8.主が主なら側近も側近です。
今年もよろしくお願いします。
シュエット様の御言葉に従い、その週は学院を休み、明けて登院するといろいろな噂話が錯綜し、様相が変わっていた。
曰く、アンリエッタの婚約者はロジェだ。そんなアンリエッタに第一王子が横恋慕をしている。
曰く、婚約者がいる身にも関わらず、第一王子にもロジェにも色目を使っている。ふしだらだ。
曰く、アンリエッタは学院に勉強ではなく男を漁りに来ている。
等々。
アンリエッタを擁護するもの、アンリエッタを貶めるもの、虚偽入り交じり大小様々な噂話が為されていた。
アンリエッタを貶めるような噂は主に"東"の貴族が流しているようだった。
何と言うか、とりあえずロジェには申し訳なかった。
「ごめんなさい、ロジェ。あなたの婚約に影響が出るわね」
「まあ幸いに、というか俺には婚約者はいないからな。それに、俺は三男だから結婚はどっちでもいいんだ」
何てことないようにロジェは言う。
「結婚はな」
ぼそりと言った後、声を低めて、
「だがこれがあいつの耳に届いたら……」
その懸念はアンリエッタにも十分ある。
「本当にごめんなさい。闇討ちには気をつけて」
「……俺は今ほど領地ではなく王都にいることを感謝したことはない」
……さすがに国の中央にある王都までは奇襲できないだろう。
真っ正面から当たれば当然ロジェのほうが強い。
だが彼は知恵が回る。
だからこその闇討ちへの警戒だ。
アンリエッタにとってロジェは大切な従兄なのでぜひ長生きしてほしい。
「手紙で決してしないように言っておくわね」
アンリエッタもやれることはやらなければならない。
ロジェは完全にアンリエッタの巻き添えになったのだから。
「頼む」
「ええ、任せて」
婚約者のほうはアンリエッタが抑えなければならない。
あとは……
「アン、何度も言うけどな、お前のせいじゃないから気に病む必要はない。だから俺と距離を置こうとはするなよ?」
「だけど、」
「距離を置いても置かなくても変わらない。距離を置けば振られただの嫌気が差したのだの好き勝手に囀ずられるだけだ」
それは簡単に想像がついた。
「そう、ね……」
それはアンリエッタだけではなくロジェの名誉にも関わる。
「だから距離を置くな。今まで通りにしてろよ?」
「……わかったわ」
「むしろ噂を利用したらどうだ? 俺はいい虫除けになるかもしれないぞ?」
それは恐らくはアンリエッタの心を軽くするための軽口のつもりだったのだろう。
だが悪くないかもしれない。
「そういうふうに手紙に書いておくわね。ロジェが虫除けを買ってでてくれたって」
「ああ……それはいいかもな。……後で釘を刺す手紙が来るな……」
後半はよく聞き取れなかった。
「うん? 何て言ったの?」
「いや、納得してくれるといいなと言ったんだ」
「大丈夫よ。それが有効なことだとわかるから駄目とは言われないわ」
「だといいがな」
それはもうアンリエッタが頑張るしかない。
アンリエッタは決意を込めて力強く頷いた。
ロジェにも伝わったのか、浅く頷き返される。
「それと、決して一人になるなよ。噂のせいで不埒な奴らに襲われかねない」
「……気をつけるわ」
登院してきてからその手の不愉快な視線はいくつか感じた。
シュエット様の言う素行の悪い者だろう。
さすがに"西"の者はいなかったが。
いたらその者は公爵家に逆らった者ということになる。今回はシュエット様が"アンリエッタは婚約者がいるにも関わらず第一王子に言い寄られて困っている被害者"だと明言してくれているからだ。
ことは個人だけでは済まず家にも波及する。
「そういう連中がどうなろうが構わないがアンに何かあったら困るからな」
「……ええ」
アンリエッタだって危ない目には遭いたくはない。……巻き込みたくもないのだけど。
次の授業はたまたま同じで一緒に教室に向かって歩きながらそんな会話を交わしていると、不意にーー
「……やあ、アンリエッタ」
聞きたくない声が聞こえた。
アンリエッタはカーテシーをし、ロジェは頭を下げた。
「調子はどうだ?」
「お陰様ですっかり回復致しました」
「それはよかった。体調を崩していると聞いて心配したよ」
心配なんてしていないくせに、とは思ったが、頭を下げる。
「……ご心配をおかけして申し訳ありません」
「いや、いい」
第一王子がちらりとロジェを見た。
口説いている相手が男といれば気になるのが普通だ。だからその演技なのだろう。
「彼は? ああ、直接名乗るといい」
「……"西"のボワ辺境伯家が三男、ロジェと申します」
「ああ、お前が」
噂は当然第一王子にも届いているということだ。
わざわざご注進する者もいるだろう。
第一王子はすぐに興味を失ったようにアンリエッタに視線を戻す。
そういうところが雑なのだ。これではアンリエッタに興味がないことがすぐにわかる。
