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2.間が悪かったとしか言いようがありません。

事の起こりは二週間ほど前に遡る。

アンリエッタは一緒に帰る兄と弟を待つ間、学院の図書館で課題をすることにしていた。週の真ん中のこの日は、アンリエッタは最後の時間枠に授業が入っていないのだ。

いつもなら友人も一緒なのだが、その日はたまたま用事があると先に帰ってしまっていた。


一人でさえなければこんなことにはならなかったと、今でも思う。


毎週のことなので、どこに目当ての分野の本があるかはわかっている。

迷うことなく目的の書棚にたどり着く。ざっと眺めて、これかなと思う本を手に取り、ぱらぱらとページをめくって中身を確認し、三冊ほど決めた。


ここは静かだ。

この時間、あまり利用している人がいないのも要因の一つだろうが、本に囲まれていると本が音を吸収しているような気がするから不思議だ。


本を持って移動する。

一、二階に本がぎっしりと置いてあり、机と椅子も並べられているので、そこで本を閲覧することも可能だ。

三階には個室が並び、そこで一人でこもって勉強することもでき、複数人で勉強会をすることもできる。

個室を使用するのに申請などは要らず、空いていれば誰でも使用可能だ。扉の横に板が掛けてあり、赤なら使用中、青なら使用可である。板の表裏に色が塗ってありひっくり返して掛けておけばいい仕組みになっている。


アンリエッタは資料となる本を持って三階にある個室の閲覧室に向かった。

いつもは友人と一緒なので当然個室を使っているが、今日は一人なので別に一階の机を使ってもよかったのだが、いつもと違うところにいては迎えに来る兄弟が探すのに手間取るだろう。


階段を三階まで上がって扉の並ぶ廊下を進むと、墨色の髪に紺色の瞳の青年ーーシアン・ヴァーグ侯爵令息とすれ違った。

向こうのほうが家格が上なので少し端に寄り、軽く頭を下げる。


彼はこの時間に時々見かけていた。

第一王子の側近のはずだが、この時間に見る彼はいつも一人だ。

第一王子だけが授業を受けているのか、もう帰城しており彼だけ用事があって残っているのか。

まあ、アンリエッタには関係のないことだが。


……そんな余計なことを考えていたからだろうか。


アンリエッタはいつも使っている部屋のつもりで一つ手前の部屋の扉を開けてしまった。赤い札が掛けてあったが、友人が先に部屋にいる時は札が赤になっているので流してしまったのだ。


部屋の中に人がいて、それも抱き合っている男女がいて驚いたが、とっさに顔を伏せる。

とっさに顔を伏せたので髪色まではわからなかったが、こちらを見た男の瞳の色はしっかり見えた。


あの瞳の色ーー琥珀色の瞳は間違いなく王族だ。


この国は地域によって髪色や瞳の色が異なる。王族の髪色は母親の色によるが、瞳の色だけは必ず琥珀色なのだ。

今この学園に通っている男性王族は三人の王子だ。三人のうちの誰かだろう。相手の女性は光を弾く銀色の髪であったから"東"の人物だ。

この場合、これ以上の相手の特定は命取りだ。


「申し訳ありません。部屋を間違えました。どなたかは見ておりません。すぐに出ていきますのでご容赦くださいませ」


顔を伏せたまま下がろうとした時、背後で扉が開く音がした。


「シアン」


咎めるように呼ばれた名で誰かわかってしまった。


第一王子のクロード・リーシュ殿下だ。


ヴァーグ侯爵令息は第一王子が恋人との逢瀬を楽しんでいる間、廊下で待機しつつ目を光らせていたのだろう。


……それにしても、少々迂闊じゃないかしら?

