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幻生花園  作者: 時輪 成
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オレンジの森

 幻生花園


 人類の集団意識の片隅に、幻生花園がある。

そこには現世で華々しく活躍する人々や、あるいは逆に全く世間には知られず生きる人々の、意識の花が咲いている。

現世の成功とは無関係に、花は咲き、散り、種をつけるものも、つけないものも、同様に枯れていく。

 幻生花園の花は絶えることはない。次々と新しい花が咲き、そして枯れる。

そんな営みを、この世界に意識が生まれて以来、繰り返す花園。それが、幻生花園である。


 ネット界で、インフルエンサーともてはやされ、フォロワーを経済的あるいは精神的破綻に導く者たちが、どのような花をつけているかと覗き見るのも一考だが、まずは幻生花園の、誰にも知られず世間の片隅で生きている者たちの咲かせる花の物語から始めることにする。



               オレンジの森


 女は疲れ切って家に戻った。

居間を覗く。誰もいない。当然だったが不思議に思えた。

夫が引退後に、趣味の魚拓を飾るのだと言って、わざわざ白く塗り替えさせた壁が寒々と見える。

 夫は突然倒れ、一週間もしないうちに病院で亡くなった。

葬式はなんの問題もなくとり行われ、女には、言われるままにお辞儀をしたり座ったりした以外の記憶はない。

 精進落しのあと会場を出て帰宅する人々への挨拶も終わり、言葉もなくたたずむ母親に、息子は、

 しばらくうウチに来たら?孫も可愛い盛りだし、などと言っていた。

 可愛い盛り?ぼんやりと女は思った。

かわいい盛りとは、二、三才のおぼつかない言葉を話す幼児のことを言うのだ。

孫が可愛くないわけではないが、今はただ泣きわめき食べ物を求める動物である。それが唐突に手足をあちこちに伸ばすさまは、タコの触手を思わせた。

 おばあちゃんは子守をしてれば幸せのはずだ、と言われたようで、疲れた心には感謝の気持さえ浮かばなかった。

 うちに帰るとつぶやいて、一人で用意された車に乗った。


 お茶も淹れず、女は居間のソファーに座っていた。

夫の看病疲れ、と家族は同情してくれたが、それは真実でないのを彼女自身が知っている。

 夫との結婚は婚期を逃した男女の妥協。何の情熱もなく、世間の常識に従った。

今とは違う高度成長期に青春時代を送り、その波に押された若者たちは、新しく開発された都市のベッドタウンに住居を構えた。

 数十年たち、そのベッドタウンも人口の減少とともに寂れ、近くにあるスーパーマーケットも撤退が決まっている。一番近くのスーパーに行くにも車が必要になる。夫に車の運転を任せていた、これからどうしよう、というのが現実的な不安の一つであった。


 悪い夫ではなかった。真面目に働き適当に出世し、部下から惜しまれながら引退した。

父親としても並だった。子どもの世話を率先してする、などという時代に生まれたわけではなかったが、それでもゴルフに没頭することなく、たまには子供たちを連れて遊びにいったものだ。ほとんどは彼の趣味の魚釣りに付き合う、というようなものだったが、子供たちが喜んだのには変わりない。

 人並みに幸せな結婚生活だった、と思う。

だが全く趣味も合わず考え方が根本的が違う、ということはとうの昔に気づいていた。お互い争いごとが嫌いだったので、その部分は二人の心の奥にしまわれていた。

 彼が引退して毎日鼻を突き合わせていたら、一体どのような不満が吹き出てくるのか、と心配ていたことは杞憂に終わった。


 彼女が今、どうしようもなく気落ちしている理由は、一ヶ月ほど前の女友達の死だった。

 趣味で入った「展覧会に行く会」で知り合って以来、よく一緒に美術館に行ったものだ。展覧会だけでなく新しいスィーツの店ができた、と聞くと二人で出かけた。若い子ならともかく、孫のいる歳の女が一人で小綺麗なスィーツの店に入るのは気が引けたのだ。

