幕間 弟の忠告
学院には王族専用の個室があり、そこにクロードはいた。
王族なら誰でも使っていいのだが、今はクロードしかいない。
王族専用なのでたとえ側近でも入れず完全に一人だった。
クロードは今、窓際に立ち、外を見ていた。
アンリエッタと"東"の令嬢の揉め事を見たのは偶然だった。
何やら"東"の令嬢が集団でアンリエッタに絡んでいるようだ。
アンリエッタは椅子に座ったまま相手にしていないようだ。
なかなか勇気がある。
普通なら複数の者に絡まれれば無視などできないだろう。
何か言われたのかアンリエッタが"東"の令嬢たちのほうに顔を向けた。
さすがにこの距離では声までは聞こえない。
だが何やら揉めているようだ。
不意に"東"の令嬢がワゴンの上のピッチャーを取り、中身をアンリエッタのほうにぶちまけた。
アンリエッタは素早く立ち上がってうまくかわした。
代わりに水がかかったのは、髪色からして"北"の令嬢か。
あれがリリアンだったらと思うとぞっとした。
リリアンだったら確実に水をかぶっていただろう。
いや、普通の令嬢だったら水をかぶっているような気がする。
人選としてアンリエッタは間違っていなかったようだ。
知らず知らずのうちにクロードの顔に微笑みが浮かぶ。
今度はその"北"の令嬢と"東"の令嬢が揉めている。
そこへ"西"の令嬢がやってきた。あれはミシュリーヌ・サルマン侯爵令嬢か。
どうやらアンリエッタは彼女と待ち合わせをしていたようだ。
事情を聞いたのだろうサルマン侯爵令嬢が"東"の令嬢たちに何かを言っている。
こうして見ていると、"西""北"と"東"の対立になっている。
それにしても一番アンリエッタに絡んでいるのは"東"だ。
アンリエッタに声をかけ始めた当初からそれは変わらない。
もともと"西"はアンリエッタを守る態勢であったし、"南"は静観していた。"北"も最近は大人しくなった。
変わらずアンリエッタに嫌がらせをしているのは"東"だけだ。
これがアンリエッタだからか、状況を見たそれぞれの地域の判断かはわからない。
ただ一つ言えることはリリアンだったらこうはいかなかったということだ。
眼下では"東"の令嬢たちが少し荒い様子で去っていく。
水をかぶった不運な令嬢はいたが誰も怪我をした者はいなかったようだ。
アンリエッタ側がうまくあしらったのだろう。
双方に怪我人が出なくてよかった。
そんなことは望んでいない。
ほっとしてクロードの微笑みが深くなる。
アンリエッタは本当に得難い人材だ。
アンリエッタを守るようには言ってあるが、限界がある。
アンリエッタ本人の回避能力が高いほうが被害が出なくて済む。
アンリエッタを引き入れたのは偶然だが、クロードは運がいい。
ふと思う。
あれだけ回避能力が高く、周りを味方に引き入れるのがうまいなら近くにいる者も一緒に守られるかもしれないか。
リリアンのことももしかしたら……
いやさすがにそれは求めすぎか。
だがそうすればアンリエッタに声をかけた時にリリアンにも……
その甘い誘惑を、頭を振って追い払う。
クロードは窓際を離れ、中央に置かれているテーブルに歩み寄った。
テーブルの上には紅茶の入ったティーカップが置かれている。
この部屋と扉で繋がっている隣の部屋には侍女や使用人がいてお茶を頼んだり、ちょっとした用事を頼むことができた。
ティーカップに手を伸ばす。
その時、扉を叩く音がしてクロードは振り向いた。
中からの返事を待つことなく扉が開かれる。
扉を叩いたのは、開けるという合図でしかなかったようだ。
ここに入れるのは王族だけであり、兄弟姉妹は平等だ。
入ってきたのは下の弟のリシャールだった。
リシャールはクロードを認め、さっと周囲に視線を走らせた。
誰がいるか確認したようだった。
リシャールがクロードの傍に寄ってきた。
「クロード兄上、少しいい?」
「構わないが、何かあったのか?」
この弟がクロードを頼るのは珍しい。
よほどの困り事でもあったのだろうか?
「そうじゃないんだ。クロード兄上に少し聞きたいことがあって」
「聞きたいこと? 何だ?」
この弟がクロードのことについて知りたいことがあるとは思えないのだが。
心当たりがあると言えばあるしないと言えばない。
苦言を呈したいならアンリエッタのことだろう。
他は思い当たらない。
そこまで私的なことに踏み込んでくるとは思えないが。
決して仲が悪いわけでも無関心なわけでもないがどちらの弟とも距離があるのは確かだ。
それはある程度は仕方のないことだと割りきっている。
「クロード兄上、ご令嬢方が争っているのを見るのは楽しい?」
その質問に眉をひそめる。
じっと弟を見るが冗談を言っている様子はない。
「そんなわけないだろう」
どういうつもりでその質問をしてきたのだろうか。
「でもクロード兄上、さっきご令嬢方のけんかを笑って見ていたでしょう?」
クロードは大きく目を見開いた。
笑って、いたのか?
