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「……ふぁ」
欠伸を手で押え椅子にもたれた。雨が降っている。教室に氷室の声と雨音だけが響いていた。
「以上、ホームルーム終わり。解散」
氷室が教室を去っていく。雨音を掻き消すように生徒の騒ぎ声が溢れた。ケインが近日中に帰国すると聞いてから3日が経ったが、未だやつは帰ってきていなかった。刃物女にも出くわしていない。まぁ、死にかけるほど戦ったんだ。少しは休んでもいいだろう。暫くこれくらい平和でいて欲しいものである。
教室を出る。窓から射す光の無い、いつもより昏い廊下を歩く。傘は無い。帰りまでに止んでくれるといいが……
「おっと……」
通りがかった女子生徒にぶつかった。
「すみません」
「いえ……」
俯いた生徒が足早に去っていこうとする。……ん? もしかして、今の……
「……おい、ちょっと待ってくれ!」
声をかける。
「あんた、あの時の……シルエスタ共和国にいたな?」
「!」
顔を上げる。長い前髪のその向こう……別人のような表情だったが、顔立ちは確かに同じだ。
「し、知りません!」
「あ、ちょ……」
走り去っていく。生徒の人混みに紛れて見えなくなってしまった。
「……おいおい。こんなこと有り得んのかよ」
俺の見間違いでない限り、あの子はシルエスタで俺を襲撃した通り魔女だ。まさかそれが同じ学校にいたなんて。世間狭すぎるだろ。ともかく、未神のところに行くか。
―――――――――――――――――――――
「なぁ、未神!」
「依途くん? どうしたの、そんな慌てて」
いつもの空き教室。いつものように本を読んでいた未神が、俺の様子に困惑している。
「刃物女に会ったんだよ!」
「え……どこで」
「この学校で!」
俺が一番びっくりである。
「あいつ、うちの生徒だったみたいなんだ」
「…………」
ぽかーんという表情をしている。
「いや、そんなはずは……だいたい気付くだろ、そんなの!」
「気付かなかったから2人して呆けてるんだろ!」
「……たしかに」
溜息を吐く。
「ただ、気になることがあってな」
「?」
「あの時のあれは戦闘狂のようだったが……さっき会った時はむしろ内気で大人しい感じだった。とても刀を振り回す人殺しには見えん」
だが事実あれに殺されかけているのだ。首の皮一枚繋ったが、本当に危ないところだった。
「それで、どうしたの。声はかけたりした?」
「ああ。逃げられたが……」
よく考えたら、声かけてよかったのか?
「……しかし、本当にここの生徒だとしたら。わざわざシルエスタになんて来てたんだ」
「見た感じ、あの国の状況に関与する気は一切無さそうだったけど」
「ならやっぱり俺に用が……?」
その瞬間、ばんと大きな音がした。ドアが開いている。
「……来たのか」
「久しぶりだねぇ。坊や」
シルエスタの刃物女……さっき会ったはずの女子生徒がそこにいた。ゆっくりと、こちらに歩んでくる。
「同級生に坊や呼ばわりとは。俺ってそんなに童顔なのか?」
「……この人が、例の?」
「ああ、そのはずなんだがな」
とはいえまた様子がおかしい。さっきの廊下と違う。戦場であった時のような狂気を瞳に宿している。
刹那、やつがナイフを俺の目前に繰り出す。
「ほう、やるじゃないか……今のに反応するとは」
同時に俺は銃を奴の額へ向けていた。突きつけられる刃と銃口。
「……さっきは腹でも痛かったのか?」
「あぁん?」
「アクティブになのは構わないが刃物は良くないな。お母さん怒らないから戻してきなさい」
突如屈んだかと思うと、以前俺の左腕を刈り取ったのと同じ動作でナイフを振り上げた。
軽く肩を引くだけで刃は空を切った。
「チィッ!」
……あとは習った通りにやるだけだ。女の腕を左手で掴んで捻る。銃を持った右手で奴の顎を下から突き上げ、脚をかける。 そして倒す。
「ぐへぁ!」
奴が後頭部から思い切り叩きつけられる。頭をすかさず撃ち抜いた。
「……」
動かない。気絶したようだ。長い髪が床に広がっている。ふと見ると近くに髪留めが落ちていた。後ろで縛っていたらしい。
「お見事」
振り返ると未神は部屋のカーテンを閉めていた。見られないためだろう、仕事の早い。
「習った時はこんなに上手くいくもんかと思ってたが……」
「教えた甲斐があったよ」
ここ最近の訓練の成果である。未神が立ち上がり、奴のナイフを取り上げた。そして彼女をうつ伏せにし、どこからか出した紐で腕と足とを縛り始める。
「あんまり気乗りしないけど……」
縛られた身体のあちこちを未神が触り始める。
「お、おい、何してんだ」
「ボディチェックだよ。武器持ってたら困るでしょ」
まぁごもっともではある。あるのだが。腕、胸、腹、尻、ちょっと述べるのが躊躇われる場所まで触っている。その度に手のひらが柔らかそうに沈んだ。
「……依途くん」
「え、あ、はい」
「ずいぶんうれしそうだね?」
「気のせいじゃないか?」
「……ぼくのことは女とすら思ってないくせに」
……やはり先日の件を相当根にお持ちのご様子らしい。平謝りしておく。
「……スマホとかハンカチとか、そんなのだけみたいだね。じゃ、取り調べと行こうか」
未神は彼女を椅子に縛り、頬を思いきりつねった。
「ん…………」
「おはよ」
彼女は自分が縛られているのに気が付き、驚いたようだったがとかに暴れたりはしなかった。
「縛られてるのに。反抗しないんだね」
「経緯は覚えていますから」
「……依途くんの言った通りだね。別人みたいだ」
「ついさっき俺はきみに襲われた。そのまま放るにはあまりに危険だったのでな。悪いが拘束させてもらってる」
彼女の顔を見つめる。俺がさっき見たのはこちらの大人しい方の人だ。
「……私には、いえ、私の体には2つの心があるんです」
「えっ?」
「……」
