8
自部屋。ベッドの上。
「俺」自身を倒して、帰宅してからずっとこうして寝転んでいた。
校舎に大した被害はなく、夜海たちに大事も無い。夜海の力で斬られた草薙は目覚めるのに時間が掛かったが、幸い命に別状ないようだ。
あの場で死んだのは俺の幻影だけだった。
色んな思考が渦巻いては消えていく。この世界、俺の周囲の人々、未神蒼。そして俺自身。
かつての俺の屋上ダイブ。あの日、未神蒼は世界も俺の人生も書き換えた。ロストブラッドの発動だけでは無い。俺には姉と友人と、俺は気付いてないけれど自分に想いを向ける少女が生まれた。その瞬間までそんな人物はいなかったのだ。
んな馬鹿な話があるかって? けれど今、俺にはいなかった世界の記憶がある。ファントムの黒い炎と共に流れ込んできたのだ。
その世界では姉とじゃなく、両親と暮らしていた。俺は一人っ子だったようだ。親にはさして愛されず、友人も無い。女性と関わることもない。執筆の才も特には無い。飛び降りたが死ねずに脳に障碍が残り、更に書けなくなった。最期は火事に巻き込まれて死亡、と。
「考えれば考えるほどろくでもねぇな、おい……」
整理してみたが、知りたくなかったことばかりである。この世の憂鬱を全て詰め込んで煮込んだような人生だ。その成れの果てがあのファントムである。報復しか考えられない怨霊になるのも仕方が無いのかもしれない。
結局、未神の介入により俺は何の後遺症も残らず、本来手に入らなかった多くのものを得ることが出来た。あいつのしたことは倫理的には邪悪と言っていい。居もしない国や人を在ることにした。だが、それは俺のためなのだ。
あいつは俺のために世界を壊し、創ってみせたのだ。
「あきらー?」
姉貴が部屋に入ってくる。
「ノックしろよ」
「まあまあ」
「まあまあじゃねえんだよ」
そのまま部屋の電気を点け、テレビもつけ始めた。
「で、何の用?」
「特にないよ」
「じゃあ出てけよ」
「ほら、思春期は一人でいちゃいけないって言ったでしょ。ね?」
そのままごろーんと寝転がり始める。……この姉も、未神が生み出した存在なのだ。今まで感じたことのない違和感に襲われる。本当はいなかったはずの存在。しかし、目の前でごろごろしている姉貴は確かに存在している。
「ん? どうかした?」
「いや……」
「ふっふーん。おねえちゃんの麗しい姿に釘付けかなー?」
「……」
「なんか返事してよー」
「……自分がいなかったかもしれないとか、考えたことあるか?」
口をついておかしなことを聞いてしまった。
「え?」
「いや、その、だから、ある瞬間に急に自分が生まれたっていうか……」
姉に怪訝な顔で見られる。そりゃそうだ。
「んー、あきくん……」
顔が近付く。近付けんな。
「変わる前のこと、覚えてる?」
「……は? 変わる前?」
「うん。この世界がもっとつまらなかったころ」
気が動転する。その口ぶり、まさか……
「あ、おねえちゃんが存在してなかったのは知ってるよ」
……有り得ない。そんなこと、有り得る筈がない。
「ちょっと前にどかーんとこの世界の情報が書き換わって、わたしがいたことになった。で合ってると思う」
「……知ってたのかよ」
「知ってるっていうか。そんな感じがしてた。っていうかあきらこそいつ気付いたの?」
「今日……」
「あ、そっかー」
そんな何でもないことのように姉は笑った。
「自分がそうだって、分かった上で今日まで普通に生きてきたのか?」
