言霊の駆け引き
少し、久しぶりになりました。
やっと所属する学術機関の夏休みなり、仕事の後のSTタイムが取れる感じになりました。
ーー宿題、山積みですが。
合理的に二年間を過ごすと決めたのですが、やはり楽しみで書くことができないでいると、私生活が荒む。
ちょくちょく書きますので、おつきあい頂いている方々に感謝、コメント反応なども、優しめにお化粧入りでお願いします。
※
たぶん、限界。
ーーたぶん。
今日がこの世との決別の日だと、サナレスは悟った。
橙子との別れが今日になることを、彼女に伝えなければならない。
それなのに現状、サナレスは車という交通手段ーー文明の力を、橙子に代わって運転していた。
「ダビンチが好きなんでしょ? 明日こそやっと、郊外に行けるよ」
橙子は硬いフランスパンを、そのまんま、かじりついている。
「フランス人ってさ、めっちゃ粗食」
それについて異論はなかった。橙子が生まれ育った日本の方が、味について貪欲だとサナレスは思っている。ラーディア一族の庶民の生活はそれほど豊かではなかったのでサナレスにとっては違和感はない。
『でも圧倒的に、食べやすいよ』
フランス料理は大体のものがペースト状になっている。こちらは貴族的な食べ物だった。
『日本って、素材の形とか意識しすぎて、結構グロテスクだろ?』
「あ、サナレスは魚の姿焼きとか煮付けとか嫌いだもんね」
少し言葉を詰まらせた。
『ーー骨が刺さる』
食べられないという状況は既に克服していたけれど、好んで食べたくはなかった。魚なら、呼吸を止め、飲み込むように食べるのがサナレスの選択する摂取方法だ。
ーー今宵、消えそうだった。
運転すらできない橙子を、フランス郊外に残していくなんて出来ない。サナレスの顔は、頭から魚を丸かじりせざるを得なかった時のように眉をしかめている。
そんなサナレスの気持ちを知っているのかどうなのか、モンサンミッシェルというフランスの端の端まで行く前に、橙子は道中にあるアンボワーズに滞在することを決めていた。
「今夜はさ、アンボワーズ周辺の宿屋に泊まろう」
それに、と橙子は付け加えた。
「ダビンチが晩年を過ごした城、サナレスは明日絶対に行った方がいい」
橙子は言った。
ーーサナレスには、この世界と別れなければならない事情がある。だからサナレスにとっては、ダビンチのことなど二の次だったというのに、橙子の主張は変わらなかった。
レオナルド・ダ・ビンチ。彼が、こちらの世の中に発明したものは素晴らしかった。科学者としての緻密な視点、反して芸術的なことを愛した彼の生涯に、サナレスも興味があった。だからアンボワーズという土地、彼が晩年を過ごしたというクロリュセ城に訪れたいと望んだ。一瞬、自分が置かれている状況、つまりタイミリミットを忘れかけたほどだ。
無視はできない。
ーー自分はそう長く、こちらの世界にはいられない。
こちらと、あちらがあるという世界のことわりについては、いずれ解明したいという欲望はあったけれど、サナレスとしては火球的速やかに、前いた世界に戻りたかった。
「どう?」
宿屋に着いた橙子とサナレスは、小さな宿泊部屋で真向かっていた。
『どうって言われてもーーな……』
曖昧に返答すると、橙子は眉根を釣り上げた。
正直ダビンチが死ぬまで生活していたという地に足を運んだとき、不可解な現象に襲われた。けれど、橙子がいるこの世界に生存できる時間が気になって、サナレスは自分の感覚を蔑ろ(ないがしろ)にしていた。
そして、明日の予定よりも、今言わなければならないことを、順を追って橙子に伝えなければと身構えていた。
世間からは感情表現が乏しいと認識されている橙子の内面は、かなり激しく、ヒステリックな面を持っていることをサナレスは理解していた。
『それより橙子、アンボワーズって交通網があまり良くないよな』
ただ心配しなくとも、彼女がモンサンミッシェルまで無事に行き着いて、そしてシャルル・ド・ゴール空港まで戻るためのドライバーは手配済みだと伝えようとしたとき、橙子はいきなり掌でサナレスの頬を張った。
パチンという音は、実際にしたのかどうなのか。
『えっと……』
まだ何も伝えていない。
サナレスは橙子から分離していたけれど、実体がないまま、彼女に殴られた痛みを感じ取った。
サナレスは真正面に橙子の表情を見て、貼られた頬にじんじんと痛みを感じている。
橙子はサナレスを忌々しげに睨んでくる。
「何を遠慮しているの?」
じっとこちら側を見ている橙子には、別れを受け止める覚悟があるらしかった。彼女の口の端には、不自然な笑みすら浮かんでいる。
「お別れなんでしょ?」
『いや』
間髪いれず、サナレスは答えた。
「ううん、違う! 絶対お別れだって思ってる!!」
サナレスは橙子の頭を胸の中に引き寄せた。
『いや、私はずっと、君が望限り側にいるよ』
本心だった。
そうして万が一、前居た世界に帰ることができなくなったとしても、血を流しながら自分を解放しようとしてくる橙子の魂を、サナレスは無碍にできなかった。
『私は橙子、ーー君が望む限り私はずっと君のそばにいる』
泣きじゃくる彼女の頭をサナレスはずっと撫でていた。
「嘘つき!! サナレスの嘘つき! ほんとばかっ……!!」
『いや。ダビンチが晩年を過ごしたクロリュセ城、私が見たいんだ。さすが橙子。私のことをよくわかっているな』
「嘘つき!!」
サナレスは実体すら消えかけている自分の腕の中に、橙子を抱きしめていた。
『橙子、君は神を軽んじているよ。神様は、嘘をつかない』
約束は言霊だった。
だから消えないのだと、橙子に約束した。
『大丈夫。私は君が望む限り、君の側にいる』
今回はシリーズ紹介も飛ばします。
ですが、ずっと書いています。




