50."東"の子爵令嬢に絡まれます。
学院が始まった。
ざわざわと遠巻きに噂されるのは先日の観劇の件を知っている者が多いからだろう。
本当に第一王子は余計なことをしてくれた。
いや彼からしたら契約内容内であったに過ぎないのだろうが。
後々あれは面倒臭いことになるだろう。
アンリエッタは今が面倒臭い事態だが。
どう尾鰭がついているかわからない。
下手したら悪いほうに転がる。
どんな噂が流れているのか情報収集をしなければ。
思わぬ方向から攻撃されるのは御免だ。
放課後のこと。
アンリエッタは図書館に向かっていた。
兄はまだ授業があり、ルイと二人で帰ることになっているのだが、教師に呼ばれたので図書館で待っていてほしいと言われたのだ。
図書館なら比較的安全だ。
向かう間は油断できないが、今は時間割りの最後の授業時間のため、授業を受けている者以外に残っている者は少ない。絡まれる危険は少ないだろう。
だからこそルイもアンリエッタを一人で図書館に向かわせたのだ。
その道中半ばに差しかかった辺りで。
ずんずんと言うような足運びでアンリエッタに近づいてくる者がいた。
あれは確か"東"の子爵家の令嬢だ。
なるべく一人にはならないようにしていたが、今は運悪く一人だ。
周囲に視線を走らせる。
逃げられそうもない。
なら立ち止まったほうが対処できるだろう。
そう判断したアンリエッタは足を止めた。
アンリエッタの前で立ち止まった彼女は警戒するアンリエッタに告げた。
「一度だけ、叩かせていただけませんか?」
言っている意味がわからなかった。
だが疑問の言葉を上げる前にきっぱりと言わなければならない。
「お断り致しますわ」
はっきりと断る。
叩かれる謂れはない。
彼女ーーアンブシュール子爵令嬢は予期はしていたのだろう。いや最初から了承されるとは思っていなかっただろう。
それでもそれを強行することはなかった。
「やっぱ駄目ですわよね。ええ、わかっておりますわ。悪いのは彼だということは。これはただの八つ当たりですわ。ですが、」
きっと、アンブシュール子爵令嬢がアンリエッタを睨む。
「貴女がクロード殿下に言い寄らなければこんなことにはならなかったのですわ。貴女に責任がないとは言えないのではないのですか!」
そもそもの根底が間違っている。
「わたくしは言い寄ったことなど一度たりともありませんわ」
これだけはきちんと言っておかねばならない。
「嘘よ」
「嘘ではありません。一度でもわたくしが殿下に言い寄っているのを見たことがあるのでしょうか?」
「それは……………………ないわ」
悔しそうに言われても困る。
それが事実で全てだ。
「ですから言いがかりをつけられても困ります」
毅然と告げる。
アンリエッタは非難されることなど何もしていない。
文句を言うなら是非ともアンリエッタではなく第一王子にしてもらいたいものだ。
対外的には第一王子が一方的にアンリエッタに言い寄っていることになっている。
それでもアンリエッタのほうが言い寄っていると批判されるのは、相手のほうが地位が上だからだろう。
王族が一伯爵令嬢相手に熱を上げるはずがないとでも思っているのかもしれない。
だが実際に第一王子は一伯爵令嬢に熱を上げている。
それがアンリエッタではないだけだ。
アンブシュール子爵令嬢がアンリエッタを睨む。
「貴女のせいでわたくしと彼、スーシュ伯爵令息の婚約は解消になったのよ。申し訳ないとは思わないの?」
スーシュ伯爵家は"西"の伯爵家の一つだ。
"西"と"東"での婚約がいくつか解消になったと聞いていたが、どうやら彼女はそのうちの一組だったようだ。
だが、その婚約も最近は再婚約の流れだと聞いている。
それが再婚約に至らないとしたらそれぞれの家の事情だろう。
アンリエッタの責任ではない。
「思いませんわ」
「まあ、何て人!」
「わたくしの責任ではありませんので」
そこを履き違ってもらっては困る。
「貴女が、貴女さえ余計なことをしなければ、婚約解消なんてすることはなかったのに!」
睨まれてもアンリエッタには何の痛痒もない。
「わたくしは何もしていませんわ。殿下にもきちんとお断りしています」
その姿は何人もが見ているはずだ。
