ある遣唐使が
出航前の遣唐使の一団がいる。その中に男は紛れ込んでいた。
この男の目的は、他の遣唐使と違って、非常に特殊だ。『野球説話』を集めてくること。
というのも、平安貴族の間で『野球説話』は、とても人気がある。
しかし、面白い話なんて、そうそうあるもんじゃない。
貴族たちは常に飢えていた。『野球説話』をもっともっと楽しみたい。
そこで、海の外に目を向けた。そうだ、唐だ。あの国でも最近は、野球が盛んだと聞いている。
だったら、日本ではまだ知られていない『野球説話』が、たくさんあるだろう。
それで、特殊任務を与えた男を一人、遣唐使の中にねじ込んだ。
唐に渡って、現地の『野球説話』を収集してこい。それらを写本にして、日本に持ち帰るのだ。
しばらくして、遣唐使を乗せた船が日本を出航した。
そして、唐に到着する。
特殊な任務を帯びた男はさっそく、『野球説話』の収集に動いた。
あるお寺の噂を聞く。
そのお寺では、『野球説話』を集めた本を、たくさん所有しているらしい。
男はすぐさま出かけていって、そこの住職に頼み込んだ。熱意が通じたようで、写本の許可に加えて、そのお寺の一室を貸してもらえることになった。ここで寝泊まりすることができる。
それから毎日、筆を握って『野球説話』を書き写す作業だ。
とにかく書いて書いて書きまくる。知らない漢字が出てきても、そっくりそのまま書き写した。
そんなやり方なので、内容が頭に入ってこない。
でも、男は気にしなかった。こうやってたくさん書き写して、日本へ持って帰るのだ。
とはいえ、遣唐使は不定期。いつ日本に帰ることができるのかはわからない。
そのお寺に男がこもってから、十年の月日が流れた。
ようやく日本への船が出るという。
その船に男は乗ることができた。書き写した『野球説話』の写本の山も一緒である。
ところが、不運にも船は嵐に遭遇した。
強い風と雨と波とで、ばらばらになる船。男は海へと投げ出される。万事休すか。
男が意識を取り戻した時、どこかの浜辺に流れ着いていた。嵐は過ぎ去っていて、空はすっかり晴れている。
すぐに地元の人間がやって来て、そこが日本だとわかった。どうにか祖国に帰ってくることができたのだ。
しかし、大きな問題があった。
遣唐使には莫大な国費がかかっている。なので、相応の成果が求められることになる。
けれども、写本はすべて船と一緒に沈んでしまった。手ぶらでの帰国である。
しかも、この十年間、『野球説話』を「書き写すこと」だけに専念したため、その内容は頭の中にほとんど残っていない。
男は平安京に戻ると、手のひらにできた「たこ」を見せながら、必死になって事情を説明した。
が、役人の反応は非常に冷たいものだった。
そんな時である。
なぜか、有力貴族の藤原氏から手紙をもらった。明日の昼に会いたいという。
で、その数日後、男は藤原氏に雇われていた。
藤原氏が言う。
「これからは手紙の代筆を、おまえにすべて任せるぞ」
というのも、唐で十年間、ひたすら書き写す作業を続けたために、知らず知らずの内に男の字は上達していたのだ。今では平安京で五本の指に入るほど。
それを確認するために、藤原氏はまず、男を呼びつけて字を書かせてみたのだった。
この当時の貴族たちは、手紙をやり取りするのが一般的だ。手紙の字が上手ければ、相手に与える印象を良くできる。
そういうわけで、当初の目的だった「唐の『野球説話』を日本に持ち帰ること」はできなかったものの、男は書道の達人として、藤原氏のもとで順調に出世した。
めでたし、めでたし。
次回は「ビデオ判定」のお話です。