「まあ別に、何にも変わんないしね」
「いや、変わるだろ……」
ぎゅっと鼻を摘まれた。
「変わんないよ。あきらは間抜けな弟で、わたしはりっぱなおねえちゃんなのだっ!」
「あはは……」
「そうなるように創られたのかもしれないけどさ。まあいいじゃん、それでも」
溢れる何かを抑えようとして、体が少し震えた。
「あきらは? いや?」
「……嬉しいよ」
「ならよし。まあいやでもわたしがおねえちゃんなのは変わらないけどね!」
ベッドの端に姉が座る。
「あ、怖かったんでしょ。ほんとのことに気付いたらわたしがいなくなるかもって」
そんなことは……まぁ全く思わなかったわけでもない。
「ふははは! おねえちゃんは永遠なのだっ! ふはははは!」
姉貴が変身ポーズを取りながら高笑いした。恥ずかしい。
……けれどこの人がいる限り、俺は狂ったりしないだろう。泣かれた顔を見られたくなくて、ベッドに顔を擦りつけた。
「ずっとわたしは味方だからね、あきら」
「……ああ」
救われた気がした。
―――――――――――――――――――――
放課後。椅子に背をもたれ、溜息を吐く。今日も授業が長かった。保健で人体の構造が云々とか言ってたけど、今はどうなってんだろうな。今度未神に聞いてみようか。そうやって疲れ果てていると、机にあんぱんが置かれた。
「ん?」
「昨日は散々頑張ったみたいだからね。褒美を取らせようと思って」
ケインがそばに立っていた。
「それでこのあんぱんなわけか」
顔を寄せてくる。世間一般に言えば整ってる方だろうが、野郎の顔に興味は無い。
「昨日の戦闘だが、彼ら生徒、職員には化け物同士の戦いにしか見えていないようだ」
「そうなのか?」
「じゃなきゃきみの正体で大騒ぎしてるだろ?」
そう言われればそうだった。今日は何事もなく登校し、何事もなく放課後を迎えた。学校中昨日現れた化け物とその戦闘の噂でもちきりだったが、俺がどうこうなんて話はしていない。
「ぼくはあれの正体が分かってるから気付いたけれど」
途中で俺の異形化が解けたはずだが……言うまでもない。未神が何か細工したのだろう。
あんぱんの袋を開いて齧る。くりーむあんぱんだった。ケインが顔をどけ机に腰を預けた。
「ところで実は異形同士の戦闘以上に奇妙な話があってね」
「ああ」
「どうやら、ボクの出身は日本だったらしい」
未神の言った通りになっている……いや。未神が言った通りにしたのだ。
「変な話だが、今日の朝になってそう思い出した。夢でも見てるような非現実感があった」
ケインは未だ知らない。自分がロストブラッドの日に創られた存在だと。
「驚かないかい?」
「……いや。不思議なことには慣れてきた」
「あはは。そりゃ違いないね。…………ねぇ、アキラ。これは突拍子も無い妄想なんだけど」
「ん?」
「ロスブラから始まった多くの奇怪な現象。これらに恣意的なものを感じてるんだよ」
「恣意的?」
「うん。自然現象でも事故でも無い。「誰か」がそうした」
「はぁ。誰だよ」
「未神蒼」
あまりに的確な単語を彼は述べた。適当な冗談だと思い横顔を見れば、薄っすらと自信が見て取れる。
「違うのかい?」
「どうして俺に聞く」
ヤツが背を向けたまま、ことりと瓶を机に置いた。
「この学校の珈琲牛乳は美味しいんだけど……どうだい?」
「買収のつもりか?」
「好きにとってくれたまえ」
どうしたものかと茶色の瓶を見つめる。未神のことをこいつに話していいのか?
