漂う時の随に
たとえば、そう。
明かり一つない夜道、風の唸りや擦れる木の葉の音しか聞こえない暗闇。
何者かも忘れてしまいそうな時、微かに瞬く一縷の蛍火。
心ごと、この身を差し出したくなるような。
ふと、日々の狭間に考えることがある。
ここにいるべきでないような、ここにこそいなければならないような、ここではないどこかに帰りたいような。
ひどく強い衝動というより、ほんのりとした焦燥に近いその感覚は、心をさわさわと揺らす。
ほんの数瞬のことなのだけれど、それは確かに訪れて、小さな痼を残して消える。
不可解というほどの違和感ではなく、不愉快というほどの印象はない。ただ、過る感覚だ。
そうして決まって、その夜は夢をみる。夢の暗闇で立ち尽くし、自分の存在すら輪郭を失い、途方に暮れる。
日常に紛れて忘れてしまう程度の、ただそれだけのこと。
「お嬢さん」
イヤホンから流れる音楽の合間を縫うように、低く穏やかな呼び声に誘われて、七海は咄嗟に顔を上げた。
休日の図書館はそれなりに人が多いが、場に即した静謐さが満ちていて、強ばった心身を解してくれる。
常連のこの図書館は特に、警備員を配置するほど希少な本を取り扱っていることもあり、静謐さにも磨きがかかっているように思う。
視線を向けた先には、濃紺のスーツを着た紳士が、穏やかさを称えてそこにいた。
「急に声をかけてすまないね。先ほど、こちらを落としたようだから」
白い手袋を嵌めている手を差し出されて見れば、お気に入りの栞が乗っていた。
慌てて受け取り、丁寧にお礼を言う。
「構わないよ。ところで、それの初版本を見たかい?」
静謐さを損なわず、むしろ品位をそのまま音にしたような声は、ひどく耳に心地よい。
問いに否を返すと、一つ頷いた紳士の右手が階下を指す。
「ちょうど今日、展示が開始されたところだよ。よければ」
「ありがとうございます、感謝します」
希少すぎて滅多にお目にかかれない初版本があるとは、運がいい。
すぐに見に行こうと立ち上がると、紳士はさり気なく進路を譲ってくれた。
穏やかに立ち去ろうとした広い背中を、なぜか。────なぜだか、呼び止めないといけない気がした。
「あの……」
「お嬢さん」
顔だけで振り返った紳士の瞳は、日の光の加減なのか、淡い栗色。どこかで、見たような。
静謐な深みのある声が、七海の足を留める。
「宵闇の誘いに惑わされてはいけないよ。今、ここにある自分を許してやりなさい」
「…………」
「それでも迷うなら、いつでもおいで。ここは、帳が下りても開かれている」
ただし、来ずに済むならその方が好ましい。
最後にそう言い残した紳士の背中を、七海は何も言えずに見送った。
呼ぶ声があると、暗闇に魅せられていると、なぜわかったのか。
ああ。認めよう。七海は確かに、あの夢の暗闇が慕わしい。
己の輪郭がぼやけてそのまま一部になれればと、心の奥底では焦がれてしまっている。
────どうしろというの。
静謐の中でまた立ち竦む自分は、いったいどこへ行きたいのだろう。
忙しい週中は、余計なことを考えずに済む。
いっそそのまま忘れてしまえと思っていたのに、また狭間に迷い込み、夢をみた。
明かり一つない空間。屋外だというのに、風の音も虫の声もなく、塗りつぶしただけの真黒。
自分の身体すら視界では捉えられず、身動ぎしたという感覚だけがある。
瞼を下ろせば、完全に同化してしまう。
その一心で、必死に目を開けているというのに、だんだんと眠気が襲う。
────まだだめ。まだ、ここにいないといけないの。
そうなの。まだ、何もわからない。まだこの場所でやるべきことがある。
けれど、……〝この場所〟とは、どこ?
