幕間 シアンの憂慮
いつもの逢瀬の時間。
いつもならクロード様とベルジュ伯爵令嬢を二人きりにして、シアンは廊下で誰かが来ないかを見張っている。
未婚の男女が二人きりで密室にいる、という状況がよくないことだということはシアンにもわかっていた。
わかっていたが、クロード様の願いを拒めなかった。
手を出すようなことはしない、そうクロード様は約束された。
その言葉を信じることにしたのだ。
そうでなければシアンを避けて二人でこそこそと会う事態になりかねないとの危機感もあった。
それにクロード様への信頼もあったのだ。
安易に手を出して令嬢の名誉に傷をつけるような方ではない。
だとしたら後は誰にも見られないようにシアンが気を配ればいいだけだ。
そう思っていた。
だが今日はシアンも室内にいた。
今日のベルジュ伯爵令嬢の様子は変だった。
それではクロード様も冷静ではいられないのではないか。
そう考えたからだ。
危機感を覚えたといってもいい。
同じ部屋にシアンが入れば抑止力くらいにはなるだろう。
実際に何かしそうであれば止めることもできる。
今、クロード様はベルジュ伯爵令嬢を必死に慰めている。
それを離れた扉の横からシアンは見ている。
近頃、ベルジュ伯爵令嬢のあまりよくない噂が流れている。
よくない、といっても事実無根なものではない。
むしろ真実に近いものだ。
曰く、
ベルジュ伯爵令嬢は油断させるために友人になりたいと言ってアンリエッタに近づき、梯子を倒して怪我をさせた。見事に目的を果たした、
というものだ。
噂の発信源はルイ・ラシーヌ伯爵令息。
彼は自分が起点だということを隠そうともしない。
嘘の話をしているわけではないからだろう。
そう、ルイは別に根も葉もない悪評を流そうとしたわけではないのだ。
ただラシーヌ家としての事実を伝えているだけだ。
それも声高に主張しているわけではない。
彼はただ人の集まっているところで友人に愚痴ってみせただけだ。
『姉上はベルジュ伯爵令嬢に気を許していたのに、彼女は姉上を裏切ったんだ』
『姉上は優しいからベルジュ伯爵令嬢を信じていたのに、彼女は姉上の優しさにつけ込んで怪我を負わせたんだ』
『姉上は、信じた自分が愚かだったと自分を責めているけど、ベルジュ伯爵令嬢は悪辣だったよ。幸いにして治る怪我だけで済んだけど、下手したら一生治らない怪我を負ったり、打ち所が悪ければ死んでいたかもしれないんだ』
『姉上は優しいから、ベルジュ伯爵令嬢にも事情があるだろうからと責めなかったけど、それでも謝罪の一つもあっていいと思う。それなのに、ベルジュ伯爵令嬢もベルジュ家からも謝罪はないんだ。きっと悪いことをしたなんて欠片も思っていないんだろうね』
と、これでもかとアンリエッタの株を上げてベルジュ伯爵令嬢の株を下げた。
一部、アンリエッタが愚かだとする評価もあるようだが、それも織り込み済みなのだろう。
いい評判だけだと嘘っぽい。
それさえも利用して姉の株を上げ、ベルジュ伯爵令嬢の株を下げてみせた。
人望の差もあるのだろうと思う。
クロード様には報告していなかったが、ベルジュ伯爵令嬢は"東"の中から弾かれていた。
それはクロード様が口説いているアンリエッタと仲良くしようとしたことが原因だ。
仲の良かった友人も何度も忠告したのに聞き入れなかった彼女に見切りをつけて離れていった。
今回のこの噂で、それはアンリエッタを油断させるためだと知れ渡った。
これで恐らく"東"の輪の中には戻れるだろう。だが、それも表面的なものになる可能性が高い。
一度離れていった人間をベルジュ伯爵令嬢はそう簡単に信用できないだろう。
それは"東"の人間にしても同じこと。
ベルジュ伯爵令嬢は、相手の優しさにつけ込むことも、相手に怪我をさせることも厭わない人物だと、大方の者には思われた。
そんな人間を懐に入れる者は果たしてどれくらいいるだろうか?
信用できると思った途端に裏切られるかもしれないのに?
