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 小学生の頃は、シール付きのお菓子を買うためによく行った。中学生になってからは主に文房具。高校生になると頻度は減ったが、それでも大した用事がないのに店内を歩いていた。フードコートのオムライスセットには小さなグラタンがついていて、ケチャップと合わせると、完璧な味になったっけ。


 物心ついた頃から当たり前にあったスーパーマーケットが、ついに(つぶ)れる。なくなることが決まってから感じる、些細(ささい)な思い出たちの大切さ。そんなことを考えていたら、すべてを見透かしたママの一声(ひとこえ)


「閉店までの期間限定だけど、アルバイト募集してたわよ」


 私、バイト探しに出かけるって言ったよね?


 帰宅して早々、その発言って、どういうことよ?


「割と時給もよくてね、ミドリ、あの店よく行ってたじゃない」


「うん、やるわ」


 せめて「バイト見つかったの?」くらいは聞いてほしかったけど。


 もう、レジを打つバイトに抵抗はなかった。むしろ、あの場所の終わりに立ち会える、そのことが私の人生に必要なピースなんだと感じた。


 だから、もう1つ、必要なピースを埋めないと。月曜の朝イチで大学図書館へ行き、あのノートの続きを書こうと決めた。


 最初にやるべきことは、筆跡の確認。


 学生運動活動家の「意見を頂戴したい」という字と、私の意見の後に書かれた、私をディスってきた字。


 日本の学生運動が盛んだったのは、1960年から1970年の間。学生運動活動家が筆記した年を特定することはできないけど、約半世紀前と考えていいだろう。私の意見を踏まえて文句を言ってきた字は、少なくとも私が書いた時よりも後に筆記された。だから、私の文通相手(?)の字の間には、約半世紀の隔たりがある……あり得ない!


 だから、よく見れば、()()()()であると断定できるはず。程度の低い悪戯(いたずら)を見破ってやった、この事実が私の自信になる。そのために、まず、筆跡の確認をしなければならない。


 問題は、その後だ。


 ノートの続きに、私は、()()書けばいい。


 私の意見に対する非難、これに付き合う必要はない。どうせ相手は、悪趣味なヘラヘラチャラチャラした、口先だけの学生なんだ。私が反論を書いたところで、それが相手に届くことなんてないだろう。


 だから、そんなのは無視して、私が書きたいことを書くべき……それはいったい何だろうか。


 そのときに一番考えていたのは、お金を介在させた人間関係の(ゆが)みについて。


 「契約」を神様との約束と捉えた場合、これは絶対視され、何があっても守られなければならない。そんな話を読んだ覚えがある。このとき、お金を払う側は、十分な資力があれば、相手よりも優越的な立場になるだろう。自分は契約を履行できるのが確実で、神様との約束を破るとしたら相手のほうだから。神様の後ろ盾があるのは、精神的に強い。


 でも、現代は違う。神様は契約に関わってこない。


 今でも「契約」が重視されるのは、契約によって生じる物事を信頼してなされる活動、これを守るため。誰かさんの契約が、まわりまわって多くの人の生活に影響する。だから、目の前にいる人間を信頼し、また、信頼に足る自分でいられるように振る舞わないといけない、こんな関係性にある点では、お金を払う側も、サービスを提供する側も()()()()()にある。


 ただ、それだけのはずなんだ。神様が介入してこない限り、契約当事者は、本質的にフェアな関係にある。


 なのに、お金を払う側は、サービスを提供する側よりも、随分と偉そうに振る舞う。


 ここに、私は「神様」の介入を感じざるを得ない。超自然的なものを信仰することが宗教であるならば、ただの概念にすぎない「金額」という数字を信仰する生き方は、まさに宗教的だ。マネーの神様が介入するからこそ、お金を払う側はたびたび礼を欠くし、お金を受け取る側の非礼には敏感(びんかん)に反応する。


 リスペクトの対象は、決して「人間」ではない。「金額」という数字がすべて。そして、「人間」を評価するときの判断基準は、この数字との()()


 私だって、そうだ。お金を払う立場のとき、普通に考えたら失礼な態度をとっていることも多い。私は、私が忌み嫌う存在になっていた。


 ……変えていこう。


 これからは店員さんの目を見て、きちんと話す。「レジ袋、要りますか?」と聞かれたら、(うなず)くだけでなく、声を出す。それもモゴモゴと言うのではなく、しっかりと相手に声が届くようにハキハキ喋る。


 お会計のとき、店員さんは「ありがとうございました」と言う。私は、私が欲しいと思った物を手に入れる。こっちだってお世話になったのだから、お礼を言わないとフェアじゃない。そのとき、しっかりと目を見て、「ありがとうございます」と発音よく言い、頭を下げるようにしよう。


 相手の反応がマニュアルをなぞっただけの、礼を欠くものであったとしても構わない。あくまで()()()()()の問題。私は、私のことを好きになれるように心がけるんだ。


 雲ひとつない朝、電車に乗る前、コンビニで実践しようと試みた。


 達成率は、半分くらい……初回にしてはまずまずの結果だと、自分を甘やかしてみる。不自然な発声だったけど、はっきりと「ありがとうございます」と言えた。きちんと目を合わせることはできなかったけど、顔を上げて言葉を出せた。


 ちょっとした変化かもしれない。でも、その高揚感(こうようかん)が、私の日常を明るくする。


 こんなのって、いつ以来だろう。


 ずっとずっと幼い頃に、手をひかれてお買い物に行って、ママから「ありがとうございます、って言おうね」と促され、大きな声で「ありがとうございます!」って言うのが楽しかった。そのとき、大人はみんな、私に優しい目でニッコリと微笑んでくれたっけ。私は、ただただ嬉しかった。


 毎日の些細(ささい)なことが特別だった。


 石の階段の割れ目の形、草の中から顔を出す青いお花。風はそよぎ、太陽はチリチリと肌を焼く。すれ違うおばあさんはニッコリしてくれて、道路工事の交通誘導員のおばさんはいつも手を振り返してくれた。


 大きくなっても、私の身のまわりにあるものは、それほど変わっていない。ただ、私の、()()()()()()()()()()が変わってしまっただけ。いつの間にか、私が受け取っている多くのものを、素直に喜べなくなっていた。


 ずっとずっと年老いて、人生の終わりをリアルに感じるようになれば、毎日の些細なことをスペシャルなことだと実感するのかもしれない。人は、子どもの頃に戻るため、いろいろと感情のまわり道をしていく。


 私は、幼い頃のように、そして年老いた時のように、素直に生きていこうと決めた。


 大学図書館に着く。まっすぐ歩いて、目的の本棚へ。


 ノートはすぐに見つかった。ボロボロの厚紙(あつがみ)表紙(びょうし)(かど)の部分では、繊維(せんい)が空気になろうとしている。


 私をディスるライトグレーの鉛筆書き。内容はともかく、とめ、はね、はらいのしっかりした字は、見ていて()()れする。


 さて、問題の、きっと数十年前に書かれた、学生運動家の字の()は……。


 ーー意見があれば、頂戴したい。


 まったく同じ!


 書道の心得があるとかの次元ではない。何度も出てくる「い」の字は、二本の縦線の角度といい、間隔といい、まるでコピー機の仕業のような同一の形。


 この混乱を、どのように受け入れればよかったのだろう。


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