ここで彼の名前を呼ばなければ誰かはわからなかったのに。

ここはもうお相手が誰かを知るのを全力で回避しなければならない。


「申し訳ありません。彼女は毎週隣の部屋で勉強しておりましたので見逃しました」

「知り合いか?」

「いえ。個人的に話したことはありません」

「そうか」


ひたりと視線が向けられるのを感じた。

少し考えるような間が空き、


「お前名は? どこの家の者だ?」


高位者に名を問われれば答えなければならない。


「……"西"の伯爵家が一つ、ラシーヌ家が長女、アンリエッタでございます」

「ではアンリエッタ、このことは他言無用だ。よいな?」


いくら王族とはいえ、初対面の令嬢の名前を呼び捨てるのは無作法だ。

内心で眉根を寄せる。

名前を呼び捨てることは親しい間柄だと言っているいるようなものだ。邪推する者も当然おり、したたかな者ならその邪推ですら巧妙に利用する。

アンリエッタはそんな騒動に巻き込まれるのはご免だが。


「承知しました。御前失礼させていただいてよろしいでしょうか?」

「ああ。……いや、待て」


(きびす)を返しかけていたアンリエッタは動きを止めた。


「確か毎週この隣の部屋で勉強しているんだったな?」

「はい」

「ならちょうどいいか」


もう嫌な予感しかしない。


「アンリエッタ、俺の恋人のふりをしろ」


予感が的中した。

アンリエッタは深いため息を胸中で吐きつつ、ゆっくりと顔を上げた。

ここまで来てしまったら二人が誰かを突き止めておかなければならない。


一人はやはり第一王子のクロード殿下だ。アンリエッタが承知するものと思っている顔でこちらを見ている。

そして、そのクロードの後ろから不安そうにこちらを見ているのは、銀色の髪を緩くハーフアップにした菫色の瞳を持つ儚げな少女だった。男なら守ってあげたいと思うような少女だ。アンリエッタは急いで貴族名鑑を頭の中で(めく)るが、今まで交流のなかった彼女が"東"の伯爵家の娘としか思い出せない。

自分の不甲斐なさに、帰ったら貴族名鑑の読み直しをしよう、と決めながら、唇だけで笑んだ。


「ご冗談を」

「冗談ではない」


遠回しに断ったが向こうも引かない。はっきり断らないと駄目なようだ。


「お断り致しますわ。婚約者がいる身ですので」


両手が本で塞がっていなければ扇を広げたところだ。

断られると思っていなかったのだろう、第一王子は驚いたように目を見開く。

だが断って当然だろう。アンリエッタにも家にもまったく利がない。むしろ不利益でしかない。


王族といっても、第一王子なのだ。

第一王子の生母である第一妃は"南"の公爵家の者だ。

余談だが、この国は一夫一妻制だが、男性王族のみが複数の妻を娶ることができる。

第一王子の側近であるシアン・ヴァーグ侯爵令息も"南"の侯爵家の者だ。

ついでに恋人であろう伯爵家の令嬢は"東"の伯爵家の者だ。


まったく接点もなければ、家としての繋がりもない。

アンリエッタが承諾する理由が一つもない。


アンリエッタたち"西"の王子は第三王子だ。彼の生母は国王の第三妃で、"西"の侯爵家の者だ。

ついでに言えば、恋人であろう伯爵家の"東"の王子は第二王子だ。彼の生母が第二妃で"東"の公爵家の者なのだ。


彼女は自身のところの王子ではなく第一王子を選んだということだ。とはいえ、彼女に婚約者がいないのであれば当人たちの問題だ。


彼女の正体を知るためにもう一押ししておこうか。

よく顔を見るためにアンリエッタは彼女に視線を向けてにっこりと微笑(わら)う。


「彼女と違って、わたくしには婚約者がいます」


彼女の肩がびくんと跳ねる。

……婚約者がいるのだろうか。


「リリィを脅すな。彼女には婚約者はいない」


別に脅したつもりはないのだけれど。

そして迂闊(うかつ)だ。

その愛称で彼女が誰かわかった。


リリィーーリリアン・ベルジュ伯爵令嬢だ。


各地域伯爵家は五家だ。"東"の伯爵家とまではわかっているので、愛称がわかれば彼女が誰かを知るのは容易だ。

ただ、誰かはわかっても婚約者がいるかどうかはわからない。この国では婚約をしても大半は公表しない。


それは、昔、婚約者の座から蹴り落とそうと凄惨な嫌がらせが横行したためだ。一生残るような怪我を負わされた者も何人もいたと聞く。

この国の黒歴史だ。

必然的にエスコートが必要な場では、未婚の者の相手は身内となる。


それにしても、第一王子と"東"の伯爵令嬢の秘密の恋、というのはこの状況を切り抜けるのにはなかなかの切り札になる。彼女が誰かがわかったのが大きい。

"東"の公爵令嬢は恐らくこの第一王子のことが……


「それなら、俺の片想いという設定ならどうだ?」

「クロード様!」


さすがにヴァーグ侯爵令息が止めに入る。


「彼女は他言しないと約束しました。もうそれでいいではありませんか。関係のない者を巻き込むのはおやめください」

「だがな、最近、どうやら俺に想い人がいると勘づき始めた者たちがいるようなのだ。万が一リリィのことに気づいた者たちにリリィが嫌がらせされたら繊細なリリィには耐えられないだろう。俺も嫌だしな。だが、アンリエッタなら気が強そうだし大丈夫そうだ」


