25.まさか来るとは思いませんでした。
その日アンリエッタはマリーを連れてとある店を訪れていた。
あるものを注文していてその確認に赴いていたのだ。
細かな直しを頼み、店を出る。
これならば何とか間に合いそうだ。
ほっとして表情が緩みそうになるのを何とか堪える。
そのまま馬車の停めてあるほうへ向かって歩いていると、不意に目の前に男が割り込んできた。
ぶつかりそうになり慌てて立ち止まる。
うまい具合に護衛との間に入られてしまった形だ。
目の前でアンリエッタに向き合った男はにやりと笑う。
「さて、あんたに恨みはないがついてきてもらおうか」
ちらりと見回せば五人の男に囲まれていた。
アンリエッタの護衛は二人ついている。
だがその間にうまく男たちに入られていた。
護衛たちはアンリエッタと男の距離が近いので動けないでいる。隙を窺っているのがわかる。
「お断りしますわ。知らない人についていってはいけないことは子供でも知っていますわよ?」
ふっと男は笑う。
「せっかく穏便にご同行願おうと思ったのだが仕方ねぇな」
マリーが前に出てこようとしているが後ろにいる男に阻まれている。
目の前の男とマリーの後ろにいる男さえ何とかできれば後は護衛が対応できるだろう。
何とかするなら油断している今しかないだろう。
アンリエッタはそっと扇を握る。
扇は淑女の武器だ。
今の場合はもちろん物理的にだ。
鉄を仕込んでおけばよかったわ。
それが残念だ。
好機は一度きりだろう。
その一度で的確に打ち据えねばならない。
ふっと深く息をつく。
「さて、嬢ちゃん、」
一瞬のことだった。
前と後ろで同時に人が地面に倒れる重い音が響いた。
アンリエッタもマリーも何もしていない。
目の前にいた男は地面にねじ伏せられている。
もがく男の首に手刀を落とした相手が立ち上がり、アンリエッタを見る。
見慣れない縁の太い眼鏡をかけた見知った顔に思わず目を見開いてしまった。
「大丈夫?」
「ええ。ありがとう。指一本触れられていないわ」
「よかった」
ほっとしたように微笑まれる。
辺りを見回せば、制圧は終了していた。
我が家の護衛の他にロジェと彼が連れていたであろう護衛が他の男たちを制圧していた。
彼がここにいる以上、ロジェが一緒にいることはわかっていた。
「アン、大丈夫か?」
「ええ、大丈夫よ。ありがとう」
ロジェがほっと安堵して体の力を抜いたのがわかった。
アンリエッタの護衛二人が近寄ってきて頭を下げた。
「お嬢様、申し訳ございませんでした」
「我らがついていながら危険な目に遭わせてしまい申し訳ございません。いかようにも処分は受けます」
「護衛対象者との間に入られるとは情けない。俺が後で鍛え直してやる」
「「はい。お願い致します!」」
勝手にロジェとアンリエッタの護衛の間で話がまとまっていく。
アンリエッタに口を挟む暇はなかった。
今回の件は気を抜いていたアンリエッタにも非はある。
だから何か言うのはやめた。
護衛たちが納得しているならそれでいいだろう。
マリーも何も言わなかった。
ここにきてようやくばたばたと足音を立てて王都を守る騎士たちが到着した。
アンリエッタの護衛が騎士に事情を説明した。
「連れていけ」
「「はっ!」」
騎士たちは気を失った男たちを慣れた手つきで縛り上げて担いで連行していく。
それを見ていると騎士の一人がアンリエッタたちのもとにやってきた。
「大変申し訳ございませんが、事情をお伺いしたいので詰所のほうまでお越しいただけますか?」
「勿論ですわ」
彼の後についてアンリエッタたちは騎士の詰所まで移動した。
アンリエッタたちは訊かれたことに素直に答えていく。
調書はそれほどかからずに終わった。
「ご協力ありがとうございました」
「こちらこそお手数をお掛け致しました」
詰所を出る。
だがロジェだけが中に残り、騎士たちと話している。
すぐに話を切り上げ、詰所を出てきた。
一緒に馬車に向かう。
「アン、この後屋敷に行く。訪問することはもう伝えてあるんだ」
「わかったわ」
ちらりと後ろを見る。
彼はあれからずっと無言だ。