夫だったら絶対いかない、話題のアニメ映画にも一緒に行った。

 異常に広々としたショッピング コンップレックスのブランド店も、二人で入れば怖くなかった。

 娘時代に行ったアミューズメントパークが閉鎖される、と聞いたときも、彼女なら閉館前に一緒に行こう、と気楽に誘えた。

 その彼女が死んでしまった。用もないのに電話できる相手が消えてしまった。自分より年下の彼女、彼女が先に逝ってしまうなど考えたこともなかった。

 ぽっかり心に空いた穴、とよく言われるが、女の穴は頭にあいた。考えることもできない、脳に空いた穴だ。

 ああ、そういえば頭や体に穴のある絵を描いた芸術家がいたっけな、、。

頭が割れて、別の顔が出ている仏像もあった、、。

本棚から展覧会で買った絵画集を取り出し眺めているうちに、ふと思いついた。

久しぶりにやる気が出た。やることを思いついた。


 息子はインターホンを押したが、誰かが出てくる気配はない。

父親の葬式が終わって、ハイヤーカーに乗る母を見たのが最後。

電話にもテキストにも返事がないので心配になったが、妻の、そっとしておいてあげた方が良い、と言うのにもうなずけたのでそのままにしていた。

だが数日が過ぎ、さすがに心配になって来てみたのだ。

合鍵を使って中に入った。

 部屋は寒々としている。冬のさなかだと言うのに、暖房を入れていないようだ。不安になった。

音を聞いたような気がして薄暗い居間に行った。

 ああ、、。

戦慄が体を走った。白かった壁が暗い。目を凝らしてみると、暗いのは木々が壁一面に描かれているからだった。オレンジ色の実のような丸いものが連なっている。

その中央に何かがいる。

 うわぁ~、、

今度は声を出した。驚愕のため息のようなものだった。

浅黒い二人の男女が、大きな目を見開いて彼を見返している。

 うぅぅ、、。

何を考えていいかわからない。

「あら、何してるの?」

 呑気な声が聞こえた。声をたどって見ると、部屋の隅に蠢くものがあった。一瞬サルかと思ったのだが、常識がようやく頭をもたげた。振り返ったサルのようなものには、知っている顔がついていた。

「か、母さん!」

 一体何を、、と続けたかったが、何をしているかは一目瞭然だった。

「電気もつけないで、、なんて格好してるのさ!?」

 あ、これ?と母親。

「ペイントが髪につくと取るの大変だから」

 と茶色の毛糸の帽子を脱ぐ。着ているスモッグも赤茶色。そのせいでサルのように見えたのだ。

 ずいぶん暗くなったのね。気が付かなかった、と言う。絵を描くことに没頭していたらしい。

「まあ、思い切ったことを、、」

 母親はいつも控えめで、彼女のすることに驚かされたことなどない息子は言葉に詰まった。

 一面の壁を使って描かれているのはルソーの絵だ。あまり絵画に対する知識のない息子にも、それはわかった。あまりにも有名な絵。チラシやポストカードでよく目にするが、タイトルは浮かんでこない。

「熱帯風景、オレンジの森の猿たち、と呼ばれているのよ」

 母親は、あなたは知らないだろうけど、というような調子で言った。もっとも彼女の絵に猿はいない。


 鬱蒼とした森の奥。実際にはありえないオレンジの丸い実が数珠のように連なってなっている。

 中央の下の方には、裸の若い男女が身を寄せ合っている。浅黒いアダムとイヴがオレンジの実を持って、こちらを見つめている。二人でいるところを物音に気づいて顔を上げた、というふうに、突然現れた侵入者を見つめている。

「どう?ワタシ風のアレンジ」

 母親は満足そうに微笑んで、息子を見た。

 息子は、絵の中の男女と同じ目で母親を見返した。



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