7
「ただいまー」
鍵を開けて家に上がる。何日ぶりだよ、返ってくるの。
「おかえりー……って、あきら……!?」
姉が迎えてくれる。何日ぶりだよ、そのアホ面。
「おう……っ!?」
がばりと姉がだきついてくる。
「ちょ、何して」
「あーきーらぁ……」
「いや、なに」
「なにじゃないよぉー、どこ行ってたんだよぉ!」
涙目になりながら姉が俺の肩をぶんぶん振る。
「友達の家だって言っただろ」
「嘘つくなよぉ、あきらにそんな友達いないだろぉ!」
なんで知ってんだよ。
「どっか誘拐されたのかなとか、酷い目にあったのかなとか……」
まぁその通りなんですけど……ふと、階段から誰かが降りてくる。
「依途さん……」
「夜海……」
今日も家に来ていたのか。姉が俺から離れる。かわりばんこに夜海が抱き着いてきた。
「どこ行ってたんですか!?」
「いやー……」
「私も! おねえちゃんも! 本気で心配してたんですよ!」
「いや、おねえちゃんって……」
おねえちゃんて。いつの間にそんな仲良くなったの? きみら?
「……ん? なんですか、それ?」
俺が握っている赤いそれに気付く。
「ケチャップだが」
「なぜケチャップだけ裸で……」
「いや、色々有って貰った」
姉と夜海がジトーっとこちらを見ている。
「な、何だよ……」
「おねえちゃん。私の第六感が囁いています」
「彩夏ちゃん。わたしも第七感がうずいてるよっ」
「七個もいらねぇだろ」
二人がビシィッとこちらを指さした。
「「女の子の匂い!」」
「はぁ……?」
……などととぼけてみせるが、実際当たりである。鋭すぎるだろ、お前ら。
「さぁ、容疑者を取調室に連行するよ!」
「はい! ケチャップは重要な物的証拠としてこちらで預かります!」
そのままリビングに連行される。果たして、どこまで事実を伝えていいものか。拉致監禁されたとか言うとまた姉を心配させかねない。
オムライスでも作ってやったらおめこぼし頂けないものかね。……まあ、無理か。
結論から言うと、おめこぼしは無かったがオムライスは作った。三人分。ちゃんとケチャップから炒めた。フライパンは3回洗った。一週間ぶりに帰ってこれである。非人道的だと思う。
でもなんか、帰ってきたんだなあって。そう思った。
―――――――――――――――――――――
「よお」
そう挨拶して部室に入る。けれど誰も部屋にいない。カーテンを揺らす風と透ける陽の光だけがあった。まあ7時半だしな。未神もまだ来てないんだろう。
「部室も久しぶりだな……」
いつもの椅子に座る。この部屋に俺一人なのは新鮮だった。……俺が入部するまで、未神はずっとこの部屋に一人でいたのだろうか。机の上に本が置かれているのに気が付く。手に取ってみると、未神がよく読んでいる本だった。
「あいつ、いつもこれ読んでるよな……」
表紙にはタイトルも著者も書いていない。どうも小説のようだが。既に読み終えてるだろうに、何度読み直してるんだろう。そんなに面白いのか、これ……?
1頁目から読んでみる。
「………………」
俺はこの文を知っている。読んだことがある。活力も才能も彼女も金もない。そういう、何も無い男がやがてどうにか何かを得る話。
何なら著者も知っている。俺だ。
「どういうことだ……」
一言一句変わらない。俺がいつか、屋上から撒いた駄文の書き散らし。それが何故、ここにある。それを何故未神が読んでいる。あいつ、ずっと俺の前でこれを開いていやがったのか?
「おはよう、依途くん」
開かれたドアの向こうに未神がいた。
「お前……」
「早かったね」
「これはなんだ」
未神が俺の脇を通って、いつもの椅子に座った。真実を知りたいという思いと、知れば後悔しそうという予知がないまぜになっている。
「教えてくれ。何でこれが……」
「ひみつ」
「はぁ?」
「教えてあげない」
懇願は軽く拒否された。ひみつってそんな……
「それよりも、先に話さなきゃいけないことがある。先日の件だ」
強引に話を変えてくる。反発したいところだったが、したところで教えてくれそうにない。仕方無く諦める。……いずれ真相を教えてくれるだろうか。
「話しやすいところからにしようか。自衛隊「御影」と本学生徒会について」
ファントムとの戦いのあと、未神が交渉云々と言っていたあれか。
「交渉は無事完了したよ。今後依途くんに彼らがちょっかいは出さないはず」
「そりゃ結構だが……そんなあっさり行くものか?」
「政府に永久機関の設計図をあげたら、喜んで頷いてくれたよ」
吹き出した。
「人工石油よりはマシだろう?」
「疑似科学に違いないだろ」
「それが本当なのさ」
「……え?」
「ロスブラによる人口の増加。結果として加速するエネルギー問題はぼくにとっても解決しときたいところだったから」
また事も無げにそう言ってみせた。……本当なのか?
「この権利と引き換えに政府に御影を止めてもらった」
「生徒会は?」
「情報の一部を切り取ってあげた。政府との交渉権が得られる」
この交渉力、ほんとに同い年なのか?
