2
暗い天井。
「…………」
起き上がる。自分の部屋。……そうだ、あの化物を倒したあと気を失ったんだ。
「あー……」
いつの間に部屋に戻ってきたんだ、俺は? 記憶が無い。未神に運ばれたのか?
良く分からないが、戦闘の証のように全身に疲労感が残っていた。あの戦いが嘘でも幻でもないことを俺に伝えている。
「ん」
手元に銃が落ちている。未神に渡されたもの。ついさっきまで、俺は闘っていたのだ。なんだかそれは現実味の無い話に思える。誰かと本気で戦ったことなんて当然無い。それくらい平和な環境で生きてきた。
幾ら攻撃したって死人は出ない。それは知っている。けれどあの時、俺は確かに殺意を抱いていた。
別に、あのおっさんを殺したいほど憎んでいたわけじゃない。あのおっさんのせいで死んだ人間だって居ないのだから。けれど自らが力を手に入れた時、奴を殴った時、反撃された時。自然と俺は奴を殺したくなっていた。
初めて知った。暴力は気持ちがいい。今までそう思わなかったのは、別に俺が優しいからじゃない。他人を殴るだけの力が無かっただけなのだ。
「…………はは」
つまりそれは、力を持って暴走したあのおっさんと同じだ。
「おーい?」
暗い部屋の中。姉が入ってくる。
「ノックくらいしろよ」
「そんな文化もあるねぇ」
非文明人らしい姉は勝手に電気とテレビを点けた。
「何の用?」
「んー、何かばたばた聞こえたから。どうかした?」
「……そんなうるさかったか?」
「そうでもないけど……ていうか、いつの間に帰ってきてたの?」
「へ?」
「何か帰りが遅いなぁって思ってたらいつの間にか部屋にいたし」
その辺り俺も記憶が無い。未神が魔法か何かで部屋に送ったのだろうか。
「まぁ、特になんでもない。思春期ゆえの突発的暴走だ。心配させて悪かった」
「そっかー、あきら、思春期なのか〜」
「ああ。そういうわけだ。安心して自分の部屋に帰ってくれ」
考えたいことはいっぱいあった。何も考えずに寝ていたい気もした。どちらにせよ姉は邪魔である。さっさと部屋を出ていくよう手で合図すると、何を勘違いしたかこちらに寄ってきた。ぼふっと音を立ててベッドに座る。
「……何?」
「べつにー」
「用が無いなら出ていって欲しいんですけど……」
「んー、まあいいじゃん」
「?」
「ゲームしよ。バーチャロフね」
姉が近くにあったハードの電源を入れた。
「どうしたんだよ、本当に」
「思春期はね、一人でいるのも大切だけど。ずっと一人じゃいけないんだ」
「…………」
「ほら、わたし思春期だから」
「お前かよ」
一瞬でも何か考えた俺に謝れ。
結局姉は2時間くらい部屋に居座っていた。何だか、日常に帰ってこれたような、そんな感覚がする。
バーチャロフは負けた。
―――――――――――――――――――――
「ん、どうぞ」
南棟3階、空き教室。今日も未神蒼は西陽の中にいる。今はない羽が一瞬見えたような気がした。
「やっほー依途くん、よく来たね」
「聞きたいことがある」
「なに? スリーサイズ?」
「決まってんだろ。昨日のことだ」
「そりゃそっか」
おどける未神。白髪が揺れる。彼女がこの前と同じペーパーバックを机の上に置く。こいつ、冗談なんか言うのか。
「ぼくの魔法……きみたちがロストブラッドと呼ぶそれは、単純に不死現象というだけじゃないのさ」
近くの椅子を引いた。真向かいに未神の顔がある。僅かに視線を逸らした。
「さて、長い話になりそうだ」
「まずは一番訳の分からないのから聞くぞ。何で人が変身する」
あのおっさんは炎に焼かれ、俺は自らの頭を撃ち抜き、共に醜い化け物と化した。ヒーローと呼ぶにはあまりにグロテスクで、怪物と呼ぶには人の形を取り留めすぎている。
「ぼくが才能の種を撒いたんだよ」
「種?」
「そう。死なないのはいいことだ。でも、それだけじゃつまらないだろ? だから人類が更なる能力を手に入れられるようにしたんだ」
……こいつ、ロスブラだけじゃ飽き足らずそんなことまでしてたのか。
