64.王宮に向かいます。
今年もよろしくお願いします。
アンリエッタはつい溜め息をついてしまう。
鏡に映る自分の顔も憂鬱そうだ。
気が進まない。
本当は行きたくない。
第一王子はどこまでアンリエッタを利用し、軽んじるつもりなのだろうか?
そもそもアンリエッタの怪我の責任の一端は間違いなく第一王子にある。
その辺りを自覚しているのだろうか?
先日届いた手紙は第一王子による呼び出し状だった。
「お嬢様、大丈夫ですか? 髪を締めつけすぎてしまいましたか?」
マリーが心配そうに尋ねてくる。
アンリエッタが浮かない顔をしているから勘違いさせたようだ。
アンリエッタは鏡越しにマリーに微笑む。
「いいえ、大丈夫よ」
髪を結い上げるのも身に着ける宝飾品も、王宮に行ってもマナー違反にならないぎりぎりの最低限のものにしている。
事故に遭ってまだ間もないからこそ許されることだ。
それにマリーがアンリエッタの怪我に最大限配慮して髪を結ってくれていた。
リボンを多用して負荷はあまりかからないように、かつ、王宮を訪れる品のいい華やかさを装ってくれた。
髪を結うリボンの中にマリーはエドゥアルトからもらったリボンを入れてくれた。
こちらは公式の場でも使える品格のあるものだ。
夏休みに一緒に買い物に行った時に贈ってくれた。
こういう事態を想定していたわけではなかっただろうが結果的によかった。
そのリボンがあるだけでもアンリエッタには心強い。
「もしきついようでしたらおっしゃってください。お嬢様はまだ復調しておられません。お嬢様のお身体が何より優先です」
「本当に大丈夫よ。ありがとう」
マリーは慎重にアンリエッタの顔色を見る。
無理をしていると判断すればやり直すつもりだろう。
アンリエッタは振り向いて鏡越しではなくマリーと対面する。
「本当に大丈夫よ。ありがとう、マリー」
マリーが小さく息をつく。
「……お嬢様を信じます」
アンリエッタはただ微笑んだ。
「もし途中で頭痛がするようでしたら、何か理由をつけて直しますので合図をしてくださいね」
途中で離されるだろうが、マリーは一緒に王宮に行くのだ。
「ありがとう」
マリーの表情は硬いままだ。
これはもう仕方ないだろう。
マリーのためにも何事もなく無事に帰ってこなければ。
部屋の扉が叩かれた。
支度を手伝ったくれた侍女の一人が確認に行く。
アンリエッタを振り返って告げた。
「エドワール様がいらっしゃいました」
「入ってもらって」
「はい」
侍女が扉を開けて押さえる。
兄が部屋へと入ってきた。
「アン、準備できたか?」
「はい、大丈夫ですわ」
アンリエッタは鏡台の前から立ち上がる。
今日は兄が一緒に行ってくれることになっていた。
アンリエッタ一人で行くという選択肢は初めからない。
ルイは論外だし、両親だと何事だと注目を浴びて大事になりそうだった。
そこで白羽の矢が立ったのが兄だった。
ルイは拗ねて拗ねて大変だった。
だからと言って当然決定は覆らない。
それはわかっていて拗ねていたのだろう。
ルイが強引についてこようとする心配はしていない。
その辺りの分別はしっかりとついている。
ただ家族の前で甘えているだけだ。
兄がアンリエッタの全身をざっと眺めて頷く。
「大丈夫そうだな」
「はい」
アンリエッタも兄の服装をざっと確認する。
やや青みのある濃い灰色の正装だ。
極力目立たず、最低限不敬にならないようなシンプルなものにしたようだ。
そして、王族に纏わる小物は黒になる。
兄はポケットチーフに黒色のものを選んだようだ。
アンリエッタは耳飾りに使っている。
小振りの石が三個連なるうちの先端の一個が黒に見紛う程濃いスモーキークォーツだ。残りの石はブルーサファイアだ。
これくらいのものでいい。
できるだけ目立ちたくはないのだから。
「では行くか」
「はい」
兄が差し出してくれた手に手を重ねる。
そのままゆったりとした足取りで部屋を出た。
玄関ホールではルイが待っていた。
ひどく不機嫌そうなのを隠そうともしない。
「姉上、気をつけてね。何をしでかすかわからないから」
「ええ、気をつけるわ」
「本当に本当に気をつけてね」
「ええ」
ルイは険しい視線を兄に向ける。
「兄上、姉上を何が何でも守ってよね」
「当然だ」
兄はしっかり頷いたがルイは険しい顔のまま。
「気をつけて。いってらっしゃい」
アンリエッタも兄も自然と唇が綻んだ。
「行ってくるな」
「行ってくるわね」
「うん。本当に気をつけて」
ルイに見送られて屋敷を出た。
*
応接室辺りに通されるのだと思っていた。
だが案内の者は奥へと進んでいく。
そっと兄を見上げれば、他にはわからない程度に渋面だ。
兄も同じように考えたのだろう。
内心で溜め息を押し殺す。
本当に何を考えているのだろう?
