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「はじめまして。戦火のシルエスタからやって参りました本学のアイドル、ケイン・カクタスです。清き一票をどうぞよろしく」
教壇の前でやつがいつもの胡散臭い笑顔を浮かべた。クラスメートたちは笑うわけでもなく、ただ困惑している。教室が静まり返り、あいつだけがニヤケ面を崩さない。
「……とまぁ。ケインが帰ってきた」
氷室が補足した。……そう、最早なんの驚きもないがこいつが教室に帰ってきたのである。
「ケイン、自分の席に着いてくれ」
「そうしたいのですが氷室教諭! カバンを職員室に置いてきました氷室教諭!」
「はぁ……取ってこい」
「仰せのままに!」
ケインが走っていく。やつの姿が見えなくなると、氷室がゆっくりと話し始めた。
「……お前らに謝らなきゃならないことがある」
先程より数段声が低くなり、僅かに小さくなっていた。
「ケインの帰国とその理由について、お前らには何も言わなかった」
……。
「本人が望まなかったからじゃない。混乱を防ぎ、通常通り勉学と学校生活を送って貰うため。そういうことだ」
生徒が沈黙する。氷室が平静を装いながら続ける。
「言い訳になるかもしれない。が、もし事実をありのままに伝えていたならば、大きな不安と恐怖をお前らに与えてしまっていたんじゃないかと思う。済まなかった」
……多分それは心配しすぎじゃないかと、そう思う。ケインがシルエスタ共和国の生まれなのは大体みんな知っていた。家族がそこにいるとも自己紹介のときに言っていた。
そしてシルエスタの内戦も大きく報じられたニュースである。多分ケインが何故何週間も学校に来なくなったのか、おおよその見当をつけていたやつも少なくないんじゃないかと思う。
それでもクラスは普段通りだった。変わらぬ日常が流れた。それが答えでは無いだろうか。
「ともかくケインは戻ってきた。クラスが欠けずに済んだことを嬉しく思う」
別にこいつらが冷たいだとかってわけじゃない。そういうものなのである、ということだ。
「ん……あれ? どうしたの? 氷室っち?」
ケインがカバンを下げて戻ってくる。
「誰が氷室っちだ。ほら、ホームルーム終わり」
氷室が去っていく。教室に変わらぬ喧騒が戻った。
―――――――――――――――――――――
美術室。スケッチブックを掴んだケインが俺の席の前に座った。
「ペアを作れとか言うから探したんだけど、どうにも相手がいなくてね」
デッサンの授業らしいのだが、ペアを組んで互いの顔を描くとかいう正気の沙汰とは思えない指示がなされたのだ。
「今朝の挨拶のせいだろ」
「ふむ。道化を演じることで、内戦から帰ってきた人間に気を遣わぬようにしてやったというのに」
「……そうなのか?」
「いや、ボケたら滑った」
さいですか。
「ともかく描くとするか」
ケインがスケッチブックを開く。
「鉛筆……無いな。ボールペンでいいか」
「残念だが、絵はだめなんだ。人とは思えないクリーチャーが生み出されるかもしれないが許してくれ」
「怪物は君だろう?」
「黙れ」
ケインがこちらを見ながらペンを走らせた。
「そうだ、昨日のあの子はどうしたんだい?」
「姉貴が定期的に様子を見ることになった」
「そうなのか?」
「家に返そうにも場所が分からないだろ? 起きてから聞こうと思って姉と一緒に連れ帰ったんだが……そしたらあいつ、泣きだしちまってさ。んで姉貴がお節介焼き始めたってわけ」
「……ぷぷ」
「どうした?」
「いや、昨日は落とし前なんて言ったけど。どっちかと言えばアフターケアだね、それは」
「まあ、そうかも?」
