7."東"の公爵令嬢の襲来に遭います。
廊下でたまたま第一王子とヴァーグ侯爵令息に遭遇した。
間の悪いことに、この時アンリエッタは一人だった。
第一王子は嬉しそうに微笑む。
「やあ、アンリエッタ。今日も変わらず綺麗だな」
アンリエッタはカーテシーをしてから応じる。
「ありがとうございます」
無表情ではまずいので、形だけの笑みを貼りつける。
「アンに会えたからいい日だな。この後も頑張れそうだ」
「恐れ入ります。それと、婚約者がいる身ですので愛称で呼ぶのはおやめくださいませ」
「本当につれないな。少しは絆されてはくれないか?」
アンリエッタは頭を下げる。
「どうか御容赦くださいませ」
「嫌だ、と言ったら?」
「それでも頷くことはできませんわ」
「はは、つれない。これは長期戦も覚悟しておかないとな」
「諦めていただくよう、お願い申し上げます」
「嫌だな」
空々しい会話だ。
これが周りから見ると親しげに話しているように見えるようなのが不思議だ。
しっかり聞かなくても表面的な会話しかしていない。
それとも第一王子と話しているだけでも親しい、という認識なのだろうか。
思い返してみると第一王子と話ができる人物となると限られている。アンリエッタだって、こんなことになる前は一度だって言葉を交わしたことはなかった。
そう考えればこの状況も納得できる、気がする。
その状況でよく他地域の伯爵令嬢が第一王子の恋人になれたものだ。
ふと、ふりだけとは言え、恋人が他の女性を口説いている今の状況でベルジュ伯爵令嬢はどんな気持ちなのだろうと思った。
だかすぐに、関係ないわ、と思う。
彼女は第一王子の提案に一度も否とは言わなかったのだから。
その分第一王子が大事にするだろう。
あるいは精神的苦痛故に第一王子が甘えているかもしれない。
目の前の第一王子と上辺だけの会話を続けながら、逃避気味にそんなことを考えた。
それから少しだけ会話を続け、第一王子たちと別れた。
次の授業の教室に急ぐことにした。
第一王子と遭遇した後は嫌味や嫌がらせがひどくなる。
次の授業は教養とマナーで令嬢の必修科目だ。学院に通っている間は通年のこの授業を毎年必ず取らなければならないのだ。
ちなみに人数が多いので、週に何回かあり、そのうちの一コマを取ればいいことになっている。
その授業なら友人が何人か一緒に受けている。
詳しいことを知らない彼女たちも、婚約者がいるのに災難ね、と同情的でいろいろ助けてくれる。
彼女たちと一緒にいれば少しは安心だ。
だが、今日はとことん運がないらしい。
こつこつこつと小さく足音が響き、目線を上げてーー顔を強張らせた。
慌てて端に寄り、頭を下げた。
そのまま通り過ぎてほしいという願いも空しく足音の主はアンリエッタの前で足を止めた。
「あら」
鈴を転がしたような可憐な声が聞こえた。
「誰かと思ったら、クロード様の周りを飛び回る、身の程知らずの虫じゃないの」
アンリエッタは言葉を発しない。許されていないからだ。だが許されたところで何も言えないだろう。
足音は一人分、同調するような声もないことから御一人でおられるようだ。
「何か言ったらどうなのかしら? ああ、虫だから人の言葉がわからないのね」
沈黙を保つ。
「顔を上げなさい」
言われてゆっくりと顔を上げる。
複雑に結われた銀色の髪にアメジストのような濃い紫色の大きな瞳を持った可憐な容貌を持った令嬢ーー"東"の公爵令嬢、シエンヌ・エスト様だ。
虫も殺さないような顔をしているが、性格は苛烈と聞く。投げつけられた言葉からしてもそれは窺える。
「まあ、平凡な顔だこと」
全身無遠慮にじろじろと見られた。
「そんな平凡な顔でクロード様に相応しいとでも思っているのかしら?」
アンリエッタは首を横に振る。何度も。
「まあ、その分別があるのならあの方の周りをうろちょろするのはおやめなさい」
アンリエッタだってできれば近づきたくはない。
そう主張したいが、発言は許されていない。
たとえ発言が許されたところで、そう言って納得してもらえるとは思えない。
ああ、この方はご自分の望みを通すのにどのような手も躊躇わない方だ。御自分の影響力も相手に与える心理も何もかもわかったうえで相手を追い込むことにも躊躇しない。
これはベルジュ伯爵には耐えられないだろう。
アンリエッタにしても、取り巻きに取り囲まれていないだけまし、と思うばかりだ。
「まあ、自分はクロード様に相応しくないと理解しているのに、あの方の周りをうろちょろするのはやめないと言うの。なんという図太さかしら」
そもそもアンリエッタから近づいたことなど一度もない。
どうすればこの場から抜け出せるかわからない。
エスト公爵令嬢の気が済むまでひたすら耐えていればいいのだろうか?