ことの一部はこいつも巻き込まれている。知る権利はあるとも言えるが……
「依途くん、いるかな」
声に振り向くと、扉の向こうに未神がいた。
「飼い主の登場というわけか」
「誰が犬だって?」
「そこまでは言ってないさ」
手を挙げてみせると、未神がこちらに歩いてきた。
「依途くん、部活だよ」
「珍しいな。わざわざ教室まで来るとは」
というか初めてである。教室を知っていたのかとすら思う。
「やぁ、はじめまして」
「えっと……依途くんの友達かな?」
「うん。ケイン・カクタス。よろしく」
先までの会話など無かったかのように、ごく自然にそう挨拶した。
「うん。よろしく。未神蒼っていいます」
普段よりにこやかに未神が応えた。
「何か話してる途中だったかな?」
「いや。同じ部の女子が可愛いと自慢されて困ってたのさ」
流れるように嘘を付く男である。
「あはは。照れるね」
本心か猫でも被ってるのか、未神がそう言った。腹の読み合いなら俺抜きでやってくれ。
「まあそういうわけだ。ほらアキラ、さっさと行きたまえ」
「はいはい」
立ち上がる。瓶をつまみ上げた。
「買収じゃないなら貰ってくぞ」
「ああ…………話はまた今度聞くさ」
未神と教室を出る。歩きなれた廊下。いつものように昼下がりの陽射しに照らされている。
「迎えに来なくても行くつもりだったんだがな。どうしてわざわざ?」
「……来ないかもしれないって、そう思ったんだ」
「?」
「昨日のことがあったから」
昨日のこと……全部未神が創った世界なのだと。彼女は俺にそう告げた。
「まぁ、思うところはある。無条件に肯定できるわけじゃない」
「当たり前だよ」
「だが……その恩恵を一番受けたのは俺だ。俺だけは、お前の行為を否定出来る立場にない」
「……」
「ありがとう、未神。俺を救ってくれて」
意外そうにこちらを見てくる。だが俺にとって、その言葉は必然だった。
「どうして俺のためにそこまでしてくれたのか分からないけど。でも、お前のお陰でさ。
もう俺死にたくないんだ」
未神が更に目を見開いた。
「そんなに驚くなよ。やなこととか、怖いこととか、倫理的に良いのか分からないこともあったけどよ。少なくとも、この一ヶ月くらい俺は楽しかったんだ。明日部室に行ったら何があるんだろうってちょっとわくわくしながら寝るんだぜ? 笑っちゃうよな」
「そうだったの?」
「ああ…………お前の書いた物語は最高だった」
未神が俯く。
「おい、どうかしたか?」
「別に……なんでもない」
「調子でも悪いのか」
「見ないでっ」
声が上擦っている。……泣いている様に聞こえた。
「な、泣くなよ……」
「泣いてないっ」
まぁ、そう言うなら泣いてないのだろう。そういうことにする。
「次はどんな話になるんだ? 想像主?」
「……」
「教えてくれよ。お前が何を描くのか」
未神が顔を上げる。
「今日は……ちょっといつもと違うんだ」
「ん?」
話していると部室に着いた。未神がドアを開ける。光の溢れる部室がそこにあった。
普段と変わりないように見えるが一つだけ違う。
「……笹?」
「うん。笹」
部室の最奥。未神の席の傍に青々とした笹がそびえていた。
「もうすぐ、七夕でしょ」
そういえば七月だった。平日と土日くらいしか気にしない生活を送っているせいで、そういう行事はほとんど頭になかった。……が七夕はもう少し先である。
「何で今日なんだよ。まだ七日じゃないぞ」
「お星さまもいっぺんにリクエストが来たらダウンしてしまうだろ?」
「サーバーじゃねえんだからさ……だいたい、どこから持ってきたんだよ、こんなの」
「パンダから貰った」
「この国のパンダは色々デリケートなんだ。触れるなよ」
未神が軽口を無視して、カラフルな紙の束を俺に差し出してくる。
「短冊か」
「うん。今日はこれを書くのが活動」
随分楽な部活である。黒板にも「笹の葉レクイエム」とあった。何だレクイエムって。
「好きなだけ書くといい」
「普通一枚だけじゃないか? こういうの」
「年一なんだ。そんなみみっちいことは言わないよ」
強欲だなあ。
しかし、何を書こうか。無欲では無いが、いざ願い事と言われると中々思い付かない。ファントムが無事成仏出来ますように、とでも書いてやろうか。まさにレクイエムである。でもそれは何というか、俺が書くのも変な話で。執筆の才能を下さいというのもあまりに切実な願いで躊躇われた。仕方が無い。適当に書いておこう。
ちゃちゃっと書き終えると、未神が忙しなく筆を走らせていた。傍らには書き終えた短冊が既に何枚も積まれている。
「強欲は身を滅ぼすぞ」
「強欲でないならそもそもお願いなんて書かないよ……依途くんは一つでいいの?」
「ああ。……もう半分、叶ってるようなもんだからな」
短冊を未神に渡す。
「翼をください…………? なにこれ?」
「これといって叶えてほしいこともないんだ。だからまぁ、そんなんでいいかなって。
お前は何書いたんだ?」
「ひみつ」
「え?」
「見ちゃだめ」
そういってぐいぐいと部室から押し出される。
「あ、おい」
「笹に吊るしてくるから外で待ってて」
ドアが閉まる。結局未神が何を願ったのかは分からない。そもそも未神なら大抵の願いは自力で叶えられそうである。 年一仕事するかも微妙な神に願い事をするくらいなら、自分でどうにかしたほうがいい。……それとも、自分じゃどうにもならないことなのだろうか。
「お待たせ、依途くん」
ドアが開く。
「ん……まだ入れないのか?」
「うん。出入り禁止だよ」
まさかの出禁である。
「じゃあこのあとどうするんだよ」
「部活はこれで終わり。……けど、付き合ってほしいんだ」
言い回しに違和感を覚える。どうしろって?