アンリエッタが見ているのに気づくとにっこりと微笑った。
アンリエッタも微笑み返して視線を外した。
「あいつの我が儘も今回ばかりはよかった」
「本当に助かったわ。ありがとう」
「今は出歩かないほうがよさそうだな。どうしても出かけるなら連絡しろ。付き合ってやるから」
「ありがとう。でも今日はどのみち無理だったわね」
「そんなの、あいつのことはジェレミーに押しつければよかっただけだ」
ジェレミーはロジェの弟だ。彼も今は学院に通うために王都に来ている。
「ジェレミーが振り回される様子しか思い浮かばないわ」
「あいつにはいい経験だ」
何だかんだでいつも彼のことを引き受けるのはロジェだ。
なので彼に一番振り回されているのもロジェだ。
言い方が辛辣になるのも仕方ない。
「ごめんなさい、ロジェ」
「アンのせいじゃない。アンのせい、じゃな」
じろりとロジェが彼をにらむが、彼はにっこりと微笑うだけだ。
ロジェは嘆息する。
彼が軽くロジェをあしらうのもいつものこと。
いつものこと、と言ってしまうのはロジェには申し訳ないが。
だがその実、彼がロジェに心を許している証でもあった。
そんなふうに話しているうちに馬車停めに着いた。
「お嬢様!」
御者が勢いよく駆け寄ってきた。
「何かございましたか!? 先程何やら騒がしかったですし、お帰りが遅かったので心配致しました」
ちらちらとロジェたちを見ている。
行く時にはいなかったので、やはり何かあったのかと不安なのだろう。
アンリエッタは安心させるように微笑みかける。
「大丈夫よ。心配かけて悪かったわね」
「いえ、何もなかったのであればよかったです。お帰りになられますか?」
「ええ」
頭を下げた御者が素早く動き、踏み台を用意し、馬車の扉を開けた。
「じゃあ、後でね」
「ああ」
その時、すっと自然な動作で彼が近寄ってきた。
彼の手が伸びてきて、髪に結ばれているリボンを一瞬だけ撫でて離れていく。
思わずその手を視線で追った。
「アン」
名を呼ばれてはっとする。
「じゃあ、先に帰っているわね」
「ああ」
ロジェの手を借りて馬車に乗り込む。
マリーが素早く続いた。
「また後でな」
「ええ」
御者によって素早く扉が閉められた。
「出ます」と一言声をかけられ、馬車が動き出す。
無言で馬車の振動に身を委ねていると、マリーが向かいから隣に移動してきた。
「お嬢様、失礼致します」
そっとマリーに手を握られる。
手が震えているのが、伝わってしまう。
マリーの手も同じように震えていた。
「お嬢様、お守りすることができずに申し訳ありません」
「いいえ、大丈夫よ。マリーこそ怖かったでしょう?」
「お嬢様を守れないかもしれないことが怖かったです」
そうではない。
屈強な男たちに囲まれて怖かったはずだ。
「わたくしのせいで怖い目に遭わせてしまったわ。ごめんなさい」
「お嬢様のせいではございません」
アンリエッタはかぶりを振る。
「マリーにも護衛たちにも怪我がなくてよかったわ。」
「お嬢様は優しすぎます」
「そんなことないわ」
これは雇用主として当然のことだ。
護衛たちはアンリエッタを守ることが仕事だから難しいが、マリーを守ることも主であるアンリエッタの役目なのだ。
その心を守ることも。
「ねぇ、マリー」
「はい、何でしょう?」
「屋敷に着くまで、こうして手を握っていてくれる?」
「ええ、ええ、勿論ですとも」
マリーはアンリエッタの両手を包むように握り直してくれた。
「ありがとう、マリー」
アンリエッタはマリーに微笑みかけた。
マリーも微笑んでくれる。
そして、屋敷に着くまでそうやってずっと手を握っていてくれた。
帰ると家族に迎えられた。
「姉上、大丈夫!? 怪我はない?」
駆け寄ってきたルイにぎゅっと手を握られる。
「ええ、ロジェたちが助けてくれたから」
「ああ、本当によかった。ロジェが連絡をくれてね、生きた心地がしなかったよ、本当に」
ロジェが先に連絡しておいてくれたようだ。
アンリエッタはそこまで気が回らなかったので助かった。
「そういえば……あいつも来てるんだよね?」
ルイの声が低くなる。