「それがあの化物に変異することだと?」
「ううん。本来、ぼくが撒いたのは種。芽が出るのはもっと先になるはずだったんだけど……ごく一部の人間がそれを強制的に萌芽させてしまったんだ」
「望んだ結果でないと?」
「うん。……萌芽を促しているのはデストルドー。死にたい、殺したいってことさ」
「そんな馬鹿みてぇな条件なのか」
「うん。……これ」
未神がライターを取りだした。……昨日あの男が持っていたやつだ。回収していたのか。
「きみの銃やこのライター……トリガーによってデストルドーの形象化、つまり自殺や自傷を行うことによってきみたちは変身する」
「随分陰気なヒーローだな、おい。人気でないぜ?」
「人気が欲しいならそもそもきみを選ばないよ」
もっと言い方があるだろ。
「昨日のあの人だけど、警察を呼んでおいた。もう暴れることはない。偉いでしょ?」
「ああ。偉い偉い」
「ふふん。……それで問題がある」
「?」
「ああいう事件は今後も起こるだろう、ってこと」
「!」
「このライターがわたしが作ったものじゃない以上、別の原因や誰かの手によってトリガーが生み出されるってことだ。つまり、また異形化する者が現れる」
あれで終わりじゃない、ってことか。また誰かが、異形の力を使って暴れるかもしれない。
「警戒の必要がある。……そうだ、依途くん。喉乾かない?」
彼女はカバンから水筒を取り出すと、近くにあった紙コップに中身を注いだ。
「自家製だから嫌じゃなければ、だけど」
赤く透明な液体がそこにあった。飲んでみる。
「アセロラジュースか」
「うん。幾つかベリーを混ぜたやつ。美味しい?」
「ああ、美味い」
市販でよくあるそれより酸味がはっきりしていて爽やかだった。ベリーの香りもたっている。
「そりゃよかった。自信作だからね」
彼女も水筒の蓋をカップにしてジュースを注いでいる。ごくりと一口飲んで、笑顔を浮かべた。陽射しがカップの赤い水面を照らす。
「さて、盃も交わしたところでぼくの番だ。話をさせてもらうね」
どうやら盃だったらしい紙コップを見つめていると、彼女が紙っぺらを俺の前へ差し出した。
「……入部届?」
「思春期同好会へようこそ、依途くん!」
あくまでにこやかに、未神はそう言った。入部届には俺の名前以外全て記入がなされている。部活名は思春期同好会、部長は未神蒼、顧問は空欄。
「はぁ?」
「さぁ、サインを」
「待て。俺はこんな恥ずかしい名前の組織に属したくはない」
未神はいつもの笑顔のまま……いや、普段の3割増ほどの笑顔で入部届を押し付けてくる。不覚にも一瞬可愛らしく見え、恐ろしくなって頭を振る。
「まあまあ、サインを」
「人の話を聞け」
「そうだね、サインを」
未神が俺の手にペンを握らせてくる。いや、触るなよ。痴漢だぞ。
「何なんだよ……だいたい、何をするところなんだここは」
「ん」
彼女が黒板を指差す。大きな文字で『世界変革!』と書かれていた。
「……同級生に政治の話をされるのはもう少し先だと思ってたが」
何をするのか知らないが、少なくとも平和を脅かしそうな四字熟語だ。知り合いが言い出したら遠ざけること間違いなしである。
「違うよ、依途くん。政治なんて優しいものじゃない」
「は?」
「言ったでしょ? 死ななくなるだけじゃつまらない。ぼくはこの世界に、人類社会に、介入する。……政治じゃない。暴力だ」
尻尾を見せた。馬脚を露わした。正体を晒した。多分そう言う語彙に当てはまるようなことを彼女は宣った。一部の狂いなくテロリストの犯行予告である。
こいつには関わらないほうがいい。俺の理性も直感も危険信号を出していた。けれどそれに不似合いなほど、穏やかな笑顔を浮かべている。……美しいとすら、感じた。
「は、はは……」
俺も笑っていた。怖いはずなのに。
「これから世界が更に動く。加速し始める。乱雑に、無造作に。当然だね、人が死ななくなれば常識から何もかもが変わる。……そうなると、誰かが舵を取らなくちゃいけないね?」