「いま話している「私」と、あなたを襲撃した「あたし」。身体と記憶を共有してますが……ほとんど別の人間です」
…………こりゃ驚いた。フィクションやらドキュメンタリーやらでよく見るが。
「俗に言う多重人格?」
「厳密な定義に当てはまるか分かりませんが、概ねそうです」
さっき俺にナイフを向けた方のこの子と今ここで縛られている人格は別人ということか。
「名前を教えて?」
「夜海彩夏です」
「ありがとう。……ごめんなさい。こんな風に拘束してしまって」
「いえ……」
「少なくとも、あなたが暴れたりしない限り、ぼくたちは危害を加えたりしない」
夜海は黙って俯いている。恐怖というより、何か後悔しているような、そんなふうに見えた。
「聞きたいことは幾つかあるんだが、とにかく一番重要なことから聞くか。貴方のもう一人の人格は、どうして俺を襲ったりしたんだ?」
「……」
「多分、貴方と話したことはほとんど無かったはずだが」
「いえ……あります」
「済まない……そうだったか?」
未神がじとーっとした目でこちらを見ている。一旦無視する。
「本当に、少しだけですけど……「あたし」が依途さんを攻撃したのは私のせいなんです」
「?」
「……長くなってしまいますが。「私」の話をしてもいいですか?」
「うん。話してくれると嬉しいな」
先程の手際が信じられないほど未神は優しい声で話していた。演技には見えない。
「そもそも、……それも随分昔のことですが、この身体には私だけがいたんです。
私はその頃からご覧の通りと言いますか、臆病で、これといった取り柄も何も無くて、コミュニケーションが上手く取れなくて……。それでも両親は優しくて、色んなことに挑戦するよう勧めてくれました。その度に何も出来なくて、励ましてくれて、死にたくなりました」
「…………」
「どうしてこう生まれちゃったんだろって。もっと明るくて、才能があって、そういう風に生まれなかったんだろって。……そうすればおとうさんもおかあさんももっと楽しく生きれただろうし、私だって。
そんなことを思ってるうちに、「あたし」が出来てたんです。中学生の頃でした。あの子は私と違って何でも出来ました。運動も勉強も芸術も、人付き合いも。私の求めた自分なんです」
自分より能力の高いもう一人の自分、か。
「今まで出来なかった多くのことが出来るようになって、親も喜んでくれました。「努力が実ったんだね」って」
「……ごめん、夜海さん。もし嫌なことを話させてるなら」
「ううん、依途さん。出来るなら聞いて欲しいの。いい?」
ゆっくり頷いた。
「「あたし」は基本的には優しい子です。……けど、破壊衝動があるんです」
「?」
「私の死にたい気持ちの裏返しなんだと思います。彼女は激しい怒りと殺意とを秘めているんです。でも賢い子ですから、どうにかその殺意を抑えていました。
……少し話が飛びますが、この学校に入ってからのことを話させてください。
私は趣味で漫画を描いてるんです。多分、とても下手な。ある日、その原稿を廊下で落としてしまって。困りました。あの子のおかげでちょっとだけ人気者の私が、こんなものを描いてるのを知られたら全てが無駄になります。陰で笑われます。……その時に、歩いてきたんです」
「誰が?」
「依途さんです」
驚愕する。まさか自分の名前が出るなんて。……いや。漫画の原稿らしきものを拾ったこと、あったかもしれない。うっっすら、あったような。
「黙って原稿を拾って、手渡してくれました。とても優しい表情をしていました」
「……」
「興味が湧きました。お話してみたいなって。でも出来なかった。あの子にもできなかった」
「…………」
「それから暫くして。ロストブラッドが起きました。人が死ななくなった。
つまり、あの子が幾ら他人へ攻撃衝動を発散しても取り返しのつかない結果にはならなくなった。逆に言えば欲求自体はより昂るのに、それをどうにか抑え込まなきゃいけなかった。
……私もあたしも欲求不満なんです」
「ん……」
「ある日、あたしはいつの間にか異形の怪物になる力を得ていました。何でかは分かりません。でも人が死ななくなるくらいだから、そういうことも起こり得るんでしょう。
そして先日、きみが飛行機に乗り込むのをたまたま見かけて、追いかけたんです」
……本当にたまたまかは議論の余地があるが、おいておく。
「シルエスタ……戦場の空気と闘う依途くんを見て私とあたしの欲求は抑えが効かなくなりました。依途くんと戦うことで初めて、あの子は満たされたんです」
「……」
「話は以上です。あまりに多くのご迷惑を掛けました。申し訳ありません」
「……まぁ、なんだ、その」
何か言おうとするが、適切な言葉が見つからない。
「俺がモテモテってことだな」
「調子に乗るな」
未神に引っぱたかれる。ありがとう。今のツッコまれなかったら辛かった。
「にしても、日本からどうやってブルーバード……あのヘリみたいなやつを追いかけてきたんだ? まさか泳いできたわけでもないだろう?」
「……泳いだんです。変身して」
どうかしてるだろ。
「犬かきでした」
クロールしろよ。
「あの子は……暴走してるんです。今までずっといい子ちゃんをしてきましたから。
本気で戦えて、自分のことを理解してくれるかもしれない依途さんに甘えているとも言えるかもしれません。……首を噛まれた時は、あまりの痛みに我を忘れたみたいですが」
下僕になれ……とか言ってたが、甘えてたのかあれ。
「ねぇ、夜海さん」
未神が声を掛ける。
「はい?」
「事情はある程度分かった。……けど、やろうとしてることは殺人だ。このままだと彼は貴方に殺されかねない」
「え?」
「君のもう1人の人格は、彼を殺そうとしてるんだよね?」
「いえ。だって、死なないじゃないですか。ロストブラッドがあるんですから」
……嘘を言っているようには見えない。つまらない冗談を言っているようにも。なら、本当にそう思っているのか?
