次を右折して
ソウル、龍山区の片隅。キム・ミスンが営む「マシッソヨ・サムギョプサル(おいしい三枚肉)」は、年季の入った換気扇と、客の笑い声、そして焦げた醤油の匂いが染み付いた小さな焼肉屋だ。ミスンはエプロンの油汚れを気にせず、鉄板に向かう姿こそが、彼女の人生そのものだった。
しかし、店の裏側は火の車だった。夫を早くに亡くし、借金だけが残った。今月も、暴力的な金融業者「黒龍組」の返済日が迫っていた。
ある土曜の夜、常連客が泥酔して帰った後、テーブルの隅に奇妙な忘れ物を見つけた。手のひらに乗るほどの大きさの、黒曜石のような光沢を持つ小さな箱。何の変哲もないが、表面には何のマークもないボタンが一つだけ埋め込まれていた。
「電子タバコ? にしては地味ね」
ミスンがそれを手に取り、不思議そうに眺めた、その時だった。
店の入り口のガラス越しに、黒塗りのセダンが止まり、中から黒龍組のイ・テソンが現れた。鬼のような形相をした借金取りだ。
「まずい、今日はまだ金が足りない!」
心臓が喉まで飛び出しそうになり、ミスンはパニックに陥った。彼に金を取り上げられれば、明日からの仕入れも、孫の学費も絶たれる。絶望的な焦燥の中、彼女は無意識に、手の中の奇妙なボタンを親指で強く押していた。
カチッ。
何の音もしない。ミスンはただの気休めだったと諦め、イ・テソンが店内に入ってくるのを覚悟した。
しかし、イ・テソンは扉に手をかける直前で、ピタリと立ち止まった。そして、まるで何かに導かれるかのように、突然、右へと方向を変えたのだ。彼はそのまま、店の横にある狭い路地へと、戸惑った様子で消えていった。
「え……?」
ミスンは呆然とした。イ・テソンは、いつもなら店の前で大声で怒鳴り散らす男だ。彼が何かに気を取られて道を間違えるなど、あり得ない。
その「偶然」は、その後も何度か繰り返された。
借金取りの車が店の前に停まろうとした瞬間、ボタンを押すと、車は急にハンドルを切り、右折して大通りへ戻っていく。市場で重いキャベツのカートを押しているとき、急いでいる人が自分の邪魔になりそうだと感じてボタンを押すと、その人はすぐに右側の陳列台の方へ進路を変える。
ミスンは実験を重ね、ついに確信する。
「このボタンは、押すと、目の前で動いている人間や物体の進路を、強制的に右に変えてしまう」
驚くべきSF的な効力。しかし、彼女の生活においては、せいぜい借金取りを一時的に避けたり、満員電車の中で自分の前の人たちを少し右に寄せて空間を確保したりする程度しか役に立たなかった。
「フン、なんだか拍子抜けだわ。人を左には曲げられないし、方向を変えるだけ。せいぜい借金取りから逃げ回るだけじゃないか……」ミスンはそう言って自嘲気味に笑った。「どちらかというと犯罪者向きの道具ね。善良な市民の私には必要ないわ。」
そうは思いながらも、平凡なサムギョプサル屋のおばさんが、世界で唯一の不思議な道具を持ち歩いているという事実は、ミスンの心に、微かな、小気味よい優越感を与えた。彼女はエプロンのポケットにボタンを入れ、どこへ行くにも持ち歩くようになった。時々は、自分の意志に反して右に曲がってしまった人々の不思議そうな顔を見て、ひそかにほくそ笑んだりもした。
そんな日常に、大きな変化が訪れた。ソウルでバリバリ働いていた一人娘のヒョジン(27歳)が、一人息子のジウ(5歳)を連れて突然帰ってきたのだ。
「お母さん、しばらく厄介になるわ。」
ヒョジンは疲れ切っていた。結婚した相手が性質のよくない男で、ヒョジンに暴力を振るい、多額の借金まで作っていた。ようやく離婚が成立したものの、元夫のジョンフンは怒り狂っており、「孫に会わせろ」「殺してやる」と脅迫を続けていた。そのため、警察に相談する間、一時的な避難として実家に戻ってきたのだ。
ぎこちないながらも、ミスンは孫のジウと過ごす穏やかな日々に喜びを感じた。店が閉まった後、三世代で食べる熱々のキムチチゲは、疲弊した彼女の心を温めた。