「同い年だよ?」
モノローグに返事すんな。
「シルエスタからの原油が止まった件も快く許してくれたし、この件はこれで一件落着だね」
まあ俺としても狙われないし電気代もそのうち払わずに済みそうなのでいいことである。……が、そんなことは些事である。今日話さなければならないことは他にあるのだ。
「……それで? まだまだ聞きたいことはある」
そう言うと一気に表情を曇らせた。あの火の男の正体……知らずにいるわけにはいかない。
「……本題、というわけか。実に悩ましいね」
「なにが?」
「真実をきみに伝えるべきか」
「何故だ」
「きみにとって愉快な話じゃないから」
警告じみたことを言ってくる。視線で続きを促した。
「……あれの正体は、きみの人生やこの世界の根幹に関わることなんだ」
人生……世界?
「本当なら、言わなくていいことだと思う。そんなこと知ったって幸せにはなれない」
しかし、何も聞かないでいるには謎が多すぎた。知らないままいるのも恐怖を感じる。
「頼む。教えてくれないか」
「でも……」
「お前と会ってから分からないことだらけだ。知らないまま過ぎ去っていくのが怖いんだよ」
そう言うと未神はゆっくり頷いた。
「昨日、きみと剱ちゃんが戦ったあいつ」
「何なんだ、あいつ……」
「あれは幻影……実体無き思念体」
「思念体……誰の?」
「きみのだよ、依途くん」
俺、未神は確かにそう言った。
「あれを俺が生んだ…………?」
「違う。あれはきみ自身」
あれが俺だと……?
「そんなわけ無いだろ、俺はここにいる」
「そう。きみはここにいる。でも確かに、彼も依途空良なんだ」
じゃあ何だ。生霊か、ドッペルゲンガーの類いってわけか?
「違う。そうなるはずだった世界のきみってこと」
そこまで言われても分からない。説明は分かりやすくしてほしい。……待てよ。そうなるはずだった世界? それってまさか。
「一から話すね。長くなるけど……」
未神がいつものようにジュースを紙コップに入れてくれた。これは……ライチだろうか。
「ぼくには世界を書換える力がある。もう言うまでもないことだよね」
「ああ。ロスブラも俺の才能もそうなんだろ?」
「……想像主。意のままに世界を書換え、意思に関係なく状況を劇的にする能力。きみが元歩むはずだった未来はぼくに否定されたんだ」
「未神が、力を振るわなかった世界……?」
「そう。あり得たもう一つの世界。そうなるはずだった唯一の世界。ぼくの介入のない自然な未来。それが、あの炎の男……もう一人の依途くんなんだ」
否定された世界の俺……あれが……
「んな馬鹿な……」
「事実だよ」
じゃあ俺は、俺自身と戦ってたのか……?
「……ぼくの力が乱れている。不安定化してるんだ。だから、書き換えたはずのきみが漏れ出している。……ぼくが消滅してたのもそれが原因なんだ」
「そうだったのか」
「憤怒、悲哀、憎悪。そして復讐心。今のぼくが消し切るには、あまりに強い感情」
未神の力が弱まっている……そうなのか。いや、それより……
「復讐心だと? 未来の俺はなんでそんなもん抱えてるんだ」
「……本来あり得た世界では、きみが学校を飛び降りたあとも小説を書き続けるんだ」
……そうか、俺はあの屋上ダイブでは死なないのだ。あのファントム……50代くらいだとして、そこまでは生きているわけである。
「けれど、いつまで経っても才能が認められることは無かった。そのまま歳をとっていった。絶望して、心を病ませていく。そうなっていくはずだったんだ」
「……だから、わざわざこっちに現れてまで暴れてやがんのかよ?」
暗澹たる気分である。未来の俺がそんな情けない人間になるだなんて。
「彼は、あまりに絶望している」
「そりゃ、俺だってそれで死のうとしてるんだ。あまり笑えんさ。いや、全く笑えん。だが虚しすぎるだろ、俺の行き着く先がそんなんだなんて」
所詮、俺なんてそれくらいの人間だったわけだ。逆恨みで火を放つような馬鹿。才能が無いのは世間のせいじゃない。恨むなら遺伝子でも恨んでろ。
「……彼はいずれまた現れる。報復の意志を才能に変えて。次はもっと強くなるはず……」
「おいおい、あれより強くなるのか? そんなのもう手につけられないぞ。俺には無理だ、未神がどうにかしてくれ」
ふるふると首を横に振った。
「……ぼくの力は弱まってる」
「じゃあどうすれば」
「あれには依途くんの攻撃しか効かない。きみが弱らせてくれたら、ぼくが処理をする」
「出来るのかよ、俺に」
「やるほかない」
確かに剱の攻撃もまるで効いていなかった。……俺がやるしかないのか。
「……はぁ」
紙コップが空になる。憂鬱になって天井に溜息を吐いた。
「なぁ。俺、本当にあんな風になっちまうのか?」
「……少なくとも、ぼくの介入しない世界ではそうなった」
本当に才能がないくらいであそこまでおかしくなっちまうもんなんだろうか。自分が良くできた人間とは思わないが、幾ら何でもあれは落ちぶれ過ぎだ。
「結局、あれが本性ってことなのか」