「いや。この言い方だとよくないね。一緒に来てほしいところがある」
「どこだよ?」
「ぼくの家」
考える。これは何か誤解があるのか、こいつなりの粋なジョークなのか。……万に一つ、誤解でも冗句でもなくそのままの意味であるなら、これは大変なことである。
「付き合ってもいない男を家へ連れ込んではいけない。古事記にもそうあるだろ?」
「無かったと思うけど」
「じゃあ聖書でもいい。色欲は大罪だ」
「気にしすぎだよ。……だいたい、依途くんはそんなこと考えてるの?」
「いや、まさか」
「なら問題はどこにもないね」
黙って着いてこいと言わんばかりに未神が歩き始める。黙りはしないが着いていく。
「そもそもなんで家庭訪問の必要がある」
「ぼくはきみの家に行ったろう? ならきみもぼくの家に来ないといけない」
「お前が無理矢理押しかけたんだろ……」
「そうだった気もするね」
廊下に伸びる光は紅く染まっていた。
「話したいことがさ、いっぱいあるんだ」
「?」
「どうする? きみが嫌なら、やめるけど」
その声音には僅かに不安のようなものがあった……ような気がした。
「…………どう、かな?」
―――――――――――――――――――――
「ありがと」
揺れる電車の中、いつもより高い声で未神がそう笑う。
結局未神の家に遊びに行くことになった。押し切られた……というより、誘惑を断ち切れなかったという方が近い。
「次の駅で降りるよ」
未神は足をぱたぱたとさせながら窓を見つめている。夕暮の街並みが映っている。車内には学生やサラリーマン。この時間帯にしてはスーツを着た人々が多い。何でも聞くところによれば残業する人々も減っているらしい。労働意欲自体損なわれつつあるのだ。
そりゃそうだ。働かなくても死なないのだから。
「お菓子でも買ってこうか」
「ん……ああ」
そのまま電車が止まり、ホームに出た。改札を通って駅の外へ。知らない街が広がっていた。
「こっち」
黙って着いていく。何と言うか、妙に言葉が出ない。何を言っていいか分からずただ歩いていた。スーパーに寄り適当にアイスやらなんか買って、そのまま進んでいくと未神が止まった。
「あれ。ぼくの家」
ぼろのアパートがそこにあった。
「……随分古いところに住んでるな」
「まぁ一人暮らしだしね」
「……え? そうなんです?」
彼女が階段を昇っていく。いや、それまずくない?
