9.父親は良識のある方でした。
その日のうちに正式にヴァーグ侯爵家へと抗議文を送った。
今回の一件だけではない。
「婚約者がいる」と告げているのに口説き続ける第一王子を止めないことも合わせて抗議したのだ。
父親である侯爵は領地にいるらしく返事が来るのに数日を要した。
届いたのは、正式な謝罪文だった。
ラシーヌ伯爵家のこともアンリエッタのことも決して軽んじてはいなかった。
「ヴァーグ侯爵は立派な方なのだな」
父に渡された手紙を読み、兄が言った。言外にあの息子とは大違いだと言う言葉が聞こえた気がした。たぶん気のせいではない。
最後まで目を通した兄が真っ直ぐにアンリエッタを見た。
「アン、お前に直接謝罪したいと書かれている」
「え……?」
差し出された手紙を受け取り、書かれている文字に目を通す。
確かに、直接謝罪したいので来訪したいと書かれている。
侯爵家の当主が他地域の伯爵令嬢にだ。
驚いて思わず二度読んでしまった。
当然ながら書かれている内容は変わらない。
アンリエッタは困って家族を見回す。
「えっと、どうすれば……?」
「アンの気持ち次第だよ。謝罪を受けないならば突っぱねてもいい」
父はそう言ってくれるがそうもいかないだろう。
相手は他地域の、それも侯爵家だ。
家のことを考えても突っぱねるわけにはいかない。
「……いえ、」
言いかけ、アンリエッタのために怒ってくれた兄はどう思っているのだろうと兄を窺う。
兄は苦笑する。
「ここが落としどころだろう」
「はい」
アンリエッタは父に向き直る。
「お受けします」
「わかった。では、そう返事をしよう」
「父上、私も同席してもよろしいですか?」
兄が父に問う。
抗議文は伯爵である父の名の下に送られたが、実際に認めたのは兄だ。
父は少し考え、頷く。
「まあ構わないだろう」
「父上、」
「ルイは遠慮しなさい」
ルイに最後まで言わせずに退ける。
ルイは悔しそうな表情を一瞬浮かべ、すぐにアンリエッタににっこりと笑いかける。
「よかったね、姉上。いい牽制になったと思うよ」
「牽制?」
ルイの言葉にアンリエッタは首を傾げる。
兄が苦笑して教えてくれる。
「これでヴァーグ侯爵令息は殿下がアンを口説こうとしたら止めなければならなくなった」
「まあ」
ルイが腕組みをする。
「そもそもヴァーグ侯爵令息は、殿下の側近である以上、本来なら殿下が婚約者のいる相手を口説いたら止めなければならない立場なんだ。例えそれがふりだとわかっていてもね。それを怠っていたんだ」
ぱちりと目を瞬く。
言われれば確かにそうだ。
アンリエッタはいつの間にかいっぱいいっぱいになっていて視野が狭くなっていたようだ。
これは反省しなければならない。
「確かにそうですわね。視野が狭くなっていたようですわ……」
「というより、姉上にはヴァーグ侯爵令息は知っているから止めないという先入観があったからじゃないかな」
「それはあるかもしれないけれど……」
でも、こんなことじゃ駄目だ。
「次に活かせばいい。……こんなことは二度とないほうがいいが」
「はい」
兄の言葉に二重に心の中で深く頷く。
「大丈夫だよ、姉上。一人で何でもできなきゃいけないわけじゃない。僕たちもいるし、結婚したらあの男が全力で姉上を支えるよ」
「ありがとう」
でも頼りっぱなしでいいわけではない。
そんな思いが伝わったのか、何故か兄に苦笑される。
ぽんぽんと頭を撫でられ、
「アンはもう少し男心を勉強したほうがいい」
言われた言葉に首を傾げながら「はい」と言えばまた苦笑される。
「まあそのへんは婚約者が教えるだろう」
う、うぅん、よくわからない。
今度聞いてみよう。
アンリエッタの心の呟きを拾ったようにルイが言う。
「姉上はもっと頼っていいってこと」
アンリエッタは首を傾げる。
「十分助けてもらっていると思うわ」
「姉上はやっぱり男心と甘え方を学ぶべきだね」
「あ、甘え方!?」
素っ頓狂な声を上げたアンリエッタに、家族は笑い声を上げた。
***
ヴァーグ侯爵が領地から王都に来る関係もあり日程調整に数日を要した。
そして、ついにヴァーグ侯爵が来る日を迎えた。
ヴァーグ侯爵が来る前に一人先に迎えた。
「本日はよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願い致します。仕事ですので私のことはお気になさらず」
「はい」
応接室で彼と軽い打ち合わせをしているとヴァーグ侯爵の到着が告げられた。
本来なら謝罪される側は後からの入室が慣例だが、相手は他地域の侯爵家の当主だ。このままこちらに案内してもらうことにする。
彼は部屋の隅の窓際に歩いてゆき、アンリエッタと父と兄はソファのほうへ移動した。
扉が小さくノックされる。
「旦那様、ご案内致しました」
「ああ、中へ入っていただいておくれ」
「はい」