「君の家は世話焼きの血筋なのかい?」
「さぁな」
ケインはにたにたと笑い、スケッチブックを俺に見せてきた。
「これでいいかな?」
「……上手いな」
実物より数段美形の俺が、写実的に描かれていた。流麗な絵だったが、それをこの速さで描けるのは本当に凄い能力だと思った。
「そりゃよかった。金になりそうかい?」
「ああ、食ってけそうだな」
「そんなにかな?」
「ああ……普段から描いてるのか?」
「いや。授業くらいだな。そもそも、特に描きたい理由もない」
スケッチブックを返す。
「勿体ないな。これだけのものを描きながら……」
「そんなものさ。欲しくない才能なら、別にどうだっていい」
そんなものなんだろう。その才の無さに死のうとするやつもいるのだから皮肉だなと思う。
「僕からすれば君の方が羨ましいけどね。気に入らない奴がいたら、殴り飛ばせるんだろ?」
何か言い返そうとしたが、何を言えばいいか分からなかった。
「そうなら家族を守れた。偉そうに銃を向ける馬鹿にひたすら頭を下げる父を見ずに済んだ」
「ケイン……」
「力はチケットだ。自由を得るための。それが無いなら誰かの力に従わなきゃいけない。
……君はいま、そのチケットを持っているんだよ」
「自由を持っていると?」
「ああ。従うだけじゃない。自ら選ぶことが出来る。主体に……いや。主役になれる」
いつか未神も言った。俺は主人公なのだと。
「君の選択は多くの人間に影響を与えることになる。既にシルエスタという国家に作用した」
「ああ」
「……見届けるとするよ。君がこの世界をどうするのか」
教師に呼ばれ、ケインが立ち上がる。残されたスケッチブックには、何か棒のようなもので殴られるキャラクターが書かれていた。コミカルなタッチで頭から血が流れている。これが何を意味するのか。
彼がシルエスタでどんな目にあったのか。聞くことは出来なかった。
―――――――――――――――――――――
「入るぞ」
「うん。どうぞ」
空き教室。いつものように本を持った未神が、羽根を広げてそこにいた。
「昨日ぶりだね」
「その羽、わざわざ出さなきゃだめなのか?」
「かっこいいだろ?」
「はぁ……」
「一枚欲しい?」
「遠慮しとくよ」
いつものように椅子に座る。また未神がジュースを入れてくれた。
「夜海さんを倒したみたいだね」
「……知ってたのか」
「うん。きみのことならだいたい知ってるよ。順調なペースだ」
俺が視線で問うと、いつものように優しく微笑んだ。返事は無かった。
「で、今日は何をするんだ」
黒板の方を指した。そこに書いておく決まりらしい。
『ロスブラの仕様と予想される混乱』
「おー。授業回か」
「こういうことも、できる限り話しておきたいんだ。……意外だね。こういうの、好きかい?」
「他ならぬロストブラッドの元凶から聞けるんだ。興味も湧くさ」
妙な化け物に変身して戦っているから忘れそうになるが、世間はロストブラッド……不死現象によって絶賛混乱中なのである。原因も理屈も不明の仕様変更に悪戦苦闘している。
それを俺だけが当の本人から直々に解説を賜われるのだ。聞きたくない理由がなかった。
「さて、まずは前者から話そうか。ロストブラッド。全世界において発生した不死現象。原因はぼく」
「魔法なんだったっけ?」
「ああ。そうとしか呼べない力。さて、ロスブラによる影響は不死だけじゃないんだ」
「ああ。あれだけ戦ってるのに怪我もしないし、病気も無いな」
「剣でも銃弾でも皮膚を侵襲し得ない。斬れないし、貫けない。さらにほとんどの病気にかかるらないんだ。体の中に血すら流れていない。文字通りロストブラッドさ」
「ああ。病院が閉まるわけだ」