途中、お付きの者はこちらへと言われてマリーと兄の従者であるフロランが引き離された。
これはミネット様のところを訪れた時もそうであるので承知していることだ。
だがそのことでますます確信めいたことになったのは確かだった。
果たして辿り着いたのは予想していた通りの場所だった。
それは第一王子のーー私室だ。
……本当に兄が一緒でよかった。
下手したら変な噂を立てられかねなかった。
いや、一人で訪ねていたら完全に駄目だった。
本当に何を考えているのだろうか?
まさかそれがどのように見られるかわかっていない、ということはさすがにない、と信じたい。
案内の者が中とやりとりし、扉が開かれた。
促されて兄とともに中へと入る。
ちらりと中を確認するも側近などはいないようだ。
完全に私的な話になる。
これだけで気が重くなる。
「よく来た、アンリエッタ、それにラシーヌ伯爵令息も」
兄をそう呼ぶのであればアンリエッタのことも名呼びしないでもらいたい。
「お招きありがとうございます」
兄がそう告げ礼を執るのに合わせてアンリエッタもカーテシーをする。
「ああ、楽にしていい。座ってくれ」
「はい」
第一王子が座るのを見届けてから兄のエスコートでその対面に座った。
兄が隣に座る。
お茶と茶菓子が饗されてすぐに第一王子が人払いをする。
何の話をするつもりなのだろうか?
もう嫌な予感しかしないのだが。
人払いをしてするような話はどうせろくなものではない。
第一王子が心配そうな視線をアンリエッタに向ける。
「怪我のほうはどうだ?」
「心配をおかけして申し訳ありません。順調に回復しております」
「そうか。よかった」
その声には確かに安堵があった。
さすがに第一王子も本当に心配していたようだ。
だからといって絆されたりはしないが。
「それで本日はどのような御用事でしょうか?」
やや無作法だが、本題に入らせてもらう。
あまり長居はしたくない。
それを第一王子は咎めなかった。
兄も窘めない。
その振りさえなかった。
兄も同じ気持ちであると、無言で示したのだ。
第一王子が気づいたかはわからないが。
第一王子が姿勢を正す。
「本来なら俺のほうが行くべきだったがそれでは大事になってしまうからな」
それがわかっていてくれて本当によかった。
来られたら本気で迷惑だった。
お忍びでも、正式な訪問でも。
追い出すわけにもいかず受け入れるしかない。
学園でのこともある。
今我が家を見張っている家はそれなりにあるだろう。
これ以上余計な波風を立てられるのは御免だった。
「いえ。伺うのは臣下の務めですので」
兄が無難に返す。
第一王子が一つ頷く。
「アンリエッタも体調が万全ではないだろうから手短に済まそう」
そうしてくれると有り難い。
一刻も早く帰りたいのが本心だ。
小さく頷く。
兄はただ第一王子を見ている。
第一王子はすっと姿勢を正した。
そして。
「今まで、悪かった」
第一王子が深々と頭を下げる。
まさか王族がそんなに深く頭を下げるとは。
それを見せないために人払いをした、そう信じられたらよかったのだが。
残念ながらそんな楽天的なことは考えられなかった。
第一王子に対しては疑い過ぎくらいでちょうどいい。
第一王子はいつまでも頭を上げない。
こちらが何か言うまではそのままのつもりのようだ。
それは誠意なのだろうが。
内心で溜め息をつく。
いつまでも頭を下げさせたままにするわけにはいかない。
「頭をお上げください」
ゆっくりと第一王子が頭を上げる。
「それではこの場を持ちましてお役目終了ということでよろしいですね?」
第一王子が驚いたように目を見開く。
まさかまだ続けてほしいだなどとは言わないだろう。
そう思っていたのだが。
この反応から違うのだろうか?
