幕間 ベルジュ伯爵家
領地にいる兄ダヴィッドが戻ってきた。
今回の一件を聞いたのだろう。
それで慌てて来たのか、父に呼ばれたのか。
どちらにせよ兄が帰ってくる程のことなのだ。
兄はリリアンを見るなり怒鳴りつけてきた。
「他家の令嬢に怪我をさせるなど、どういうつもりだ! お前は自分がしたことをわかっているのか!」
びくっと身体が震える。
兄を見ることもできない。
「ダヴィッド、何を怒っているのだ? むしろそこはよくやったとリリアンを褒めるところではないか?」
「父上は何をおっしゃっているのですか!?」
兄が有り得ないというような顔で父に噛みつく。
リリアンも父の意見はさっぱり理解できない。
「あの令嬢は身の程知らずにもクロード殿下に言い寄っておるのだぞ。それを姫様が大層嘆かれておられるとか。その憂いを取り除くのも忠臣の役目。リリアンはよくやった」
リリアンは思わず身を竦める。
そんなことはない、とリリアンが一番わかっている。
姫様を裏切っているのは、リリアンだ。
そして今回、アンリエッタのことまでも裏切った。
もう二度と友人になることは叶わないだろう。
友人になりたいと思ったことは本気だった。
今更誰も信じないだろうけれど。
「よくやった、ではありませんよ!」
兄がリリアンを睨む。
「まさかリリアンも同じように考えているわけではないよな?」
リリアンは勢いよく首を横に振った。
いくら追い詰められていたとはいえ、もっと他の方法があったはずだ。
ちょっと転ばせる程度でも構わなかった。
怪我をさせるつもりは本当になかったのだ。
今日も当然謝罪に行くと思っていた。
まさか父がそんな気が毛頭もないなどと思っていなかった。
ラシーヌ家の皆様も唖然としていた。
謝罪ではないなら何のために来たと思って当然だ。
「なら何故そんな愚かなことをしたんだ?」
「そ、それは……」
「リリアン、答えろ」
ここで、"姫様のために"と言うのは容易い。
父も褒めてくれるだろう。
だがリリアンにはそんなことを言うことはできない。
姫様のためにやったことではないから。
ただリリアン自身のためだった。
リリアンが耐えられなかっただけなのだ。
友人たちにも同じ"東"の人間にも距離を置かれた。
時にはどういうつもりだと責められたこともある。
アンリエッタと友人になりたいと思った時から、覚悟していたはずだった。
だけど全然覚悟が足りなかった。
アンリエッタと友人になれたわけでもない。
いつも彼女の友人と弟に邪魔される。
アンリエッタは少しはリリアンに心を開いてくれていたのに。
だがこれで完全にリリアンは彼女と友人になる道は断たれた。
リリアン自身のせいなので嘆くこともできないが。
答えられないリリアンを庇うように父が口を開く。
「ダヴィッド、リリアンを責めるな。リリアンは正しいことをしたのだ」
兄が父を睨む。
「怪我をさせているのですよ!」
「あの令嬢は度重なる忠告も聞かなかったというではないか。言って駄目なら多少乱暴な手に出ても仕方あるまい」
「仕方なくありません! 問題しかないですよ!」
兄が正しい。
だが父は何が問題だ、という顔をしている。
あれは本気の顔だ。
本気でわかっていない。
自分の父親だが理解できない。
頭が痛いとばかりに兄が額に片手を当てる。
だが、あくまでも父はリリアンがやったことを擁護し、アンリエッタが悪いと嘯く。
娘可愛さではなく、忠義心で。
「これに懲りてあの令嬢もクロード殿下に纏わりつくのをやめるであろうよ」
そもそもアンリエッタはクロード様に纏わりついてなどいない。
建前でも本音でも。
「そもそもクロード殿下のほうが彼女に御執心だと聞いています」
「お前までそんな噂に惑わされるのか。情けない」
心底そう思っている視線を父が兄に投げかける。
「調べたのですか?」
「調べるまでもない」
兄が嘆息する。
「噂が事実かどうかはリリアンがわかっているんじゃないか? 学院に通っているんだから直接目にしているだろう」
兄と父の視線がリリアンに向く。
リリアンはきゅっと唇を噛む。
兄が言っていることが正しい、そう言うべきだ。
それはわかっている。