別れてしまえ。


反射的に呪うが如くそう思った。

こちらには全く関係もないし、利もない。


第一王子とベルジュ伯爵令嬢に多少の恩が売れるかもしれないが、伯爵家自体ではないし、こちらが(こうむ)る不利益と相殺できるほどのものでもない。


「ご冗談を」

「冗談ではない」


はっきり言わないとわからないのだろうか。


「我が家には何の利益もありませんわね」


驚いたように見ないでいただきたい。

第一王子は少し考えるように黙り、


「……俺に恩が売れるぞ?」


近くにいるのでヴァーグ侯爵令息が小さくため息をつくのが聞こえた。


未だ王太子でもない第一王子への恩というのはこちらの被る不利益を相殺し、それ以上のものをもたらすほどのものだろうか。

王子は三人いるが未だに王太子は決まっていない。

この国では必ずしも第一王子や第一妃の息子が王位に就くとは限らない。母親の身分も関係ない。高位貴族の意見を参考にして国王陛下が後継を指名するとされるが、正確なところは一部の高位貴族しか知らない。

三人とも優秀で誰が王太子になってもおかしくないと言われている。

今回のことで第一王子のその評価には物申したい気持ちではあるが、見方を変えれば、守りたいものを守るためには手段を選ばないというのも為政者としての素質、とも言えるのだろうか。


「弱いですね。将来的にこちらが蒙る不利益以上のものを、家とわたくしにもたらしてくれるほどのものでしょうか?」


たとえ第一王子が将来的に国王になったとしても、それだけの優遇をするのは無理だろう。それほどの何かがあったのだと探る者も出てくるだろうし、迷惑料だとしても過分だと感じる者が多いだろう。


第一王子は黙り込む。考えてみているのか、自分でも利益としては弱いと思ったのか。


少しの間何事か考えていたようだった第一王子が意識をこちらに向けた。

ひたりと見据えられる。

そのどこか悪意を微かに混ぜたような(かげ)りのある視線に嫌な予感がした。


「……そうか、ラシーヌ家は、いや、その責任は公爵家か、ラシーヌ家と"西"の公爵家は、王家への忠誠心がないようだな?」

「クロード様!!」


シアンが強く咎める響きを込めて名を呼ぶ。

アンリエッタはざっと血の気が引いた。

向かいでベルジュ伯爵令嬢も青ざめている。


よりによって家と、何より公爵家の忠誠を疑われてしまった。


それは、場合によってはこの命を差し出さなければならないほどの、罪だ。

どの地域のどの家でもそうだが、絶対の忠誠は公爵家にある。その忠誠は王家に対するものより深い。

公爵家が王家への忠誠を示しているから、配下の貴族はそれに従っているのだ。


本来、王族はそれを忘れてはならないのだ。


「ラシーヌ伯爵令嬢、大丈夫か?ラシーヌ伯爵令嬢?」

「…………ええ、大丈夫ですわ」


ヴァーグ侯爵令息は一つ頷くと第一王子に視線を向ける。


「クロード様、貴方は御自分の発言の意味をわかっていらっしゃるのですか?」

「だがそういうことだろう?」


誰か本当に第一王子に常識を教えて差し上げてくれないだろうか。


「ラシーヌ伯爵令嬢、クロード様には後で俺から……」

「さて、アンリエッタ、」


第一王子がヴァーグ侯爵令息の言葉に(かぶ)せてアンリエッタに言う。


「それで、どうする?」


アンリエッタに言える言葉は一つだけだ。


「……お引き受け致します」


目線を上げた先で第一王子が満足げに微笑(わら)う姿が見えた。

読んでいただき、ありがとうございました。

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