「なぁ」
「なに?」
「俺、逃げた方がいいのかな」
「逃がさないよ」
いっそう彼女の笑みが深くなる。怖いはずなのに、抜け出せないような魔力がそこにあった。
「……きみにはね、ぼくの暴力装置になって欲しいんだ」
「鉄砲玉になれって?」
「有り体に言えばそう。でも、死んでこいなんてぼくは言わないよ。誰も死なない世界のために戦ってほしいんだ」
「誰と」
「ぼくが戦えと言った敵と」
私兵になれとこいつは言っていた。
「狂ってるよ、お前……」
「そうかな?」
「人が死ぬのが嫌だと言っていた。少なくとも人道主義者だと思ってたが……」
「確かにぼくは人が死ぬのが嫌いだよ。でもそれと同じくらい、この世界が嫌いなんだ」
「…………」
「きみもそうだろう? 依途空良」
名を呼ばれる。
……そうだ。俺もこの世界が嫌いだ。俺に何も寄越さない世界が。だから死のうとした。でもこいつは、世界自体を変えようとしている。それも暴力を以て。
「きみはぼくのために戦う。ぼくはきみを主人公にしてあげる。良い互恵関係だと思わない?」
こんなのは簡単だ。NOと言うべきだ。こいつがどんな思想信条の人間だか知らないが、他人の思想のために私兵になっちゃいけない。大体そのリターンも大したことがない。曖昧で、具体性が無い。そういう理念を掲げる上司や組織はだいたい地雷だ。
「……誰もが思うんだ。思春期のときにね。特別になりたいって。
でも99%の人は凡人だからそのうち諦める。何にもなれずに生きて、死ぬんだ」
いつの間にか未神が俺の後ろにいた。柔らかなてのひらが、俺の頬を撫でる。蠱惑的なその声と感触が俺を惹き付けて止まない。脳を融かして、犯していく。
「そのくせ後になって、そうやってもがいてる奴らを笑うんだ。馬鹿なガキだ、なんてね。
そうすれば自分は大人になれた気がするから」
「………………」
「いま頷くだけで、きみは特別になれる。何にもなれなかった大人にならずに済む」
光に満ちた部屋の中で。翼を生やした天使がそう囁く。顔を上げると、目があった。双眸は艷やかに俺の瞳の奥を覗いている。
「……………………」
「もう挫折は要らないでしょ?」
「……………………っ」
反らせない。俺は取り込まれている。
「ああ……」
気が付くと、俺はペンを握っていた。
「おめでとう。これからはいっしょだね」
その声が部屋の中へ残響した。
―――――――――――――――――――――
「…………」
茜差す廊下。未だに鼓動が高鳴っている。狂気のような、神性を帯びたような、そんな空間にいた。その残滓が脳内でリフレインしている。
今見てきたものが夢か現実か分からないような、そんな感覚。もっと非現実的なものは見てきたはずなのに。教室を出て暫く歩いたけれど、未だ消えない。
……ざわめきの他に、もう一つ。既視感に近い何かがあった。何だろう、この感覚。決して見たこと無いはずなのに、どこかで知っているようなデジャブ。
誰かにああやって囁かれたことがあるのか、それとも未神のような知り合いが今までにいたのか。両方記憶に無いが……
玄関に出る。下駄箱に上履きを突っ込もうとすると声を掛けられた。
「やぁ、アキラ……ん?」
ケインだった。
「おう。どうかしたか?」
「いや、なんだかこう……不思議な表情をしていたからね」
「そうか?」
「そうだね……白馬の王子に手を引かれてそのまま初夜を迎えた乙女のような」
あまりに不快な例えを出してくる。血の気が引いた。
「やめてくれ。気持ちが悪い」
「あっはっは。すまない。……でも確かに恍惚とした表情ではあったよ。間違いない。何せ気持ち悪かったからね」
「……俺の方だったか」
また楽しそうにやつは笑った。しかしよく見るとやつの笑い顔も、普段と少し違う気がする。
「お前こそ、どうかしたのか?」
「へ?」
「気のせいかもしれんが、お前の方こそいつもと様子が違うように見えたからな」
「そうかい?」
