39.婚約者との時間です。
それからしばらくはまた当たり障りのない話をしていた。
話が途切れた隙にエドゥアルトが切り出した。
「それではリエッタと相談したいことがありますので、僕たちはここで失礼しますね」
エドゥアルトが立ち上がり、アンリエッタに手を差し出した。
アンリエッタはその手に手を重ねて立ち上がる。
すかさず義母が釘を刺す。
「アルト、きちんと使用人は置いておきなさいね。結婚するまでは許さないわよ?」
エドゥアルトは整えた笑顔で頷く。
「わかっていますよ」
「エッタ、アルトが無理強いするようなら構わん、殴れ」
義父の言葉にどう返せばいいのかわからない。
「姉上の細腕で殴っても大したダメージにはなりませんし、逆に姉上の手を痛めてしまいます」
「そうですわ。お兄様の無駄に頑丈なこと。お義姉様が怪我されてしまいます」
「それもそうか」
ではどうするか、というようにそれぞれが考え込む。
「仕方ないわ。エッタ、大声で助けを求めなさい」
義母の言葉に皆それしかないかと頷く。
それでは侯爵家に迷惑がかかってしまう。
「大丈夫ですわ、皆様」
アンリエッタが言えば皆の視線が集まる。
「わたくしはルトを信じます。大丈夫よね、ルト?」
微笑んでじっとエドゥアルトを見つめる。
「うっ……。勿論リエッタの信頼を裏切るような真似はしないよ」
数瞬怯んだ様子を見せたエドゥアルトだったが、すぐに穏やかに微笑って言ってくれた。
アンリエッタは小さく頷く。
「さすが姉上」
「本当にさすがですわ。お兄様の扱いがわかっていらっしゃる」
ルイもエヴァも褒めてくれるが、エドゥアルトを信じるのは当然だ。
そもそもエドゥアルトは皆が思っているよりよほど紳士的だ。
義母が満足そうに頷いている。
「じゃあ、行こうか」
「ええ」
アンリエッタは義父母たちにスカートを摘まんで一礼してからエドゥアルトのエスコートを受けて部屋を後にした。
*
壁際にはマリーと侯爵邸の侍女やエドゥアルトの従者が控えている。
ラシーヌ家のアンリエッタの部屋ではきちんと対面に座っていたが、今回はごねにごねられて隣同士に座っている。
一応、建前程度に拳一つ分は空いているが。
「リエッタ、明日は空いている?」
「ええ、まだ予定は入っていないわ」
「よかった。じゃあ、明日一日リエッタの時間をもらっていい?」
「いいわ。何か用事があるの?」
婚約者同伴の何かがあるのだろうか?
「ドレスは出来上がってきているからドレスに合う装飾品を買いたいんだ。リエッタ、明日買い物に付き合ってね」
「そういうことね。勿論いいわ」
アンリエッタが頷けばエドゥアルトは嬉しそうに微笑う。
「朝からでも大丈夫?」
「ええ、勿論よ」
「じゃあ、悪いけどいろいろ回りたいから朝食を終えた頃に迎えに行くよ」
「わかったわ」
マリーに視線を向ければ頷いてくれたので大丈夫だろう。
「デート、楽しみだね」
にこにこと嬉しそうに微笑ってエドゥアルトは言った。
デート……確かにデートね。
そこに思い至らなかったが、エドゥアルトと出掛けられるのは楽しみなことに変わりはない。
「そうね」
「はぁ。一日リエッタと一緒にいられるなんて幸せだ」
表情が蕩けるとはこのような表情のことを言うのだろう。
アンリエッタは微笑う。
「そんなことで幸せなの?」
「勿論。リエッタは違うの?」
「わたくしはルトが微笑っていることが幸せだわ」
「僕はリエッタがいてくれればずっと微笑っていられるし、それを見てリエッタが幸せに思ってくれるなら、二人でいればずっと幸せだね」
「そうね」
にこにことエドゥアルトは微笑う。
……少し、お花畑的な思考に陥っていないだろうか?
