婚約破棄は場を選びましょう
「アーリャ・アルマス、お前との婚約を破棄する!」
華やかな卒業パーティーの真っ最中、公爵令嬢アーリャの婚約者、レオン・フォート侯爵令息はそう吠えた。
会場の楽団が演奏を止め、着飾った貴族たちが一斉に二人を注視する。
レオンの腕には、男爵令嬢の庶子であるリリスが、震えるようにしがみついていた。
アーリャは手にしていた扇を閉じ、背筋を伸ばして婚約者を見据えた。
「レオン様、急にどうなさいましたの。大勢の方が見ていらっしゃいますわ」
アーリャは淡々と、しかしはきはきとした口調で問いかけた。
その態度はどこまでも礼儀正しい。
対するレオンは勝ち誇ったような笑みを浮かべ、リリスの肩を強く抱き寄せた。
「白々しいぞ! お前がリリスにどれだけ酷い嫌がらせをしてきたか、俺はすべて知っているんだ。教科書を破り、階段から突き落とそうとし、さらには夜道でごろつきに襲わせようとしただろう!」
「レオン様ぁ、もういいんですぅ。私さえ我慢すれば、アーリャ様もいつか分かってくれると思ってぇ……」
リリスは大きな瞳に涙を溜め、甘ったるい声を出しながらレオンの胸に顔を埋めた。
レオンは彼女を庇うように一歩前へ出る。
「リリスはこんなに優しく、清らかな心を持っている。それに比べてお前はどうだ。高位貴族の特権を振りかざし、罪のない者を虐げる。そんな女、侯爵家の次期当主である俺には到底相応しくない!」
周囲の貴族たちは顔を見合わせ、ざわつき始めた。
非難と好奇の視線がアーリャに突き刺さる。
しかし、アーリャはその罵倒をすべて聞き流した。
彼女はスッと口角を上げると、満面の笑みを浮かべた。
アーリャはまず、会場の正面に座る国王と、その隣に座る第一王子に向き直った。そして優雅な動作で、深く一礼した。
「国王陛下、並びに王子殿下。この度は、私共の稚拙な余興にお付き合いいただき、誠に恐縮に存じます」
次にアーリャは、周囲で見守っていた貴族たちに対しても、扇を手に会釈をした。
「皆様、お騒がせいたしました。私の婚約者の、この茶番劇をお許しくださいませ!」
朗々とした声が会場に響き渡った。
断罪を続けていたレオンは、目を見開いて固まった。リリスも泣き真似を止め、呆然とアーリャを見ている。
「な、茶番だと……? 何を言って……」
「まあ、レオン様。まだ役になりきっていらっしゃるの? 本当に素晴らしい演技力ですわ。皆様、いかがでしたか。卒業という良き日に、皆様に刺激的な楽しみをご用意したのです。リリス様も、その迫真の演技、実に見事でしたわよ」
アーリャはパチパチと手を打ち鳴らし、心底楽しげに笑った。動揺するリリスの横に歩み寄り、その肩を軽く叩く。
「皆様、どうかパーティーにお戻りください。これはあくまで、私の家の権力とレオン様の正義感を題材にした、趣向を凝らした冗談にございます。あまりに真に迫っていたため、驚かせてしまいましたわね」
アーリャの堂々とした説明に、戸惑っていた貴族たちの間に安堵の笑いと拍手が広がった。
国王も首を傾げつつ、アーリャの機転を察してか、鷹揚に頷いて演奏の再開を促した。
「アーリャ、お前、何を勝手なことを!」
「レオン様、本当に面白いものをありがとうございました。皆様を楽しませるという大役、見事に果たされましたわね」
アーリャは食ってかかるレオンの言葉をにこやかに遮った。
「それでは、私はこれにて失礼いたします。お二人とも、どうぞそのままお幸せにお芝居を続けてくださいませ」
呆然と立ち尽くす二人を背に、アーリャはドレスの裾を翻した。彼女は一度も振り返ることなく、軽やかな足取りで会場を去った。
◇◇◇
卒業パーティーから数日後。呑気にお茶を楽しんでいたレオンとリリスは、突如侯爵家の私兵に取り囲まれた。
「おい。楽しいお茶会を邪魔するなんで失礼じゃないか?」
眉根を寄せるレオンに、兵士長は淡々と告げた。
「フォート侯爵様が若君を呼び出していらっしゃいます。呑気にお茶会など楽しんでいる場合ではございません。それから、婚約者様も連れてくるようにと
「リリスも……?」
「きっと正式にお義父様が私たちの結婚を認めてくださるのよ! 早く行きましょう!」
そう言って相好を崩すリリス。ならばと渋々兵士についていったレオンが案内されたのは、父の執務室ではなかった。
罪人を監禁する、日の届かない牢屋である。
「若君、並びに婚約者様。お手を」
兵士長は感情の読めない顔で淡々と手錠を差し出した。
「どういう事だ!? 俺は侯爵令息だぞ!」
「正確にはもう……いえ、こちらは侯爵様からお話なさることですね。貴方は既に我々への命令権を持たない」
有無を言わせず乱暴に手錠を嵌めていく。痛みにリリスは悲鳴を漏らした。
流石にレオンは声をあげなかったものの、苦痛に顔を歪める。
兵士長が扉の脇の兵士に目配せする。
重厚な扉が開くと、入室したのは父侯爵その人だった。
彼は机に書類を叩きつけると、冷徹な視線を二人に向けた。
「レオン、およびリリス・マイン。自身の犯した罪の重さを理解しているか」
「と、父様、一体何を言うんです! こんな手錠まで嵌めて、俺は侯爵家の跡継ぎなのですよ!」
「レオン様の言う通りですぅ! 私たちは愛し合っているだけなのに、どうしてこんな怖い場所に連れてくるんですかぁ!」
リリスは涙を流して侯爵を睨んだが、彼の表情は微塵も動かなかった。短くため息をつき、レオンの顔を覗き込む。