「一応聞きたいんだが。あの異形に、異形を……俺みたいなのを殺す能力があるのは?」
「……へ? 何ですか、それ」
…………知らなかったのか。
「ほ、ほんとですか?」
「ああ。あの剣で斬られると死にかねない」
「じゃあ、あの時依途さんは……」
「死んでた、かもな」
彼女の表情が蒼白になる。
「そ、そんなはず……」
「事実だよ」
未神は誤魔化しもせず、はっきりと言った。
「…………ごめんなさい」
「いや、知らなかったならそれは」
「ごめんなさい……っ……ごめんなさい、ごめんなさい……!」
俯いた彼女の声に嗚咽が混じる。こちらの声は届いていないようだった。
「おい、未神……」
未神が彼女へ手をかざす。ぼんやりと光が放たれ、泣き声が止んだ。
「眠ってもらったよ」
「そうか」
自分の手で誰かを殺しそうになっていた。それは確かに容易に受け止められる事実じゃない。
「どうする? 経緯は分かったが、何も解決してないぞ。ずっと縛っとくのか?」
「そんなわけには行かないよ」
未神がナイフを掴む。壁にそれを刺すと、そのまま刀身をへし折った。
「少なくともこれで一時的対策にはなる。トリガーがなければ異形にはなれない」
「一時的?」
「うん。別の何かをトリガーとして用いることが出来ないとは言いきれないからね」
「どうすりゃ根本的解決になるんだ?」
「……本人が言ってたろ? 欲求不満だって。解消してあげればいい」
「……えぇ?」
「つまり、リビドーとデストルドー。性と死」
「うすうす分かってはいるが。はっきり言ってくれないか?」
「彼女と思いっきり戦って、いちゃいちゃしてやればいい」
「はぁ……」
ここ最近で一番の溜息が出た。何がリビドーとデストルドーだ。それらしいこと言いやがって。
「戦闘ならお前の方が強いだろ。異形でもないから死ぬこともない」
「駄目だよ。ご執心なのはきみみたいだから」
「諦めて斬られろって?」
「ううん。彼女を叩き伏せられるくらい、強くなればいい。それに……女の子とイチャコラできるのはきみだって嬉しいだろう? 何せ、知人に女性はいないようだから」
「ほんっっとうに……根に持ってるんだな」
「では思春期同好会は作戦を発動する。作戦名に希望は?」
「……オペレーション・フラグス」
「理由は?」
「ギャルゲ的なのも死亡的なのもフラグが立ったからですかね……」
「立ってないよ。却下」
「へ?」
「これよりオペレーション・フラグブレイクを開始する。彼女の敵対理由を喪失させよ」
却下とかもあるのかよ。
夜海彩夏が目覚めたのは、それから30分ほど後のことだった。
―――――――――――――――――――――
「すみません……送って貰って」
夜海さんが申し訳なさそうにそう言った。
帰り道。彼女の隣を並んで歩く。半ばパニック気味とも言えたあの様子から見て、一人で家に返すのはよろしく無いだろうという結論に至ったのだ。
……というのがカバーストーリーである。実際には未神の言うオペレーション・フラグブレイクの一工程であり、彼女の暴走の原因である欲求を抑えることにある。
「いや。構わない。どうせ暇だからな」
普段は歩かない道。陽の沈みかけた薄明の空。作戦とは言え、女の子と二人並んで帰るのに変わりはない。よく考えると経験の無いことだった。
「私のこと……怖くないんですか? 依途さんのこと、殺そうとしたんですよ?」
「……怖くないわけじゃない。でも「貴方」に責任のある話じゃないだろ?」
首を横に振る。
「あの子の破壊願望は、多分そもそも私のなんです」
「?」
「どうして自分にはこんなに能力が無いんだろう。無能なんだろう、って。