「……私は、直接見たことがないので、わかりません……」
調べられたらすぐにわかってしまうのに、出てきたのはそんな言葉だった。
兄が溜め息をつく。
「それくらい確認しておけ」
「……申し訳ありません」
頭を下げる。
「今からでは遅いな。リリアンが姿を見せるだけでラシーヌ伯爵令嬢も周りも警戒するだろう」
それは、その通りだ。
リリアンはもうアンリエッタには近づけないだろう。
「仕方ない。他から情報を集めるか」
得られる情報は恐らくおおよそ二種類に分けられるだろう。
アンリエッタがクロード様に付き纏っている、
というのと、
クロード様がアンリエッタを口説いている、
というものと。
果たして兄はどちらを信じるか。
いや、どちらが信憑性を持って得られるか。
それはその噂を誰がもたらしたかにもよるだろう。
アンリエッタがクロード様に付き纏っている、という噂など"東"からしか出ないだろう。
他の地域からはクロード様がアンリエッタを口説いていたと言うだろう。
父なら信じたい方を信じるだろうが、兄なら恐らく総合的に判断すると思う。
兄はその算段をつけているのか、難しい顔で黙り込んだ。
父は気に食わないというように兄を睨んでいる。
リリアンは大人しく口を閉じていた。
兄がはっとした顔で慌てて訊く。
「い、慰謝料はどのくらいの額になりましたか?」
「そんなもの払う必要はないだろう」
「必要があるに決まっています。怪我をさせているのですよ?」
「不可抗力だ」
「違います」
ばっさりと切った兄が堪えきれずにまた溜め息をつく。
怪我をさせた以上は慰謝料を払うのは当然だ。
しかし話し合いの間、リリアンには口を挟むことができなかった。
ラシーヌ家の皆様は父の言動に呆れていたようだった。
きっと非常識な人間だと思われたのだろう。
リリアンには父の思考が全くわからない。
恐らく兄にとっても理解不能なのだろう。
兄の父を見る目が段々と得体の知れないものを見るようなものになっていく。
もしかしたらリリアンも同じような目をしているかもしれない。
何かに思い至ったのか、兄の顔から血の気が引く。
「まさか、ラシーヌ家の方々の前でも同じことを言ったのではないでしょうね?」
父が胸を張る。
「当然だ。向こうの非をしっかりと伝えてきた」
「あちらに非はないでしょう! こちらに全面的に非があります! 梯子から落とすなど一歩間違えれば大怪我を負っていたのですから」
「あの怪我だって本当かどうか怪しいものだ」
父は本当に何を言っているのだろう。
「何を言っているのですか? 学院の医師も処置をしているのでしょう? 怪我は間違いないでしょう」
「これ見よがしに杖までついて、軽傷なのをさも重傷のように見せているだけかもしれんだろう」
「何のためにそのようなことをすると言うのですか?」
「勿論、クロード殿下の同情を買うためだ」
兄が溜め息をつく。
「そんなことをして何の得が?」
「クロード殿下の関心を買うのに必死なのだろう」
「……怪我をしたくらいで関心は買えないと思いますよ」
「知り合い程度になっていればクロード殿下もどうしたのかと心配して声をかけられるだろう」
「父上のお話では付き纏っているのでしたよね? でしたら知り合い程度にもなっているはずがありません」
「クロード殿下はお優しい方だ。付き纏って迷惑をされているとはいえ、怪我をしていれば気にして声をかけられるであろう」
「……その場合、怪我をさせたリリアンとベルジュ伯爵家の印象は悪くなりますね」
こんなことが知られたら、クロード様にも軽蔑されてしまうだろうか?
軽蔑されて、嫌われてしまうかもしれない。
リリアンの顔からざっと血の気が引いた。
「……考えていなかったのか?」
「……はい」
そこまで考えが至っていなかった。
「考えなしにも程がある」
「申し訳ありません」
リリアンは項垂れるように頭を下げた。
そこに父が庇うように口を挟む。
「まあ、クロード殿下もしつこい令嬢にうんざりしているのではないか? それを追い払ってくれたリリアンには感謝するのではないか?」
あり得ない。
父は本当にどのような思考回路をしているのだろう?