しかし、エスト公爵令嬢はアンリエッタの我慢できないことを口にした。
「シュエットの躾のなってないこと」
たとえ他地域の公爵令嬢といえども自分の公爵令嬢を貶すことは許されない。
……恐らく目が険しくなってしまったのだろう。
「あら生意気な目ね」
声に不愉快さがにじむ。
「所詮虫は虫。害虫は叩き潰すそかないわね」
見開いたアンリエッタの目に振り上げられた閉じた扇が映る。
ーー叩かれる!
そう思いはしてもアンリエッタに避ける術はない。
アンリエッタはぎゅっと目を閉じた。
痛みに備えるが、いつまでも衝撃が来ないのでそろりと目を開けると誰かがエスト公爵令嬢の手首を掴んで止めているのが見えた。
「何をしているのですか?」
静かな声がエスト公爵令嬢の愚行を咎める。
「身の程知らずに罰を与えようとしただけです。離しなさい」
はぁと呆れたような溜め息が聞こえる。
「……伯爵令嬢、大丈夫ですか?」
話しかけられて、ようやく助けられたのだと理解できた。
「あ、はい、大丈夫、です」
深く静かに呼吸をした。
ここでお礼を言えばエスト公爵令嬢は気を悪くするだろう。
目礼をして感謝を示す。
小さく頷いて受けてくれた相手が誰だかここでようやく気づいた。
黒髪に琥珀色の瞳を持った三十代前半の男性ーーこの学院で教員をされているセヴラン王弟殿下だ。
ちなみに学院長は先代国王陛下の弟君だ。
いくら教員は生徒を平等に扱うこととされているとはいえ、公爵令嬢を止めるのは一般教員にとっては心理的に難しいものがあるだろう。気づいたのが王弟殿下でアンリエッタは運がよかった。
余談だが教員はその出自に関係なく平等に敬わなければならないと決まっている。教員間で扱いをかえてはならないのだ。
その間もエスト公爵令嬢は「離しなさい」と訴えていたが、王弟殿下は決して離そうとはしない。
「エスト公爵令嬢、貴女には少し話があります」
「わたくしは何も悪いことはしていませんわ」
はぁと王弟殿下が溜め息をつく。
「ラシーヌ伯爵令嬢、顔色が悪いですね。今日は帰ったほうがいい。次の授業は?」
「あ、礼儀作法、です……」
「リッド女史のですね?」
「はい……」
「では私のほうから伝えておきましょう。今日はあと何か授業がありますか?」
「ありません……」
今日は週の真ん中。最終の時間枠には授業が入っていない。
「わかりました。お一人で大丈夫ですか?」
「はい……」
アンリエッタが頷いた時、
「アン!」
ロジェが血相を変えて駆け寄ってきた。
ロジェはエスト公爵令嬢と王弟殿下に一礼してからアンリエッタの顔をのぞき込む。
「ああ、あなた方は従兄妹同士でしたね。ちょうどいい、ボワ辺境伯子息、彼女を送ってあげてください。扇で殴られそうになりショックを受けてますから」
「はい」
ちらりとアンリエッタを見てロジェが頷く。
「今日の残りの授業は?」
「次の時間の剣の実技です」
「わかりました。私のほうから伝えておきましょう。彼女のことをお願いしますね」
「はい」
「では、エスト公爵令嬢、教員室で少し話しましょうか」
「わたくしは何も悪いことはしていませんわ」
「貴女の言い分もそちらで聞きます」
「いい加減お離しなさい。わたくしは逃げも隠れもしません」
王弟殿下はロジェがアンリエッタを庇う位置にいるのを確かめてからエスト公爵令嬢の腕を掴む手を離した。
エスト公爵令嬢は傲然と顔を上げる。
「では行きましょう」
「ええ」
エスト公爵令嬢は歩き出した王弟殿下の後について歩き出した。
アンリエッタの前を通る時にちらりと横目で見て、
「覚悟してなさい」
静かに言い置かれた言葉にぞっとした。
二人が歩き去るまでアンリエッタもロジェも動かなかった。いや、動けなかった。
二人の姿が完全に見えなくなると、ふっとアンリエッタの身体から力が抜けてふらつく。
慌ててロジェが支えてくれる。
「大丈夫か、アン?」
「ありがとう、ロジェ」
何とか身体に力を入れて自立する。
「本当に帰ったほうがいいな。送っていく」
「ありがとう」
断るほどの気力はなかった。
エスコートする形でロジェが支えてくれる。
その手の温かさが有り難かった。
「ロジェ、ごめんなさい。あなたも目をつけられたかもしれないわ」
「俺は辺境伯家の者だからな。大丈夫だ」
辺境伯家は国の防衛を担っているので立ち位置が特殊なのだ。
少しだけ表情を曇らせてロジェが続ける。
「……ただ、"東"は隣国の脅威がないからな。クロード殿下と同じ轍を踏まないといいがな」
アンリエッタは何も言えなかった。
"東"の辺境伯家が他地域に比べて防衛面において活躍しているとは言い難い。
だがそれでも重要であることには変わりはない。
他地域の辺境伯家はその重要性は理解されているのだが。
その認識があのエスト公爵令嬢にあるだろうか?