死にたいのと同じくらい、みんな死んで欲しかった」
「大変だなぁ」
「はい。大変です。ほんとに死んだら、多分凄く後悔するのに」
「そう思えるなら、貴方は優しいよ」
「……依途さんも、そうなんじゃないですか?」
「ん?」
「私とあたしが依途さんにご迷惑をかけてしまった理由が、まだあるんです」
夜海さんはゆっくりと歩きながら、少し伏し目がちに話した。
「ロストブラッドが起きたころ。クラスのグループチャットに、写真が上がったんです。……依途さんの原稿の写真が」
「はぁ!?」
頭を抱える。マジかよ。誰だよ。
「屋上からこの原稿を投げ捨てて飛び降りたって」
この子のクラスのグループチャットに上がるんだ。俺のクラスにも当然上がってるだろう。……そりゃ文豪ダイブとか言って喜ぶやつが出始めるわけである。
「全ての原稿がアップロードされた訳ではありませんが。才能の無い者の絶望がその小説には書かれているようでした」
「……」
「依途さんなら、私のことを理解してくれるんじゃないかって。そんな勝手な妄想が抑えられなくなりました」
何色ともつかない空の元で、彼女が告げる。……鼓動が高鳴っているのが分かった。
「……恥ずかしいな」
「ごめんなさい。勝手に読んで」
「いや。写真を上げた馬鹿が悪い」
「読んだ私は非難出来ませんね……」
彼女が俺ならば自分を理解出来るかもと言ったのが正しいかは分からない。けれど、俺と夜海さんがよく似ているのは事実だろう。自らの無才に呆れ、死を願う。馬鹿な高校生である。
「……俺もさ。自分に才能が無いのが嫌で飛び降りたんだ。
何にもない奴の悲しさを書いた本がつまらないお陰で、作者の無能を殊更に示してる。皮肉として見りゃいい出来だ」
「そんなこと……」
「読んでくれてありがとう。全部じゃないかもしれないが、それでも」
「……ふふ」
笑った。多分初めて見る笑顔だった。
「いつか全部読ませてください」
「いや、不出来が過ぎる。それは……」
「それでも読みたいんです」
「……ああ。そうか」
彼女がまた微笑む。
「……っ」
ふと、夜海さんが魂の抜けたような表情をした。人形のように目に光が消えている。
「どうしたんだ?」
「……くく、あはははは」
雰囲気が、変わった。……まさか。
「あの子ったら。必死であたしのこと抑え込んで。こんなのいつぶりだろう」
「「二人目」、か」
「いやだなぁ。君からすれば初めてのつもりなんだけど。ねぇ、童貞くん?」
挑発的な言動。鋭い目つき。間違い無い、ナイフを俺に突きつけてきた方だ。
「……それで? また俺を殺す気か?」
「んーん。知らなかったからね。自分の力なんて」
「え?」
「知らないまま、君を殺すところだった」
自分でも能力を知らなかったのか? しかし、そんなこと……
「人を殺しちゃいけない。それくらいはあたしでも分かってる」
「…………」
「謝ろうと思って。ごめんなさい」
思った以上に深く、夜海が頭を下げた。
「……分からんな。殺したいんじゃなかったのか?」
「やりたいのと、やっていいかは別だから」
「……お前、もしかして暴走さえしてなきゃまともな感じ?」
「やだなぁ。これでもずっとあの子の代わりしてきたんだよ?」
「そう言われればそうか」
さっき説明をうけたが、どうしてもシルエスタで戦った時の印象に引っ張られる。
「許して……ううん。許してくれなくても謝るよ。それだけのことをしたんだから」
「……まあいい。今後攻撃しないでくれるならそれで」
これで今後の安全も確保された。助かった。大切なのは話し合い。暴力は良くないね!
