12.戻ってきた第一王子の筆頭側近は少し違うようです。
ミシュリーヌと廊下を歩いていると後ろからぱたぱたと足音が聞こえてきた。
足音がだいぶ近づいてきたところで、
「ミシュリー」
内緒話をするようにミシュリーヌに身を寄せる。
ミシュリーヌも心得ていて一歩分横にずれた。
アンリエッタはミシュリーヌに身を寄せた分一歩半。
「あら、失れ……!」
直後に傍らを走り抜けた少女が少しバランスを崩し、一緒に走っていた少女に慌てて支えられる。
恐らくアンリエッタに後ろからぶつかろうとしたのだろう少女が目論見が外れてにらみつけてくる。
ちっと舌打ちした男子が歩き去っていった。彼も仲間だったのかもしれない。
転んだアンリエッタを助け起こすふりをして何かしようと画策していたというところか。
アンリエッタはきょとんとした顔をして首を傾げる。
「お急ぎだったのでは?」
「急いでいるようだったから道を譲ったのを、まさか転びそうになったのは避けたからだなんて文句を言ったりはしないわよね?」
「まさか、そんな言いがかりも甚だしいことをするわけないと思うわ。ねえ?」
ミシュリーヌの言葉に反論する間を与えずに否定してアンリエッタは同意を求める。
少女たちはわなわなと震えている。
そこに廊下の端で成り行きを見ていた"南"の令嬢たちから思いがけない援護を受ける。
「走るほどお急ぎならもうお行きになったほうがよろしいのではなくて?」
「本当に。廊下を走るというはしたない行為をなさるほどお急ぎのご用事なのでしょう? 早く行かれたほうがよろしいかと」
少女たちにしても予想外のところからのアンリエッタへの援護なのだろう。
一瞬、ぽかんとした後"南"の令嬢たちをにらみつける。
「行きましょう!」
「ええ!」
少女たちは足早に去っていった。
「何だったのかしら、あれ」
絶対にわかっていてミシュリーヌは言っている。
「さあ? 行きましょう」
アンリエッタも惚けて促す。
「そうね」
感謝を込めて会釈してアンリエッタは彼女たちとすれ違った。
*
放課後、兄と弟と合流して馬車留めに向かっていると、第一王子に遭遇した。
第一王子の後ろにはヴァーグ侯爵令息がいる。どうやら戻ってきたようだ。
残念な気持ちを押し殺してカーテシーをする。
「アンリエッタ、帰るのか?」
ヴァーグ侯爵令息が戻ってきたからか第一王子も穏やかだ。
「はい。殿下方はまだ帰られないのですか?」
「ああ。シアンが戻ってきたから久しぶりに図書館に行こうと思ってな」
つまりは久しぶりにベルジュ伯爵令嬢に会うということなのだろう。
機嫌がいいはずだ。
「それはよかったですわね。ヴァーグ侯爵令息様が御傍にいらっしゃらなくて御寂しくされておられましたもの」
「それは、言わなくてもいいことではないか」
眉尻を下げて第一王子が言う。
恐らくベルジュ伯爵令嬢あたりが見れば、可愛い、などと思うかもしれないが、アンリエッタは特に何も思わない。
「失礼致しました」
親しいわけではないので淡々と頭を下げる。
「クロード様、御傍を離れてしまい申し訳ありませんでした」
「ああ、いい。家の用事だったのだろう? ただ、お前がいないと……アンに会いにくかったのだ。他の者たちもよくやってくれたのだが、皆アンに関することだけは口煩くてな」
「それは当然のことです。ラシーヌ伯爵令嬢には婚約者がいるのですから。愛称呼びもいけません」
ヴァーグ侯爵令息にまで諌められて第一王子は愕然とした表情になる。
「シアン……お前もか……」
「今までが至らなかったのです。後ほど御説明致します。……図書館通いまでは止めませんので」
「……わかった」
「ラシーヌ伯爵令嬢、今まで申し訳なかった」
アンリエッタはにっこりと微笑んで頷いた。
ヴァーグ侯爵令息がほっとした様子を見せた。
第一王子は複雑そうな顔で二人のやりとりを見ていた。
「もしやお前が休む前にアンリエッタに何か言いたそうにしていたのはそれか?」
「ええ、まあ……」
謝罪したかった、というところだけが本当なのだろうが、それをあえてここで言う必要はない。
「そうか……」
もしかしたらその件でアンリエッタに食ってかかったことを思い出したのかもしれない。ばつの悪そうな顔で第一王子はアンリエッタを見た。
アンリエッタはにっこりと笑って首を横に振る。
それで伝わったのだろう。第一王子はほっとした様子を見せた。
ふと、その第一王子の視線がアンリエッタの髪に向く。
今日はリボンを編み込んだ三つ編みにしてあった。
「そのリボン、よく似合っているな」
たぶん、本当に何気なく言った言葉なのだろう。
だがこれは婚約者がアンリエッタに贈ってくれたものなのだ。
それを似合っていると言われて嬉しくないはずがない。
思わずはにかんだ笑みを浮かべてしまう。
第一王子とヴァーグ侯爵令息が息を呑む気配がした。
「アン!」
「姉上!」
抑えた声で鋭く呼ばれてはっとする。
内心で慌てつつ淑女の笑みを浮かべ直す。
