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考える葦

「綺麗な」文章の構成について、ぼんやりと考えを巡らせていた。しかし、面白いなと思っている。


ニュースやブログ、呟きなどでいわゆる「誤字脱字」以外について講釈して「マウント取り」をしていると感じられる文章家擬きやマナー講師とやら、ライターが多数いる。


文章に正解はない。言葉は移り変わる。

「ら」抜き言葉ですら、定着した。確かにある程度、日本語は完成されているが、不動のものではない。


初期の勃興時にギリシャ語をliberal artsとして熱心に学んだローマ人は、しかし、紀元前後においてラテン語で素晴らしい文章を作り上げた。ガリア戦記は未だに美しい。


まだ、話し言葉と書き言葉が異なっていた時代において二葉亭四迷は「浮雲」によって両者の同一を試みた。言文一致。この言葉ですら作り言葉であり、文章家擬きからみたら、添削だろう。しかし、現代において言文一致は当たり前となった。


この時点で、文章家擬きやマナー講師やらは明確に反論できるのか?わかりやすくいえば流行語大賞を否定するのか?


それこそ金科玉条のように掲げている国語辞典の編纂者である金田一春彦文学博士は「ことばの歳時記」において、言葉の変化について記載されている。


揚げ足取りばかり。ご自身の吐いた言葉を少なくとも偉大なる先人たちに言えるのか。他人の文章を批判する前に、ご自身の人生を振り返ってみたら如何か。


人は生まれるとき、自分は泣いて周囲は喜び、死ぬとき、自分は喜び、周囲は泣く。


そんな時間を過ごせているといえないなら、時間の無駄じゃないかな。残念ながら、それは俺と仲間である。それでいいのか?手持ち時間は短い時間なのに。


しかして、古典と扱われるものも今現在の話も、突き詰めれば言いたいことは変わっていない。


「考える葦」であることそのものを否定される。


大切なのは、どの言語、どの言葉、羅列なのではない。何を伝えたいのか、である。


あくまでも言語は「手段」。

伝えたいものにズレがあっても、議論するだけの意志があれば、少なくとも直近は解決方向に向かうか、きちんと線引きして「共存」が可能になる。


相手に届く文章を学ぶこと、推敲することは批判や否定ではない。


「論理使い」。人の振り見て我が振り直せ。

明日からの仕事始めに向かい、改めて気を引き締めた。

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