「この部屋」
シリンダー錠を鍵穴に挿し、扉を開けた。
「いらっしゃい。依途くん」
「ああ、お邪魔します……」
飾り気のない部屋が目に飛び込んでくる。
「ガスコンロに鉄鍋……」
「いいでしょ? ま、あんまり使わないけど」
コンロもそうだが、そのほか内装もなかなか時代を感じる作りだった。部屋の中はこれといった装飾がある訳でもない。
「向こうに座ってて」
リビングに通される。フローリングに黄色のマットが引かれ、白いテーブルが置かれていた。その他には本棚とベッドが置いてある。
「おまたせ」
未神が飲み物とお菓子を持ってきた。
「悪いな」
「ううん」
袋を開けてビスケットを摘む。薄明の、曖昧な光が質素な部屋を悲しげにしていた。
未神を見やると何を言うでもなく、ただ目の前に座っている。話すことが無いことはないだろう。多分、何をどう話を切り出すべきか悩んでいるのだ。
「……依途くん。ゲームでもしよっか」
「ん?……まぁそうだな」
未神がやけにレトロなゲーム機に電源を入れる。よく分からないが、付き合うことにした。
それから2時間くらいぶっ続けで未神と対戦していた。試合は意外にも盛り上がりに盛り上がり、ついさっきやっと一戦勝利をもぎ取ったところで体力を使い果たした。
「やったな……」
「うん。すっごくやった」
コントローラを置き、その場に寝そべる。
「すまん。疲れた」
「いいよ。気使わないで」
暗い部屋にモニタの明かりだけが灯っている。夏なのに、もう風が冷たかった。
「……ぼくさ、友達とゲームやってみたかったんだよね」
「やったことないのか?」
「うん。友達、いなかったから」
その辺りで俺はとても大切なことに気が付いた。
未神は俺を知り過ぎていると言っていいほどなのに、俺はこいつのことをほとんど知らない。家族、友達、趣味、好きな食いもんetc……不思議な力に関わらず、こいつは謎まみれだった。何で今まで知ろうとしなかったんだろう、俺。興味が無かったから? それとも心のどっかで同じ人間だと思ってなかったのか?
誰よりもこいつが一番、物語の登場人物のようだった。まるで白馬の王子みたいな。
「……どうかした? 依途くん」
「白馬の王子にしてはちんまいな、と」
「え?」
「いや。気にするな。それより未神、お前、家族はいるか?」
「家族? うん、両親はいるけど……」
「趣味は何だ」
「え、えーと……レトロゲームと世界変革……」
「好きな食いもんは何だ」
「どうしたのさ、さっきから」
「反省した。俺はお前のことをほとんど知らなかった」
「?」
「何だか知らんが家に連れ込まれたのだ。いい機会だ。教えてくれ、お前のことを」
そう。知らなくてはいけない。未神蒼という、一人の人間のことを。
「さぁ、好きな食べ物を」
「んーと、モナカアイス……」
「そうなのか」
「うん。トースターで焼くと美味しい……」
「あとは?」
「え? あと? ……うーん、オムライスかなぁ」
立ち上がる。
「冷蔵庫開けてもいいか?」
「いいけど……」
卵、ケチャップ、玉ねぎに舞茸。まあこれでいいだろう。
「米もある……と」
「どうしたの、さっきから」
「そろそろ、夕飯の時間だなって」
時計の針は六時半を指している。
「作るよ、オムライス」
「依途くんが?」
こいつには色んなものを貰いすぎている。夕飯くらい作ってやろうじゃないか。
「そんな、悪いよ」
「まあいいじゃんか。俺も好きなんだよ。無理にとは言わんが」
「……ううん。食べたい」
「よし来た」
普段と勝手に違う台所。包丁とまな板は……ここか。
卵を割る。玉ねぎと舞茸を刻む。フライパンに油を引く。
「手慣れてるね」
「そんなに上手いわけじゃないけどな」
具材を炒めケチャップを加える。米を加えて塩胡椒。皿にあけてパンを洗い、卵を焼く。
「卵は?」
「固めかな」
「チーズは?」
「あ、欲しい」
卵にチーズを乗せ、ライスを空けて、くるんで皿に戻す。上にケチャップでハートを描いてやった。
「おお……依途くんのオムライス」
自分の分もちゃちゃっと作る。卵が破けたがまあいい。
「いただきます」
「ん」
未神がスプーンに乗せたオムライスを頬張る。
「…………ぼくよりうまいな」
「そうか?」
「誰かの作ったごはん、久しぶりだ」