それに引っ張られて、第一王子とベルジュ伯爵令嬢のことがちらりと頭をかすめた。
目敏くエドゥアルトはそれに気づいたようだ。
「僕といる時に他の人のことを考えるの禁止」
「ごめんなさい」
素直に謝る。
貴重な婚約者との交流の時間だ。他の男のことなど思い出してほしくないに違いない。
「うん、わかってくれたならいいよ」
エドゥアルトが穏やかに微笑ってくれてほっとする。
「でも、リエッタと一緒にいられる時間は本当に幸せだ」
先程の言を繰り返してエドゥアルトは幸せそうに微笑っている。
思わずくすりと笑う。
「そればかりね」
「そりゃあ、本当は一分一秒だって離れたくないのに我慢しているんだからね?」
目が恐ろしいほどに真剣だ。
国が違うのだ。なかなか会えるものではない。
「早くずっと一緒にいられるようになりたい」
溜め息とともに言われる。
エドゥアルトはもう成人を迎えている。
この国ではデビュタントをしたら成人と認められる。
年齢はおおよそ十五から十八歳あたりが普通だ。
我が国では学院への入学時に王族との謁見があり、それがデビュタントに当たる。
一方この国ではデビュタントは一堂に会して、まずは爵位が高い順に王族に謁見し、その後ダンスまでが条件だ。
その際はやはり男女どちらでもパートナーが必要であり、婚約者が務めることもあれば、親族が務めることもある。
二年前にエドゥアルトがデビュタントをした時は、学院に入学し、自国でのデビュタントを終えていたアンリエッタがパートナーを務めた。
はっきりとは言わなかったが、エドゥアルトはアンリエッタがデビュタントを済ませるのを待っていたのだろう。
待たせている自覚はある。
「ごめんなさい」
思わず謝る。
エドゥアルトが驚いたように目を見開く。
「リエッタが謝ることなんて何もないよ?」
「でも、まだ結婚できないのはわたくしの事情だわ」
この国の令嬢の結婚適齢期は十七~二十歳だ。
早ければ十五、十六で嫁ぐこともある。
この国基準であればアンリエッタは適齢期であり、長年の婚約関係があるのでもう嫁いでもおかしくはないのだ。
だが学院を卒業していないアンリエッタはまだ嫁ぐことができない。
リーシュでは学院を卒業しなければ結婚できないからだ。
これはたとえ他国に嫁入り・婿入りする者でも例外とはならない。
さわりとエドゥアルトがアンリエッタの頬を撫でる。
「ひゃっ!」
予想もしていなかったので令嬢らしからぬ声が出た。
エドゥアルトが忍び笑う。
アンリエッタの頬が恥ずかしさに赤く染まった。
それに優しく微笑った後でエドゥアルトは真剣な顔をして言う。
「それはリエッタが気にすることじゃない。国が違うんだから当然だ」
「でも……」
「それでもいい、とこの婚約は結ばれたんだよ?」
「それはそうかもしれないけれど……」
一緒にいられないのも、結婚を待たせているのもアンリエッタ側の都合だ。
それが申し訳なくてどうしても「そうね」とは言えない。
たぶん、その気持ちを見透かされたのだと思う。
「どうしたらリエッタは納得して安心できる?」
眉尻を下げて訊かれる。
そこまでされてはっとする。
待たせている罪悪感に苛まれて待ってくれているエドゥアルトの気持ちを蔑ろにしていた。
アンリエッタは一度目を閉じて思考を切り替える。
いつまでも罪悪感を持っていては駄目だ。
その待たせた分、エドゥアルトを幸せにしてシュタイン侯爵家を発展させればいい。
待った甲斐があったとそう思わせるだけの成果を出せるよう努力しよう。
目を開けるとエドゥアルトがソファの肘置きにすがりついていた。
「……リエッタ、勘弁して。ここで目を閉じるなんて襲ってくれって言っているものだから」
ぱっとアンリエッタの頬に朱が散る。
いつもならやらないことだが、エドゥアルトの前だからと油断してつい視界を遮断して思考を切り替える方法を取ってしまった。
「ごめんなさい」
「本当に気をつけて。何回もやられたら我慢できる自信はないよ」
「ええ、もうやらないわ」
「うん」
ようやくエドゥアルトが元のように座り直す。
それから一つ咳払いして話題を変えた。
「ドレスとかはうちに届くように手配してあるから装飾品もそうしておくね」
そうしておく理由が何かあるのだろうか?