「いわば風邪の特効薬なのだからノーベル賞くらい貰いたいわけだけど……まあいい。他に思い当たる変化はある?」
「ああ……飯、食わなくても良くなったな」
別に食ってもいい。が、食わなくてもいられるし空腹もごくたまにしか感じない。それも放っておけば失せる。
「食事は不可欠の生命維持行為だったわけだけど、今では単なる娯楽に過ぎない。水もそう」
「あとはトイレにも行かなくなったな。睡眠を取らなくても辛いという感覚もあまりない」
「生理的行動の多くは排除されたか、生命維持を目的としない娯楽になった。
そういう意味でいえば、食事も睡眠も快楽を得るためのマスターベーションと変わりない」
「……一緒にしないでくれよ」
何でもない振りをして答えたが動揺している。2人きりで女子がそう言ったらこうもなろう。
「……しかしそうなると。もうそれは人間と言っていいのか?」
「良い指摘だね」
こちらの懊悩を知ってか知らずか、いつもどおり微笑みながら話を進めていく。
「人間という言葉の定義がなんなのか、とはなるけれど。少なくとも生物ではないよ」
「そうなのか?」
「うん。皮膚……いや体表面を裂けないから確認出来ないけど、この中には血液もあらゆる臓器も骨もない。血もない。今のぼくたちは生物ではなく、概念や存在と言った単語に形容される「なにか」なんだ」
さらりと未神が言う。……けどとんでもないことを言っているのは自分にも分かった。
「キャラクター、と言ってもいいかもしれないね」
「……」
「死なない時点で、生物も人間も辞めてるのさ」
現状を再認識する。ロスブラは不死現象なんかじゃない。もっと恐ろしく、もっと高尚な何かだったのだ。
「依途くん。手を出して」
言われるがまま、右手を未神へ差し出した。彼女の白い指がそれを握る。
「な、何してんだよ」
「きみの手は温かいね……」
指と指が絡まって、僅かに体温がそこに感じられた。どくどくと左胸が鳴るのが聞こえる。
「不思議だろう? 血は流れてないのに手は温かい。心臓は動いてないのに鼓動は聞こえる」
「あ、ああ……」
「なかなか難しかったよ。人の在り方から、何を消して何を残すのか。生物の機構を捨てながら、人間らしさは留めなきゃいけない」
神のようなその言動から程遠い、人のような温もりがその手にはあった。心無しか、彼女の頬も紅潮している。
「ぼくたちは子どもだってつくれるんだ。子宮さえ無いのにね」
「…………………」
「……結果、何が問題になると思う?」
「……は?」
「人の死なない世界で。こんな風に恋人同士がイチャコラしあった結果何が起きる?」
「えーと……人口が増える?」
「うん。そうだ。死なないのに増えるんだ。このままだと地球が人間で溢れかえるだろうね」
「……そんな話をするために人の手を握ったのか?」
「分かりやすいだろ?」
「分かるか、ボケ」
何なんだ、この女。俺の鼓動を返せ。
「言うまでもないことだけど……ロスブラには問題点が多いんだ。人口の増加もそうだけど、失業者の増加やシルエスタで行われたような拷問。そして……」
「はいはい。そして?」
「経済の崩壊、文明の終焉」
また重たい単語が出てきた。未神が人の手をにぎにぎしながら話を続ける。いや、離せよ。
「病気が無くなって社会保障費が激減、日本完全復活へ…………ってどっかが言ってたが?」
「……依途くん、まとめサイトに真実は無い。事実と思って見ているなら止めて欲しい」
「冗談だ。信じちゃいない」
「……それならいいんだけど。ところで依途くん。なぜ人類は労働に取り組むと思う?」
「生活のためだろう」
