31.領地に向かう馬車の中は和気藹々としています。
しばらく盾役はお休みです。
夏休みに入ってすぐにアンリエッタたちは王都を発ち、領地に向かった。
父は仕事があるので一人王都に残り、家族とロジェとミシュリーヌでの旅路だ。
父は後に追いかけてくることになっている。
王城勤めでも爵位と領地を持つ者は領地に戻るために長めの休みを取ることが認められているのだ。
父は兄に実地で領政を教えると同時に領地の視察のために休みを申請している。
その申請が通ったとは聞いたが、仕事の調整で一緒には帰れなかったのだ。
アンリエッタたちは二台の馬車に別れて乗っている。
勿論他に荷物や使用人を乗せた馬車が続いている。
「娘二人と一緒で嬉しいわ」
母が上機嫌に言う。
この馬車の中には今女性陣しかいない。
具体的にはアンリエッタと母とミシュリーヌ、それから母とミシュリーヌの専属侍女が一人ずつとマリーの計六人だ。
当然の分かれ方だが、兄もルイも不機嫌そうでロジェは溜め息をついていた。
ロジェが八つ当たりされないことをそっと祈るしかアンリエッタにはできなかった。
恐らくあちらの馬車の空気は重いだろうが、こちらは快適だ。
「アンと過ごせないのは残念だけど、ミシュリーと過ごせるのは嬉しいわ」
夏休みの間、ミシュリーヌは母から領主夫人の仕事を習うことになっている。
領地がお隣で領主館が比較的近いので通いでということになるが。
その間兄は領地にいる祖父に領主としての仕事を実地で習うのだ。父が帰領した暁にはそこに父も加わることになっている。
そしてその間、アンリエッタはルイとともに隣国に行くことになっている。
別にルイは隣国に行く必要はないのだが、付き添いとして行くと当然のように言い、家族もそのほうがいいと賛成したのだ。
アンリエッタとしてもルイがいてくれたほうが心強いので有り難い。
とはいえ、あまりルイに頼らないようにしなければならない。
いつまでも弟に頼っているわけにはいかないのだ。
アンリエッタはちらりと隣に座るミシュリーヌを見た。
今日もその髪には碧色の地に金糸で刺繍されたリボンが結ばれている。
アンリエッタが婚約者から贈られたリボンをつけるようになってそれほど経たないうちにミシュリーヌもリボンをつけるようになった。
そのことについて訊きたかったが訊けずにいた。
今この場なら訊いても構わないだろう。
「ミシュリー、ずっと聞きたかったのだけれど、そのリボン、もしかしてお兄様から?」
「え、ええ、そうよ」
学園では下手に訊けないし、屋敷でも兄の前で迂闊に訊けなかった。
ミシュリーヌは少し動揺したようで、やはり兄の前で訊かなくて正しかったようだ。
母と二人でまじまじとミシュリーヌのしているリボンを見る。
兄の瞳と同じ碧色の地に兄の髪と同じ金糸で細かく刺繍が入っている。
学院では見かけなかったリボンだ。
あまりにも兄を彷彿とさせる色だったので学院にはしてこられなかったに違いない。
領地に向かう今だからこそしてきたのだろう。
ミシュリーヌがうつむく。
「やっぱりお兄様はリボンを贈られたのね」
「ええ、いくつか贈ってくれたわ」
恐らく学院にしてきていたリボンがそれなのだろう。完全に兄の色ではなかったが、やたらと金糸の刺繍のものが多かった。
特にミシュリーヌの瞳の色である若緑色のリボンに金糸で刺繍されたものをよく見た気がする。
"西"では金髪の者が多いので、探っている者がいたとしてもミシュリーヌの婚約者が兄だと絞り込むまではいかないだろう。
兄が贈ったいくつかのリボンをミシュリーヌが日替わりでつけてきていたのだろう。
ふと、先日エドゥアルトがリボンに触れたことを思い出した。
思わず動揺するアンリエッタに母がにっこりと微笑って告げた。
「アン、あの日のことは報告を受けているわ」
アンリエッタは思わずマリーを見た。
マリーはにっこりと微笑う。
……そうよね。あの日あったことは何もかも報告されているわよね。
それがマリーの仕事だ。怒る気はない。
だけど、一つ気になったことはあった。
「……お兄様にも?」
「ええ、勿論」
アンリエッタは黙り込む。
お兄様はやられるかしら?