「叩かれそうになったと聞いた。怪我がなくてよかった」
誰のせいで叩かれそうになったと思っているのか。
今の状況も全部本来ならアンリエッタには何の関係もないことだ。
大方、ベルジュ伯爵令嬢が被害に遭わなくてよかったとしか思っていないに違いない。
アンリエッタの心の中で何かがふつりと切れた。
この状況でならこう言っても許されるだろう。
「……殿下、もうわたくしに関わらないでくださいませ。はっきり申し上げて迷惑です」
空気が固まる。
不敬だろうがもうアンリエッタは知ったことではない。
第一王子直筆の念書があるので咎めることはできないはずだ。
"東"の公爵令嬢に叩かれそうになったから、と言い訳も立つ。
アンリエッタは丁寧に頭を下げた。
「御前失礼させていただきます。ロジェ、行きましょう」
「あ、ああ。……失礼致します」
ロジェを連れてその場を去る。
第一王子から引き留める言葉はなかった。
例え引き留める言葉があったとしても立ち止まる気はなかったが。
だから、アンリエッタとロジェのことをヴァーグ侯爵令息が観察するように見ていたことに、アンリエッタは気づかなかった。
***
それから数日が過ぎた。
第一王子は相変わらずだ。あれだけきっぱりと拒絶したのに、アンリエッタを見かけると声をかけてくる。
アンリエッタはなるべく早く会話を切り上げるようにしている。
そうすると今度は不敬だの傲慢だのと陰口を叩かれる。
親しく話せば身の程知らずだと言われ、さっさと切り上げれば不敬だと言われる。
一体どうすればいいというのか。
いや、わかっている。
彼女たちは第一王子に声をかけられるのが羨ましく妬ましい。
あるいは、命令なのだ。
替わってほしいなら言ってくれればいつだって替わってあげるのに。
アンリエッタはこんな立場は御免だ。
本当に早く御役御免になりたいものだ。
いつもの図書館の一室で。
「いい? エドかルイが来るまで誰が来ても開けちゃ駄目よ?」
兄弟が来るまで一緒にいてくれるつもりだったミシュリーヌが急遽帰らなくてはならなくなって、散々アンリエッタに念を押して帰っていった。
アンリエッタだって危ない目には遭いたくないのでもちろんそのつもりだった。
今のところ、ここまで押しかけてまで嫌がらせをする者はいないが、それでも用心するにこしたことはない。
授業終了まであと五分ほどの時間になり、アンリエッタはすぐに帰れるように荷物をまとめた。
レポートはミシュリーヌがいる間に終わっていたので本はミシュリーヌが戻してくれた。今は授業の復習をしていたところだ。
あとは兄弟の迎えを待つだけだと椅子に座っていたアンリエッタの耳にノックの音が聞こえた。
まだ兄弟が迎えに来るには早い。一体誰だろう?
身を硬くしたアンリエッタの耳に届いたのは意外な人物の声だった。
「ラシーヌ伯爵令嬢、話がある」
ヴァーグ侯爵令息だ。
不本意ながらよく顔を合わせるが個人的に話したことはない。
そんな彼がアンリエッタに一体何の話があるというのだろうか?
もしや、第一王子の件か? というかそれしかないか。他に接点はない。
これは出たほうがいいのだろうか?
それとも兄弟が来るまで待つべきなのだろうか?
アンリエッタには判断がつかなかった。
そんなアンリエッタの迷いを見透かしたようにヴァーグ侯爵令息は言葉を重ねる。
「危害を加えるつもりはない。他に誰もいない。ただ話がしたいだけだ」
彼がアンリエッタに危害を加える必要性はない。
アンリエッタは躊躇いつつ扉に近づいた。
「どのようなお話でしょう?」
扉を開けずに声をかける。
「大事な話なんだ。できれば扉越しではなく直接話したい」
アンリエッタは迷った。
ヴァーグ侯爵令息のことは全面的には信用できないが、アンリエッタに危害を加えても利点がない、ということだけは信用できる。
「頼む」
気のせいか切実さがにじんでいるような気もする。
もう少ししたら兄弟が来る。
何かあったら何とか時間を稼げれば何とかなるだろう。
アンリエッタは鍵を開けた。
恐る恐る廊下に顔を出して素早く左右を確認する。
廊下にはヴァーグ侯爵令息しかいないようだ。
部屋に入られてはまずいので廊下に出た。
扉の前だとそのまま押し込まれる可能性もあるので少しだけ横に移動した。
「それで、お話とは何でしょうか? 殿下のことでしょうか?」
「いや、殿下は関係ない」
だとすると話の内容に心当たりがない。
アンリエッタは首を傾げた。
「それではどのようなお話でしょう?」
「その前に一つ確認したい。ロジェ・ボワ辺境伯令息とは噂のように婚約者、ということではないのだろう?」
アンリエッタの心にじわりと警戒心が滲む。
「それは、お答えしなければならないことですか?」
「大事なことなんだ。答えてほしい」
アンリエッタは一つ溜め息をついた。
「違いますわ」
「そうか。よかった」
よかった?