「ああ」
「どう違う?」
「さぁ。そこまでは」
ケインは暫く考え込んでいたようだったが、また笑った。
「アキラは他人に興味が無いものと思っていたけれど……どうやらそうでも無いようだね。未神女史ともよろしくやっているようだし」
ノーコメント。
「ま、色々あるのは確かなんだけど……それはいい。今のうちに聞いておきたいんだ」
「なんだよ?」
「アキラ。きみが死のうとした理由はなんだい?」
「今更だな」
「うん。本来ならもっと早く聞くべきだったのかもしれないが……それも躊躇われた」
全く、今日はどいつもこいつも変な話をしやがる。
「小説を書いた。賞に送った。一次選考すら通らなかった。ネットに上げたが誰も読まなかった。以上だ」
「ふむ……自信があったのかい?」
「あったな」
「それが壊れて、死にたくなったと」
「心のどこかで、自分は特別だと思ってたんだよ。そうじゃなかった。無気力で、無才で、自己評価と承認欲求だけは馬鹿みたいにある。普通の人間以下だった。それに気が付いた」
「そうか……」
知人にここまで内心を吐露するのは恥ずかしかった。が、やつも冗談でこんなことを聞いては来ないだろう。それなりに答えてやることにした。
「それがどうかしたか?」
「いや……特に。君の口から聞きたかっただけだ。助言は特に無い」
「潔いな」
「だが、まぁ」
「?」
「死ぬなよ、友人」
奴が玄関を出ていく。
「死ねないだろ、もう」
「あっはっは。じゃあな」
背中越しに手を振って、帰っていく。
……結局何だったんだ、あいつ?
ケインにしろ、未神に感じた謎の既視感にしろ……分からないことが多い。せっかく現状の説明を受けても、直ぐに謎が増えていく。何も分からないまま、あんぱん野郎が遠ざかっていくのをただ見ていた。
―――――――――――――――――――――
「あきら〜、ご飯作るけど食べる~?」
「んー、いらなーい」
日曜日。自室。階下からの姉の声にそう返事をする。途端にバタバタと足音が近付いて、ドアが開いた。
「食べる!?」
「いや、要らないって」
「なんで!? お姉ちゃん特製ペペロンチーノだよ!?」
「いや、だって食べなくても死なないし……」
ロスブラ以降、食事の頻度が相当減った。理由は述べた通りで、食べなくても死なないからである。何かを食べれば美味しいと感じるし、たまに腹が減ったような感覚もするが暫くすると忘れている。ロスブラはそういう「仕様」らしい。
「いいじゃん、食べようよ〜」
「随分粘るな。どうしたんだ?」
「……実はもう2人分茹でちゃった」
なるほど、そういう話か。
「まぁ姉貴なら2人分食べれるだろ」
「だ〜め〜、太っちゃうよー!」
「その分動けばいいだろ」
「動きたくないもんー!」
「はぁ……」
仕方なく立ち上がる。
「へへーやったー」
「早く戻らないと吹きこぼれるぞ」
「あっ」
姉がまたどたどたと厨房へ戻っていく。俺も後を追った。にんにくの匂いが充満していた。
「あ〜るでんて、あるでんてー」
こう歌ってはいるが、姉の茹でるパスタは4割くらいの確率でうどんすれすれである。景品表示法とかに引っかかっていること間違いなし。
「よし、茹で上がった。…………ちょっと柔らかいかも?」
この通りである。暫くすると、冷蔵庫に残っていたらしいしめじの乗ったペペロンチーノが皿にてんこ盛りになって出てきた。
「出来たよー!」
「ありがとう……いただきます」
ごま油と一味のペペロンチーノ。柔らかいが文句は言わずにおく。
「いただきます!……うん! アルデンテ!」
「それは流石に無理がある」
「そうかなぁ?……そうかも」
「このパスタ、何グラム?」
「えーと、二人で350くらい?」
「……俺も信じられないんだが、パスタは一人前100グラムらしいぞ」
「あきら。嘘はだめだよ。景品表示法に引っかかるよ」
「そりゃ姉貴だろ」
現実逃避している姉貴はさておき、パスタをすする。何とも平和な日常である。
