59.新しい礼儀作法の教師から授業を受けます。
家からの抗議があったからか、アンリエッタの礼儀作法の授業は担当が替わり、授業の時間は変わらないが教室が変わった。
新しい礼儀作法の教師は本来なら来期からだったのが前倒しになったのだとか。
リッド女史は今期で辞める予定だったそうだ。
辞めるリッド女史の後任だったところを、それならばと今期から来てもらうことにしたとのことだ。
表向きは引き継ぎを円滑にするためということになっている。
本人がまだいるうちのほうが、何かと確認したり訊きたいことがあった時に訊きやすいと。
概ね納得できる建前だ。
彼女から授業を受けるのはアンリエッタだけではない。
リッド女史の授業を受ける学生から受講者を募ったとのことだった。
他にも授業を受ける者がいると聞いてほっとした。
さすがに一人だと気が引けていたところだ。
まるでアンリエッタが特別だと言っているようで反感を買いかねないことでもあった。
それが回避できたのも有り難い。
被害を受けたから、と、アンリエッタは担当教諭の交代の話をされた時にその辺りのことを教えてもらった。
アンリエッタも口外しないように言われている。
あのリッド女史に再び教えを乞うのは不安を覚えていたから安堵した。
どうも彼女はアンリエッタを敵視していたようではあったのだ。
勿論最初からではなく、そう、第一王子に口説く真似事をされた辺りからだ。
それまではただの学生の一人としか思われていなかった。
逆に取るに足らない存在でしかなかったはずだ。
それなのに、だ。
本当に第一王子と関わってからそのような迷惑事が増えた。
それを恐らく第一王子は知らないのだ。
知ろうとしない。
第一王子にとってはアンリエッタはどうでもいい存在なのだから。
ただの便利な駒とでも思っているのだろう。
脅して、協力させたくせに、だ。
そのことも都合よく忘れているのかもしれない。
本当に迷惑な話だ。
側近なのだからヴァーグ侯爵令息も一言くらい第一王子に釘を刺してもいいと思う。
それができていないからそもそもアンリエッタが無理矢理協力させられることになったのだが。
礼儀作法の授業は勿論ミシュリーヌも一緒だ。
ミシュリーヌも希望して移ってきた。
アンリエッタと行動を共にしているからリッド女史に目をつけられるかもしれなかったので安堵している。
先日アンリエッタが受けられなかった授業の時はまだ大丈夫だったと言っていたが。
まだ、というところが不穏だ。
ミシュリーヌもアンリエッタと同じ懸念を抱いていたということだろう。
もしかしたら、リッド女史の眼差しや態度に不穏なものを感じていたのかもしれない。
ミシュリーヌにも迷惑をかけてしまっている。
それには申し訳なさも覚える。
言えば怒るだけだから謝ることもできない。
そしてクラリッサも一緒だ。
クラリッサは隣国の出身だからか、リッド女史も扱いに困っているみたいだったとはクラリッサ本人の談だ。
いくら国が違うといっても友好国かつ隣国の出身者だ。
礼儀作法の教師ならそちらの作法も知っているだろうに。
それを踏まえればこちらの国の作法を習得しようとしているクラリッサの指導もできたはずだ。
なんなら隣国とどのような点が同じでどのような点が違うかというのを授業で扱うこともできただろうに、と思う。
隣国の諸々が必修の"西"には有り難いことなのに。
逆に言えば"西"以外だと外交官を目指すものやその妻以外にはあまり関係がない。
まあ知っていて損はないとは思うが。
その辺りも関係していたのかもしれない。
本当のところはわからないが。
他にも何人か友人が一緒に受けている。
今はまさにその礼儀作法の授業中だ。
半分ほどが"西"の者で、残りは"北"と"南"の者で"東"の者はいない。
これがリッド女史の人望なのだろう。
"東"の者がいないのは、アンリエッタと一緒の授業が嫌だという理由もあるかもしれないが、リッド女史に贔屓にされているから、ということもあるのだろう。
リッド女史の"東"贔屓は有名だった。
どうやら本人は気づいていなかったようだが。
それに不満を持っていた者もそれなりにいる。
アンリエッタを敵視していたのも"東"のエスト公爵令嬢に気に入られるためだろう。
彼女は"南"の貴族だから不思議だが、本人にしかわからない理由が何かあるのだろう。