「よかった」
殺されそうになってるのに、そうやって笑われると可愛いだとか思ってしまうのだから俺も単純なものである。
「んー……ねぇ、あたしのこと、怖くない?」
「怖くないわけじゃない。が、もう謝罪は受け入れたからな。……気にするか、そういうの?」
「けっこうね。なにせ、年頃の乙女だから」
夜海が何かに気が付いた様な素振りを見せると、ポケットから髪留めを取り出した。
「髪は? 縛ってる方がいい?」
「え? あ、ああ……」
よく分からないまま返事をする。彼女が長い髪を後ろに縛ってポニーテールにした。髪留めは部室に来たときに着けていたものだ。隠れていたうなじが日に晒された。
「もう一つ聞きたいんだけど……」
夜海は俺の手を取り、自分の胸に押し当てた。知らない感触が掌を覆う。
「な、なにして……」
「あの子とあたしだったらどっちがいいかな?」
指が沈んでいく。温い。
「ん……安心するね……」
「離せって!」
「あたしさ。あの子の代わり、飽きちゃったんだよね」
「え……?」
「ずっとあの子の身代わりだなんて、そんなの馬鹿馬鹿しい。あたしは仮面じゃない」
夜海が憎らしげにそう言った。
「さっきだってそう。あたしを押し込んで、空良くんを独占しようとしたんだ」
「取り合うような人間じゃないぞ、俺は」
「どうかな。あたしもこの子も、やりたいことはそんなに変わらない。違うのはあんたに対しても殺人衝動が湧くかどうか」
俺の手を、彼女が更に強く押し当てた。
「……んっ」
「おい、やめろってば!」
「この気持ちよさがあれば……もっとくれれば。それでよくなる気がするんだよね」
「はぁ……?」
「そのまま幸せになれちゃえば、他人を攻撃したいなんて思わなくなるかも」
……夜海さんの言っていたことを考えるなら、ない話じゃない。
「ねぇ、どうかな? 攻撃性も抑えられるし、お互いきもちくなれるし」
「どうって……」
「あたしのこと、飼い慣らしてよ」
言葉が出ない。何か、融けるような快感と柔らかい感触だけがあった。
「!」
また彼女が、身体を震わせる。瞼が下りる。再び開く。
「……依途さん」
入れ替わったのが分かった。
「だめじゃないですか。ちゃんと拒絶しなきゃ。じゃないとまた、あなたを殺そうとする」
「もう俺を殺す意思は無いようだったが」
「……この女を信じるんですか?」
「この女って」
「私の体を勝手に使って、汚い……」
さっき「あたし」が見せていたのと同じ憎しみを顔に浮かべていた。いや。今のほうがより強い感情にも見える。「私」の方も、もう一人の自分への憎しみを募らせているようだった。
「依途さんに迷惑かけて……」
「…………」
「迷惑ですよね?」
「え?」
「あの子、邪魔ですよね?」
今までとは違う。確実にこちらの目を強く捉えて、そう尋ねてくる。いや、俺の意思を問いたいのでは無い。特定の回答を要求してきているに見えた。
……問題なのは、迷惑とも言いきれない所である。おっぱい揉めてうれしーうれしーと脳内麻薬がどばどば出ているのだ。
「どうして答えないんですか?」
睨まないでくれ。仕方ないだろ? 揉んだこと無いんだから。
「あーその……」
「はやく、こたえて」
沈黙を許してはくれないようだった。どう答えるべきなのか。或いは俺自身、どう思っているのか。狼狽えていればいるほど彼女の表情が冷たく燃えていく。
……そうだ。本心を答えるべきなのだ。
隠すわけでも、見せかける訳でも無く。素直に、純粋に心の内を。それがいま、俺が返し得る最大の誠実さである。
「……は、……です」
「ん?」
「おっぱいは! 嫌じゃないでぇーーっす!!!」
「……へ?」
「素晴らしいでぇーーーっす!!!」
静寂が時を支配した。無音だけがそこにあった。
風や鳥すら鳴くのを止め、誰一人として道を通らない。
永遠のようだった。
「……」
醜態。あまりに醜態だった。武士なら切腹モノだし、そうでないなら打首である。
「では、失礼するよ」
背を向けて走り出す。他に出来ることは何も無い。ただひたすら逃げる。
俺を追うものは誰一人としていなかった。
―――――――――――――――――――――
『あはははははっ!』
五月蝿い。黙れ。
『いやー、だってさぁ。往来でおっぱいって。おっぱいだよ? おっぱい! あははは』
口を閉じろって言ってるだろ! 私の頭で喋るなッ!
『誰かさんが体を寄越さないからでしょー?』
もう完全に日は落ちていた。
一人になった帰り道。……こいつのせいだ。
『やだなぁ。脅したのはあんたでしょ?』
違う。お前が醜いことをするから……
『喜んでたけど?』
そんなはずない。
『借りてきた猫みたいに大人しくしてたのに。ちょっと彼にちょっかい出しただけできゃんきゃん喚いて』
……何なんだよ。全部、全部お前が持っていく。期待も、肯定も、愛情も。
『そりゃそうだよ。みんなの求める姿になってやってるのはあたしなんだから。その報酬もあたしの』
依途くんさえ、自分のものにしようとする。私から奪おうとする。
『あんたこそ、要らないものあたしに押し付けてきた。他人に応えてあげる義務も、その報酬もあたしは要らないのに。
親の愛なんて興味も無い。
やっと欲しいものが出来たのに、それだけはあんたが取ろうとする』
勝手なこと言わないでよ! あんたは……あんなに愛されてるのに!
『だから、それが要らないんだって。あんたが喚くからいい子ちゃんしてあげてるだけ』
しょうがないでしょ! 私には、何も無い……好かれるはずがない……だから、お前が……
『はぁ、呆れた……さっきの見てたでしょ。確かにあんたはボンクラよ、でも愛されないのはそれが理由じゃない』
うるさい……
『男なんて胸一つ揉ませてやるだけであんなに喜ぶわけ。自分だって気持ちよくなれちゃうわけ。他の人間だってそうよ。好意を向けられてるとか、愛想がいいとか、それだけで他人に好感を抱くのには十分なの。
あのバカ親どもなんて、プレゼント1つ買ってやりゃ泣いて喜ぶわ。それを見てあんたもバカだから喜ぶでしょう?
取り柄でも才能でもない。愛されようとしてないから、あんたは愛されないの』
……やめてよ、何でそんなに私を攻撃するの!