「うん、そうだ。食わなきゃ死ぬからね。……しかし、今は違う。死は潰えた。飯の種の為に働く、という動機は弱くなる」
「……そうだな」
「それでも人は働くのかな?」
「食以外にも金は掛かるだろ」
「そうだね。……でも絶対に出てくるよ。食わなくとも死なないのなら、働くのなんてやめてしまおう。そう思う人が」
まあ確かに居そうではある。が……
「それが経済の崩壊に繋がると?」
「うん」
「大袈裟じゃないか?」
「ううん。労働を辞めよう。あるいは減らそう。そう思う人間は少なくないはずだ。今の生活レベルを維持出来なくともね。生産者は生産を放棄し、消費者は消費を捨てる。経済は成り立たない。文明世界を成り立たせている根幹が失われる」
俺は政治も経済もちんぷんかんぷんだが、それがどれだけ問題なのかくらいは理解できた。
「思ったより……おおごとなんだな。人が死なないってのは」
「そりゃそうだよ」
しかし、未神は悲惨な未来予想図の話をするのには似合わぬ笑顔を今日も浮かべていた。
「多くの問題も認識した上で、ロストブラッドを実行したと?」
「うん。人が死ぬ世界なんて要らないからね」
……勝手な妄想が浮かぶ。彼女にそう思わせる誰かがいるのだろうか。いたのだろうか。
「まぁ対策は考えてるよ。上手く行けば、ある意味ロストブラッド以上の変革かもしれない」
「?」
「他に何か、質問はある?」
そう問われ考える。うーん。
「……なあ、未神が気を失ったりしたらロスブラは停止したりするのか?」
「まさか。そんなあっさり世界が変わったら困るだろ」
お前が言うか。
「僕の身に何かあった時は安全装置が働くようになってるよ。仕様は固定化される……」
「はぁ」
「さ、今日の授業は以上。ぼくは帰ろうかな」
今日は戦ったりしないらしい。実に素晴らしいことである。
「依途くんは?」
「俺も特に残る理由は無い」
「じゃ、一緒に行こうか」
教室を出て2人で歩く。階段を下りると、どっかの運動部の掛け声やら吹奏楽部の演奏やらが響いていた。
「いいもんだよね、人が生きているってのはさ」
確かに学校中に響く音も広がる光景も全部、生気や活気に満ちていた。普段より少し寂しげに笑う未神は、当人には悪いが結構絵になっていた。下駄箱からスニーカーを取り出す。
「お前、家どっち?」
「えーと……」
聞いた地名はよく分からなかった。
「ま、駅までは一緒かな」
後者を出る。日暮の街に同じように高校生たちが帰路を歩いていた。どうせなら綺麗に夕陽でも出ていて欲しいものだが、いつの間にかお天道様は雲に遮られ夕闇が世界を覆っている。
「ところで、なんで思春期同好会なんだ?」
随分今更な質問だなとは思いつつ、聞いてみる。ずっと前から疑問に思っていた。
「ほんとに今更だね」
「ほのかにやらしい匂いのする名称だと思ってたんだが」
「……そんなこと考えてたの、依途くん」
やつの歩調に合わせ、気持ちゆっくりと歩く。
「人はさ、大人になっていかなくちゃならないだろ?」
随分抽象的なことを言い出した。哲学は苦手なんだがな。
「昔、偉い人が言ったんだ。大人になるってことは、つまらなくなることだって」
「はぁ。誰の言葉だ」
「ぼくだよ」
そりゃ大層偉いのだろう。
「……みんな未熟な子どもだから、人生は楽しくて面白い。だからほら、創作物は少年少女だらけだろ?」
「そうだな」
「多くの人間は、そのうちに大人になる。少なくともそう演じられるようになる。
でもそれは成長じゃない。つまらない世界に自分を適応させてつまらなくしただけ。劣化だよ……ぼくはね。今よりずっと、みんなが子どもでいれればいい。そう思ったんだ」
「ピーターパンか?」
「そうだね……ぼくはこの世界をネバーランドにしたいんだ」