もうアンリエッタには関係ないことだ。
関わることもないだろう。
そうであることを願っている。
逆恨み、とかがあったら怖いな、とは思っている。
全てはアンリエッタのせいだと思い込み、何かされたら堪らない。
たぶん、その辺りも学院で配慮してくれているとは思う。
さすがに学院もこれ以上の醜聞は御免だろう。
アンリエッタだって御免だ。
今のところリッド女史には会っていない。
このまま会わずに過ごしたいものだ。
新しい教師は誰かや地域を贔屓せずに公平に扱っている。
教え方も丁寧だ。
「皆さんご存じの通り、礼儀作法というのは他の方々へと気遣いです」
基礎の基礎だが、慣れてくるとおざなりになってしまう辺りのことだ。
この辺りで一度初心に帰ろうということなのだと思う。
「だから形だけ整えていればいいわけではありません」
型は大切だ。
無意識にでも出来るようにと幼い頃から身体に覚え込ませてきたのだ。
だがそれだけでは足りない。
そういうことなのだろう。
「ただ型をなぞるのとそこに気遣いの気持ちを意識してするのとでは明確な違いが出ます。案外、相手には伝わるものですよ」
身に覚えがあるのか、何人かが頷いている。
アンリエッタも覚えがあった。
エドゥアルトの婚約者として行った場で何度も。
アンリエッタの存在が気に入らなかったのだと思う。
気持ちはわからないではない。
シュタイン侯爵領は魅力的な土地だし、エドゥアルト自身も見目麗しい好青年だ。
その婚約者に友好国とはいえ他国の伯爵令嬢が納まったのだ。
納得できない気持ちがあっても仕方ない。
仕方ない気持ちは理解できてもやられて気持ちいいものではない。
教師が教室内を見回す。
「実際にやってみましょう」
教師がカーテシーをしてみせる。
一回目と二回目。
全く同じ動作だ。
だが受ける印象はまるで違う。
その差は一目瞭然だった。
教師が教室内を見渡す。
「どうでしょう? 同じに見えましたか?」
教師が訊けば口々に声が上がる。
「いいえ、最初のほうが慇懃無礼に見えましたわ」
「わたくしも。少し、馬鹿にされているようにも感じました」
「二度目のほうには好印象を持ちましたわ」
「わたくしもです。二度目のほうが丁寧に感じました」
皆積極的に声を上げている。
リッド女史の授業ではなかったことだ。
教師は皆を見回して微笑んだ。
「皆さんのおっしゃるように初めは何の気持ちも込めずに、次は気遣う気持ちを込めて行いました。それだけでこれだけ違います」
皆真剣な顔で頷く。
「型だけ綺麗に整えても相手に不快感を与えるようでは半人前なのです」
思いがけず強い言葉に教室内がざわりとする。
「相手に不快感を与えないことがマナーの前提です」
基本中の基本だ。
基本過ぎて普段はあまり意識しないことでもある。
つまりは、疎かにもなりやすいということだ。
はっとした者もいれば、真剣な顔をした者もいる。
大切なことだと気づいたのだろう。
アンリエッタも改めて心に刻む。
「それは国が違っても同じことです」
教師の視線がクラリッサに向く。
クラリッサは力強く頷いた。
「それがわかっていれば、型の違いなどは練習していくうちに身につくものです」
それはクラリッサに向けられたものだ。
「はい」
それと同時に教室内の全員に言っている。
アンリエッタもそうだが、他国に嫁いでいく者も中にはいるかもしれない。
あるいはルイのように外交官を目指す者や結婚相手が外交官になり赴任先についていくことも考えられる。
その場合、今の言葉を知っているかどうかでも心持ちが変わってくるだろう。
通り一辺倒ではなく、そういう今後役に立つかもしれないものを与えてくれようとしているのだ。
思い返せばリッド女史の授業はここまで丁寧ではなかった。
それだけでも新しい教師に替わってよかったと思う。
ここまで丁寧な授業は必要ない、という者もいるだろう。
それはもう相性だから仕方ないのだろう。
アンリエッタは新しい教師の授業を受けられて幸運だった。
教室の雰囲気からもそう思っている者は多いはずだ。
リッド女史の授業を否定するつもりはない。
ただアンリエッタには合わなかった。
それだけだ。
読んでいただき、ありがとうございました。
誤字報告をありがとうございます。訂正してあります。