「お前は、あのパーティーがどのような場であったか忘れたのか。国王陛下と第一王子殿下がお出ましになり、我が国の権威を諸外国に知らしめる晴れ舞台だったのだぞ。そこで私情による断罪劇を始めるとは、正気の沙汰ではない」
「それは……アーリャがリリスをいじめていたからで、正義のために……」
「黙れ。証拠もなしに公衆の前で高位貴族を貶める行為が、どれほどの不敬に当たるか分からんのか」
侯爵はレオンの胸ぐらを掴み、低い声で言葉を続けた。
「あの場をアーリャ嬢が機転を利かせて収めなければ、お前はその場で近衛騎士に首を跳ねられていた。国王陛下父子への不敬罪も甚だしい。彼女が冗談だと言い張ったおかげで、辛うじて国家としての体裁が保たれたに過ぎん」
レオンの顔から血の気が引いた。リリスはガタガタと震え出し、言葉を失っている。侯爵は二人を突き放し、冷酷に処分を伝え渡した。
「まずリリス・マイン。お前は根拠なき偽証でアーリャ嬢、並びにアルマス公爵家の名誉を著しく傷つけた。後ろ盾もなく、身分も低いお前に慈悲はない。公爵家の訴えと王国法に従い、公衆の前で死罪が決定している」
「ひっ……!? いや、嫌ですぅ! レオン様、助けて、助けてくださいぃ!」
リリスは狂ったように叫び、レオンに縋りつこうとした。しかしレオンは、自分のことで精一杯であり、彼女を振り返ることすらできなかった。
「次にレオン。お前は廃嫡とする。さらに、二度と貴族の種を残せぬよう、その体を作り変えてもらう。一生、日の当たる表舞台に出ることは許されん」
「そんな……種を残せない体……? 俺が、フォート家の長男であるこの俺が……! 父様、どうにかならないのですか!?」
「どうにも出来ぬ」
侯爵は苦々しく言った。その顔は、貴族の顔と父の顔がせめぎ合っているかのようだった。
「……お前のような息子を育てた私にも責任がある。寂しくはすまい。――受け入れることだ」
レオンは絶望に顔を歪め、その場に崩れ落ちた。侯爵の合図で、数人の兵士がリリスの腕を掴み、無理やり引きずっていく。
「レオン様ぁ! 助けてぇ! 嫌ぁあああ!」
女の叫び声が廊下に響き渡り、やがて聞こえなくなった。残されたレオンは、焦点の合わない目で冷たい床を見つめ続けていた。
◇◇◇
卒業パーティーの騒乱から数日後、アーリャは王宮へと召喚された。
案内されたのは豪華な応接室ではなく、国王が政務を執る私室である。重厚な扉が開くと、そこには国王と、傍らに控える第四王子の姿があった。
アーリャはドレスの裾を静かに持ち上げ、完璧な所作で最敬礼を捧げた。
「アルマス公爵が娘、アーリャでございます。陛下、お呼び出しにあずかり光栄に存じます」
「面を上げなさい。急に呼び立てて済まなかったな、アーリャ嬢」
国王は椅子に深く腰掛け、柔らかな、しかし威厳のある声で言った。
彼は机の上の書類を片付けると、アーリャを真っ直ぐに見つめた。
「先日の卒業パーティーでの振る舞い、実に見事であった。あのような公衆の面前で、しかも我が息子の晴れ舞台で不祥事が起きれば、王室の面目は丸潰れになるところだった。お前の機転により、すべてが余興として収まったことに感謝する」
「恐れ多いお言葉にございます。私はただ、あのような喜ばしい場で、皆様の気分を害することがあってはならないと考えたまでですわ。あのような身勝手な振る舞いで、陛下の御心を煩わせたことを、私からもお詫び申し上げます」
アーリャはきびきびとした口調で答え、再び頭を下げた。国王はその潔い態度に満足げに頷き、身を乗り出した。
「フォート侯爵とも話したが、レオンとの婚約は正式に白紙となった。お前ほどの才女が独り身でいるのは、国にとっても損失だ。どうだ、私の方で何か新しい縁談を探してきてやろうか。お前の望む条件があれば、可能な限り聞き入れよう」
国王の提案は、断ることのできない実質的な命令であった。
王が自ら縁談を差配するということは、それだけアーリャの功績を高く評価している証でもある。
アーリャは少しの間、伏せ目がちに考えを巡らせた後、顔を上げて微笑んだ。
「陛下の温かいご配慮、有難く頂戴いたします。私のような者に新たな縁を繋いでくださるとのこと、これ以上の光栄はございません」
「ほう、何か希望はあるか? 家柄か、それとも容姿か」
国王が興味深そうに尋ねると、アーリャは迷いのない瞳で答えた。
「条件は一つだけでございます。……どうか、空気が読める方にしてくださいませ」
「空気が読める、だと?」
予想外の言葉に、国王は目を丸くした。アーリャは困ったように頬に手を添え、クスクスと鈴を転がすような声で笑った。
「ええ。もう二度と、公衆の前であのような恥を晒されるのは懲り懲りですので。場所と状況を弁え、周囲の空気を察して行動できる方であれば、他に多くは望みませんわ」
その笑みは、春の陽だまりに咲く大輪の牡丹のように華やかで、それでいて凛とした強さを秘めていた。
「ふむ……良き条件だな。空気を読むだけなら得意な青年を知っておるが――」
王は傍らに目をやった。
堪らず赤くなり、顔を背ける第四王子。
アーリャはそれに気づかないふりをして微笑んだ。
「それはとても、楽しみですわ」
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