「父上、本当に一度噂の真偽を確かめたほうがいいですよ」
疲れたように兄が言う。
ラシーヌ家の皆様も最後には似たような表情をしていた。
「ああ、そうだな」
ぞんざいに頷いているのでたぶん本気ではやらないだろう。
兄もそう感じたのだろう、深い溜め息をついた。
父が退室した後で兄が真面目な顔でリリアンを見た。
「すぐに婚約者を探すぞ」
「え、あ、待ってください、お兄様」
思わず声を上げてしまう。
ぎろりと兄に睨まれる。
「お前は状況を理解しているのか?」
「わ、わかっています」
「わかっていて何故止める? 本当にわかっているのか?」
「……わかっています」
兄が腕を組み、リリアンを見据える。
びくりとリリアンの身体が震える。
「では、今決めないと歳が離れた者の後妻だとか訳ありの者とか場合によれば他国へ嫁ぐことになることもわかっているんだよな?」
リリアンは黙り込んだ。
兄がまた溜め息をつく。
「今ならまだ間に合うかもしれない。お前が暴力を振るう人間だと噂が流れればまともな縁談など見つからなくなるだろう」
そんな噂が流れるのも時間の問題だ。
図書館での行為だ。目撃者は何人もいる。
彼らが口をつぐむ、と考えるのは楽観的過ぎる。
もう密かに噂は回り始めているだろう。
どこまで回っているだろうか?
時間が経てば経つだけリリアンは不利になっていく。
だから婚約者を探すなら急がなければならない。
兄はリリアンを問答無用で修道院に送ることだってできるのだ。
それを婚約者を探そうとしてくれている。
これは兄なりにリリアンを思ってくれてのことなのだ。
リリアンは深く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「ああ。何とか探してみる」
兄も難航しそうだと思っているのだろう。
「ありがとうございます」
兄が思考に没頭するように真顔になる。
いろいろな家の情報を頭の中に広げているのだろう。
リリアンは邪魔をしないように口を閉じていた。
「父上のような考えの持ち主ならあるいは……」
兄がぶつぶつと呟きながら算段をしている。
リリアンのあの行動を正義だと評価する家や人間はどれくらいいるだろう。
リリアン自身、そうは思っていないのに。
前途を考えてかぼやくように兄は言う。
「本当は両親がもっと早く探すべきだったんだが。今は母上は動けないし、父上はあんな様子だからな」
兄の妻である義姉が臨月で母は領地で付き添っているのだ。
リリアンの婚約者探しよりずっと大切なことだ。
本当は兄だって義姉の傍に付き添っていたかっただろう。
それなのにリリアンがしでかして領地から出てきた。
当然怒っているだろう。
馬鹿なことをしでかした妹に呆れてもいるだろう。
それなのに、領地に帰るのを遅らせてリリアンのために婚約者を探そうともしてくれている。
申し訳ない気持ちが沸き起こってくる。
「お兄様、ごめんなさい……」
厳しい表情をしていた兄が仕方ないという様子で表情を緩め、ぽんぽんとリリアンの頭を撫でる。
随分と久しぶりだ。
顔を伏せたままリリアンは涙を堪えた。
いよいよクロード様ともお別れだ。
どちらかに婚約者ができたらお別れする。
そう二人で決めていた。
今までが奇跡だったのだ。
その奇跡を胸にこれからは家のために生きていこう。
それが兄への恩返しにもなるだろう。
もう、夢を見る時間は終わりだ。
現実に立ち返る時が来たのだ。
きちんと、クロード様にお別れを告げなければ。
考えただけでぎゅっと胸が掴まれたように苦しい。
息を吸おうとすれば喉がひきつる。
これは、リリアンの弱さが招いたことだ。
だからリリアンに泣く権利はない。
涙がこぼれそうになるのを必死に堪えた。
そんなリリアンの頭をしばらくの間、兄は撫で続けてくれていた。
読んでいただき、ありがとうございました。
誤字報告をありがとうございました。
修正しました。