不味くはないようだ。一安心。しかし、やけに静かに食べている。どうしたのだろうか。
「ごめんね、こう……食レポとか上手くできなくて」
「別にレポートする必要もないが」
「でも、これをいつも食べられる人はすっごく幸せなんだろうなって。そう思う」
そんな大したものでもないのだが。
「あとは……なんだ? 俺は何を知らなきゃいけない?」
「……そんなにぼくのこと知って、どうするの?」
「どうもしないさ。知りたいから聞いてる」
見た目の悪いオムライスを口に運ぶ。
「……ちょっと多かったか?」
「ううん。おいしいから大丈夫」
未神が赤いハートに匙を入れようとして止めた。
「ま、お供え物みたいなもんだと思ってくれ」
「お供え物?」
「神みたいなもんだろ、お前。いや救世主と言ってもいい。人類も俺も、お前が救った。本当ならどっかに祀りたいくらいだよ」
「……依途くんは、ぼくを信仰するの?」
妙な語彙が飛び出す。
「それはいやだ」
「……」
「依途くんに好まれるのも、必要とされるのも嬉しい。でも崇められるのはいやだ。遠ざかってしまう気がするから」
「じゃあどうすればいい」
「……友達がいい。友達に、してほしい」
「好きにしてくれていい。友達でも親友でも」
「依途くんは? ぼくのこと……」
「これからもよろしくな、親友」
未神が笑った。
お互い食べ終わるのにそこまで時間はかからなかった。
洗い物を終え、時計を見るともう七時半を過ぎている。随分長居してしまったらしい。
「そろそろいい時間だ。帰るとするよ」
「え……あ、もうこんな時間」
立ち上がり、玄関の方へ歩いていく。何で家に呼ばれたのか、話したいことというのが何だったのかは結局分からず終いだったが……まぁいつか分かるだろう。
「ちょ、依途くん、待って!」
「ん?」
呼び止められる。
「あの……」
ゆっくりと俺の方に歩んでくる。密着しそうなほど。
ほのかな香りが鼻腔をくすぐる。
「……泊まっていかないか?」
「…………」
「まだ話したいことがたくさんあるんだ」
「いや、だめだろ」
「今日だけでいい。隣にいてくれないか。こんなに安らぐのは……はじめてなんだ」
濡れた上目。掴まれる袖。
「友達の家に泊まるだけ…………ね?」
首を微かに動かす。抗えるはずもなかった。幸せそうに彼女が笑った。
未神はそのままソファに座ると、隣をぽんぽんと叩く。黙って隣に座ると、ほのかな体温が腕に伝わってきた。近くにあった本を手に取って俺に見せてくる。
「それ、俺の……」
いつも未神が読んでいる本だ。以前部室に寄った際に開いてみたら、中身は俺の書いた小説だった。あの時は訳が分からなかったか……
「きみが書いた小説。それが全ての始まりなんだ」
未神の手の中で、本が原稿用紙に姿を変えた。……俺の字が書かれている。
「依途くんが飛び降りる前にね。毎日が憂鬱で、退屈で、生きる理由を感じられない、そういう人がもう一人いたの」
「?」
「……わたしのこと」
世界で一番死を嫌っていそうなこいつがそんなふうだったなんて。
「いつだったかな。学校に忘れ物をしてね。それを取りに自分の教室に歩いていた。
その途中で大量の原稿が落ちてたんだよ。……依途くん、きみの小説だ」
俺が原稿を学校に置き忘れた? そんなことあったか…………いや、あったな。学校のロッカーの中に入れっぱなしになっていた。飛び降りの何日か前だったか。
「拾って元のロッカーに戻そうと思ったんだけど……一枚目が目についてね、死のうとする人の話で、興味が湧いて。月明かりに照らしながら、教室の机に座って読んだの」
「読んだのかよ」
「読んだよ。全部」
「そりゃ恥ずかしいな」
その作品は出来損ないである。賞に受かるわけでもPVが付くわけでもない。
「ものすっごく面白いわけじゃないし、文章は分かり辛いし、おまけに長かった」
「……はっきり言うな、おい」
「でもね、それがわたしの……ぼくの始まりなの。強烈な希死念慮との闘いと、救済。
泣いた。震えた。救われた。世界が色を変えた」
「……」
「読み終わる頃にはぼくは…………神になっていた」
「おい、まさか……」
「きみの物語が、ぼくを想像主にしたんだ」
全ての始まりが、俺の小説だった……? そんな馬鹿な。あの出来損ないがこいつを動かしたってのか?