つい三日前、未神はとんでもない契約を俺にさせ、ケインは謎のメランコリーを漂わせていた。どれも何事か起きる前触れとしては十分だったのだが、特にこれといって何も起きないまま3日が過ぎた。世界が加速する。そう未神は言ったが……まぁ何も起きないならそれでいい。素晴らしきかな日常。
「何かやってるかなー?」
姉がテレビを点けリモコンを弄り始める。何せ昼間だ、洋画の再放送がせいぜいだろう。
「うーん。ナイトスクープの再放送は……」
「……おい、ちょっと戻して!」
「え? 何チャン?」
「えっと……」
姉からリモコンを奪い、チャンネルを回し続ける。やがて遠い異国の映像が映し出された。国営のニュース。
「あきら、こーゆーの見るっけ?」
「…………」
『中東、シルエスタ共和国では一週間ほど前から政府軍と民衆の激しい対立が続いており、多くの人々が軍に拘束…………』
シルエスタ。その名には聞き覚えがあった。スマホを開いてケインへメッセージを送る。
「どうしたの? あきら?」
返信は無い。
「…………」
数拍置いて、今は待つしかないのだと悟った。
「おーい? どしたん話聞こかー?」
「…………悪い、なんでもない」
「むむ」
取り敢えず目の前のパスタを平らげる。食器を洗剤に晒した。
「また思春期かーい?」
「まあそういう感じだ」
部屋に戻る。未神が言っていた、世界の加速。それはこういうことだったのだろうか。
ケインから返信は無いまま、時間だけが過ぎていった。
―――――――――――――――――――――
「やっぱりか……」
日が明け、月曜。
教室にケインは現れなかった。メッセージに既読も付かないままである。そのまま教師が来てホームルームが始まった。
……まだ、何かあったのだと言い切ることも出来ない。サボっているだけの可能性も無くはない。しかし先日の去り際の態度を見るに、俺はもう何かが起きているのだと心のどこかで確信していた。
「出席とるぞー」
……その「何か」。推測はしていた。ホームルームが終わり、教師……氷室の元へ走る。
「すみません」
「なんだ?」
「ケインが欠席のようなのですが、何か知りませんか?」
「特に連絡がない。お前こそ何か知らんか?」
「いや、何も……」
「そうか……この前のニュース……いや、何でもない」
氷室が去っていく。彼もシルエスタのニュースを見たくらいで、ケインの失踪については何も知らないらしい。保護者から何の連絡も無かったのか?
ともかくアテが外れた。今、やつの続報を知るにはどうしたらいい。
「……未神」
ケインはともかく、少なくともシルエスタのことについては知っているかもしれない。何せ世界変革の女だ。教室を出て、廊下を走った。
ガチャリと音を立てドアを開く。当然未神はいない。当然だ、これから授業なのだから。
きんこんと聞き飽きたチャイムが鳴る。……今から戻っても面倒だ、次の時間には戻ろう。
「……ん?」
机の上に本があった。
「シルエスタ現代史……?」
日直なので待っててください……と書き置きが表紙に乗っている。未神の字だろうか。椅子に座り読み始める。授業よりは有益だろう。
そうして誰も来ないまま、時間だけが過ぎていく。
「……」
奥付まで読んだその本を机の上に置く。3時間ほど経っていた。授業は…………まぁ課外活動ということにしておいてもらおう。
シルエスタ現代史……内容は文字通り。シャトリルという大統領が長年国を治めているらしい。石油利権とそれに纏わる問題が紙幅の多くを占めていた。……が、不勉強が祟った。理解出来ていない箇所が多い。
何でも、1987年に就任したシャトリル大統領の赴任で大きく国内の経済状況が安定、そこから2024年現在まで首長の座についている、とのことだった。これは世界で2番目に長いんだとか。激動の中東においてこれは相当とんでもないことだろう。日本とも国交は良好であり、大統領は数度の来日歴があるようだ。
……しかし、それがなぜ今内戦を起こしているんだ?