穏やかな声になるように心がけながら御礼を言う。
「ありがとうございます。婚約者からの贈り物なのです」
アンリエッタの髪を飾るリボンに嫉妬の視線を向けたのは、第一王子ーーではなく、ヴァーグ侯爵令息だった。
自身ですぐに気づいて消していたが、しっかりとエドワールとルイは見ていた。
そっと視線を交わす。
「アンリエッタの婚約者はセンスがいいんだな。アンリエッタに似合うものをよく知っている」
第一王子は何の含みもなく感心したように言う。
「ふふ、ありがとうございます」
嬉しい。
婚約者を褒められて単純に嬉しかった。
それが表情にも滲み出ていた。
兄と弟はそっと視線を交わす。
「姉上、そろそろ時間が……」
ルイが小声でアンリエッタに言いつつ、その実第一王子に聞こえるように言う。
アンリエッタもすぐに意図を察した。
「ああ、急いでいたのか。それは引き留めて悪かった」
「いえ。ですが、御前を失礼させていただいてもよろしいでしょうか?」
「勿論だ。気をつけて帰るといい」
「お気遣いをありがとうございます。失礼致します」
カーテシーをして兄弟とともにその場を離れた。
*
ラシーヌ家の馬車に乗り、アンリエッタはほっと息をついた。
その向かいの席で兄と弟は車輪の音に紛らせるように小声で話していた。
「ねぇ、ヴァーグ侯爵令息って姉上のこと……」
「そんなことは衝動的に婚約の申し込みをしたことからもわかっていただろう」
「そうだね」
小声で交わされるやりとりは小さすぎてアンリエッタには届かない。
「でも、あれ、思ったより重症かも」
「…………。はぁ。気の毒だな」
「そう? 姉上が迷惑を被っているんだから、あれくらいの意趣返しくらいあってもいいんじゃない?」
ルイは辛辣だ。
「お兄様もルイもどうなさいましたか?」
小首を傾げてアンリエッタは訊く。
「ああいや、ヴァーグ侯爵令息について少しな」
「そうそう。あれは、ぎりぎり及第点かなぁって」
アンリエッタは疑いなく話題に乗った。
「ええ。一応諌めてくださいましたからね」
「あれが続けばいいのだが」
「第一王子殿下に話すようだし大丈夫なんじゃない。どこまで話すつもりか知らないけど」
「側近としての役割についてまで、ではないかしら」
「さすがに婚約破棄になったら婚約する、とは言わないだろう。それは家の問題だ」
弟と共に頷く。
「それに、それを知れば殿下はさらに利用するかもしれない」
「これ以上利用されるのは嫌ですわ」
利用するわけない、などとは思わない。
ラシーヌ三兄弟の中で第一王子への信頼は既にない。
「それを懸念すれば、ヴァーグ侯爵令息は話さないだろう」
その懸念を抱くかどうかはわからない、と言外に言っているように聞こえるのはたぶん気のせいではない。
ヴァーグ侯爵令息への信用もあまりないのだ。
「そもそも家同士のことを主とはいえ軽々しく伝えでもしたら、それこそ無能の者の証だよ」
ルイはどこまでも辛辣だ。
「あまり感心しないことは確かだな」
アンリエッタもこくりと頷く。
「その辺りはヴァーグ侯爵家の教育次第だろうね」
まさか、そんな愚かな教育はしていないだろう。なにせ侯爵家だ。
「そこは大丈夫だと思うわよ」
「そうだといいね」
ルイは頭の回転が速く、決して楽観視はしないのだ。
あとこれだけは言っておかなければ、という顔でルイがアンリエッタを見る。
「それと姉上、第一王子殿下とヴァーグ侯爵令息の前では淑女の微笑み以外は駄目だよ」
「そうだな。いくら婚約者のことを褒められたとしても、嬉しそうに微笑うのは駄目だ。端から見れば、二人に会えて嬉しいと見えるからな」
兄の指摘はもっともだ。そして、その誤解は、嫌だ。
「申し訳ありません。気をつけます」
「うん。本当に気をつけてね」
ルイが念を押してくる。
「ええ。同じことは繰り返さないわ」
「そうして。本当はあの二人に近づかないのが一番いいんだけど」
「わたくしもできればそうしたいのだけれど」
本当にあの二人には関わらずにいたい。
契約上仕方ないが、それならせめて最小限で。
飽きられたと言われて関心が薄くなっていくのが理想だ。
兄は苦笑して何も言わない。
アンリエッタは無意識に髪のリボンを撫でる。
兄はそれを見て優しい微笑みを浮かべる。
「私も今度ミシュリーにリボンを贈ろうかな。そうやって身につけてもらえるなら、悪くない」
「あら、素敵ですわね。そうしたらわたくしはミシュリーと髪型を揃えてみようかしら? 楽しそうですわ」
「いいんじゃないか」
アンリエッタと兄がそんな会話を交わしている横で、ルイはアンリエッタが気に留めない程度に、その髪を飾っているリボンをじっと見る。
「自分の色が姉上に似合うと言われて、婚約者のことを褒められて姉上が喜んだと知れば、あの男が狂喜乱舞しそうだよね」
小声で呟かれた言葉は、アンリエッタに届くことなく、車輪の音に紛れて消えた。
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