変な笑いが出た。
「おかしいかい?」
「いや。愉快なんだよ」
こんなに人らしい神を俺は知らない。
「なるほど、それで思春期同好会ってわけだ。夢のでっかい女だな、お前」
未神が破顔する。
「そりゃ、夢は大きい方が良い。年齢なんて限界が無い世界なら尚更ね……」
世界を変えちまうのがいいことかは知らないけど、その夢の大きさは何だか羨ましかった。小説が賞に落ちたくらいで死のうとする男とは比較にもならない。
と、未神が立ち止まる。駅に着いたようだ。
「ん、お前電車何分? 間に合うか?」
「…………」
沈黙。夕闇の中、未神が表情を変える。人の機微には疎い方だが……間違いでないのなら、切なそうな。そんな表情に見えた。
「依途くん。夢って言うと大袈裟なんだけどさ。お願いがあるんだ」
「なんだよ」
「ともだ……知人と一緒に海に行ってみたいんだ」
意外な、唐突な提案だった。諸々の疑問はあるが取りあえず返答する。
「はぁ。付き合うが」
「へ?」
「何で海なのか知らんが。暇だしな」
未神がじっとこちらの顔を見てくる。目を反らした。
「……お前のお陰で、毎日退屈しないで済んでるからな」
主人公のような力を、こいつがくれたのだ。
「じゃ、行こうか」
「今からかよ。水着とか、何もないけどいいのか?」
「いいよ。いこ?」
さっきと違う軽やかな足取りであいつが歩き出す。帰り道と違う切符を買って電車に乗った。
そう遠くは無い。十五分くらいで電車を降り、駅を出る。少し歩けば海岸が近づく。
「……潮の匂い、してきたかも?」
未神が嬉しそうに心を弾ませているのが何となく分かった。
「楽しそうだな」
「うん。けっこうね」
「でもなんで海なんだ?」
「好きな本に海のシーンがあってさ」
好きな本……いつも読んでるあれだろうか?
「見えたね、あれだ!」
潮の香りと夕闇を映す煌めき。黄昏の海がそこにあった。未神が子どもみたいに走り出す。
「きれいだな……」
「ああ」
見渡す限り海には誰もいなかった。田舎の海だからなのか、未神がまた何かしたのか。
「泳げないかな」
「六月の海って冷たくないのか?」
あいつがてのひらで波をすくう。白い指から雫が零れた。綺麗だった。
「うーん……ちょびっと、つめたい?」
そう言ってカーディガンを脱ぎ、靴も脱ぎ始めた。
「おいおい、入るのか?」
「足だけ。依途くんもいっしょね」
稚児のような純粋さでそう誘われる。断る気にもなれなかった。
未神はソックスまで脱いで、スカートを少し上げる。細い、滑らかな脚。その脚で波の方へ走っていく。
「はやくっ」
踏まれた水面がぱしゃりと飛沫を上げる。直ぐに膝まで水滴に濡れた。
「……変な目で見てる?」
「まさか」
俺も臭い靴下を脱ぎ捨てて海へ飛び込む。捲ったはずの裾は直ぐに濡れた。
「思ったより冷たいんだが」
「気持ちいいよ」
光る水面。足踏みする度、表情を変える。
「制服で海なんて来るとはな」
「……えい」
シャツが濡れる。未神が水をかけてきた。
「ちょっ」
「えへへ」
制服が濡れると非常に困るのだが……こうも楽しそうだと文句も言い辛い。さっきからずっと同じことを思っている。
「依途くんもかけていいよ」
「は?」
「ほら。かけなよ」
非常に魅力的な提案だが流石に良心が痛む。
「いや、透けるだろ」
そういうことである。
「いいよ。それくらい」
「だめなんだよ。俺が許してもコンプライアンスが許してくれない」
「うるさいなぁ。はやくっ」
仕方無く思い切り水をかけた。制服の白い生地に海水が染みていく。
「あはは。濡れちゃった」
脚だけでなく、顔や髪に雫が垂れている。……何というか、こう、ダメな気がした。
