角の席
毎朝、7時12分の快速電車に乗り込む。僕の定位置は、10両編成の3号車4番ドア上り左側の角の席に座る。そこの席から見える貫通扉近くの角の席、そこの席はなぜか誰も近寄ろうとしないのだ。
混雑のピーク時でも、ドア付近や通路は人で溢れているのに、あの席だけはぽっかりと空いている。まるで透明な壁が張られているかのように。
最初は偶然だと思った。ラッシュアワーの電車なんて、どこか一席空いているものだ。だが二日目も、三日目も、そして一週間経っても、角の席は空いたままだった。
「不思議だな……」
僕は小声で呟きながら、時折その席をチラチラと見るようになった。座りたい人は大勢いるはずなのに、誰も座らない。立っているサラリーマンたちは、吊り革に掴まりながら、明らかに疲れた顔で床を見つめている。空席があることなど、知らないかのように。
ある雨の朝、僕は意を決してその席に腰を下ろした。
座った瞬間、わずかな違和感があった。シートが妙に冷たい。外は梅雨の重い雨なのに、車内は蒸し暑いというのに、この一角だけ温度が二度ほど低い気がした。
それでも僕は座り続けた。窓の外を流れる景色を眺めながら、ぼんやりと考える。もしかすると、この席には何か「理由」があるのかもしれない。
隣の車両から、若い女性がこちらへやってきた。吊り革につかまりながら、ふと空席に目を止める。彼女の視線が、ほんの一瞬、僕の座る席を通り過ぎた。だがすぐに逸らされ、彼女は僕の斜め前に立ったまま、スマホをいじり始めた。
見えていないのか?
いや、違う。見えているのに、認識していないのだ。
その日から、僕は毎朝その角の席に座るようになった。すると不思議なことに、乗客たちの「気配」が少しずつ遠のいていくのを感じた。会話の声がくぐもって聞こえ、車内の喧騒が水底のように遠くなる。まるでこの席だけが、電車という現実からわずかにずれた場所にあるようだった。
二週間目の金曜日、いつものように座っていると、隣に誰かが腰を下ろした。
振り返ると、初老の男性だった。薄くなった髪に、くたびれたスーツ。僕と同じようなサラリーマンに見えたが、顔色が異様に青白い。
「おはよう」男は静かに言った。「ここ、いつも空いてるだろう?」
「……ええ」
「君も、気づいたんだね」
男は小さく笑った。笑い皺が深く刻まれているのに、目だけが笑っていない。
「この席はね、昔から『空いている』んだ。座る資格のない人間には、座ることができない。座ろうとすると、無意識に避けてしまうらしい」
「資格……?」
「死に損なった者、とかね」
電車がカーブに差し掛かった。車体がわずかに傾き、窓ガラスに雨の筋が斜めに流れる。
男は続けた。
「十年前、この車両で飛び込みがあった。角の席に座っていた男が、自殺したんだ。家族を養うために借金を作り、会社で責められ、逃げ場を失って……。でも死にきれなかった。体は線路に投げ出されたが、魂だけがここに残った」
僕は息を飲んだ。
「それが、あなたですか?」
男は首を横に振った。
「いや。僕はその男の、同僚だった。結局、会社の責任はすべてその男に押しつけられて、僕は生き残った。昇進もして、給料も上がって……家族にも恵まれた。でもね、毎朝この電車に乗るたび、あの席が空いているのが気になって仕方なかった」
男の指が、膝の上で小さく震えていた。
「今日で、ちょうど十年目なんだ。あの男の命日だよ」
電車が次の駅に近づく。ブレーキの音が低く響く。
僕はゆっくりと尋ねた。
「あなたは、これからどうするんですか?」
男は立ち上がり、ドアの方へ向かいながら振り返った。最後に、穏やかな、けれどどこか安堵したような表情を浮かべていた。
「やっと、謝りに行ける。君が座ってくれたおかげで、今日だけはあの席が『埋まった』。ありがとう」
ドアが開く。男は降りていった。
次の瞬間、角の席に座る僕の体が、ふっと軽くなった気がした。車内の喧騒が一気に戻ってくる。吊り革につかまる人々の声、濡れた傘の臭い、濡れた床の感触。
僕は立ち上がり、降りる準備をした。
振り返ると、角の席はもう空いていた。いつも通りに、ぽっかりと。
でも、今日は少し違う。シートの上に、雨に濡れたままの小さな名刺が一枚落ちていた。名前は読めなかった。ただ、裏側に震える字でこう書かれていた。
『やっと、楽になれた。ありがとう。』
僕は名刺をポケットにしまい、駅のホームに降り立った。雨はまだ降り続いていたが、なんだか少しだけ、空が明るくなったような気がした。