「え、ええ」
わかっていないアンリエッタに微苦笑してエドゥアルトが理由を告げる。
「ルナール様の屋敷だとそんなに人を置いていないだろう? だから仕度は是非うちでしてほしい」
叔父の屋敷には最低限の者しか置いていないのだ。
アンリエッタの仕度のためにあまり人員を割けない。
「そこまで考えてくれたのね。ありがとう」
「単にリエッタが綺麗に装ったのを一番初めに見たいだけ」
そういうことにしておいてくれるエドゥアルトは本当に優しい。
「そう。わたくしもルトに初めに見てもらえるのは嬉しいわ」
エドゥアルトは嬉しそうに微笑う。
「よかった。じゃあ、ドレスや装飾品はうちに置いておくね」
「迷惑にならなければ」
「迷惑なんてとんでもない。どのみちあと何年かしたら一緒に住むんだし」
「あ、ありがとう」
気恥ずかしくてもじもじしてしまう。
それをエドゥアルトが嬉しそうに見ていることに気づいて無理矢理意識を切り替えた。
「もうドレスは出来上がっているの?」
「この間リエッタとデザインを決めたものと、あといくつかはまだ届いていないけど、それ以外は届いているよ」
一体何着作ったのだろうか?
「ふふ、リエッタ見たい?」
「ええ、どんなものがあるかは気になるわ」
見ておかなければそもそもどのような装飾品と合わせるかわからない。
少し考えたようだったエドゥアルトはにっこりと微笑う。
「なら当日まで秘密にしておこうかな」
「え?」
「僕がその日に着るドレスを選ぶよ。だからリエッタはどんなドレスか楽しみにしていて」
エドゥアルトの用意してくれたドレスを着ていくような場所はエドゥアルトがパートナーとして一緒に参加するものばかりだからそれは問題ない。
だけど。
「それだと明日装飾品が選べないわ」
「僕が選ぶよ。リエッタのドレスは全部頭に入っているから任せて」
「……まさかそれが狙い?」
にっこりとエドゥアルトが微笑む。
「僕が選んだドレスに僕が選んだ装飾品を身につけたリエッタをエスコートできるなんて最高だよね」
呆れればいいのか、照れればいいのか。
どっちの感情も浮かんできて反応に困る。
「自分の選んだもので愛する女性を飾り立てるのは男の浪漫だからね」
「意外とロマンチストだったのね」
エドゥアルトは悪戯っぽく微笑う。
「知らなかった?」
「知らなかったわ」
アンリエッタも微笑った。
「そう。だからね、」
そっと手を伸ばしてエドゥアルトがリボンに触れた。
「このリボンをつけてくれて嬉しい」
「日常使い品だからどうかしら、とも思ったのだけれど、やっぱり身につけていたかったから……」
「うん、嬉しい。明日、買い物に行ったら新しいリボンも買おう。日常使いのものではなくて、もっと質のいい公式の場でも使えるものをね」
今日だとて質のいいリボンに紛れ込ませるようにしてエドゥアルトの贈ってくれたリボンをつけている。
婚約者の家に挨拶に来るのに、婚約者から贈られたものとはいえさすがに日常使い品では失礼に当たるかもしれないと懸念したためだ。
「本当? 嬉しいわ」
「僕に選ばせてくれる?」
「ええ、選んでくれたら嬉しいわ」
「そうしたら身につけてくれる?」
「勿論よ。友人とのお茶会にもつけていって自慢してくるわ」
アンリエッタは茶目っ気を出して言った。
「うん、ありがとう、リエッタ」
エドゥアルトがリボンにそっと口づける。
自分に触れられたわけでもないのに恥ずかしくなってアンリエッタの頬が朱に染まった。
先程の警告もあり目を伏せるのは危険な気がしてできない。
そんなアンリエッタの様子にエドゥアルトは満足そうに微笑んだ。
読んでいただき、ありがとうございました。