『悲しいとそう考えがちでしょうけど。そう言ってる間は誰もあんたを必要としないよ』
余計な声を頭から掻き消す。邪魔な奴らばっかりだ。どいつもこいつも、死んでくれ。
気が付くと家にいた。両親はいない。帰ってくるのはもっと先だろう。
「依途さん……」
そうだ、彼なら……私を分かってくれるだろう。邪魔なこいつが出てきたりしなければ、彼と一緒にいられる。一緒になれる。
気が付くと家を出ていた。
―――――――――――――――――――――
「あきらー」
リビング。返事をせずに視線を声の方に向けると、食卓に突っ伏す姉の姿があった。
「ひまー」
未神の発動したオペレーションを放棄し家まで帰ってきてしまったのである。……怒られそうだが仕方無い。やむにやまれぬ深く重い事情がそこにはあったのだ。
どれくらい深いかと言えば張り切って後輩に指導しているOBの説教くらい。それはどっちかと言えば不快。
姉はぐでーっという効果音が聞こえそうなほど弛緩しきっている。怠惰の神とかそういうあれなんじゃないか一瞬思う。夕食が終わって十秒後にはご覧の有り様だった。
「おいーむしするなー」
「はぁ。何?」
「ひまー」
部屋に戻るとするか。
「あいすっ!」
急にがばっと起き上がったかと思うと、謎の奇声を発した。
「あいすたべたいー」
「冷凍庫に氷入ってるぞ」
「ちがう! 氷じゃない! あいす!」
「はいはい」
「あいす! 買いいこ!」
姉がうるさいので夕食を摂ることになったのだが。食い終わっても変わらずうるさかった。
「あきらー、あいすー」
「……悪いな、姉貴。俺は今日大罪を犯した。もう外には出られないんだ」
「え? なにそれ?」
「……世界の中心で愛を叫んだ」
「???」
恥の極みである。なんと言っていいか分からなかったとはいえ、乳房絶叫は許されぬ罪だろう。多分怠惰よりは重い。
「まあいいや。お財布持ってくる」
無視して姉がとてとて歩いていった。人の話を聞けよ。
夜道。
「……なんか、寒いんだけど」
もうすぐ7月なのに。やけに肌寒い。
「さ、さぶい……」
半袖一枚のみの姉がそう言って震えている。
「アイスって気温じゃねーだろ」
「ばかだねーあきらは」
「?」
「スイカは夏だけだけど、アイスは年中旬なのだ!」
どうやら姉は畑でアイスが採れる世界にいるらしい。幸せそうな世界である。
「あーいす、あーいすっ」
コンビニが近付く。
「……ん?」
暗闇の中から、影が近付いてくる。……夜海さん?
「……こんばんは、依途くん」
「……おう」
どうやら、こっちか。実に気まずい。おっぱ……胸部の件があったばかりである。
「へ? あきらのともだち?」
「ああ」
「……なーんだ。馬鹿みたいですね。勝手に舞い上がって」
「?」
「いえ。仕方の無いことですよね。別に、何も悪いことじゃない」
「えーっと、どうかした? あきらに何か用だったかな?」
「……でも、許せない」
彼女がどこからか、銀色に光る何かを取りだした。
「包丁!?」
彼女はその先端を、自分の腹に突き立てた。
「だ、だめ!」
姉の声と同時に、彼女の体がみるみると異形のそれに移ろっていく。
「な、なにあれ……」
「ばかな……」
異形化は「あたし」の方だけだったはずだ。それがなんで……
「うふふ、依途さん……」
以前見たやつと変わらぬ刃が、腕から伸びていた。
「…………」
夜海が駆ける。俺の目前まで迫ると、その剣を振り下ろそうと……
「あきらっ!」
姉がこちらに飛び込んでくる。そのまま俺を突き飛ばした。
「………………っ!」
地面に倒れる。起き上がって元いたところを見ると姉が倒れていた。
「……おい、姉貴」
血は流れていない。衣服に裂け目が出来ていた。
「全く……おじゃま虫さんだなぁ」
気を失った姉を踏みつけ、夜海が苛立った声を上げている。
「……聞いてたろ。そいつは姉だ。もし嫉妬だってんなら止めてくれ」
「知らないよ、そんなの。楽しそうに笑って歩くんだもん。そっちが悪いよね」
「そうか」
拳銃を取り出す。『愛を穿つもの(キリングラブ)』と文字が浮き出ている……やつのことか。
弾丸が頭を穿って、ひとでなくなる。
「覚悟しろよ、畜生女」
「わぁ、こわい」
ふざけて笑う奴の頭を殴りつける。胸に貫手を放つと、深々と刺さった。
「痛い……気持ちいい」
突っ込んだ指を動かすと、尚更恍惚とした声を上げた。腕を引いて顎を蹴り上げた。
「容赦ないなぁ、依途さん……」
ゆらりとした動きから、急に刃を突き出してくる。速い、が十分見切れる。
突きを側面から叩いて弾き、腕を掴んで捻った。赤い飛沫を上げながら腕がもげる。
「あ、あはははは」
倒れたコップのように、肩から血が流れている。もいだそれを踏みつけると汚い音がした。