「────っ」
抗って抗って、息を乱して飛び起きる。汗だくの首を拭う手が震えた。
荒い呼吸が耳朶を打つ。時計を見上げると、薄暗い室内でも時間を判別できて、そのことにほっとした。
急かされるようにベッドを下りて、手早く身支度を整えてタクシーを呼び出す。
最低限の持ち物だけを持って、七海は図書館へと向かった。
背の高い木々に囲まれた、外界から遮断されたような建物。
迷いつつ警備員に会員専用の手帳を提示すると、照会の後あっさりと門の内側へと案内される。
夜間も開かれているとは、本当だったのか。
さく、さく、草を踏みしめる靴の音。
少し離れた場所から聞こえたそれに振り返ると、先日の紳士が立っていた。
濃灰のスーツと、白い手袋。目尻に皺を寄せて微笑む彼は、先日よりも幾分か若々しく見えた。
二人の間に、風が行き過ぎる。
いつかの頃と同じ、ほんの少し冷えた、冬の訪れを知らせる温度。
「……わたしには、愛する人がいました」
するりと口をついて出たのは、誰にも明かしたことがない過去。
昔の七海を知っている人は、もうみんないなくなってしまった。
「ここではない場所の、もういない人です。わたしだけ、いつからかここで続いていました。不自由はありませんが、空虚があります」
気づいた時には、当たり前の顔をして存在していた。少なくとも、七海自身の感覚では。
当たり前に学校を卒業し、就職し、仕事をしながら生活している。
「何食わぬ顔で……今も、ここにいます」
おまえは誰だと、問う声がする。他の誰でもない、自分の中から。
紳士が黙って耳を傾けていることに甘えて、次から次へと言葉が溢れてしまった。
普段なら絶対に言わない。頑なに秘し続けて、好きな人にすら打ち明けなかったのに。
喉が引きつった。嗚咽が漏れて、やっと泣いていると気づく。
ゆっくりと近づいた紳士が、真白のハンカチを頬に当ててくれる。いくつもの雫が繊細な刺繍に吸い込まれた。
「……わたしは異なる時の、異なる国の、異なる見目の、ただの一人です」
いつだって押し込めてきた過去。
今の生を受けるより前に、七海は確かに存在した記憶がある。
気のせいだ、妄想だ、まやかしだと言い聞かせるほど、呼吸が狭まり耐え難い痛みが襲う。
なかったことにするには、あまりにも鮮明で。あまりにも。
何より、七海自身が、過去を愛している。失えないほどに。
ざあっと木々が揺れて、ぶわりと花や葉が舞う。
思わず見上げた先に見た眉月があまりに綺麗で、雲のない夜空は黒じゃない闇色を纏っていて、ぽつり胸に安堵が満ちた。
濡れた目でまっすぐ見つめても、紳士の穏やかな表情は少しも揺らがない。
ただ柔らかく、強固に、そこにある。最後の砦のように。
「……あなたも、そうなのですね」
それは、奇妙なまでの確信だった。
ほんの些細な仕草が、目線の運び方が、いつかの記憶をひどく震わせる。
身体に馴染むほど繰り返した癖は、世界や時を超えてすら消えないのか。
ふ、と、一瞬だけ左下に視線をやるその癖を、七海は嫌になるほど思い返した。
あの人は気まずい時、必ずそうして目を逸らす。
どう答えようか。嘘をついてもいいものか、いやしかし。
そんな逡巡をしていることさえ、手に取るようにわかる。
「……そうだね。いくつか知っていることもある」
「そうですか」
「語ろうか?」
「は、……いいえ」
へにゃりと、情けなく笑う。我ながら不格好で、歪だ。
だけれど。
「もう、闇には溶けないでしょう」
「そうか」
「知れてよかった。感謝します」
ごめんなさい、大好きだった人。
栞と同じ花の刺繍のハンカチを持つ人。
あれほどの深い愛には、まだ届かないかもしれないけれど、共に育てていきたい想いがある。
それはたとえば、迷い込んだ暗闇のどうしようもないやるせなさを照らす、微かな蛍火のような。
この頼りない心ごと、差し出したくなるほどの。
「ありがとう。あなたも、どうか健やかに。……さようなら」
さようなら。もう、会うことはないでしょう。
穏やかに微笑む紳士に深く深く腰を折って、未練がましく縋りそうな過去を振り切って、七海は駆け出した。
────あいに、いかなくちゃ。
ふらふらと彷徨う七海を、笑い飛ばしてくれる人がいる。
やっとわかった。ここで七海は、確かに、確かに、ちゃんと存在してきた。今までだって。
穏やかで大人な紳士に、心が揺れないわけではないけれど。
過去ごと包み込む深い懐に、惹かれないわけは、ないのだけれど。
でも、やっぱり。ここでやるべきことがある。
息せき切ってたどり着いた先、少々乱暴なノックにちょっと不機嫌そうなその人に、勢いのまま抱きついた。
いつでも来いとは言ったけど、さすがに夜中は危ないとぼやく想い人。
漂いながらも、心が見つけていた、今の七海の大切な人。
初めまして、わたし。つきましては、旅の相棒が欲しいのです。
「ただいま。宗介くんの恋人になりたいです」
お粗末様でございました、、、m(*_ _)m




