読んでいて」
「何の本だったんだい」
「『おれがおまえでおまえがおれで』です。それが小生とTSFの出会いでした」
少年は続いて作品の内容について語り始めた。
TS好きなら誰でも知っている作品なので、仲田は「でも、どうして尊敬しているんだい」と話を変えようとする。
ただTSを教えただけならば、自分だって尊敬に値するはずだ。
そんな仲田の意など知らず、少年はまた笑顔になって、
「小生、こんなチビですから、からかわれることもあって。どうしてこんなチビなんだろうと悩んでいたら、あんな世界があったなんて」
「ああ……なるほどね」
「それからは彼のフォロワーでした。あの人が読んでいた本を高学年の図書室まで探しに行ったりしたものです。たまに話をすることもあって、あの人には名札の文字から安藤さんと呼ばれてましたね」
「……それ、絶対にまちがわれてたんじゃないの」
「面白いので否定はしませんでした」
少年はクスクスと笑う。
何度か下の名前で呼んでほしいとは伝えたそうだが、相手が恥ずかしがって「安藤さん」のままだったらしい。
仲田は少年とその人、どちらにも妬みを覚えた、
そんなシチュエーションは自らの容姿ではありえなかったし、そこまで少年に好かれているのがムカついて仕方ない。
「いつかその人に会うことがあったら体当たりしてあげるよ」
「なぜですか。ちょっと変な人でしたけど、小生たちと同じTSF好きですよ」
「同志仲田としては粛清してやりたいね」
仲田はお気に入りの部下である某委員から勧められた、赤軍系の書物の影響を自覚しつつ、目の前の少年の表情を見つめて――「同志か」と呟いた。
「うん。同志でいこう」
「どーしですか?」
「志を同じくする者のことだよ。代用語さ。ほら。外でTSFとか言い出したら変な目で見られるから」
「小生は別に『のぞみパニック』が好き、入れ替わった姿のまま男性アイドルと結ばれてほしいと公言してもイジメられませんでしたが」
それは君の容姿だからだよ。
仲田は口を抑えつつ、窓際のケトルにマジックペンで『同志よ永遠なれ』と記した。
(了)