しかし、一週間も経たないうちに、悪夢の影が忍び寄った。
「お母さん、見た? さっき、アイツが店の前を車でゆっくり通ったわ。」ヒョジンの顔は青ざめていた。
ジョンフンが居場所を突き止めたのだ。警察に連絡したが、大きな事件が起きるまで動けないという。ミスンは恐怖に震えたが、ポケットのボタンが、彼女に微かな勇気を与えた。
「大丈夫よ、ヒョジン。私が守るから。」
そして、最悪の瞬間が訪れた。
週末の午後、ミスンはヒョジンとジウを連れて近くの公園で遊んでいた。太陽が傾き、夕食の仕込みのために三人が連れ立って帰路についた、その時だった。
曲がり角の向こうから、一台の黒いセダンが、けたたましいエンジン音と共に現れた。運転席のジョンフンが、血走った目で三人めがけて猛スピードで突っ込んでくるのが見えた。
「キャアアア!」ヒョジンの悲鳴。
ミスンの頭は真っ白になった。逃げ場はない。孫を抱きしめるヒョジンの顔は、すでに諦めの色に染まっていた。
もうだめだ、と思った瞬間、ミスンの手が無意識に、エプロンのポケットの中に滑り込んだ。彼女の指先が、あの黄金ボタンに触れた。
「やめろッ!」
ミスンは、全生命を込めて、ボタンを強く、強く押した。
カチッという音はなかった。しかし、猛進していた黒いセダンは、まるで透明な壁に弾かれたかのように、急激に右へとそれた。
ブォン! ガシャーン!
車は道路脇の古いレンガ塀に激しく衝突し、白い煙を上げた。
ミスンは、ヒョジンとジウを抱きしめたまま、その場に崩れ落ちた。三人は無傷だった。
ジョンフンはすぐに逮捕された。幸い、彼も軽傷で済んだ。
後日、警察から連絡があり、ジョンフンが尋常ではない供述をしていると聞かされた。
「私は、アクセルを踏みました。殺してやろうと思った。でも、すぐに後悔したんです。『なんてことをしてしまったんだ、ヒョジンとジウは俺の家族なのに』と。私はハンドルを切ろうとした。でも、手が固まって、全く動かない。死と殺人を覚悟した、その瞬間――」
ジョンフンは、涙を流しながら話したという。
「ハンドルが、勝手に、一人でに右に方向転換したんです。私は生きたいと思ったが、体が動かない。だが、車は私を裏切って、壁にぶつかって三人殺さずに済んだんです。まるで、何かの力に意思を介入されたように……」
ヒョジンは、それを元夫の与太話だと憤った。「自分の罪を軽くしようとしているだけよ!」と。
しかし、ミスンは信じた。あのボタンは、単に物理的な進路を右に変えるだけではない。それは、「押した者の強い願い(三人を救いたい)」と、「対象の心の最も深い後悔(殺したくない)」が一致した瞬間、未来の破壊的な進路を「正しい方向(右)」へ強制的に転換させるための、高次元の装置だったのではないか。
ミスンがそう確信している様子を見て、ヒョジンがふと、窓の外を見ながらつぶやいた。
「もし本当に、本当の本当に、心の底から反省して、罪を償うというのなら……もしかしたら、もう一度くらいは、ジウに会わせてあげてもいいかもね。」
それは、長年の憎しみと絶望に覆われていたヒョジンの心に、希望という名の右折が起きた瞬間だった。
ミスンは、胸が熱くなるのを感じた。借金取りから逃げるための道具として見つけてしまったこのボタンの、真の役割を理解したのだ。
ミスンがエプロンのポケットに手を入れ、感謝の念を込めてボタンに触れた。
その瞬間、ポケットの奥で、パキンと小さな、乾いた音が鳴り響いた。
取り出してみると、黒曜石の箱の表面に亀裂が走り、中央のボタンは二つに割れていた。役割を終え、その効力を使い果たしたかのように。
ミスンは割れたボタンを静かに握りしめた。彼女の店には、今日も香ばしいサムギョプサルの煙が立ち昇り、彼女の人生は、守られた家族の温かい笑顔と共に、平凡で、しかし、間違いなく希望に満ちた道を歩み始めた。それは、どんな超能力よりも、価値のある未来だった。




