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とりあえず中に、と言われて俺は諾々とゆかりの後についていく。彼女は手前の椅子に座り、ぐるりとあたりを見回す。ささくれ立った椅子や机が、この教室の使用頻度を表しているようだった。俺は隣の椅子に座ろうと思ったが、ゆかりが悪意のない目線で正面の席を示したので、しぶしぶ従った。確かに顔がよく見えるのは正面だが、横に座るよりも距離が遠いのが不満だった。
彼女はそんな俺の様子に気付かずに微笑んだ。
「藤堂くんもこの高校だったんだね、知らなかった」
ああ、ずっと焦がれた彼女の声。夢なんかではなく、ゆかりは本当にこの学校にいるのだ。そう思うと自然と顔に笑みが広がり、そんな自分を知られたくなくて俺は下を向いた。
「俺もだよ。ここに入学することは誰にも言ってなかったから。でも、沼野さんは地元の高校に行くと思ってたんだけど」
そう。俺が知っているゆかりの進路は、地元の極々普通の公立高校だった。なぜこんなところにいるのか。その疑問は「落ちちゃって」という彼女の簡潔な回答で霧散した。
受験に落ちるというのは、相当気持ちが落ち込む出来事だろうと思う。小さな町の中学校では、クラスの半数がその公立高校を志望する。友人たちが合格通知を手にしているのに、自分は遠い私立に通わなくてはならないなんて、決して幸せな出来事ではない。
俺は俯いたままそっか、と呟く。本当は真正面から顔を見て慰める方が良かったんだと思う。けれど、ゆかりとの再会という自分の身に訪れたかつてないほどの幸運に、どうしても顔の筋肉が緩まるのを止められなかった。
それを誤魔化すようにして美術部に入るのかと問うと、小さな頭がこくりと頷いた。聞くところによるとたった今休部から立ち直ったばかりで、ゆかりしか部員がいないらしい。
この時まで、俺は当然のごとく部活に入るつもりはなかった。友達が欲しくないわけではなかったが、それ以上に他人に気を遣って生きるのが嫌だったのだ。部活に入ってしまえばチームワークだとか協調性だとかが求められ、それを現状の自分ができるとは到底思わなかった。
けれど、美術部なら話は別だ。ここにはゆかりがいて、しかも一人きり。俺がこの部に入れば二人だけでこの空間を占領できるのだ。こんな好機を逃す手はなかった。
俺は適当な嘘をついて、ゆかりと同じ美術部員の肩書を難なく手に入れる。中学生の時の願いは、こうしていとも簡単に実現する次第となった。
それからは、今までの人生の中でも充実した日々が続いた。幸せだった。見た目でしか判断しないクラスメイトなんてどうでもいい。嘘偽りのない俺を受け入れてくれない人間なんていらなかったし、それでもかまわなかった。美術室に行けばいつもゆかりが微笑んでいて、ありのままの藤堂明良が見てもらえるのだから。
自分でも不思議だったが、彼女に対しては意図せずとも優しく接せる自分がいた。彼女に怖がられたくないというよりも、ゆかりの優しさが伝播したと言う方が正しかった。名前も呼んでくれるようになり、俺とゆかりの仲は少しずつ着実に縮まっていった。
ゆかりは花の絵を描くのが好きだった、殆ど下絵ばかりだったが。絵は上手いのにどうしてと問うと、色塗りがどうしても苦手なのだという。そんな一生懸命に描いた絵を未完成にさせておくのはもったいなくて、俺は彼女が帰った後こっそり手を加えたことがある。だが、水彩も油彩も、試してみたがどうも納得がいく作品にはならなかった。思うに鉛筆描きで終わるからこそ彼女の絵は――彼女は彼女として成立しうるのであって、そこに他者の介入は余計なのだと思う。それは、俺を救ってくれたあの言葉をゆかりが忘れていたことからも察せられた。
予想はしていたが、落ち込んだのも事実で。