正確に言えば、第一王子が決して決定的なことは言わないので、はっきりと断っているとは言えないが、婚約者がいるので親しくするつもりはないとやんわりとだがしっかりと伝えている。
「そんなこと、どうせ建前でしかないのでしょう!」
「いえ本心ですわ」
本心から迷惑している。
そもそも第一王子のほうが建前だ。
彼はアンリエッタに欠片も興味がない。興味を持たれても困るが。
「だったらどうして!」
それを訊かれても困る。
彼女だって本当に答えを求めているわけではないのだろう。
ただ出口のない感情を持て余しているだけで。
思い描いていた未来が突然奪われた。
理不尽だと思ったのだろう。
噂の中心にいるアンリエッタを見て怒りを覚えたのも無理はない。
「どうして! どうしてなの!」
最早アンリエッタに向かっての言葉でもないのだろう。
どこにも向けられない怒りをただ外に吐き出しているようだ。
「わたくしは、あの方のもとに嫁ぐために、努力してきたのに!」
それは誰でもやっていることだ。
だがそれを告げるほど冷淡にはなれなかった。
「それなのにどうして!」
何度自問しても出ない答え。
彼女の中にその答えがないから当然だろう。
それでも嘆くように問い続けるしかなかった。
納得なんてできなかったから。
アンリエッタへの八つ当たりでしかその感情を吐露できなかったのだろう。
「どうしてなの……」
ぽろりと彼女の瞳から涙がこぼれ落ちる。
仕方ないとずっと自分に言い聞かせて堪えていたものがついには堪えきれなくなったのだろう。
どこででも、自室でさえも泣けなかったのだろう。
アンブシュール子爵令嬢は両手で顔を覆う。
静かな泣き声が聞こえてきた。
周りに人はいない。
たとえ見ている人間がいたとしても、アンリエッタが泣かせたと遠巻きに噂されるだけだろう。
アンリエッタはハンカチを取り出した。
何の刺繍もないシンプルな白いハンカチ。
誰のものかも特定されないようなもの。
アンリエッタはそのハンカチをアンブシュール子爵令嬢に差し出した。
「どうぞ」
顔を上げた彼女は少しの間そのハンカチを見ていたが、そっと手を伸ばして受け取った。
「……ありがとう。ごめんなさい……」
「いえ」
ハンカチを目元に当てたアンブシュール子爵令嬢だったが、後から後からこぼれ落ちてくる涙は止まらない。
ハンカチに顔を埋めるようにして泣き続ける。
アンリエッタは黙って彼女の傍に立ち続けた。
第一王子は本当に罪深い。
第一王子とベルジュ伯爵令嬢はその罪深さを知るべきだ。
*
その日の帰りの馬車の中でアンリエッタはルイなら何か知っているかもしれないとスーシュ伯爵令息のことを訊いてみた。
「スーシュ伯爵令息? ああ、なんかやらかして家から縁を切られたらしいよ」
興味なさそうにルイが教えてくれる。
夏休みは一緒に隣国に行っていたのにいつの間にか情報を集めたらしい。
「まあ。家から縁を切られるなんて、一体何をしたのかしら?」
「さあ? よっぽどのことだろうね。興味があるなら調べるけど?」
「いえ、別にいいわ」
「そう?」
「ええ」
わざわざ調べてもらうほどの興味はない。
ルイが理由を知らないなら、アンリエッタには関係のないことなのだろう。
ルイはことアンリエッタのことになると、どんなささいな影響だろうと調べ尽くすのだから。
「それで、何で急にスーシュ伯爵令息のことを? 姉上は特にあの家とは交流がなかったよね?」
ルイが当然の疑問を問うてくる。
「帰ったら話そうと思っていたのだけれど、スーシュ伯爵令息の婚約者だったという令嬢に絡まれたのよ」
ルイの顔が真剣なものになる。
「詳しく」
「大丈夫よ。少し八つ当たりされただけ。……誰にも吐き出せなかったみたいだから」
はぁとルイは息を吐いた。
「姉上は優しすぎる。大丈夫だったの? 傷つけられてない?」
ルイは本当に心配性だ。
「本当に大丈夫よ。少し、愚痴を聞いたようなものだから」
「帰ったら皆と一緒に一応話を聞かせて?」
「ええ、勿論」
ルイは一つ頷いてそれ以上は訊いてこなかった。
退いてくれたのだ。
本当にルイは姉想いだ。
アンリエッタは何となく窓の外に視線を向けた。
そしてアンブシュール子爵令嬢が今度こそ添い遂げられる良縁を得られることをそっと祈った。
読んでいただき、ありがとうございました。