「いいなぁ。その怒り、殺意。依途くんもこっち側?」
黙らせるように顔へ肘を入れた。怯んだ隙にもう一発入れようとした瞬間、無くなった腕が生えてくる。
「チッ……」
カウンター気味にヤツの刀が頬を掠めた。更に上段に構えたそれが振り下ろされる前に足を払う。倒れたヤツの足を掴んでジャイアントスイングをかけた。
「ぐるぐるー! あははは」
夜海が刀をコンクリートの地面に刺した。火花を上げながらコンパスのように穴が開き、回転が緩まる。
「……ウラァッ!」
さらに力を込め振り回すと刃が折れ、再び高速に回転を始める。そのまま夜海を投げ捨てた。
それを追い、建物の屋上を蹴って進む。やがていつもの校庭にたどり着いた。
「ここで戦いたいの?……いーよぉ」
あのまま街で戦えば被害が大きくなる。ここなら人もいないだろう。
奴がこちらへ走り込み、体勢を低くした。刹那、居合のような一撃が飛んでくる。
飛び上がって刀を避け、膝を顔に入れた。着地して全身の力を溜める。
「吹き飛べ」
掌底を腹に入れた。貫通させることなく、全ての衝撃を体中に伝えるための一撃。
「あ、ぁあ……」
声にならない声が上がる。さっきのような、快感など微塵も無いただの苦痛。呻いて、震えて、その場に倒れ込んだ。
「……もう止めろ。お前の負けだ」
「調子に、のるなよ……」
ふらつく足で、夜海は再び立とうとする。
「そりゃお前だ」
未だ意識を保っている奴へとどめを刺そうと踏み込んだ。
「…………」
刃が、俺の胸を貫いていた。
「あはははははははははははッ!!!」
刀身そのものが伸びて俺を突いたのだ。
「……ぐ、うぅ」
刃は再び縮み夜海の腕へ戻る。
「油断したんだねぇ……自分のが強いってさ」
奴がこちらへ歩いてくる。こちらを踏みつけ、切先を向けた。
「ここで死ぬ? それとも私の奴隷?」
「はぁ、はぁ……」
「私だけのためだったら、存在を許してあげる」
「ほざけ。それで自分を理解して貰えるとでも思ってんのか?」
「……死ね」
刹那、上空で爆音と共に煙が舞った。
「……?」
夜海が上を見上げた瞬間、今度は強烈な光が咲いた。それが何か分からないまま、俺は奴を押しのけて逃走した。
「はー、はー」
光が失せる。普段の教室。無我夢中で跳んだら、窓を割って入ってしまったらしい。
「ってぇ……」
胸の風穴から血が垂れる。誰のか分からない机の足元が赤く染まっていく。
「そこ、ボクの席なんだけどな」
「……お前」
薄ら笑いを浮かべたケインがそこにいた。
「いつの間に戻ってきてたんだよ……」
「2時間前だね。長いフライトだった」
以前と変わらぬ様子だった。変な笑いが出た。
「にしても。随分な格好してるねぇ」
「……あ」
自分が今人の姿をしていないことに気が付く。
「ハロウィンは当分先だと思ったけど」
「お前、俺が誰か分かるのか」
「分かるさ。友人」
ケインが俺に手をのべてくる。掴んで立ち上がった。
「シルエスタで見かけたヒーローが、今ここにいるんだ。君以外有り得ない」
「……ヒーロー?」
「怪物同然の男が悪の軍事基地をライダーキックで破壊する。良い絵だったよ、ピューリッツァー賞ものだ」
……どこで見てたんだか。
「そうだ、さっきの爆発は?」
「ん? ……ああ。スモークとスタングレネード。故郷からの贈り物さ」
「……かっぱらってきたのか」
「まぁ、そうとも言える」
「どこだァァァァッ!!」
窓の向こうから叫び声が聞こえる。夜海が怒鳴っていた。
「どう? 勝てそうかい?」
「勝てないと死ぬ羽目になる」
「それは困るね」
「そこか………!!」
割れた窓をさらに割りながら、夜海が教室に入ってくる。
「知ってるかい、アキラ。ヒーローは二度負けちゃいけない」
「一回ならいいのか?」
「盛り上がるから許される。シルエスタであれに負けてるだろ? なら次は無い。いいね?」
そう言われると仕方がない。胸の傷も塞がっている。出来る限りはやろう。
突っ込んでくる夜海に自分の机を投げた。軽く刻まれるも、その隙に左脇からブローを叩き込んだ。
奴が黒板に叩き付けられる。やはり先の掌底が効いている、動きが鈍い。
「死んでしまえ……私を受け入れないなら、死ねよッ!」
また刀身が伸び、俺の胸に突き当たった。
「何故だ……貫通しない……?」
「お前の剣は……「異形」しか斬れないんだろ?」
胸の一部分のみ異形化を解き、人に戻したのだ。この世界で人は斬れない。刃をへし折ると、飛んだ切先が壁に刺さった。
「ッッ!!!」
剣の折れた夜海が机を伝って飛びかかってくる。あからさまに粗く、遅い。もう力を使い果たしているのだ。勝負は決まっていた。接近に合わせ回し蹴りを放つ。夜海が吹き飛ばされた先には先程の刃先があった。奴の胸を壁の剣が穿った。赤く染まった教室と、磔にされた異形。