返事と共に扉が開いた。
家令が開けた扉から一人の男性が入ってくる。
墨色の髪に紺色の瞳の壮年の男性だ。さすが親子だ。一目で父親とわかるほどよく似ている。色彩までそっくりだ。
「お待たせしたようで申し訳ない」
「いえ、こちらで少々話をしていましてね」
「そうでしたか」
ヴァーグ侯爵の視線が部屋の奥に向き、納得したように頷いた。
ヴァーグ侯爵を促し、ソファへと座った。
ラシーヌ伯爵家側は当主である父を真ん中に、アンリエッタと兄が左右に座った。
父の前がヴァーグ侯爵だ。
「改めてマルタン・ヴァーグだ」
「ご丁寧にありがとうございましす。私はロラン・ラシーヌ、長男のエドワールと長女のアンリエッタです」
簡単な自己紹介を済ませ、すぐに本題に入る。
「そちらからの手紙を受けて、事実を確認させてもらった」
まあそれは当然だろう。
相手の抗議をそのまま鵜呑みにして謝罪する貴族はいない。当主の謝罪はそれだけ重いのだ。
父が頷く。
ヴァーグ侯爵は頭痛を堪えるような顔になった。
「愚息がきちんと役割を果たしていないために、アンリエッタ嬢には随分と迷惑をかけているようだ」
それはもしかしなくとも第一王子の件だろう。
つまり噂についても調査済みということなのだろう。
アンリエッタは曖昧に微笑うにとどめた。
「愚息にも事実関係を確認した。すべて認めた」
兄が頷く。
「その後の対応も下手を打ったようで、ますますアンリエッタ嬢には迷惑をかけたようだ」
悪評を助長させた、とさすがに直接的には言わない。
あの日ーー。
決定的な場面を見ている者はいなかったようだ。
週の真ん中の日のあの時間、あの場所はそもそも滅多に人が来ない。
そうでなければ第一王子とベルジュ伯爵令嬢のことが知られてもおかしくはない。
彼らも人の目に触れにくい日時と場所を、と選んで逢い引きをしているのだろうから。
だからあのまま今までと変わらない態度を取っていれば、アンリエッタとヴァーグ侯爵令息の間に何かあったと感づかれることはなかったはずだ。
そもそもほぼ関わりがないので、アンリエッタは今まで通りの態度を貫いていた。
だがヴァーグ侯爵令息のほうはというと、何か言いたそうにじっとアンリエッタを見ていた。第一王子が訝しむほどに。
それによってアンリエッタとヴァーグ侯爵令息の間に何かあったのではないかと憶測が広がり、噂に尾ひれがついて広まったのだ。
曰く、第一王子だけではなくヴァーグ侯爵令息までた誑かしただの。
いや、ヴァーグ侯爵令息の横恋慕だの。
アンリエッタは婚約者のいる身で男遊びをしているだの。
ヴァーグ侯爵令息を当て馬にして第一王子殿下の気を引こうとしているだの。
等々。
アンリエッタの悪評をこれでもかと助長させてくれた。
その件がなければさすがに書面での謝罪だけだったかもしれない。
ヴァーグ侯爵令息が役目怠慢のためにアンリエッタの評判が落ちたのだとしても、この一件がなければ、ヴァーグ侯爵令息は直接的には何も関わっていなかったのだから。
誰にも見られていなかったのならアンリエッタの評判も落ちはしなかったわけであるし。
ヴァーグ侯爵が姿勢を正し、真っ直ぐにアンリエッタを見た。
そしてーー。
「うちの愚息が本当に申し訳なかった」
ヴァーグ侯爵がアンリエッタに深く頭を下げる。
アンリエッタは父と兄の表情を確認して、
「謝罪をお受けします」
「寛大な心に感謝を。息子はもう一度教育し直すので」
アンリエッタはにっこり微笑うのにとどめる。
そうしてくれると大変有難い。
さすがに口に出すわけにはいかない。
とはいえ、真意はしっかりと伝わったらしい。
ヴァーグ侯爵は小さくしかしはっきりと頷いた。
アンリエッタは内心でほっとした。
これで少しはマシになる、と思いたい。
第一王子と、恐らくは"東"の公爵令嬢が絡んでいるからそう簡単にはいかないだろうが。
ヴァーグ侯爵が父に目配せする。
それに父は一つ頷き、
「アンリエッタ、下がりなさい。ここからは家同士の話だ」
「はい」
アンリエッタに聞かせたくない話もあるのかもしれないが、ここからは賠償の話になるのだろう。
手紙での謝罪で終わらせなかったということはそういうことである。
アンリエッタは立ち上がるとヴァーグ侯爵に一礼し、部屋の奥に立つ人物にも目礼して部屋を出た。
あとは父と兄に任せるしかない。
自室に向かっているとすぐにルイに会った。
「姉上、どうしたの?」
「謝罪を受けたから部屋に戻るところよ」
「一緒に行ってもいい?」
話が聞きたいのだろう。こんなところで話すような話でもない。
話せることもそんなにはないのだが。
「いいわよ」
ルイはぱっと笑顔になる。
「ありがとう」
アンリエッタはルイと連れ立って部屋に戻った。
読んでいただき、ありがとうございました。
長くなってしまったので二つに分けました。
後半部分は少し手直しして明日投稿します。