「違うよ、依途くん」
「ん?」
「人間に、本性なんてものは無い」
「そうか?」
「経験、状況、知識、そして脳の物理的な状態。そんなものでぼくたちはいくらでも行動基準を変える。今の自分は善人だとしても、十分後にそうである確証は無い」
「……自我がそんなに曖昧なものか?」
「元々、人の体は細胞単位で入れ替わり続けてきた。どうして本性だなんて、心だけが不変だと思うんだ」
そんな風に考えたこともなかった。
「今のぼくたちは細胞自体無いし、脳の形状や血流、成分と言った要素の影響が無い。生理でイライラすることもない。
心の変動の幅はわずかに小さくなった。そういう意味で人はキャラクターに近付いたと言ってもいい」
……無くなってたのか、生理。
「それでもずっと辛くて悲しければ、優しくいられないことに変わりはないよ。
彼の暴走を仕方無いとは言わない。街を焼いていい理由にはならない。
……でもあれが依途くんの本性なんかじゃ、絶対ない」
普段よりも強く未神は言い切った。双眸に強い意志が見て取れる。
けれど不思議だった。本性の不在を主張した割に、「あれが本性なんかじゃない」……どこかでそれを信じてるかのようなそんな口ぶりだった。
「ん……その割に、信じてるみたいに聞こえるな」
「え?」
「俺の本性が、報復でない別の本性が確かにあるって」
「……そうかもね。多分そうだ。依途くんという確固たる人格をどこかで信じてる。矛盾してるな。本性なんて無いけれど、それをどうしても見出さずにはいられないんだ。人は。
それがきっと……ぼくを拘泥させるんだ」
未神が悟ったようなことを言った。意味は分かったような、分からんような。
「ファントムは本来この世界にいるはずのない存在だ。彼が暴れれば世界の歪みが拡大する」
「どうなるんだ?」
「……最悪、再び人の死ぬ世界に戻りかねない」
ただの放火魔じゃないってことか……
「可及的速やかに、彼を撃破、消滅させる必要がある。思春期同好会は作戦を発令する」
口調と裏腹に、寂しそうに見えた。
「作戦名に希望は?」
「……ないよ、特に」
未神当人もそんなものは求めていないのだろう。陽は落ちて、窓は薄明を映していた。
―――――――――――――――――――――
「また明日ね、依途くん」
「ああ」
六時半。空は星を浮かべていた。手を振る未神と別れる。あいつと帰るのも久しぶりだった。
「ファントム……」
他ならぬ自分自身と戦うことになる。不安と同時に虚しさが募った。結局、俺はずっと何者にもなれなかったのだろう。別に執筆に限らない。何の才能もなかったのだ。禿げた親父になっても、それを引きずり続けて狂った。
……しかし、やっぱり疑問だった。未神が俺に才能を与えなかったとして……それだけでああなってしまうんだろうか。無才も無能も嘆かわしい。死にたくはなるが、あんなにもおかしくなってしまうんだろうか。
姉貴やケインがそれを許すだろうか、と思った。あれで人の良い奴らである。それとも、それすら疎遠になってしまったのか……
「……ん?」
星夜の公園。暗くて見え辛いが、ベンチに座っている姿に見覚えがあった。
「おーい、ケイン」
ちょうど噂のケインが瓶牛乳とあんぱんを貪っていた。
「ん? アキラか」
「こんな時間に公園で張り込みか?」
「ふむ。確かに牛乳とあんぱんはジャパニーズポリスメンのお供と聞いたことがあるが……」
アンパンのケシの実の部分を齧る。
「ボクはどっちかといえば公権力に殴られる方だからね、ははは」
「笑えねぇよ」
その冗談でガハガハ笑えるのはお前だけである。
「張り込みじゃないなら何してたんだ、こんなところで」
「なに、物思いに耽っていたんだよ」
「はぁ」
「ボクにも月に一度くらいはそういう日がある。生理みたいなものさ」
「ロスブラでなくなったらしいぞ、それ」
「……ボクは知らなかった。流石はアキラだ」
やめろ。そんなことで褒めるな。
「この悩みというのが実に馬鹿らしいことなんだけど……聞くかい?」
「なんだよ。話したくないんじゃなければ早く言え」
「……いや。ボクは存在しているのか、とね」
馬鹿らしいかは知らないが、意外ではあった。そう言ったネタを話の種にはするが、自身で悩むタイプではないと思っていたからだ。
「哲学なら専門外だぞ」
「そうじゃない。……ボクはいつもシルエスタの新聞を読んでいるだろう?」
「ああ」
こいつが実家から送られてきたシルエスタの新聞を読んでいるのを見たことはある。
「……バックナンバーが無いんだ」
「え?」
「ボクがこの国に来る以前……もう随分昔のことになるけれど。その時代の新聞が無い」
「手に入らないんじゃなくて?」
「家族に頼んでみたり、自分でも探してみたりしたけど……見当たらない。国会図書館にも無いそうだ」
……何かきな臭くなってきたな。
「それだけじゃない。現代以前のシルエスタ史を記した書籍も見つからないんだ」
「……焚書か?」
「ボクの国ならともかく、この国じゃないだろう?
