GA4 Philosophie der Freiheit, 1894
「国破れて山河あり」から始まり、「渾て簪に勝えざらんと欲す」と終わる。
端的にこれは「自分と世界の滅亡が一緒なセカイ系」と呼ばれるものの一種ともいえる。757年と2023年からすると1266年前に詠まれたこと及び未だに残っていることを考えれば驚嘆に値するのは間違いない。
今から1300年残る文書はどれなのか。自分が残りたければ、政治家になるか、お手軽にやるなら重大犯罪起こして公文書に残るのが早い。1300年後まで恥晒しとか、普通に嫌だと思うけど。
当時の知覚していた範囲である「国」という概念が壊れ、それを嘆いた「人」に収束している。なにより「皮肉」なのは、動かしようのない「摂理」を嘆く「人」によって作り出された「詩」は、壊れた概念、「国」よりもよほど長く「この世界に残った」。
ローマ帝国が滅びようとガリア戦記が残ったように、今日がきて明日が始まるように。
人という小さな単位は、その作り出す社会という「概念」よりも長く残る。そして「摂理」は変わらない。
人は社会性の生き物。人がそもそも持っている「設計図」は50年。人が100年も生き残るのはメンテナンスする「社会」を形成しているから。実際に社会が機能していない国の平均寿命は短い。
人をメンテナンスする「構造体」を作り出すのは人の集まり。一方で「概念」たる「社会」や「国」が壊れても「人」は残るし、「人」足り得る。変わらない「自然」とともに。
考えることをやめない限り、人はどこであれ、どのような状態であれ、人足り得る。
つまるところ、この「詩」は国家という「概念」がなくとも「人」は「人」足り得ることを、「概念=セカイ」としなければ、「人」は「摂理」と「直結していない」ことを示している。
所属を取っ払って、どこであろうとも「あり続ける」。
仮想世界は国家という領界を超えた。
場所も時間も超えた。あとは未来に行くだけ。所定時間などの制約を掛ければアカシックレコード擬きも夢じゃない。
だが、その「世界」を構築しているのは、物質であり、人でしかなく、制約が掛かる。全てに帳が降りる世界。隣の人の顔なぞ、誰も知らない。
重ねられた覗き見た春は、どのような美しさだったのだろうか。どこか壊れ始めたのは「摂理」なのか「概念」なのか。
ぼんやりとみている。