無性に悔しくて悲しくて、いつの間にか一人で美術室にいる時間にはゆかりの姿を描くようになった。彼女の姿をキャンバスに移動させて自分の好きなように色づけることで、ゆかり自身が手に入ったかのような気分になった。高校1年生の間少しずつ描き溜めたそれは8枚しかないが、すべて俺の部屋に飾ってある。立った姿、笑った顔、絵に集中している様子、微笑んだ横顔、後姿。そして、眠っている顔と赤ん坊、大人になった姿だ。赤ん坊の時や大人になった姿は勿論、眠っているところすら俺は目にしたことはない。けれど目の前のゆかりから様々な状態を想像するのは楽しかった。どのくらい眠るのか、とか寝言は言うのか、どんな私腹を好むのかなんてくだらないことをずっと考えた。俺はゆかりのすべてを手に入れたかった。
中学生の時に望んだこと以上のものが、俺の手中にあった。教室付近ではできるだけ会わないようにしていたが、その分美術室ではたくさん話した。
「ゆかりは何が好きなの?」
「それは食べ物? それとも絵の題材?」
「どっちも」
それはゆかりの絵を描く上で必要なことで、俺の想像の糧でもあった。
「私は甘いものが好きなの。でも、甘いものを食べているときって少しだけ後ろめたくなるでしょう」
「カロリーを気にして?」
「ううん、それもあるかもしれないけど。私自身の幸せに対して」
ゆかりは時々不思議なことを言った。どうして自分の幸せを後ろめたく感じる必要があるのか、俺には皆目わからなかった。
「幸せになりたくないの」
「なりたいよ。でも、地球のどこかには食べ物にすら困っている人がたくさんいて、それなのに私は少しの空腹を満たすために嗜好品を手にする。それを思い出しちゃうのが嫌で、あんまり食べれないんだよね」
「じゃあ、絵の題材で好きなのは?」
「人はね、好きじゃないの。その人の時間を切り取ってるみたいで」
「綺麗な人が描かれた絵も」
「そう。美しい時間だけを取るなんて、その人の未来――しわくちゃのお爺さんお婆さんになった時を否定してるみたいで失礼じゃない。だから、私はそれ以外のものが描きたい。風景とか、花とか、そういうものを」
花だって美しく咲いて最後は枯れるじゃないかといえば、花には感情がないから失礼だとは思わないよという現実的な意見が返ってきた。変なところでリアリストらしい。
つまり結局のところ彼女は人間を愛していて真摯に見つめていて、一生関係しないような他人のことまで考えているのだった。ゆかりさえいれば満足している俺とは違い、彼女の世界は広かった。憎らしいほどに。
「明良は」
「え?」
「明良は何が好きなの?」
そんな俺の胸中を知りもせずに、ゆかりは無邪気にそう問うてきた。
「それは食べ物? それとも絵の題材?」
「どっちも」
俺はゆかりのことを深く知りたいがために質問した。ならば彼女はどうなのだろう。少しでも俺のことを知りたいと思っているのだろうか。……思っていてくれたらいい。
「食べ物は……」
彼女の問いに答えんと口を開くが、自分の好きなものが出てこない。嫌いなものならすぐにわかるのに。
「特にない、かな」
「題材は?」
それは勿論ゆかりを描くことだが、流石に言うのはためらわれた。仕方がなしにそれも特にない、と答えると、彼女は困ったような顔をして考え込む。
つまらない人間だと自分でも思う。好きな食べ物だけではなく、色も、歌も、景色も、時間も、趣味も、俺には何にもなかった。唯一ゆかりに関することだけが俺の興味のあることであり好きなこと。それ以外はどうでもよかった。
こんな自分を目の当たりにすると、ひどく滑稽に思えてくる。何がありのままの藤堂明良を見てほしい、だ。美しさも優しさも愛想も全部脱ぎ捨てた俺に、一体何が残るというのだろう。「見ているだけで十分」本当にその通り。いつも不機嫌そうで中身のない空っぽな人間と、誰が好んで仲良くしたいと思うのか。俺は求めるだけ求めて、結局は――
「いいね」
いい?
「私、好き嫌いばっかりだから、色々なところで損をしてるんだよね」
いいの?
「全部に対して公平な目を持てるなんて、なかなかできることじゃない」
公平なんかじゃない。何事にも興味が湧かないだけで、そこには崇高な思想も、厳然たる精神も存在しない。なのに、そんな俺をゆかりは肯定する。認めてくれる。それがただの会話上の気遣いだったとしても。
「すごく明良らしい、っていうか、やっぱり……」
やめてくれ。これ以上俺を甘やかしたら、助けてくれたら、俺は、俺は。
「明良が羨ましいな」
お前から離れられなくなる。
少し早めに投稿できました。わーい。