喫茶店にて
とある昼下がり、いつものように一人で喫茶店に入り、窓際の席に腰を下ろした。
外の景色をぼんやりと眺めながら、ひとりのティータイムを楽しんでいた。
「ご注文はいかがなさいますか?」
店員さんが、柔らかな声で声をかけてくれる。
「ブラックを一つ。ホットケーキもお願いします。」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ。」
微笑みを浮かべて店員さんが去っていく。その笑顔が、なぜか心に残った。
クラシックが静かに流れる店内。穏やかな旋律に包まれていると、まるで時間がゆっくりと流れているような気がした。
いつの間にか、瞼が重くなり、心地よい眠気が訪れていた。
「お待たせいたしました。ご注文のブラックとホットケーキでございます。冷めないうちにお召し上がりください。」
ふわりと漂うコーヒーとホットケーキの甘い香り。その中に、ほんのりとしたバニラの匂いも混じっていた。
なぜだろう。胸の奥が少しざわつく。——あ、来た。
インスピレーションが湧き上がる、あの感覚。
鞄から原稿用紙を取り出し、僕はすぐにペンを走らせた。
書くことしか考えられない。今は、それだけがすべてだった。
窓際に肘をついて目を閉じると、頭の中に浮かんだのは、満天の星が瞬く天の川の風景だった。
ヒリリーン ヒリリーン——携帯が鳴った。
「颯汰、小説の原稿はどれくらい進んでる?」
電話越しに小泉さんの声が聞こえる。
僕は少し黙ってから、答えた。
「……三分の一くらいかな。でも、今日は少し書けそうな気がする。」
電話の向こうで、小泉さんがクスッと笑ったのがわかった。
「ふふ、また喫茶店?颯汰くん、本当にあそこが好きだね。」
「うん。なんていうか……落ち着くんだ。窓の外を見てると、いろんな物語が流れてくる気がするんだよ。」
「その感覚、ちゃんと紙に残してね。私は編集者だけど、颯汰の最初の読者でもあるんだから。」
僕は小さく笑って、ホットケーキにナイフを入れた。
甘い香りが広がる。けれど今の僕にとって“甘い”のは、この瞬間にしか現れない“書く衝動”だった。
「——じゃあ、頑張って。締切、来週だよ。」
「わかってる。」
通話を切ると、再び静けさが戻ってきた。
ペンを手に取り、音楽の旋律が遠くから流れる中で、僕は再び物語の中へと沈んでいった。
夜9時。
気づけば、もうそんな時間だった。
店内には、僕以外にも2、3組の客が静かに座っていた。
流れるクラシックの音も、どこか夜の深さを帯びているように感じられる。
「お客様、本日の閉店時間は夜10時でございます。よろしければお先にお会計をお願いできますでしょうか?」
ふと顔を上げると、昼間に注文を取ってくれたあの店員さんが、また穏やかな笑顔で声をかけてきた。
その笑顔は昼のそれと変わらず、どこか心遣いのこもった温かさを感じさせるものだった。
「はい、大丈夫です。すみません、長居しちゃって。」
そう言って財布を取り出し、伝票を手にレジへ向かった。
会計を済ませて席に戻ると、再び原稿用紙に視線を落とした。
まだ、言葉が続きそうだった。でも、あと1時間しかない。
「——もう少しだけ、書かせてください。」
独り言のように呟きながら、僕は再びペンを握った。
夜の喫茶店には、昼間とはまた違った空気が漂っている。
静けさと、ほんの少しの寂しさ、そして何よりも、創作のための静かな情熱が満ちているようだった。
ページの上を走るペン先。
心の中で、物語が今、静かに動き出していた。
喫茶店の隅では、マスターが静かに座り、小説を読みながら閉店の時間を待っていた。
時折、ページをめくる音が店内に小さく響く。
彼は普段はあまり口を開かないが、その静かな佇まいからは、店内のすべてを見守っているような安心感が漂っていた。
僕はその様子をちらりと見やりながら、ペンを走らせる手を止めなかった。
店に流れるクラシックの音、マスターの静かな存在、それらすべてが、今の僕を支えてくれているような気がした。
ふと、視線を上げると、マスターが少し遠くからこちらを見ていた。
その何気ない視線には、どこか温かな興味が宿っていた。
やがてマスターがゆっくりと立ち上がり、カウンター越しに声をかけてきた。
「お客様、もしかして作家さんですか?」
その声には、ほんの少しの好奇心と、彼なりの優しさが感じられた。
僕は少し驚きながらも、頷いた。
「はい、そうです。まだ駆け出しの作家ですが。」
マスターは静かに微笑み、頷いた。
「そうですか。作家さんがこうして店で執筆されるのは、あまりないですね。いつもこうして、ここで文章を書いていらっしゃるんですか?」
「ええ。ここは静かで、落ち着けるんです。」
そう答えながら、僕はまた原稿用紙に目を落とした。
言葉を紡ぐというのは、ただ今この瞬間の衝動だけでなく、ずっと胸の奥で眠っていた何かが、そっと目を覚ますようなことなのだと思う。
「なるほど。」
マスターは穏やかに頷き、静かにカウンターへ戻っていった。
そして再び、何も言わずに、本を手に取り読み始めた。
僕はその背中を見ながら、そっとペンを握り直した