そのままこちらへ近寄ってくる。後退りする。
「逃げないでよ」
両手で顔を掴まれる。濡れたてのひら。柔らかく、頬を撫でてくる。
「犬みたい」
「誰のせいだよ」
努めて冷静にそう言ってみる。内心大混乱である。
「ねぇ、依途くんの夢は?」
「夢?」
「うん。ぼくの夢を一つ叶えてくれたから。依途くんのも叶えてあげたいなって」
「そんな大袈裟な」
「ううん。うれしいの」
何だか知らないが、今日は未神の様子がいつもと違う気がする。……まぁ悪い気はしないのでよしとしよう。
「だが、特に夢なんて……」
「無いの?」
無いわけじゃない。執筆の才能辺りが欲しくてたまらない訳だが、人に頼むことじゃない。
「じゃあ手を退けてくれ」
「だめ。違うの」
「ん……じゃあそうだな。いつか、旅にでも出たいな」
「旅? どこに?」
「さぁ。どこだろう」
「場所は決まってないの?」
「ああ。せっかくこんな世界になったんだ。何も考えずにいろんなところに行ってみたい」
命と金の心配も学校もさておいて、知らない道を歩きに行けるのは何だか楽しそうだった。
「うんうん。……よし。叶うといいね」
「え? 叶えてくれるんじゃないのか?」
「まぁそのうち叶うさ」
何だそれ、と呆気にとられているとようやく未神が顔から手を離した。精神衛生上あまりよろしく無かったので実に有り難い…………
そう思った瞬間、右手でシャツの裾を掴み上げ、左手でスカートを押し下げ始めた。
「お前、何して……!」
胸から下腹部辺りまでが陽の下に露わになる。見てはいけないものの気がして目を反らした。
「こっち見てよ」
「いや……」
「依途くんが気になって仕方ない布は見えてないよ。おなかだけ」
じっとこちらを見てくる視線に負け、腹部の方を向く。濡れた、柔い腹が照らされていた。雫が鼠径部を滴り落ちていく。
「傷、あるんだ」
そう言われてよく見てみると、確かに右側から下腹部の方へ薄く傷跡があった。
「事故でさ。ま、そんな大したことないんだけど」
「そうか」
未神が俺の手を取り、傷痕に押し付けた。
「ちょ、おいっ」
「んっ…………」
指が滑る、食い込んでいく。確かな体温がそこにあった。
「触って欲しい」
「……」
「依途くん」
そのまま撫でる。掴んでみる。恍惚感と罪悪感がないまぜになっていく。
「夜海さんの胸触って喜んでたんでしょ?」
「なんで知ってんだよ……いや、そもそも喜んでないが」
「ずるいよ」
更に強く、手を押し付けてくる。僅かに感触の違う傷跡に指を添わせると荒い吐息が漏れて表情が揺らいだ。
「えとくん……落ち着くね、これ」
「……」
「ありがと。海、連れてきてくれて」
「いや、別に俺が連れてきたわけじゃ……」
「でもきみがいなきゃ、だめだから」
いつの間にか陽は落ちて、薄明に染まっている。取り込まれてしまいそうな感覚がいつまで経っても消えない。
未神がまた薄く微笑む。今までと、何か違う。
「どうした?」
「……依途くん、ごめん。ここまでのようだ」
「は?」
「また会おうね…………」
次の瞬間には未神が視界から消えていた。
「…………」
周囲を見渡す。光を失い始めた空を映す波だけがある。
「未神……どこだ?」
砂浜に上がる。それでもどこにもいない。
「未神ー!?」
叫んでも返事は無い。どうなってやがる。ついさっきまで隣にいたはずのあいつが居ない。俺の目の前で消えた。どこかに転移したのか? いや、はっきり言った。
ここまで、と。本当に消えた……どこに?
「一人にしないでくれよ……」
そう呟いた瞬間、視界が真白く点滅した。
意識が薄れていく。ポケットから這い出た拳銃に、『止まった鼓動』、そう映し出されていた。