「……ん?」
ぶるぶるとスマホが震えた。
「今から行くね」
アプリにそうメッセージが来ている。未神♡、というアカウントから。
「…………」
当然だが俺はあいつを友達登録したことは無い。
「…………え?」
これが夏の怪談というやつだろうか。プライバシーという概念が未神には無い……こともそうだが。あいつが自身のアカウント名に♡をつけていることがより身震いする。
と、その時。
「遅くなったね」
未神♡が部室にログインした。
「……」
「どうしたの?」
「いや、なんでもないぞ。未神♡……」
「なんか気持ち悪いね」
「お前だが」
未神がいつもの椅子にちょこんと座る。いつも思うが、黙ってくれてればお人形さんのようである。黙ってくれ。
「あの本は読んだ?」
「本……これか?」
シルエスタ現代史を手渡す。
「正直全部は理解できてないぞ」
「いいよ。ある程度でも……さて、きみを呼び出した理由だけど」
未神が黒板の方を手のひらで指した。「シルエスタ介入」、そう大きく書かれている。
「思春期同好会の初めての活動さ」
「……本気か?」
「本気なのはこの前もう伝わったものだと思ったんだけど……冗談だと思ってた?」
「いや……」
別にジョークだなんて思ってない。けど……
「国家や政治に……関係無い個人が介入していいのか?」
「うんうん。ごもっともだね……答えはノーだ。良いわけない」
「なら!」
「これからぼくときみは悪いことをするんだよ。しちゃいけないことを分かってやるんだ」
……無駄な問いだった。
「と言っても、別にきみにただ暴れろ、戦えだなんて言わない。授業をするよ」
「授業?」
「うん。暴力を振るうなら、事前に情報が必要だろ?」
「……それ、授業じゃなくてブリーフィングじゃないか?」
「違うよ。軍隊みたいに、Need to Know……要らぬことは知るななんて言わない。シルエスタについてぼくは、ぼくの知る全てを依途くんに教える」
「…………」
「暴力を振るわせるんだ。それくらいの敬意が必要だよ」
そう言って、未神はチョークを持って黒板に記し始めた。彼女の指が白く濁る。
「長くなると思うけど……ごめんね?」
「ああ」
「まず、なんでシルエスタに介入をするのか。依途くん、ここの現状は知ってるよね?」
「ああ、内戦が起きてるとかって」
「うん。じゃあなんでその内戦が起きたのか。ここから話そう」
内戦の原因、と黒板に書かれる。
「これは現大統領……シャトリル政権による圧政が原因だよ」
「圧政? あの本にはどちらかと言うと、国の発展の立役者とあったが」
「そう。あの本が出版された頃はまだそうだった。2019年……5年前を境に状況が変わった」
「?」
「大統領の権限拡大の法案……これへ反対していた議員が2人、謎の死を遂げた」
「…………」
「法案は可決され、政権に否定的なメディアや投稿をした一般人の拘束や不審死が多発し始めたんだ。今までもそういうのが全く無かったわけじゃない。独裁だからね。けれど……その数も殺害数もこれまでの比じゃなかった」
「ご乱心ってことか?」
「まあ、多分ね。民衆のデモが起きるようになると、軍はこれを銃殺や拷問による見せしめによって鎮圧した」
「随分と分かりやすい……」
「当然、みんな死にたくないからデモも下火になってたんだけど……」
次に黒板に書かれたのは、「ロストブラッド」だった。
「転機はロストブラッドさ」
「そうか、撃たれても死ななくなるから……」
「うん。堂々とデモが行われるようになった。……それと。
みんな年寄りのシャトリルがそのうち勝手に死ぬのを期待して待ってたんだけど、どうもそれが叶わないと知ったから、ってのもあるだろうね」
「結果、内戦と言えるくらい大きな騒動になってしまったと」
「うん。さて、依途くん。政府はそれでも民衆を黙らせたいわけだけど……死の恐怖なく騒ぎ立てる相手を沈黙させるにはどうしたらいいかな?」
「えーと……拷問とか?」
「うん。確かにそれは有効だ。でも、もっと楽な方法がある」
「?」
