境界線
「綺麗な」
ありふれているが、そんなことしか思い浮かばない。
流れてきた呟きには、交差点を渡りながらハイタッチする人々。
会社員と学生。夜中まではしゃいでいた若者と、これから出勤の会社員。
単純四色定理であれば、境界線によって囲まれたいくつかの領域からなる平面図形において境界線の一部を共有する領域は異なった色で塗らなければならない、としたときの最小色数は4色。
相反する属性の人々。「所属定理」とでも名前をつけるならば、本来であれば別の色で塗られる。
「交差点を横断する」という一次的に切り取られた「時間」。
「交差点」という限定「空間」。
警察によって引かれた「境界線」。
「サッカー」という「熱」に当てられた「思考の方向性」。
「映し出された彼ら」はその「境界線」を「超えて」互いにハイタッチしながら「交差」していた。
映し出された「名もなき彼ら」。
日常の一コマ。だが「彼ら」は確かに「境界線」を超えた。「彼ら」は「意志」を持って「交差」した。
四色定理に用いられるグラフ理論。
点とそれらをむすぶ線は「つながりかた」を抽象的に現したものを「グラフ」とする。
名もなき景色。「無向グラフ」でしかない「彼ら」はこの切り取られた時間において「有向グラフ」となっていた。
「デマゴーグ」「デジタルデバイド」確かに、矢印の向きによっては「対立」に向かい「境界線」が引かれる。それは「依存心」によって引き起こされる。
だが、もし「所属定理」といま、自分が浮かんだ言葉を「視覚化」して定義するならば、それはこのような「映像」がいい。
今は、サッカーだけかもしれない。
だけど、普段は「線引き」されていて「依存する場所」は違えど、「意志」があれば、何かあれば互いに踏み越えられる、わかりあい、共感し響き合う場所が「境界線」であってほしい。分かり合えないから引かれた「境界線」であってほしくない。
どうか美しき世界でありますように。
少しでも、綺麗な世界であってほしい。
そう、願わずにはいられなかった。