「責任取ってね。きみがぼくをおかしくしたんだから」
安らいだ笑顔を浮かべていた。
「そんなことあり得るのかよ。小説読んだくらいで、変な力が手に入るなんて」
「有り得る有り得ないじゃない。「有り得た」んだ」
「何か別の理由だったんじゃ」
「万に一つ、この力が別の要因によるものだったとしても。
きみや世界を変えようと思った理由はこの本だから。……ロストブラッドの本当の黒幕は依途くんって言っても良いくらいなんだよ?」
そりゃ光栄である。引きつった笑いを浮かべた。
「その後はきみの未来が見えた。絶望していた。
どうにかきみの死なない方法を考えたけど……でもそれだけじゃ物足りなかったんだ」
「それでロスブラを?」
「うん。……死ぬな。殺せ。その絶望を殴り殺せ。それが出来たら他人の絶望も共に殺せ」
「……書いたな、そんな文」
そう書いた当人が死のうとしたのだ。馬鹿なもんである。
「きみの書いた言葉通り……って言うには大げさかもしれないけど。死すら殺してみせた」
未神が俺の前に立ち上がる。
「……きみを救ったのはぼくかもしれないけど、ぼくを救ったのはきみなんだ」
視界が覆われ、柔らかな感触に包まれる。鼓動が伝わってくる。
「依途くん」
ただ、名前を呼んでそうし続ける。離してくれとも言えずに俺はそのままになっていた。…………無意味じゃなかった。あの小説も、それを書いた俺も。かっと身体が熱くなって覆われた目元が滲む。嗚咽し始める。
「きみに才能があるかは知らない。でもきみが書いたから、物語は始まったんだ」
意味も価値も、無いと思っていたものたちは確かに俺にあったのだ。柔らかなてのひらが俺の頭を撫でる。
それから、ただひたすらに泣いた。全ての絶望が殺されたような気がした。
―――――――――――――――――――――
一体どれほど泣いていたのだろう。とっくに日付は変わり、目元が赤く腫れていた。今の世界でも腫れるんだなとかそんなことを思う。あれから風呂に入り、未神が用意してくれた寝巻きに着替えた。ソファに倒れ込む。今日の俺の寝床だ。布団は一つしかないらしい。
……いや、何で俺未神の家で夜を明かそうとしてるんだ。ふと冷静になってこの状況の不可思議さに思いを馳せるが、幾ら疑問に思っても何が変わるわけじゃなかった。
「……寝るか」
目を瞑る。さっさと寝てしまおう。泣き疲れているからか、睡魔は割と早くに囁いてくる。これなら早く寝れそうだ……と思ったのだが。
「…………」
シャワーの音が聞こえるのである。そう、未神が風呂に入っているのだ。その……なんだ。気になるわけで。ぐっすり眠れるはずもなかった。結局意識が冴えたまま寝転がっていると、やがて水音が止まった。そのままドアの開く音がする。
「ふー」
薄っすらと開けた目に、濡れた髪を拭きながらこちらへ寄ってくる未神が映った。先よりも薄着で、白い腕と脚、鎖骨と腹が見えた。見てはいけないもののような気がして、そのまま寝た振りをする。心臓がうるさい。
「……依途くん? 寝てるの?」
僅かに湿った指が頰に触れる。撫でるように首筋に降りていく。声が出そうだった。
「起きてるでしょ」
少しムッとしたような声に瞼を開くと、こちらを覗き込むような未神の顔があった。
「いや、その」
「寝たふりしないでよ」
胸元が見えていた。目を逸らす。
「なんだよ、こっち見ろ」
無理矢理顔を引き寄せられる。尚更見えてしまった。
「おま、薄着が、見えてんだよ!」
「ん……?」
未神が視線を下ろす。自身の胸元が見えるのに気がついてくれたようだ。溜息を吐かれる。
「この薄い胸にそんな反応しても仕方ないでしょ」
「あるだろ」
未神は頭を拭いたタオルを洗濯機に入れてくると、俺のソファの底に寄りかかった。
「だいたい、きみはもっと大きなの見慣れてるだろ」
「?」
「夜海さんに剱ちゃん、きみのお姉さん……みんなぼくよりあるだろう」