それはそれ、これはこれとでも言い出すつもりだろうか?
「あ、ああ、勿論。当然だ」
もしかしたらここで言い出すとは思っていなかったのだろうか?
当然そのつもりだったから改めて言われて驚いたのだろうか?
まあそれはどちらでもいい。
とにかく言質はもらった。
これでこれ以上協力する必要はない。
あとはこれ以上余計なことを言い出す前に帰りたい。
「ではこれ以上関わることはないでしょう。失礼しても?」
「いや、待ってくれ。まだ話は終わっていない」
やや慌てているようだ。
仕方ない。ここで聞かなくてもどこかで話すかもしれない。
それならまだ人払いされているここで聞いたほうがましかもしれない。
腰を上げかけたのを座り直す。
もうこれ以上話すようなことはないと思うのだが。
一応聞く姿勢を見せたからか第一王子はどことなくほっとした様子を見せた。
「どのようなことでしょうか?」
内心で溜め息をついて問う。
何となくあまりいい話ではないような気がする。
話を聞かなくていいなら聞きたくないがそうもいかないだろう。
それならさっさと聞いて帰ろう。
第一王子は気を取り直したように真剣な顔になった。
「アンリエッタには何か償いをしなければならないと思っている」
それならば二度と関わらないでほしい。
反射的にそう思ってしまった。
できればアンリエッタにではなくラシーヌ家のほうに何かしらの賠償をしてもらいたい。
「でしたらわたくしではなくどうぞ家のほうに。迷惑をかけたからとでも理由をつければ咎める声は少ないかと」
「確かにそうかもしれないが、俺はきちんとアンリエッタに償いたい。これは家を利することにも繋がるだろう」
その言葉に嫌な予感しかしないのは何故だろう?
だが聞かないわけにはいかないだろう。
「どのようなことでしょう?」
第一王子が真剣な目で真っ直ぐにアンリエッタを見た。
「アンリエッタを妻にしようと思う」
「は?」
一瞬自分の心の声が漏れ出たのかと思った。
だが違う。
隣にいる兄だ。
険しい視線を第一王子に向けている。
アンリエッタも気持ちは同じだ。
だがここは穏便に聞かなかったことにしなければならない。
「お戯れを」
「戯れではない。本気だ」
溜め息しか出てこない。
「わたくしには婚約者がいますわ」
「俺が頭を下げる」
心の中で溜め息をついた。
そんなことで済むはずがない。
これは家と家の契約だ。
それに、婚約を取り持ってくれた方の顔もある。
一王子が口を出し、なかったことにできるようなものではない。
本来軽々しく口にしていいことではないのだ。
何が何でも聞かなかったことにしなければならない。
第一王子は意志の堅い目をしている。
再び心の中で溜め息をつく。
説得するのは骨が折れそうだ。
一度目を閉じ、開いた。
第一王子の後ろに立つ方と目が合った。
静かに頷かれる。
アンリエッタは一つ深く呼吸すると口を開いた。
読んでいただき、ありがとうございました。
すみません。続きます。
誤字報告をありがとうございました。訂正してあります。