ともかく、シルエスタという国の歴史……或いはその実在そのものが怪しくなってきた」
「国が存在しない?……そんなばかな……」
流石にそんなことはあり得ないだろう。幾ら何でも、それは。
「確かにボクも信じてるわけじゃない。存在しない国の存在を世界中が信じていた、なんて。
でも思ってしまうんだ。現代史以前の本を燃やしたわけでもなく、古新聞をリサイクルしたわけでもない……「そもそもそんな歴史は無い」んじゃないかってね」
「……そうだ、ネットは?」
首を横に振った。
「シルエスタの存在が怪しいなら、それはつまりボクの存在が危ういってことになる。ボクの家族もそうだ」
……もし仮に、こいつの言う通りシルエスタが幻だったとして。そうでなくとも何らかの情報操作があったとして。それが簡単に出来てしまう人物を一人知っている。
「ロストブラッドで世界は狂ったと思ったけれど……それより前から既に狂っていたのか?」
人のいない公園に、ケインが呟く。神の恣意的な介入無くして、こんな事が起こりえるのか?
人が死ななくなった。俺に才能を与えた。他にお前は何を書き換えたんだ、未神……
―――――――――――――――――――――
「邪魔するぞ」
昼休み。部室のドアを開けると未神がいた。
「あれ? 依途くん?」
青空の描かれた窓は開かれ、風が吹き込んでいる。普段より少し目を大きく開いて俺を見た。弁当を食べているようだ。
「どうしたの、こんな時間に……?」
「聞きたいこと……いや、聞かなきゃならんことがある」
「?」
「シルエスタに過去はあるのか?」
事情を知らなければ理解の出来ないだろう、抽象的な問い。……けれど、未神がその意味を聞き返すことは無かった。
「…………」
沈黙。
「ケインが言うんだよ。シルエスタの古い時代を示した新聞も書籍も存在しないんだってな」
「……」
「常識的に考えるならそんなことはありえない。だが、常識という概念の外にいるお前ならば何某かの関係が有っても不思議じゃない。なぁ、教えてくれよ。未神、お前は何をしたんだ」
未神がこの件に何か関係があると半ば確信していた。それ以外の要因を知らないからだ。
「……驚いたな。暗示は完璧なはずだったんだけど」
「暗示だと?」
「ああ、まったく……いやだなぁ」
「答えろ未神!」
「………………そうだね、隠しごとは良くない。分かってるんだよ、ぼくも」
俯いて、頭を振っている。
「でもさ。こんなの聞いても、きみは幸せになれないよ?」
「……俺?」
「シルエスタの生い立ちを知れば、自ずと疑問が続くはずだ。きみの友人について」
「ケインのことか?」
「うん。そしてそれは紛れもなく、きみを取り巻く世界の話なんだよ」
俺を取り巻く世界。……どういうことだ?
「……言わなきゃだめかな?」
「隠すのか」
「ぼくは怖いんだ。知ったが最後、何もかも無意味になってしまうんじゃないかって」
この世界だけじゃない。俺に纏わる何か重要なことを、未神はまだ隠している。
「依途くんはさ。これまで楽しかった?」
「ん?」
「才能を得てから。或いは……生まれてから今日に至るまで」
何が言いたいんだろうか。さっきから意味深長な言葉を連ねているが、どれも核心から離れたものばかりだ。……流石に焦れてきた。
「教えてくれ! ケインの人生が踏みにじられてるなら、そのまま放っておきたくない」
未神が唇を噛み締めていた。あまり見ない表情だった。……それほどに酷い事実なのか。それでも俺は聞き出さなきゃならなかった。 俺に関わっているならなおさら。
「……そう。もう、仕方ないんだね」
いっそう強く、風が吹いた。室内だというのに未神の髪が微かに揺れていた。
「頼む」
「……はじめからシルエスタ共和国という国家は存在しない。民も土地も、無い」
ケインが危惧していたそれを、未神は述べてしまった。
「シルエスタという虚構を、みんな信じ込まされていたんだよ。ぼくの手によって。地図のシルエスタの位置にあるのは海だけ」
「そんな嘘をどうやって信じ込ませる」
「暗示みたいなものだよ。「シルエスタという国家は存在する」、そう思い込ませる。肉眼でもカメラ越しでもそこにあると錯覚する」
有り得ない……そう言いたいところだが未神に限ってそんなものは無い。全てが有り得る。
「だが、それなら俺とお前が介入しに行ったあれはなんだ。ケインが帰ったのはなんなんだ!」
「ケインが故郷で過ごした数日間だけシルエスタを創ったんだよ」
「……」
「そこで暮らす人々、建築、文化文明、それら全てをエミュレートしそこに創った。あの間だけ、シルエスタは実在していた。きみが戦った兵士は人形だよ。あの時本当にいた人間はぼくときみ、ケインとその家族だけ」
絶句した。ありもしないものをあるとし、更には自分勝手にないはずのそれを実際に産み落とす。あまりに傲慢で、酷い神がそこにいた。
「お前……それがどれだけ人の心を踏みにじってるのか分かってんのかよ」
「……」
「ケインは家族と故郷を思って戦地に飛んだんだッ! その決死の覚悟も、故郷そのものすらでっち上げだと!? ふざけるのも大概にしろよッ」