アンリエッタはちらりとミシュリーヌを見る。
ミシュリーヌなら大丈夫ね。
多少は動揺してもアンリエッタのようにあれほど動揺はしないだろう。
「そうですか」
さあっとミシュリーヌが青ざめる。
「待って、アン、何があったの?」
「ミシュリーなら大丈夫よ」
「大丈夫って何!?」
ミシュリーヌが詰め寄ってくる。
アンリエッタは心持ち身を引く。
「ミシュリーが挙動不審になったらわたくしがお兄様に叱られてしまうわ」
「いえ、エディはアンを可愛がっているから大丈夫よ」
アンリエッタは首を横に振る。
兄がアンリエッタを大切にしてくれていることに疑いはない。
だけど愛しい婚約者の可愛い反応を見損ねることになったり、ぎこちなくさせることになれば話は別だ。
「お兄様はわたくしを大切にしてくださっているけれどミシュリーほどではないわ。もしわたくしとミシュリーが同時に崖から落ちそうになっていれば迷わずミシュリーを助けるわ」
「それでその横でアンはルイに助けられるのね」
その場にいればまず間違いなくルイはミシュリーヌに目もくれずにアンリエッタを助けるだろう。
「何故ああなってしまったのかしら……? わたくし甘やかしたつもりはないのだけれど」
「生まれつきだから仕方ないわ」
母がすげなく言う。
何なのだ、それは。
生まれつきの姉馬鹿などあり得ないだろう。
きっとミシュリーヌも同じように考えたに違いない。
母が軽く息をついて言う。
「どんなに泣いていてもアンが傍に行くだけで泣き止んで、傍にいるとずっとにこにこ微笑っていたわ」
……。そう言われればそうだったような気がする。
ルイが泣いているからどうしたのかと近寄ると、泣いていたのが嘘のように満面の笑みを浮かべていた。
だからルイが泣いて困る時はアンリエッタが傍に置かれた、気がする。
ルイが泣いていれば必ず、ということではなかったのでルイに泣き癖がつくことはなかったが。
などと思い返していると、ミシュリーヌに袖を引かれた。
「煙に巻いてないで教えてちょうだい」
ミシュリーヌの声には切実な響きがあった。
別にそんなつもりはなかったが。
アンリエッタは安心させるように微笑む。
「大丈夫よ。身に危険があるわけではないわ」
「当たり前よ」
「別にわたくしに触れられたわけではないわ」
いや、抱きしめられたり、頬に触れられたりはした。
だけど、今の話題はそれではないから問題ない。
うん、問題ない。
そもそもあれは心配したエドゥアルトがアンリエッタの無事を確かめたものだ。
リボンの一件とは違う。
「ええ、アンにはね」
母が含みを持たせる。
母もきっと同じ考えなのだろう。
「アン、詳しく話しなさい」
ミシュリーヌが身を乗り出して詰め寄ってくる。
ミシュリーヌは必死だ。
アンリエッタはどうしようかと、母に助けを求める。
「アン、話してあげたらいいわ」
あっさりと母が言う。
アンリエッタの顔がひきつる。
話すのもまた恥ずかしいのだが。
そのアンリエッタの様子からミシュリーヌも何か悟ったようだ。顔色が悪い。
「アン……」
ここで話さないのは却ってミシュリーヌの精神には悪いだろう。
アンリエッタとてミシュリーヌに意地悪をしたいわけではない。
アンリエッタは覚悟を決めて口を開く。
「身につけているリボンに、口づけされたの……」
それだけなら、とほっとした様子のミシュリーヌは何もわかっていない。
アンリエッタは真顔でミシュリーヌに言う。
「ミシュリー、想像してみて。お兄様がそっとリボンを手に取り、そこにそっと唇を触れさせるのよ? 伏せていた目を上げてミシュリーを見て微笑むのよ?」
想像してみたのだろう。途端に音を立てそうなくらいにミシュリーヌの顔が真っ赤になった。
母たちの視線は微笑ましいものを見るようなものだったが、アンリエッタたちはそれどころではない。
「アン……。それ、エディは知っているのよね?」
「ええ」
「やる、と思う?」
アンリエッタは曖昧に微笑む。
さあっとミシュリーヌの顔から血の気が引く。
「ミシュリー、頑張って」
アンリエッタにはそれしか言えない。
「アン……」
縋るように見られてもアンリエッタにはどうすることもできない。
代わることもできないのだからミシュリーヌが頑張るしかない。
きゅっとミシュリーヌの手を握る。
ミシュリーヌも握り返してくる。
「ふふ、今のうちに少しずつ慣れておいたほうがいいわよ」
母が笑顔で助言する。
見れば母の専属侍女も笑顔で力強く頷いている。
彼女は母が嫁入りする時についてきた侍女なので、婚約者時代の両親のあれこれを知っているのだ。
「経験者の助言は聞いておいたほうがいいわ」
経験者の言葉は重い。
ミシュリーヌの顔は赤くなったり青くなったり忙しい。
