6."北"の公爵令嬢に忠告されました。
「少し、お話よろしいかしら?」
たまたま一人で廊下を歩いているところを不意に後ろから声をかけられ、アンリエッタは小さく肩を揺らした。
怯みそうになる自分を叱咤して振り返る。
そこにいたのは焦げ茶色の髪を半分結い上げ半分を背に流したガーネットのような鮮やかな紅色の瞳をした令嬢だ。ミレーユ・ノール公爵令嬢ーー"北"の公爵家の令嬢だ。
ノール公爵令嬢は何故かお一人だ。いつもなら誰かしらは御傍にいるのに。
疑問は胸にしまって、スカートをつまみお辞儀する。
「わたくしに何か御用でしょうか?」
「貴女に話があるの。時間はあるかしら?」
幸いなのかどうなのか、次の時間には授業は入っていない。
「ええ、ございます。どのような御話でしょうか?」
「ここでは誰かしら通って落ち着かないから場所をかえましょう。ついていらっしゃいな」
「……はい」
連れていかれた先で囲まれたりするのだろうか。
だがそれならば公爵令嬢自らが呼びにきたりはしないだろう。
ノール公爵令嬢の背に付き従って歩きながら警戒していると、くすりと笑ってノール公爵令嬢が顔だけで振り向いた。
「安心していいわ。貴女を取り囲んで責め立てようなんて思っていないから。誰も控えさせてはいないわ。貴女と一対一で話したいだけなの」
「…….お気遣い、ありがとうございます」
唇だけ笑んでノール公爵令嬢が顔を戻した。
あとは一言も発することなく連れていかれたのは、空き教室の一つだった。おっしゃっていた通り教室には誰もいない。
ノール公爵令嬢は適当な椅子を向かい合わせにすると、片方に座られる。
「どうぞ、おかけになって」
「いえ」
「いいからお座りなさいな」
「……はい」
観念して向かいの椅子に座る。
ノール公爵令嬢がどんな話をするのかはおおよその見当がついている。
アンリエッタは真っ直ぐにノール公爵令嬢を見た。
「わたくしが何が言いたいのかわかっているようなので率直に言うわね。身の程を弁えてクロード殿下の周りを騒がせるのはおやめなさい」
「お言葉ですが、」
アンリエッタはどう言えば伝わるかと考えながら口を開く。
「正直に申し上げさせていただければ、わたくしも困っているのです」
「どういうことかしら?」
へにょりと眉を下げる。
「言葉を選ばずに申し上げさせていただければ、何度も婚約者がいるので迷惑ですとお伝えしているのですが、取り合っていただけません」
「まあ」
ノール公爵令嬢は驚いたように目を丸くする。
「貴女が言い寄っているのではなくて?」
「わたくしが言い寄っているように見えているのでしょうか?」
そんな素振りを見せたはずはないのだが、何故かそういう見方をする者が多くてほとほと困っていた。
「わざと焦らして恋の駆け引きを楽しんでいるのかと、そう思っていたのだけれど、違うのかしら?」
「違います」
そんな誤解が生まれているとしたら、アンリエッタの対応にも問題があったのかもしれない。
「もっときっぱりと申し上げたほうがいいのでしょうか?」
思わず訊いてしまう。
第一王子からのアプローチは変わらないだろうが、周りからの印象は変わるかもしれない。
「そうね、もう少しはっきりと拒絶したほうがいいかもしれないわね」
「ではそうしてみます」
少しでも周囲の誤解が解ければ御の字だろう。
きっぱりと言ったアンリエッタをまじまじと見つめていたノール公爵令嬢が驚いたように言う。
「貴女、本当に困っているのね」
思わず力強く頷いてしまう。
ノール公爵令嬢が苦笑する。
「もしクロード殿下に不敬罪を問われそうになったら、わたくしに、ああいえ、シュエットの領分ね、シュエットに言うか、彼女に言いにくかったり取り合わなかったりしたら、わたくしに言いなさいな。わたくしが助言したのだから力になるわ」
「ありがとうございます」
深々と頭を下げる。
他地域の公爵令嬢に頼みごとをするのは難しいが、その御気持ちが嬉しかった。
なので一つだけそっとヒントだけ置いておくことにする。
「差し出がましいことですが一つだけ、よろしいでしょうか?」
「何かしら?」