今までになく昂っているのが自分でも分かった。こいつのやっていることはケインに対する侮辱であり、冒涜である。
「……きみの指摘はもっともだ」
「なんか反論してみろよ」
「正しい理屈に反論するものか……」
未神が俯いていた顔を上げる。
「仮想の国家を創った理由は、それが都合がよかったからなんだ」
「都合だと?」
「ぼくは今後もこの世界に作用し続ける。その上で、「ぼくの意思のままに」出来る国家は便利なんだよ。実際の国家に武力介入するより遥かに楽で、倫理的にも問題が無い。各介入方法による結果と副作用の実証実験。外交という手段による他国への干渉。あとは……きみの訓練」
「そんなことのために……?」
「必要なことだった。効率的な世界の運営には」
言いたいことは分からない訳じゃない。要するに、未神の行動の隠れ蓑としてのシルエスタが必要だったのだ。実際の国に殴り込むよりも、あくまでシルエスタからの外交の範囲に落とし込めれば平和的に済むケースもあるだろう。だが……
「ケインと家族の故郷はどうなる」
「……彼らの生まれは日本さ。ありもしない国家じゃない」
溜息。
「暫くしたら暗示が解ける。自分の過去を思い出すだろう」
「……何故そんな暗示をかける必要があった」
「きみに国家介入を決意させるだけの要因が必要だった。それが友人、ケインの危機」
つまり、俺にシルエスタ介入……実質ただの訓練をさせるためにケインに暗示をかけた……
「他にやり方があっただろ」
「あらゆる面からみて、これが最善の方法と結論づけた……」
「無理があるぜ、そりゃ」
未神が再び沈黙する。
「……まだ、何か隠してるだろ」
「そんなことない」
「もういい。早く言え」
だんだん分かってきた。こいつは何かを隠そうとする時、目を逸らす。声がわずかに小さくなる。言葉少なになる。沈黙する。あまりに下手だ。
「人が死ぬのが嫌だから、ロストブラッドを起こした。それによって発生してしまった問題を解消する。俺はその為の暴力装置。お前はそう説明した。俺はそう理解していた。
だが、それだけじゃない。お前には何か他に目的がある。……答えないならこの部活は辞めさせてもらう」
未神が体を震わせ、目を見開いた。……怯えているようにすら見えた。
「お前も、信用できない人間といても仕方無いだろ」
「……だめだ」
「はぁ?」
「そんなのだめだ。許されない。きみにその権利はない」
埒が明かなそうだった。踵を返す。
「まてっ」
未神に後ろ袖を掴まれる。
「どこいくんだっ」
「話す意思がないんだろ? ならここに用はない」
「まってよ!」
袖を掴む力が強くなる。
「なら話せよ。全部」
未神が苦しそうに俯く。懊悩が見て取れた。
「……わかった。話す」
「……」
「だから……いなくなるのはだめ」
泣き出しそうにすら見えた。……神のような傲慢さと、ただの少女の脆さが同居している。
「……ロストブラッド、異形の戦士、仮想国家。そしてそれよりもずっと、大切で切実なものを、ぼくは書き上げた」
「なんだ」
「依途くんの人生」
やつの台詞、その意味を反芻する。
「そりゃこの才能のあるなしは俺の人生に影響したろうが……」
「違う…………それは変更点の一つでしかない」
他にも何か捏造したものがあるのか。
「ぼくが書いたのはきみを主人公とした物語、その登場人物。
…………友人、家族、きみに恋する少女に、純粋にきみの能力を求める者」
「はぁ?」
「分からないかな……ケインくんに、きみのおねえさん、夜海さん、そして草薙生徒会副会長……全てぼくが用意したんだよ」
またわからないことを言い出した。用意した? あいつらは人だぞ、何でそんなことが……
そこまで考えてようやく思い出す。さっきてめえで言ったじゃねぇか。「未神蒼に不可能はない」のだと。こいつがそう言ったなら、それは事実なのだ。
「楽しい物語には楽しい登場人物が必要だね……きみの人生を楽しくするには必要だった」
けれど口を開くことはできない。思考が微動だにしなかった。
「全てそうだ。彼ら登場人物、シルエスタ、武装生徒会、REx、ロストブラッド……何もかも、きみの為に用意した」
「……おかしい。姉貴はお前と出会う前からずっと」
「ぼくは過去だって書き換えられる。「姉がいたことにした」んだ」
無慈悲にそう言った。
「依途くんが屋上から飛び降りて、ぼくと初めて会ったとき。ぼくが起こしたのはロストブラッドだけじゃなかった。きみに姉がいたことにした。友達がいたことにした。恋い焦がれる女の子がいたことにした。創国を企てる副生徒会長がいたことにした。ありもしない国があることにした。 そういう風に書き換えた。
あの一瞬まで、それらは全て存在しなかったんだ」
姉もケインも、夜海さんもいない…………存在していない……何の実感も沸かないがこいつが言っている以上、事実なのだとしておく。しかしそうだとして、更に大きな疑問に襲われる。
「……お前は、何のためにそんなことをしたんだ」
今度ははっきりと、俺の目を見ていた。