「それは関係ない」
「どうかな。ぼくのいないとこで夜海さんの胸を揉みしだいたり、剱ちゃんとよろしくやったりしてたみたいじゃないか」
あんまり否定はできない。
「お盛んなことで」
「その言い方は止めてくれ……」
ふと、忘れていた疑問を思い出す。
「そうだ。夜海や姉、ケインがお前が生み出したのは聞いたが。剱はどうなんだ」
「彼女は元からいたよ。ある意味一番不思議で、不自然な人物とも言える」
「お前が書いたんじゃないのか」
「うん」
例外、か。
「ぼくの力は完璧じゃない。未来予測に彼女はいなかった」
「そういえば、シルエスタに夜海が現れた時も想定外だったみたいだな」
「ファントムの出現もそう……」
「姉貴やケインが自分の出自に気がついたり、疑問を覚えたのは?」
「半分はそう、かな」
ならもう半分は想定の内だったのか。
「ぼくは、彼らのすべてを規定したわけじゃない。
ぼくの中の感情から生まれたけれど、それからどう生きていくのか、どう変化していくのか。そこまでは決まってない」
「未神の感情?」
「依途くんに対する気持ちだよ」
姉貴に夜海に、ケインに草薙。分かるような分からんような。
「物書きがキャラクターを制御し切るわけじゃない。それに彼らは確固たる意志を持ったヒトだ。これからだって自分の意志で存在し続ける」
「安心したよ。全部プログラムされてるわけじゃないんだな」
未神が布団を部屋の真ん中に引いた。
「自分の心すらどうにもできないのに、出来るわけないよ」
未神は布団に寝転がって身体ごとこちらを向いた。何が見えているわけでもないのに、その姿はやけに扇情的に映る。
「……依途くん。こっちに来てくれないかな」
「こっち?」
思考が停止する。推測された答えを振り払う。何を言ってるんだ……?
「ソファで寝るのはよくない」
その一言で意味が確定してしまった。
「お前、ほんとどうしたんだよ。今日おかしいぞ」
「布団は一つしかないんだ。仕方がないよ」
両のてのひら……俺を抱きしめ、撫でた掌をこちらに向けてくる。
「こっち……」
俺を癒した優しい声が体を吸い込んでいく。警告を鳴らしているはずの脳が融けていく。
「えとくんっ」
取り込まれるように布団の中にいた。
「えへへ。今日は一緒だね」
掛け布団に包まれる。闇の中で、柔らかな感触に蝕まれた。
「えとくんはあったかいね…………」
体をすりつけてくる。
「こっちむいてほしいな」
顔を引き寄せられる。眼が合う。胸が擦れあって足が絡んだ。知っているはずの匂いがやたら甘ったるく思える。なにかそういう薬なのかと思うほどに、感覚だけが脳を満たしていった。
「きみがぼくを受け入れてくれるなら、心を繋げることができる。
互いの輪郭がぼやけてとろけて、はじめからひとつであったような気持ちになれる」
無言のまま、それを欲する。
「うれしいな。…………さ、いくね」
互いの身体の触れているところから魂が染み出していく。未神が身体よりも近くにいるような、互いを埋め合っていくような、えもいわれぬ快感が意識を満たす。
「えとくん、……えとくんっ」
ぼーっとして理性が薄れてきた。ただ幸福を受容するだけの物体に成り下がるような幸福。
はっとするように世界がカタチを取り戻す。意識が回復していく。
「ふふ」
笑みがそこにあった。
「精神接続っていうんだ。ぼくにしかできないし、きみにしかしない。安心して。感覚だけで、本当に一つになっちゃったりはしないから」
安堵か落胆か、自分の感情が分からなかった。けれど脳に焼き付いた快感だけははっきりと主張してきている。
「もっかい……してみる?」
答えるまでもない。互いに息を荒くし、更に同調していく。
「……」
安らぎ、昂ぶり。
「…………」
リビドー、デストルドー。
「きもちいいね、親友」
報酬系の発動。
掠れたような、喘ぐような声。
「ぼくは幸せだ。幸せだった」
天使は俺を救済した。