生意気だと思われるかもしれない。
嫌味に取られるかもしれない。
だけれど、言っておくべきだろうと思うから。
「"北"の姫様、どうかもっと視野を広くお持ちになり、よくよくお見極めなさってください」
「それはどういうことかしら?」
「わたくしに申し上げられますのはこれだけです」
現国王の第一妃が"南"、第二妃が"東"、第三妃が"西"出身なので、次代の第一妃は"北"の公爵令嬢になる可能性が一番高い。
なので彼女には噂や表面的なものに惑わされずにしっかりと見てもらいたい。
感情的にならずに理性的に話してくださるような方だからこそ。
第一王子の演技もそこまで徹底されてはいない。注意深く見れば、それが演技だと気づく程度である。
アンリエッタのことなど好きでもなんでもないから、それがどこかに出てしまうのだろう。
この方なら冷静に見れば気づくだろう。
正直なところ、第一王子がもし王位に就くとしたら、第一王子にこの方はもったいない気がする。
立ち上がって深々と頭を下げる。
ノール公爵令嬢は何も言わない。
アンリエッタも頭を上げない。
ノール公爵令嬢の視線を感じる。
アンリエッタは動かなかった。
それからどれくらい経っただろうか、ノール公爵令嬢が一つ深く息を吐いて言った。
「……何か事情がありそうね。いいでしょう、頭の片隅に入れておきましょう」
アンリエッタは顔を上げなかった。
わずかな衣擦れを立ててノール公爵令嬢が立ち上がる気配がする。
アンリエッタはそのまま動かない。
ノール公爵令嬢の立てる足音だけが響きーー
「貴女、シエンヌにはお気をつけなさい」
それは、"東"の公爵令嬢の名だ。
はっとして顔を上げて振り向いたが、もうノール公爵令嬢はいなかった。
ふっと体の力が抜ける。
よろめきかけて椅子に座る。
多大な緊張を強いられていたのだ。
ふぅと大きく息を吐いた。
「姉上!」
いきなり声が響き、思わず肩が跳ねた。慌てて扉のほうを見るとこちらも慌てた様子のルイがいた。
アンリエッタを見ると駆け寄ってくる。
「姉上、大丈夫!?」
「大丈夫よ。ちょっと緊張しただけだから」
「本当に? "北"の姫様に何もされなかった?」
アンリエッタの前に膝をついて心配そうに顔をのぞきこんでくるルイに安心させるように微笑みかける。
「本当に大丈夫よ。"北"の姫様は御一人で話に来てくださったのよ。理知的な方で、怖いことは何もなかったわ」
「よかった……。姉上が"北"の姫様に連れられているのを見て焦ったよ」
ルイとは次の授業で一緒だから合流しようとしていたところだったのだ。その道程で見かけて追ってきてくれたようだ。
次の授業は隣国の文化で、この時間は別の授業を受けている兄も一緒で教室での合流となる。
西の隣国エーヴィッヒ王国の言語と歴史、文化は"西"の貴族は必修だ。
それぞれの地域の隣国の言語と歴史、文化はそれぞれの地域の必修だ。"南"だけは隣国ではなく、港を使っての貿易国が対象となるので、"南"だけ対象国が多い、
ラシーヌ家は親戚が隣国におり、幼い頃からよく行っていたので日常会話はもちろんのこと、読み書きも問題なくできる。
隣国関係の授業はすべて隣国の言葉で行われているので、思いがけず躓く者もいる。
ミシュリーヌがまさにそうで隣国の歴史を再履修しているために一緒ではないのだ。
「心配かけてごめんなさい」
ルイが手を伸ばし、ぎゅっとアンリエッタの手を握った。
「大丈夫。姉上が無事だったらそれでいい」
「ありがとう」
ルイがにっこりと微笑う。
「姉上、もう少し休んだら教室に移動しようか」
「もう大丈夫よ」
「ううん、手が冷たい。よほど緊張したんだね。心に負荷がかかったんだから少し休んだほうがいい。まだ時間があるから大丈夫」
言われてルイの手の温かさに気づく。それだけアンリエッタの手が冷たいのだ。
「ありがとう、ルイ」
「どういたしまして」
それからアンリエッタの手が温まるまで、ルイはずっと手を握っていてくれた。
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