「きみを死なせないため」
そこでようやく、俺は理解した。
俺の人生は未神が優しく書き換えたものだったのだ。俺が狂ったり、壊れたり、悲しくなったりしないように主人公にしてくれたのだ。そうでなければ俺はあのファントムのように、世間への復讐……逆恨みと八つ当たりだけを考えながら生きていくことになる。それは死だ。
未神が何故、俺を救ってくれようとしたのかは分からない。でも俺の全てはあいつがくれたものだったんだ。姉貴もケインも夜海さんも嘘なんだ。落ち着くあの家も放課後の馬鹿話も自分の文章に心動かされてくれた女の子も、本当は誰もいない。あらゆる肯定は虚構だった。
…………そうだ、当たり前だよな。俺が主人公の物語なんてあるはずが無い。そんなのがあるとしたら、それは虚構だけだ。
「はは」
笑える。
「依途くんっ!」
爆炎の奔流が窓から流れ込んでくる。未神が俺に覆いかぶさった。炎は狂った獣のように部室を焼いて回る。
「……だいじょうぶ?」
小さな体を起こしながら問いかけてきた。
「ああ……」
俺も起き上がる。この炎……窓の外を見ると燃え盛る異形があった。剱と一緒に退けた時よりも更に禍々しい姿。四肢を巨大化させ、怒りで全てを焼かんとしている。
「報復ゾンビめ、なんだって学校なんかに……!」
拳銃を取り出す。
『自死』
脳天を撃ち抜く、肉体が蠢く。怪物と化した。
「未神、話は後にしよう。消火を頼む」
「……うん」
跡形も無い窓から飛び降りる。青空の下の校庭。砂が燃えていた。
「よう。クソジジイ」
「なんだ、クソガキ」
ファントムが火を放つ。左の拳を突き出し、拳圧でかき消した。踏み込んで腹に右を叩き込んでやる。
「よえぇなぁ」
やっと全身から炎が噴き出す。急いで退くが、手首より先が融けていた。
「死ねやぁ!」
肥大化した四肢での前蹴り。焼印を押すかのように地面に押し付けられる。
「うあああああああ」
身体が焼ける、融ける。血液が吹き出した途端に蒸発していく。
「はははははは」
左の手刀でやつの脚の端を切る。肉の切れたところへ指先を突っ込んだ。
「チッ……」
巨大な足が浮く。地面を転がりやつから逃れる。
「はぁ……はぁ……」
顎の下から足の付根まで爛れていた。再生が間に合う前に火焔流が俺を襲う。飛び退いて避けるとフェンスを焼き貫いていた。
「クソ……」
こちらの攻撃は大して通じない。力を溜めて大技を放つなり、近距離からラッシュをかける必要がある。だがあの異様な火力の前では溜める隙もなく、至近距離によればすぐさま灰になりかねない。
「ふははは、踊れッ!」
やつの掌から小さな火球が飛んでくる。先と同じように拳圧で掻き消そうとした瞬間、大きく爆発した。
「うがっ」
煙が失せた瞬間、ファントムは目前に迫っていた。タックルを喰らい校舎の方へ吹き飛ばされる。すかさず先程の火球を3発俺の方へ飛ばしてきた。腕を交差させ気を練り、爆発を防ぐ。
「ほう、避けないか……」
……俺の後ろには校舎があった。
「そんな場所をよく守ろうとする」
「お前、何なの。学校燃やしたいわけ?」
「興味は無い…………と言いたいところだが。性根の腐ったガキが熱くてのたうち回るのは愉快だろうなぁ」
「まだ根に持ってんのかよ……」
「知らんな。…………俺を嗤ったヤツ!俺を無視したヤツ!俺を救わなかったヤツ!俺を好きじゃなかったヤツ! 全員燃やしてやるッ! 家族諸共地獄に堕ちろォッ!」
「地獄に行くのはてめぇだぜ」
「……オレがお前だろうがァッ!!!」
ヤツが飛びかかってくる。……さっさと決めなければ俺も学校も焼き尽くされる。
燃え盛り、大きく膨れたその拳が俺の半身を掠める。無防備になった顔面へ渾身の一撃を叩き込んだ。
「んぐ…………っ!」
「俺」がよろめく。…………この機を逃すな。
「オラアアアアアアアアアッッッ!」
右ストレート。左フック。そのまま体を回転させ回し蹴り。突き上げるエルボー。飛び上がりながら顔面に膝。空いた胸元へ両腕でハンマー。全精力をかけた連打を入れる。ヤツが大きく倒れ込む。マウントを取って顔面にラッシュを叩き込んでいく。
「死ねぇぇえぇえええ!」
ファントムが腕をこちらへ叩きつけようとする。飛び上がって避けると、向こうもどうにか起き上がった。
「ぬりぃなぁ」
「ああ?」
「殺せもしないのに、死ねだとよ」
ヤツの膨れ上がっていた四肢が急激に細くなり、纏っていた炎が黒く染まっていく。
「やられた分は返してやるよ……」
次の瞬間には、俺の胸に穴が空いていた。……ファントムが背後にいた。腹を貫いた腕から黒い炎が上がっていく。
「………………!」
黒炎と共に、何かが流れ込んでくる。記憶……感情……これは。この馬鹿な「俺」の絶望。
ヤツが右に裂くように腕を抜く。傷口は焼かれ、まともに再生しない。ふらつく足取りでどうにかヤツの方を振り返る。黒炎の奔流に襲われ、大きく吹き飛ばされた。
「ぐ、ああぁ…………」
もう力が入らない。俺の変身は解けていた。生身の腕が砂利を擦る。
「……」
負けたのだ。
「ああ、ここまでか…………」