ますます意味がわからない。
「ラシーヌ伯爵令嬢、いや、アンリエッタ嬢、」
ずいっと迫られ、アンリエッタは思わず一歩下がったがもうそこは壁だ。逃げ場がない。
いざという時のためにもう少し壁から離れておくべきだったがもう遅い。
「私の婚約者になってくれないか?」
……………………………は?
アンリエッタはまじまじとヴァーグ侯爵令息を見つめた。
冗談を言っているようには見えない。真剣そのものの顔をしている。
それはなおのことーーたちが悪い。
「わたくしには婚約者がいると再三申し上げているはずですが?」
「だが、ロジェ・ボワ辺境伯令息は婚約者ではないのだろう?」
「ええ、もちろん、ロジェは婚約者ではありません。婚約者は別の方です」
「本当にいるのか?」
「それは、あまりにも失礼ではありませんか?」
思わず声が低くなる。
「だが君を助けに婚約者らしき者が来るところを見たことがない」
本当によく似た主従だ。
「前に申し上げたはずです。彼は今この国にいません」
ヴァーグ侯爵令息は疑わしげな目で見てくる。
本当に失礼だ。
「そもそも婚約を申し込むなら、正式にヴァーグ侯爵家から我が伯爵家に申し込むのが筋です。このやり方はあまりにも礼を欠いています。我が伯爵家を軽んじているのでしょうか? それとも悪評にまみれているわたくしなら簡単に応じるとでも?」
ヴァーグ侯爵令息がはっと息を呑んだ。
「違う。私はただ」
「アン!」
呼ばれて横から伸びてきた腕に抱き寄せられた。
「お兄様」
「ヴァーグ侯爵令息、これは一体どういうことでしょうか?」
アンリエッタはその腕の中から兄を見上げた。
兄は真っ直ぐにヴァーグ侯爵令息を見ている。
静かな静かな怒りを感じる。
「貴殿方はどこまでも妹を貶めたいようだ」
兄が怒りを堪えている様子で告げる。
「そんなつもりは……」
「悪評を助長させるようなことをしておいてよくもそんなことが言えますね」
ぐっとヴァーグ侯爵令息が言葉に詰まる。
先程までの状況は、"今度はヴァーグ侯爵令息に色目を使っている"、と言われかねないものだった。あるいは、男遊びをしていると噂されるか。
本当に主従揃ってアンリエッタのことなど何も考えていない。
「ヴァーグ侯爵令息、侯爵家のほうに正式に抗議させていただく」
ヴァーグ侯爵令息は唇を噛み、目を伏せた。
兄は厳しい顔を崩さない。
「アン、荷物を取ってきなさい」
「はい」
アンリエッタはそっと兄の腕から抜け出し、ヴァーグ侯爵令息を大きく迂回して元の部屋に入った。すでに荷物はまとめてあるので鞄を持つだけだ。
鞄を持って部屋を出て札をひっくり返して青色にする。またヴァーグ侯爵令息を大きく迂回して兄のもとに戻った。
「お兄様、お待たせ致しました」
「ああ」
「ラシーヌ伯爵令嬢、申し訳なかった」
「お兄様、帰りましょう」
謝罪は受け取らない。
「ああ。ルイも待っている」
「そういえばルイはどうしたのですか?」
「ああ、ルイはすぐに帰れるように先に馬車に行っている」
「そうでしたか」
アンリエッタはヴァーグ侯爵令息に向き直る。
「失礼致します」
丁寧に頭を下げた。
兄は無言で小さく頭を下げ、アンリエッタの手を取る。
そのままヴァーグ侯爵令息に背を向けて歩き出した。
ヴァーグ侯爵令息から声がかかることはなかった。
そして、隣室から第一王子やベルジュ伯爵令嬢が顔を出すこともなかったのだった。
馬車に乗ったアンリエッタは洗いざらい全部話し、兄と弟に叱られたのだった。
第一王子のことかもしれないと思ったからと言い訳をしてしまい、そういう時でも自分たちかいなければミシュリーヌでもロジェでもいいから立ち会わせなさいとさらに叱られ、アンリエッタはただただ謝るしかなかった。
読んでいただき、ありがとうございました。