「俺に直接何かを仕掛けてくることはないと思う。アンは今まで以上に気をつけろよ」
「……ええ」
「行こう」
ロジェに促されて歩き出した。
学院では急遽帰宅しなければならなくなった時のための馬車が用意されている。
馬車乗り場でその馬車を借りる手続きをしているところへ、
「姉上!」
ルイが駆けつけてきた。
「ルイ、どうして……?」
「見かけた子が教えに来てくれた。大丈夫?」
「ええ……」
ルイがそっとアンリエッタの手を取った。
「姉上、手が冷たい。それに震えてる。怖かったでしょう?無理しなくていいよ」
言われて初めて手の震えに気づく。
「ルイ……」
「アン、手続き終わったぞ。ああ、ルイ」
「ロジェ、ありがとう。姉上には僕が付き添って帰るよ」
それはさすがに聞き捨てならなかった。
「ルイ、まだ授業があるでしょう」
「大丈夫。欠席すると教師に伝えてくれるよう頼んできた。兄上への伝言も」
「ルイ」
「授業より姉上のほうが大事だから」
ロジェがルイに味方する。
「そのほうがいいかもな。だがルイ、俺も送っていく。アンが心配だし、説明できる奴がいたほうがいいだろう?」
「それはそうだね。仕方ないか」
ロジェが呆れたような顔になる。
「姉上、僕もロジェもいるから大丈夫だよ。帰ろう」
「ええ……。心強いわ、ありがとう」
そのままルイにエスコートされて馬車に乗る。
家の馬車ではないので当たり障りのない会話をぽつぼつと交わす。
馬車に乗っている間、ルイはずっとアンリエッタの手を握っていてくれた。
急に帰ってきたアンリエッタたちに母親は驚いていたが、アンリエッタの顔色の悪さを見て何かを察したようだった。
早く休むように言われたが、全てを見ていたわけではないロジェに説明のすべてを任せるわけにはいかなかった。
エスト公爵令嬢に言われたことはアンリエッタが、扇で叩かれそうになったことはロジェが言ってくれた。
あの時のことを思い出すと身体が震える。
そんなアンリエッタを三人は痛ましげに見る。
「ありがとう、ロジェ。あなたがいてくれてよかったわ」
「アンは大切な従妹だからな。それより早く休め」
「ええ」
もう少し話し合ってから帰るというロジェを残し、アンリエッタはマリーに連れられて部屋に戻った。
そのまま部屋着ではなく寝間着に着替えさせられて寝台に押し込まれる。
そこまでのことではないと言ったのだが、自分で思っていたよりもずっと消耗していたのか、急激に眠気に襲われ、そのまま眠ってしまった。
眠られるまで御傍におりますから、と言ってくれたマリーに手を握られたまま。
その手の温かさがアンリエッタの心を緩めてくれた。
そして夕方にはなんとシュエット様が見舞いに来てくださった。
目を覚ましたらシュエット様がアンリエッタの顔をのぞき込んでいて驚いた。
慌てて身を起こそうとするも止められる。
「姫様! こんな格好で申し訳ございません」
「いやいい。それよりアンリエッタ、気分はどう?」
「はい。少し寝てだいぶすっきりしました」
「少しは元気になったならよかった。だけど怖かっただろう? シエンヌには抗議しておいたけど、自分は悪くないと言うばかりだった。だから、伯爵と一緒に我が公爵家との連名でクロード殿下とエスト公爵家に抗議文を送ろうと思う」
アンリエッタは目を見開く。
「姫様、ですが、それは、」
「アンリエッタ、シエンヌは我が"西"の者に暴力を振るおうとしたんだよ。そしてその原因を作ったのはクロード殿下だ。抗議するのは当然だ」
大事になってしまい、青ざめる。
そんなアンリエッタを宥めるようにシュエット様はぽんぽんと頭を撫でてくださる。
「アンリエッタが責任を感じる必要はないよ。アンリエッタは被害者なのだから。父にも許可を取ってある。むしろやれと命じられたからね。大丈夫だ」
家だけではなく公爵家まで巻き込んでしまった。
横になっているのにめまいを起こす。
くたりと枕に沈んだ。起き上がれない。
そんなアンリエッタの様子を見て労るようにシュエット様が微笑まれた。
「アンリエッタ、ゆっくりお休み。今週は学院も休んだほうがいい。暴力を振るわれかけたんだ。身体も心もゆっくり休めたほうがいい」
「はい……」
シュエット様は本当にお優しい。"西"の地域の、末端まで気にかけてくださる。
「いい子だ。さあ目を閉じて。このままもう少しお眠り」
考える気力さえ根こそぎ奪われ、大人しくシュエット様のお言葉に従い目を閉じる。
「お休み、アンリエッタ。よい夢を」
その御言葉に返事をすることもできずに深く眠りの世界に落ちていった。
読んでいただき、ありがとうございました。