妙な達成感が俺を包んでいた。負けたはずなのに。ヤツが俺の首を掴んで持ち上げた。
「そういえば、俺の首を折りやがったよなぁ」
「さぁな。忘れたよ」
手に力が籠もっていく。首が締まる。声が出なくなる。意識はすぐにも消えていってしまいそうなのに、薄っすらと、はっきりと苦しさを俺に伝えていた。地面に叩きつけられる。
「ざまあねぇな」
全くだ。俺ほど様の悪いやつもいない。けれど……
「なぁ。頼むよ」
「ああ?」
「誰も悪くねぇんだ。少なくともこの世界には、お前の不幸の理由は無い。だからもう、止めてくれないか」
「知ったことかッ」
石ころのように蹴りつけられる。砂利の上に大きく伸びた。
「なぁ、金やるからよ。いいだろ」
「黙れよ。死にてぇのか」
「それでパチンコでも風俗でも、好きなとこ行けよ。大した額ねぇけど小遣い全部やるからさ。そしたらちょっとくらい気が晴れるかもしれねぇぜ?」
「……」
馬鹿にしたいわけじゃない。それで済むなら、それがいい。本当にそう思っていた。
さっき、こいつの過去…………あり得たはずの俺の未来が見えた。未神が話していた、俺の本来の未来。ケインも姉も夜海もいない。
飛び降りに失敗した俺は頭に後遺症を負ったようだった。日常生活は送れるものの集中力の欠如と記憶力の低下が起きた。元から低かった能力は地の底に落ち、大した職にも就けず執筆などろくに出来なくなった。医者に行っても病名をつけられず、行政の保護もない。
両親は俺を疎み、友人もいない。恋人なんかいるはずもない。凡その人間に嫌われている。
そう。俺の人生には何も無かった。嬉しいことなんかろくに無いまま、歳だけを重ね尚更醜くなっていった。最後は職場の火災に巻き込まれあっけなく死んだ。
嫌な話だ。全く以て面白みも無ければ、かと言って誰に同情される訳でもない。最低の物語。
それを全て、未神が書き換えたのだ。俺に好意的なキャラクター。死も障害もない都合の良い世界。他者を捻じ伏せる才能。その力を気分良く振るえるだけの状況。あらゆるお膳立てをされて、俺は初めて主人公になれた。新しい物語……
死を殺す物語。
「世界が死ぬか、俺が死ぬかだ。そうするまで報復は終わらない」
ヤツが黒炎を校舎に放とうとする。必死の力を振り絞り、その前に立った。炎は俺を焼いた。
「馬鹿が……それに守る価値があるのか」
分からない。仲のいいやつはみんな作り物だし、それ以外のやつらは人の自殺未遂で遊ぶようなゴミどもだし。
何で守ってんだろうな。俺は。
炎が俺を焼いていく。熱くて痛くて苦しいのに気を失ったりはしなかった。続けてもう一発火球を放ってくる。大きく爆ぜて俺を吹き飛ばした。
「……」
意識が薄れていく。傍らには半分無くなっている拳銃。校舎には何事かとこちらを見ている生徒たち。馬鹿かよ……さっさと逃げろよ……
「……依途さん!」
誰か、異形が飛び込んできてファントムの腕を切り裂く。
「ぐっ…………」
夜海さんだった。細く伸びた刀身が血で濡れる。
「その人に手を出すなら……斬ります」
「邪魔だァッ!」
斬撃を避け拳を叩き込む。
「きゃっ……」
夜海が殴り飛ばされる。空中で回転し着地、途端に荒々しい動きでやつへ襲いかかる。
「あたしの空良に手出さないでくんない?」
数段速い斬撃が掠めていく。
「小娘がよオッ」
だがヤツの動きはそれよりも速かった。手刀で腹を薙ぎ、残った黒炎を燃え広がらせる。
「いやああああ」
とどめを刺そうと跳ぶファントム。そこへ雷が落ちた。
「誰だか知らんが……本学の敵は排除する」
草薙が校庭に降り立っていた。幾つもの雷撃が俺の幻へ降り注ぐ。幾つかが直撃するも足止めにしかなっていない。
「痒くもない」
雷をまとった草薙が駆ける。懐へ駆け込み拳を受け止めた。ヤツを掴んだまま雷を流し続ける。こちらへ振り返って怒鳴った。
「依途! さっさと起きろ!」
うるせぇな……こっちも限界なんだよ。結構頑張ったろ、俺……
「サボるな! 英雄!」
サボってねぇよ…………英雄でもねぇんだよ……
「どけぇ!」
ファントムの蹴りをギリギリで避け、素早く後退する。
そこへ凄まじい勢いで駆けてくる影。刀を振るい、五月雨のような突きを繰り出す。
「またぞろ現れやがったか」
女の声。……剱沙夜。
「また貴様か…………次から次へとッ!! 気に入らねぇッ!」
「あの剣のやつと依途はまだ動けんか……草薙! わたしの動きに合わせて援護しろ!」
「命令すんな!」
踊るように斬撃を放つ剱、合間に電撃を挟む草薙。意外すぎるほどの連携を見せる。本来ダメージを与えられないはずのファントムが足止めされていた。
…………何なんだよ、次から次に助けに来てくれちゃってさ。人がせっかく諦めようとしてるのに。
「空良くん……」
夜海がこちらへ歩いてくる。
「立てる?」
差し伸べられた手。
「……ああ」
その手を取って立ち上がる。銃は壊れた。……だが、まだだ。まだある。いつかあの「俺」が変身に使ったライター。未神が回収していたものだ。
ヤツが俺だというのなら、使えるはず…………ッ!