「一定以上の痛みや衝撃によって人は気絶する……そういう仕様なのは知ってるね?」
「ああ」
この前、あの火のおっさんと戦った時がそうだ。街の人々もおっさんも気絶していた。
「火にくべる。水に沈める。電流を流す。コンクリートで固める」
「ッ!」
「…………分かったかい? ぼくがこの国に介入しようと思った理由が。囚われた多くの人々が、言ったような方法で眠らされ続けている。
正義の怒りなんてのはだいたい、まやかしだ。ろくでもないことを引き起こす引き金になる。そんなものに囚われちゃいけない。けれど……今回ばかりは冷静になれないんだ」
彼女の言う、正義の怒り……そんな感情が、確かに自分の中にも湧いてきていた。あの時街を焼くあの男へ感じたのと同じものだ。
これは義憤……そしてそれは、安易に暴力の快感に変わる。果たしてその感情のまま行動を起こしていいのかという冷静さと、このまま賢しらぶって沈黙するのが正しいのかという正義心が争っていた。多分彼女もそうなんだろう、
「……全て、ぼくのせいなんだ」
「え?」
「誤魔化すべきじゃない。はっきり言うね。この内戦はぼくが起こした」
「……どういうことだ」
「ロストブラッドが無ければ、軍と国民は衝突していない。……さっき言った通りだよ」
……ああ、そうだ。
「もちろんそれまでだって、平和ないい国だったわけじゃない。でも内戦に至ったきっかけは確実にぼくなんだ。……ぼくには責任がある。この戦いを終わらせる責任が」
いつも柔らかく笑んでいるその瞳が、今は笑っていない。……未神は世界を変えるだけじゃない。その責任も負おうとしている。同い年のはずの少女は、その後も俺に授業を続けた。
……なぁ。お前は……神にでもなろうとしてるのか?
―――――――――――――――――――――
「はぁ……」
長い「授業」を終え、教室に戻る。昼休みになっていた。生徒たちがわいわいと騒いでいる。
ついさっきまで未神としていた話が嘘のようだ。
「出来んのか、俺に……」
実際の作戦案も伝えられたが……果たして自分が出来るのかもやっていいのかも分からない。
決行は明日だそうだ。悩む時間もそうない。
……逃げた方がいいんじゃないのか。本当に戦うのか? この世界に影響を与える行為だ。俺にその覚悟はあるのか。
……懸念はまだある。ケインのことだ。未だやつの行方は分からない。シルエスタにいる可能性が高いとは思うが。
「あー……」
どうしてこう考えなければならないことばかりなんだ。目の前の悪いやつを殴り飛ばしてはいハッピーエンド!みたいな感じにしてくれ。ふと教室の外に氷室……担任がいた。駆け寄る。
「済みません」
「ん?……ああ、お前か」
「ケインの件ですが、続報はありますか?」
「……いや」
僅かに間があった。
「本当に?」
「すまん、忙しいんだ」
そう言って足早に去っていこうとする。
「シルエスタ」
「……」
「内戦で大変ですね。そういえば、ケインはあそこの生まれじゃなかったですか?」
「……はぁ。個人情報だ」
「やだなぁ。世間話ですよ」
氷室が諦めたように溜息を吐いた。
「付いてこい」
やはり知っているのか。氷室の後ろに付いていく。……また、長い話になりそうだ。
「どこへ?」
「進路指導室」
生徒たちの声が響く廊下を歩いていく。やがて目的地に辿り着いた。
「失礼します」
「少し待っててくれ」
そう言って氷室は部屋には入らず、歩いて行った。何だろうと思ったが、暫くしてノートPCを持って戻ってきた。
「職員室で話すわけにはいかんのでな……悪い」
「はぁ」
「まず聞きたい。どうしてケインがシルエスタにいると知っている? 本人に聞いたのか?」
「いえ。彼の生まれは知っていたので。内戦のニュースを見て、そうだと思ったんです」
「そうだったのか……」
「それで、実際はどうなんです」
「その通りだ。ケインはシルエスタにいる」
……どうやら推測は当たっていたらしい。
「これを見てくれ」
PCの画面に映っていたのは一通のメールだった。差出人は……