「……終わったみたいだね」
夜海の変身が解け、床に堕ちた。傷は無い。
「おめでとう、アキ……」
「いってぇえぇえええぇ!」
「……生身で刺されたんだっけ? そりゃ痛いだろうさ」
「あぁ、かっこつけないで避ければよかった……」
後悔してももう遅かった。ケインが両手で空を仰いで呆れている。
「ともかく……ボクは無事帰国。君も生存。お互い助かったわけだ。あとは……」
「あとは?」
「この教室をどうするか」
改めて見てみると酷い有様になっている。血に濡れ、黒板は凹み、俺の机に至っては三枚に下ろされている。明日からどうすんだこれ。
「……なあケイン。俺、姉貴の様子見に行かなきゃ」
「逃げるのかい?」
「お前なら出来る。……済まない、こいつおぶりたいんだが手伝ってくれ」
「拉致でもするのか」
「ぶん殴って終わりって訳にはいかないんだよ。話さなきゃいけねぇことが沢山ある」
ケインに手伝ってもらい夜海をおぶる。さ、後は野宿中の姉を迎えに行くとするか。
「落とし前ってやつ?」
「ああ。事情聴取に再発防止策に色々ある。暴力を振るった後の方がかえってめんどくさい」
「そうかもね。じゃ、また明日。アキラ」
「ああ。明日な」
歩き出す。背中の少女は先の戦いなんか忘れたように寝息をたてていた。
―――――――――――――――――――――
「起きろー姉貴ー」
夜道でぐーすか寝ている姉を叩き起す。
「んぐ……」
目を擦りながら姉が体を起こす。
「あれ?」
「おはようさん」
背におぶられたその人相を見て表情を変えた。
「あきら……その子、確か」
「ああ。あの暴れてたやつだ」
「どうするの?」
「知り合いなんだ。自宅に返すべきだろうが、場所が分からん。家において事情を聞きたい」
それが姉にとって愉快な話でないのは分かっていた。ついさっきこの女に斬られたばかりなわけで。
「……うん。わかった」
わずかに沈黙した後、そう答えてくれる。有り難かった。姉が立ち上がって体を伸ばす。
「帰ろっか」
「ああ」
帰宅する。ソファに夜海を寝かし、布団を掛けた。寝顔は大人しいものだ。姉貴が破けた服を着替えて戻って来る。
「ねぇ、あきら?」
「ん?」
「あの怪人みたいなの、なんなの?」
当然の疑問だった。
「俺もよく知らん。が、ロスブラ以降ああやって変身するやつが出始めたらしい」
「ふーん」
分かったのか分かってないのか、そんな返事を寄越した。
「ねぇ」
「なんだ?」
「あきらの変身するとこ、みちゃった」
「はぁ!?」
「うっすら意識があってさー」
おいおい、まじかよ……。こんなにあっさり家族にバレることあんのか?
「…………」
どうなるんだ、俺。……家にいられるのか?
「変身ポーズとかないの?」
「へ?」
「ほら、ヒーローはポーズをとるのが仕事でしょ?」
気が抜けた。安堵の息が漏れる。
「もっと驚かないのかよ、普通」
「驚いてはいるよ?」
「弟が訳分からねぇ化け物になってるんだぞ?」
「心配ではあるかな。健康に害ないのかなとか。バレて大騒ぎになったりしないのかなとか」
「……」
「もうちょっとヒーローぽいデザインならいいのになーとか」
溜息。一瞬あれこれ心配した俺が馬鹿だった。最悪家から追い出されかねないとすら思ったのに。
「あの時さ、もう体が動かなくて。あきらのこと守れなかったなあって思ったんだけど。
あきらがわたしのこと助けてくれたでしょ?」
「ん」
「あの見た目には驚いたけど、あんまり怖くなかったよ。あきらなんだなって分かったから」
「そんなもんか」
「あんなに怒って。あきらもシスコンなんだねぇ」
無視する。姉がコンビニの袋からアイスを取り出して食べ始めた。
「その子は? 友達なんだよね?」
「まあその認識でいい」
「どうしてあきらを襲ってきたの? 痴情のもつれ?」
「違うと言いきれないのがな……」
夜海の体がぴくりと振動する。起き上がる。
「ん……」
「お目覚めか」
「……! 私、私……」
「おい」
「依途さんのことを……私……」
自らの行為に恐怖したのか、また呼吸を荒くし震え始めた。青い顔でたどたどしく言葉を紡いでいる。
「ごめんなさい…………ごめんなさい……」
「落ち着いてくれ。」
「大丈夫だよ」
「!」
姉貴が夜海を抱きしめていた。
「嫌な気持ちにさせちゃってごめんね。でもわたし、ただのお姉ちゃんだから」
「私は、貴方も斬ったんですよ……怖くないんですか!?」
「ううん。大丈夫。大丈夫だから。いっぱい泣いていいんだよ」
「そんな、そんなわけ……」
「いいんだよ。わたしもあきらも何ともない。今は落ち着くまで、泣いていいの」
更に強く、抱きしめる。別に何か解決したわけじゃない。なのにその光景は彼女の解放を思わせるに十分だった。