ライターの蓋を開く。放たれた火が俺を包む。
「……かっこいいよ、空良くん」
「そりゃどうも」
どうやら拳銃で変身したのとは違う姿になっているようだ。
「英雄、早く戦え!」
雷を落としている草薙に怒鳴られる。
「ああ、悪い」
剱が鞘でファントムの後頭部を叩きながら背後へ跳んだ。その隙へ、先の「報復」をする。
「うがあっ……」
拳が腹を貫いた。また全身から火を放つ前に腕を引き抜く。……先程までの絶望的な戦況じゃない。押している。
「……ここで終われるものかよぉッ!!!」
ファントムが加速する。夜海が咄嗟に突き出した刀身はヤツの胸に刺さっているが、黒炎は彼女の顔を焼いていた。
「夜海!」
爆ぜる。刀だけを胸に残し、変身の解けた夜海がそこに倒れていた。
「いい才能だ。貰うとしよう」
ファントムが腕から黒い剣を生やす。……コピーした? 不味い、彼女のその能力は……
草薙に斬りかかる。
「避けろ! 死ぬぞ!」
飛び退こうとする草薙の右脚が裂かれた。
「ぐぁ……」
更にもう一撃入れようとしたところへ、剱が割って入った。刀とヤツの刀身が交差する。
足元へ滑り込み殴りかかろうとすると、直前でファントムが体勢を引いた。剱とぶつかる。
「まとめてくたばれ」
大きな黒炎をまとった斬撃。まずい、避けられな…………
「……どけっ!」
剱が俺を押しのける。炎は彼女だけを飲み込んだ。
「剱ィッ!」
闇のような焔が失せると、剱が片膝を着いていた。刀が折れている。
「すまん……依途……役に立たなかったな」
焼けた砂利の上に彼女がゆっくりと倒れた。
「邪魔は消えた……あとは「俺」だけ」
赤い火と黒い炎がぶつかる。ヤツの繰り出した拳にこちらも拳を叩きつける。薄っすらと俺の火が黒く染まっていく。
「なんだと…………」
「俺も報復をさせてもらう」
報復の黒炎。ヤツ自身と同じそれを纏う。
「二度死ね(セカンドデッド)…………ッ!」
辺りが黒く爆ぜる……第二形態。力が漲った。
「かっこつけやがって……ッ」
繰り出してきた刀を蹴りつけると、あっさりと折れた。剱と斬り結んだせいだろう。
「これで条件は同じだ」
黒い焔が互いを焼かんと喰らい合う。
「死ねぇッ!」
「テメェが死ねッ!」
殴り合う。互いに再生の間に合わぬまま、少しずつ肉体が失われていく。
……だが、俺は女二人に格闘を仕込まれている。同条件ならこちらのほうが上だ。ヤツの拳が俺に触れる前に殴り飛ばした。
「まだだ…… まだ終われない…… !」
ヤツが右脚に黒い炎を収束させていく。同じようにこちらも一箇所に力を込めた。……これで勝負が決まる。
駆ける。翔ぶ。互いの駆体が目前に迫り、互いの燃ゆる右足が胸に突き刺さった。
地面に叩きつけられる。
「ぐぁあ!」
強烈な痛みに襲われる体をどうにか起こす。向こうの俺もどうにか立ち上がろうとしたが、そのまま崩れ落ちた。
「そんな……馬鹿な…………」
「一人で勝てるわけねぇだろ」
「独りでなければ報復などするものかよ……」
倒れたはずのやつがまた立とうとする。
「まだだ……俺はまた現れる。更なる報復の意志を」
その刹那、蒼い光の槍がファントムを突き刺した。
「間に合ったね…………」
翼を広げた未神蒼がそこにいた。
「書き換える……きみは生まれない。そんな絶望は存在しない」
「ふざけるな! 俺はここにいる! 俺の絶望すら否定するのか、お前らはッ!」
「さようなら……幻影」
血は出ない。代わりにその駆体が薄れていく。
「才能の無いやつは……報復すらできないのか……」
「…………」
「俺に……何の意味があった、価値があった…………クソ、クソがよぉ……」
光となって「俺」が消えていく。静かな慟哭だけが世界に残る。羽を広げた天使の方を向く。
「ごめんね、依途くん。辛い戦いをさせた」
「なぁ……あいつの人生に、何か意味はあったのか?」
ヤツに……未神の介入が無かった俺に何らかの意味はあったのだろうか。
「…………」
「なぁ、未神」
「今日は帰って休んで。考えるのはまた今度にしよう」
確かに今、 大したことは考えられそうにない。けれど、すごく悲しかった。
それだけは分かった。