記憶を探る。
無意識に口許に手をあてる。
記憶にはない。
だが、微笑っていない確証もない。
安堵したりよい人選だったと満足したりしていたから微笑っていた可能性は大いにある。
どこから見ていたかは知らないが、リシャールが微笑っていたというのだから実際微笑っていたのだろう。
そんな嘘をついてもリシャールには何の利点もないし、そもそもそんな嘘をつくような人間でもない。
「無自覚だったみたいだね」
「……ああ」
リシャールは今にも溜め息をこぼしそうな顔だ。
***
「クロード兄上、ご令嬢方が争っているのを見るのは楽しい?」
その質問に眉をひそめた兄を見てやはり自覚はなかったかと内心で溜め息をついた。
先程のカフェでの一件、実はリシャールはあのカフェにいたのだ。
中心にいたのは、アンリエッタ・ラシーヌ伯爵令嬢。
兄上がご執心だと噂されているご令嬢だ。
一方的に彼女に絡んでいるのは"東"の令嬢たちだ。
彼女たちがラシーヌ伯爵令嬢に絡む理由はわかっている。
何とも忠誠心の厚いことだと思う。
クロード兄上はわかっているのだろうか? いや、わかっていないだろう。
自分に向けられている好意というのは案外気づかないものだ。
いや、よそう。
とにかくあまりにも揉めるようなら仲裁に入らなければならないかと様子を見ていたのだ。
"東"の子爵令嬢が水をかけようとした時はさすがに焦った。
空になったピッチャーや置かれていたコップを投げつけることはさすがにしなかったから最悪の事態は避けられた。
ラシーヌ伯爵令嬢はうまく避けていたから、水のかかった"北"の侯爵令嬢だけが災難だった。
彼女も参戦していよいよ収拾がつかなくなるかな、と仲裁に入る準備をしていたが、入る前に事態は収拾した。
ほっとして腰を落ち着け、力を抜くように何気なく首を後ろに倒し視線を上に向けた。
その見上げた先でクロード兄上が微笑んでいたのを見つけて驚いた。
一瞬この状況を楽しんで見ているのかと疑ったが、さすがにそれはないかと思い直した。
だが誰かが見れば誤解するような光景だ。
これは一言言ったほうがいいかな。
そう思い、ここまでやってきた。
「ご令嬢方が争っているのを見るのは楽しい?」
と訊いたのはもちろんわざとだ。
どういう反応をするのか見たかったからだ。
そういう性格ではないとわかってはいるけれど、万が一ということもある。
その場合はリシャールがやろうとしていることはただの余計なお節介だ。
「でもよかった。クロード兄上がそこまで性悪じゃなくて」
兄は少しむっとした顔になる。
少し、素直に感情を出しすぎた。
兄弟故の気安さもあるのだろう。
そういうところを下の兄に利用されたりするのだ。
あの兄は利用できるものは何でも利用する。
「アンリエッタが、いや、誰も怪我をしなくてよかったとほっとしたんだ」
「ああ、兄上お気に入りの」
兄はうっすらと微笑みを浮かべた。
これはどういう表情なんだろうな。
意外とこの表情の兄の思考は読みにくい。
じっと見てみるがどんな感情を持っているのか掴めなかった。
「本当にね。誰も怪我しなかったのはよかったよ。水がかかった令嬢は災難だったけれど」
「そうだな」
今の様子を見る限りは本当に安心して微笑んだだけのようだ。
「でも気をつけたほうがいいよ。誤解されかねない」
「ああ、そうだな。気をつけるよ」
クロード兄上が素直に頷いてくれてよかった。
頷かないなら頷かないでそれは兄の選択だから別に構わないのだけれど、怒り出したら面倒だとは思った。
クロード兄上は理不尽に怒り出すような人ではないけれど、普段穏やかな人でも急に怒り出すことはある。
何がきっかけになるかは人それぞれだ。
それがクロード兄上にとってはラシーヌ伯爵令嬢のことかもしれない。
そっと兄を見やる。
クロード兄上とこうやって二人で話す機会は滅多にない。
もう少し訊いてみるか? ラシーヌ伯爵令嬢のこととか。
ここなら誰にも話を聞かれる心配はない。
不意に誰かが入ってこない限りは。
心の中で一つ頷き、何気ない口調で尋ねた。
「兄上は、本気なの?」
誰、とは言わなかった。
だが伝わるはずだ。
また兄はうっすらと微笑む。
「アンリエッタのことは何を言われても受け入れる気はないぞ」
「そう」
苦笑して退く。
これは相当気に入っている、ということだろうか?
婚約者持ちの、自分を好いているわけでもない相手に……?
ただ、ほんの少し違和感がある。
これはもう少し注視しておいたほうがいいかな?
迷惑を被っているほうに思いを馳せる。
ラシーヌ伯爵令嬢には何かあれば力になるとは言ってある。
余程のことがなければ頼ってきそうにはないからこちらが注視しておいたほうがいいだろう。
手遅れになってからではシャレにならない。
非のない令嬢に、王族が関わって取り返しのつかない事態に陥らせるのは本当にまずい。
クロード兄上は本当にどこまで考えているのかな?
今の状況を見ている限り、そこまで考えているようには見えない。
見えないだけで実際は考えているのかもしれない、というのは願望の見せる希望的観測だろう。
内心で漏れそうになる溜め息を堪える。
これ以上訊いても何も答えてはくれないだろう。
ならそろそろ次の授業の教室に向かっていいくらいの時間だし退室することにしよう。
「それじゃあ僕は行くから」
「行くのか?」
兄は軽く目を見開いている。
「うん。次の授業があるから」
「そうか」
リシャールは兄に背を向ける。
それ以上は呼び止められなかった。
歩を進め、扉に辿り着く。
扉を開ける直前、リシャールはこっそりと溜め息をつく。
まったく、クロード兄上にも困ったものだ。
読んでいただき、ありがとうございました。
誤字報告をありがとうございました。
修正してあります。