いざという時に使える駒としてなら受け入れる者もいるかもしれないが。
事実、ベルジュ伯爵家嫡男である彼女の兄が、ベルジュ伯爵令嬢の婚約者を決めようと奔走しているが、結果は思わしくないようだ。
シアンだって相手に躊躇いもなく怪我をさせて悪びれない人間など願い下げだ。
ましてや知られていないがその怪我をさせた相手は、自分が利用している相手なのだ。
そんなことができる神経が理解できない。
良識のある者なら、そんな相手と縁を結びたくはないだろう。
このことについてシアンはクロード様に報告していないし、するつもりもない。
他の側近たちはベルジュ伯爵令嬢とのことは知らないので報告する可能性は低いとみている。
クロード様が口説いているアンリエッタの、ラシーヌ家の話、だからと耳に入れる可能性は勿論ある。
だが他の側近もクロード様が婚約者のいるアンリエッタを口説くことをよく思ってはいなかった。
だからクロード様が話しかけに行く口実になりそうなことをわざわざ伝えようとはしないのではないかという推測だ。
ただでさえ婚約者のいるアンリエッタを口説いているクロード様の評判は落ちている。
これ以上アンリエッタに関わらせないようにしようと考えるのが普通だった。
クロード様がアンリエッタを口説いていることは他の側近から何故止めないんだ、とシアンが叱責された。
シアンがいない間は彼らはしっかりとクロード様を止めて諫めたらしい。
当然のことができていなかったシアンは叱られて当然だ。
今ならそう思える。
当時は、言われたことがイマイチ理解できていなかったが。
側近失格だ。
もう少しシアンがしっかりしていればアンリエッタに余計な負担をかけずに済んだはずだ。
だから、今のこの状況の責任の一端はシアンにもあると思っている。
それはいずれ何かしらの形でアンリエッタに返さなければならない。
今回の件についてシアンは動くつもりはなかった。
シアンが仕えているのはあくまでもクロード様であり、ベルジュ伯爵令嬢ではない。
この件はベルジュ伯爵家とラシーヌ家の間のことであり、表面上はクロード様には何の関係もない。
クロード様に関係ない以上、何の接点もないシアンが彼女のために動くのはおかしいことだ。
それに本音としてはベルジュ伯爵令嬢のために動きたくない。
ベルジュ伯爵令嬢は、無理矢理巻き込んだアンリエッタに怪我を負わせたのだ。
何故そんなことをしたのか知りたくないし、知るつもりもない。
あるのは何の瑕疵もないアンリエッタに怪我を負わせたという事実だけだ。
クロード様の想い人であろうともシアンが味方になる要素はない。
むしろベルジュ伯爵令嬢には嫌悪感を抱いている。
許せないという気持ちさえある。
それらを全て胸の中に収めて外に出さないようにしている。
決してクロード様に悟らせることはしない。
悟られればクロード様は頑なになるだろう。
そうなるとどう行動されるか、読めない。
まず間違いなくシアンを遠ざけようとするだろう。
それだと事態の把握ができずに困る。
クロード様の暴走も止められなくなってしまう。
歯止めが利かなくなればどんな暴走をするかわからない。
さすがにベルジュ伯爵令嬢との関係を公表するようなことはなさらないだろうが。
それ以外だと何をするかわからない。
下手をしたら自棄を起こすことも考えられる。
自棄を起こしたらどうなるか。
その矛先が万が一にもアンリエッタに向くことは避けなければならない。
これ以上、彼女に迷惑をかけるわけにはいかないのだ。
アンリエッタはただ巻き込まれただけなのだから。
ましてや今回の一件でアンリエッタを恨むとしたら筋違いだ。
アンリエッタは紛うことなき被害者だ。
彼女に一切の非はない。
非があるのは恩を仇で返したベルジュ伯爵令嬢のほうだ。
だいたいクロード様もベルジュ伯爵令嬢も彼女に甘え過ぎなのだ。
本来ならアンリエッタがクロード様たちに手を貸す義理などどこにもない。
きっちりとした契約書まで作ったが、アンリエッタにもラシーヌ家にも何の利もないものだ。
契約の内容もそこまでは書いていないのだ。
それをアンリエッタが言わないのをいいことに好きに使っているのだ、クロード様が。
本来そのようなことは許されない。
ただ搾取するだけの関係など許されることではないのだ。
それをクロード様がわかっていないのが何とも頭が痛いことだ。
読んでいただき、ありがとうございました。
誤字報告をありがとうございます。
修正してあります。




