思い出の味 【月夜譚No.396】
掲載日:2026/04/05
近所のパン屋で売っていた揚げパンが好きだった。運良く揚げたてを買えた時は、外側はサクッとするのに中はフワフワの食感で、まぶしてある砂糖の甘さが口いっぱいに広がるのだ。
夫婦で経営していたのだが、二人の年齢を理由に数年前に店を畳んだという。仕方のないことではあるが、彼は今もあの味を忘れられずにいた。
色々な場所で揚げパンを買って食べてみているが、記憶の味に勝てるものは未だに見つかっていない。彼の中の一等賞は、いつまで経ってもあの揚げパンなのだ。
閉じられた色褪せたシャッターはそこにある年月を感じさせて、同時に切なさと淋しさが込み上げる。
そっと目を瞑ると、小さな手に百円玉を握り締めて走ってきた彼に優しくかけてくれる声が甦る。
「……やっぱり食べたいなぁ」
漏れた声は吹いた風に連れ去られたが、想いだけは強く胸に残った。
彼は顔を上げると少しだけ笑って、足をスーパーに向けた。
食べたいのなら、作ってみれば良い。駄目だったら、その時また考えよう。
桜の花弁が散った道路を歩く彼の足取りは、踊るように軽やかだった。