アンリエッタの手を握る手は離されず力が籠っている。
冷静にミシュリーヌを見ているアンリエッタに気づいたのだろう。
「他人事のような顔をしているけどアンだって同じだからね」
ミシュリーヌが仲間に引き入れようと迫ってくる。
だがはっきり言ってしまえばミシュリーヌより自分のほうが慣れているとアンリエッタは思っている。
兄はあれでかなり自制している。
どこに人の目があるかわからないからだ。
だがエドゥアルトは自制している兄とは違う。
エドゥアルトは会えば必ず何かしら戯れてくる。
一応、婚約者としての触れ合い内ではあるはずだ。
言葉も惜しまない。
アンリエッタは翻弄されっぱなしだがミシュリーヌよりは慣れているはずだ。
「ミシュリー、覚悟しておいたほうがいいわ。夏休みはお兄様と一緒でしょう。人目はあるけれど、多少の触れ合いは目を瞑られるわ」
「それはアンもでしょう」
「わたくしはもう覚悟は決まっているわ」
婚約者のところに行くのだ。それくらいはとっくに織り込み済みだ。
「それから、身内に見られるのも恥ずかしいけれど、使用人に見られるのも恥ずかしいわ」
「私たち使用人は目の前で主人がいちゃついていても気配を殺して見なかったことにする術を心得ておりますわ。お嬢様はまだ未婚ですのである程度のところでお止めしますが」
ミシュリーヌの専属侍女がそっと口を挟んだ。
ミシュリーヌは恥ずかしいのかうつむいてしまった。
だがアンリエッタの手はしっかりと握っている。
「わたくし、無理かもしれないわ」
「ミシュリー、慣れるわ」
母が優しく言う。
「慣れ、ますか……?」
「慣れるわ」
「アンは慣れそう?」
はっきり言ってしまえば自信はない。
「自信はないわ」
「そうよね!」
自分一人ではないとわかってミシュリーヌの顔に生気が戻る。
そこへさらに母が言葉を投げた。
「時には返してあげるといいわ」
「「か、返す!?」」
動揺のあまり素っ頓狂な声を上げた二人を咎めることなく母が真面目な顔で言う。
「ええ、愛情を返すでしょう。それと同じよ」
「ああ、なるほど……?」
「それは、そうですね……?」
疑問形になる二人に一転して笑顔で母は告げる。
「ふふ、不意打ちをして動揺してくれる姿は可愛いわよ?」
「奥様」
母の専属侍女が母を窘める。
「動揺する姿……」
「それは、ちょっと見てみたいわね」
エドゥアルトにしろ兄にしろ動揺している姿など見たことがない。
ミシュリーヌも乗り気なところを見ると彼女も見たことがないのだろう。
そわっとしたアンリエッタたちに母の専属侍女が冷静な声で忠告する。
「お嬢様方、時にはお相手の暴走を引き起こすこともございますので十分ご留意くださいませ」
「ぼ、暴走……?」
「または理性が吹っ飛ぶとも申します」
響き的にも危険だ。
ぎゅっとお互いに手に力が入る。
「大丈夫よ、二人とも。婚約者のうちは誰かが止めに入るわ。二人っきりということもないもの」
「はい、危なくなればどのような手段を用いようともお止めします」
マリーが力強く請け負う。
そういえば、前回はマリーが止めてくれた。
ほっとアンリエッタは力を抜く。
「そうですよね。今ならまだ大丈夫ですね」
「アン?」
「マリーが止めてくれたの。だからミシュリーも大丈夫よ」
ミシュリーヌは自分の侍女を見る。
「勿論ですわ。お嬢様が危なくなればどのよう手段を用いましてもお守り致します」
「ありがとう」
「アン、ミシュリー」
母が名を呼んでアンリエッタとミシュリーヌの視線を自分に戻した。
真剣な顔をしている。
「いい、二人とも。大切なのはその匙加減よ」
母の言葉に身を寄せ合う。
アンリエッタにしろ、ミシュリーヌにしろ圧倒的に経験値が足りない。
「そのうちわかるようになるわ」
「なる、かしら?」
「それは経験を重ねていけばわかるようになるわ」
やはり経験を重ねるしかないようだ。
いつかわかるようになる時がくれば、エドゥアルトを翻弄することもできるだろうか?
いつもアンリエッタばかりが翻弄されている。
その意趣返しができるだろうか?
それまでの間のことを考えれば思わず身震いしてしまう。
それはミシュリーヌも同じだったようだ。
だが自分だけではないと思うと勇気が湧いてくる。
「ミシュリー、一人じゃないわ」
「そうね。わたくしたち一緒よね」
両手でしっかりと手を握り合う。
気持ちは同じだった。
女には退けない時があるのだ。
二人で頷いて微笑み合った。
そんな二人のやりとりを母たちが生暖かく見守っていることにアンリエッタたちは気づかなかった。
読んでいただき、ありがとうございました。
誤字報告をありがとうございました。
全てではありませんが、訂正してあります。