「ええ。助けてくれたわ」
「そう」
ルイは複雑そうな顔だ。
「姉上が助かったのは事実だけど、一体何しに来たんだ?」
ぼそりと言ったルイの言葉はアンリエッタには聞き取れなかった。
「ルイ、何かしら?」
「あいつとは話した?」
「無事を確認されたわ。それだけ。後で屋敷に来ると言っていたからその時に話ができるわ」
ルイが盛大に顔をしかめた。
「ルイ、そんな顔しないの」
「仕方ないよ」
こればかりはアンリエッタが何を言ってもルイも譲らない。
玄関ホールで話しているアンリエッタたちの後ろをそっと通り抜けて執事が外に出ていく。
「アン、こんなことがあった以上、しばらく外出は控えなさい」
「はい」
「どうしても出かけるなら僕が付き合うから」
「ありがとう、ルイ。でも、その時はロジェが付き合ってくれると言ってくれたから」
「それは……ロジェのほうが適任か。でも一人より二人だと思うから、声をかけてね」
「……ええ」
静かに来客に対応していた執事が傍に来た。
「ご歓談中失礼致します。ロジェ様たちがお越しになられました」
「噂をすれば何とやら」
ルイが苦虫を噛み潰したような顔で言う。
「入れてくれ」
「承知しました」
一礼して執事が玄関扉に向かった。
「どうぞ、お入りくださいませ」
執事の開けた扉から一番始めに入ってきたのは彼だ。後ろからロジェも入ってくる。
先程かけていた眼鏡は外され、彼は素顔をさらしていた。
日の光に透かすときらきらと輝く黄金色のさらさらな髪と、吸い込まれそうな濃く深い青色の瞳を持つ見目麗しい彼はアンリエッタの婚約者のエドゥアルト・シュタイン侯爵令息だ。
今この国にはいないはずのーー
「リエッタ!」
アンリエッタはエドゥアルトに抱き締められた。
咄嗟のことで反応ができない。
「本当に、無事でよかった……」
本当に安堵したような声に、気づけば背中に手を回してぎゅっと抱きついていた。
本当は、怖かった。
だが怯えた顔なんて見せるわけにはいかなかった。
相手に付け入る隙を与えるわけにはいかなかったから。
エドゥアルトの顔を見てどれだけほっとしたことか。
「今回は仕方ないか」
渋々、本当に渋々といった様子でルイが言う。
アンリエッタははっと我に返った。
家族の前で……!
アンリエッタの頬に朱が走る。
身動ぎすれば余計に抱き込まれる。
そんなアンリエッタの羞恥を家族は悟ってくれたようだ。
「マリー、変なことをするようなら止めるように」
父に言われてマリーは頭を下げる。
「承知しました」
「マリーだけじゃ腕力で勝てないから手伝ってあげて」
ルイが自身の従者のリュカに言っている。
「承知致しました」
アンリエッタの傍に二人を残し、皆は離れていった。
マリーとリュカの前でも恥ずかしい。
一度正気に戻ってしまうと駄目だ。
だがエドゥアルトに心配かけたのも事実だ。
恥ずかしいがエドゥアルトの気の済むまではこうしていよう。恥ずかしいが。
アンリエッタは顔を隠すように彼に額を押しつける。
エドゥアルトの身体が小さく揺れる。
何故か抱き締め直された。
今までは存在を確かめるようにただただぎゅっと抱き締められていたのだが、ふわりと包むように抱き締められている。
アンリエッタは困惑した。
どうしたのかしら?
身動ぎするも腕はほどけそうになかった。
とーー。
首筋に温かいものが触れた。
びくっと身体が跳ねた。
さらに抱き込まれる。
えっ? えっ?
「そこまでです」
マリーの声が聞こえると同時にエドゥアルトが引き離された。
内心で慌てていたアンリエッタはほっとした。
「リュカはエドゥアルト様を皆様のところまでご案内してください。お嬢様はお召し替えを致しますので」
「はい。エドゥアルト様、ご案内致します」
リュカは一見にこやかに微笑んでいるが、その笑顔には一種の圧があった。
エドゥアルトは溜め息をついた後でアンリエッタに微笑いかける。
「わかった。リエッタ、また後で」
「ええ」
リュカに案内されるエドゥアルトを見送り、アンリエッタはマリーを連れて自室に向かった。
読んでいただき、ありがとうございました。