「ケイン……」
「あいつの叔母が反政府組織に入っていたらしくてな。母や父、妹……家族も危うくなった」
「……」
「勿論ケインが向こうに行っても何の解決にもならない。だが、そうも言ってられなかったんだろ。家族の無事を確認するため、そして家族を守るためあいつは故郷に帰ったんだ」
メールの文面にもその旨が書かれていた。日付は一昨日になっている。
「これ以降、連絡は?」
氷室は首を横に振った。
「このメールにももちろん返信をしたが、特に何も」
「……」
返信が無い、ということが一体何を示すのか。
「それが何故なのか、述べようとすればそれは妄想でしかない。が、軍に拘束された。その可能性がないと言えば嘘になるだろうな」
「……このことは、クラスのやつらには?」
「言わない、と言うのがお偉いさんの答えだ」
「何故です」
「プライバシーの保護、ということになっているが。メールには自分の現状について尋ねられたら教えてやって欲しいとある。その上で何人にも伝えるなとのお達しが出たんだ」
「理由は?」
「混乱を防ぎ、これまで通り学習や学生生活に専念するためとのことだ」
「隠すのか? クラスメートが戦地にいるのに……」
「ああ、そうだ」
「……何がこれまで通りだ。ロスブラが起きた時点で、今までの世界なんてとっくに書き換わってる」
「お前の言う通りだな」
腹が立った。ケインと世界とを隠蔽するようなその在り方に。
「教育者だろ、生徒を事実から遠ざけるのかよ」
「……もしも、仮に。真実をありのままに生徒たちに伝えたとしよう。それはあいつらの心に、あまりに深い影を落とすことにならないか?」
「だが、真実だろ」
「欺瞞でも、不誠実でも……おれはこの嘘を否定できん。たった一度の青春を殺し得る、残酷な真実よりもいいんじゃないかってな」
「…………」
「生徒に言うことじゃないな、これは。すまん」
謝られたところで何を言えばいいか、俺は知らない。
「ほんとはさ、助けに行くべきなんだろうな」
「え?」
「おれ、先生だろ? 生徒のこと助けなくちゃいけないはずなんだよ」
「…………」
「でも何もしない。何をしていいか分からないし、怖い。だからこの平和な国で、ぬくぬくと授業なんかして誤魔化すんだ。おれは教育者だ、子どもや世界の未来を作ってるんだってな」
……どうやらこの人は、俺が思っていたよりずっと思慮深いようだった。
「ロスブラってのも良いか悪いか分かんねぇな。ロスブラのおかげで内戦で死人が出ずに済むが、その内戦はロスブラが起こしたんだ。ケインだって巻き込まれることは無かった」
「そうですね」
「依途、お前ケインと仲良かったろ?」
「はい」
多分それを知っていたから彼の行方を教えてくれたんだろう。
「俺ん所にわざわざ来たぐらいだ、お前のところに連絡は来てない……よな?」
「はい」
「あんまり気にすんなよ。多分お前に本当のこと言ったら、シルエスタにまで来かねないから言わなかったんだ」
「良いですよ。気を使ってそんなことまで言わなくて」
氷室が立ち上がる。
「茶でも飲むか?」
「いえ。大丈夫です」
俺も立ち上がり、ドアに手をかけた。
「ありがとうございました」
「おう」
進路指導室を出る。生徒たちの喧騒は続いていた。
「意思は決まった?」
「ん?……未神」
背後に未神がいた。
「聞いてたのか」
「うん。……それで、どうする? あの国のためでも友人のためでも、承認欲求のためでもいい。戦う意思はある?」
答えは決まっていた。
「訓練がしたい。手伝ってくれるか?」
俺はシルエスタへ飛ぶ。この手でケインを助けるのだ。
「……そう言ってくれると思ってたよ」
そしたらついでに、氷室も下らない嘘を吐き続けずに済む。
「はやく行こう。作戦は明日。訓練時間が惜しい」
「ああ」
「きみの思春期同好会への正式な入部後、初の作戦になる。作戦名に希望はある?」
「…………オペレーション・ポピーシード」
「ケシの実? どうして?」
「ケインが好きなんだよ、あんぱん」
再び、闘いが始まろうとしていた。